第25話

 水平線の果てへと延びる超速道路のその先の薄っすら白らばむ大気の奥に、ボォとした一筋の白い線のようなものが見えた。

「あれは、もしかして」と久悠が呟く。

「そう」バイクのハンドルを握っているレクトアが頷いた。「ガラパゴス諸島北西の公海に漂う洋上施設〈雲の糸〉」

 その名の通り〈雲の糸〉は、遥か天空から垂らされた一本の糸のようだった。直径五メートル弱のカーボンナノチューブ製のケーブルは、地上から上空九万六〇〇〇キロメートルにまで伸びており、陽の光に照らされて白く輝いている。そのケーブルを支柱にして、新幹線のようなリニアクライマーが空と洋上とを行き来していた。それはこの地救上に建設された唯一の軌道エレベーターだ。そしてようやく、久悠は今回の出張の目的地を理解した。

「静止軌道ステーションに行くのか」

「そう。今回は」

「今回は?」

 彼女の紋白端末から招待状が届き、久悠の網膜の中でその内容が開封された。

「少し前に人工生物保護のための国際フォーラムで講演をしたとき、ペット竜関連企業からあのリニアクライマーの搭乗券を二枚もらったんだ。無重力環境においてペット竜の同伴が可能なのか専門家の知見を伺いたいって言葉を添えられてね。いつか行かなきゃって思ってたけど、監査もあったしアオのこともあって――あ、親のアオの方ね――、中々動くことができなかったんだけど。最近ようやく落ち着いたし、行くなら今だなって思って」

「そんな大事な調査を、おれなんかが同行でよかったのか? シェルター職員の主任級なら知識も十分だろう」

「あのさ、久悠くん」

 真面目な久悠の口調をほぐすかのように、レクトアはバイクのアクセルを緩めた。気付けば〈雲の糸〉は超速道路の直線の果てにまっすぐ空へと延びている。このままバイクで突き進めば宇宙にまで走って行けてしまえそうだ。

「そんな調査、ただの名目だよ。関連企業は私たちにプレゼントを渡して見返りに仕事を受注したいだけ。私にしたって、久悠くんと旅行したかっただけ」

 そしてバイクはアメリカ大陸へ向かう超速道路から〈雲の糸〉ランプを下り、穏やかな海に沿うよう下道を数キロ移動した。〈雲の糸〉は相変わらず白く輝き、その根元に巨大なアースポート施設が見えてくる。それは〈雲の糸〉を中心にした高さ一五階建ての凸状の建物だった。内部はショッピングセンター併設の複合施設だったが、訪れる人はまばらであり閑散としていた。施設自体はまだ新しく、軌道エレベーターの運用が始まって一〇年と経っていないが、その間にハチソン機関による半浮遊装置が発明されたことで人類は重力から解放されつつあり、すでにこの施設は時代遅れのものになりつつあった。リニアクライマー搭乗手続エリアは空港と似た雰囲気だった。受付をするとレクトアが持つ搭乗券に搭乗時間と乗車する号車が記載され、出発までの間、二人はポート最下層の水族館を歩いた。そしていよいよ搭乗時間になり、二人は縦置きにされた翼のないジェット機のようなリニアクライマーの五号車に乗り込んだ。

 三万六〇〇〇キロメートル上空の静止軌道ステーションまで四〇時間。車内は全席指定の個室になっていて、ついに久悠はレクトアと同じ部屋に宿泊することになった。リニアクライマーが動き出し、部屋の窓から見えるアースポート施設内の流れる景色がサッと海と空の青に切り替わる。上方向から下方向への加速が重力に溶け込み、身体に一G以上の圧力を感じさせている。その景色はゆっくりと下界になり、雲が現れて、飛行機を見下ろすようになった。やがて空の青が段々と黒に近づき、遠景は本当に地球は丸いのだと感じさせられる弧を描く。美しい景色だった。しかしそれ以降は何時間見ていても大差のない変化となり、久悠とレクトアが外を眺めることに飽きはじめた頃、リニアクライマーは静止軌道ステーションの時間帯に合わせた夜を告げ、窓ガラスの分子配列が太陽の光を遮る角度に切り替わり、個室は薄暗闇のロマンチックな雰囲気になった。レクトアが久悠の名前を呼び、久悠は耐えられそうにないことを打ち明け、彼女はそれを受け入れた。外の景色は徐々に大地が〝地球〟になり、空が〝宇宙〟になっていった。食事はルームサービスを頼み、ISSを通り過ぎる瞬間には目もくれず、四〇時間という長い時間を二人はほとんどベッドの中で過ごした。

 個室にポンと音がなり、これからゆっくりと減速が開始される旨が告げられる。リニアクライマーが減速すると重力の向きが上下入れ替わるため、すべての手荷物は個室備え付けのタンスに収納するよう案内された。久悠とレクトアは急いで服を着て布団をベッド内に収納し、無重力、重力反転、そして二度目の無重力――つまり静止軌道ステーションへの到着に備えた。気付けば窓から見える地球は完全な球体として臨むことができていた。リニアクライマーは滑るように静止軌道ステーションのポートへと入っていく。ステーション到着後の無重力下では靴底に貼り付けるマグネットソールの使用が義務付けられており、移動は手すりに手を添えた接床歩行が徹底されていた。円環状の低重力エリアへと向かうエスカレーターは不思議な構造で、行きの下りエスカレーターの頭上に帰りの上りエスカレーターが設置されていた。ステーションの円環部分は主にホテルや観光施設、または研究施設になっていて、自由に立ち入りできる場所は少なかった。観光施設も、地方の古いお土産屋を連想させ、値段の割に物は安っぽく、品揃えも貧相だ。しかし施設で働く人々に悲壮感等はなく、聞くところによると、近いうちに一部のハチソン機関搭載車両による火星までの航行が解禁される――地球と火星の距離が近くなる――ことから、それを目的とする車両がこのステーションに停泊していくため、これから繁忙期がやってくるということだった。つまり、今は軌道ステーションからするとオフシーズンだったのだ。

 施設自体は人の少なさもあってか広く感じ、無重力エリアさえどうにかすれば羽のない竜なら帯同できるのではないかと思われた。その印象を久悠がレクトアに伝えると「久悠くん、真面目だね」と彼女は笑った。

 移動時間に比べ、目的地の静止軌道ステーションに滞在した時間は短かった。二人は数時間でステーションの立ち入り可能エリアを歩き回り、帰りのリニアクライマーに間に合うよう中央のポートへと戻ってきた。途中、あの不思議なエスカレーターに乗ったが、上下対照構造は円環の回転による遠心力由来の人工重力を自然に与え、自然に奪うためのものだった。これがエレベーターであれば、行きと帰りで人は壁に押し付けられてしまう。満員電車の急ブレーキのようなものだ。耐えられなくはないが、不快には違いない。

「次は火星に行きたいな」と、帰りのリニアクライマーの中でレクトアが言った。「知ってる? マリネリス渓谷で花が咲いたニュース」

「前にニュースで見たな。マイナが感動していた」

「あ、あのACMSの子だよね。そうだったんだ。もしかして火星駐在希望なのかな?」

「そこまでは聞いてないが……ACMSは火星にも行くのか」

「そうだよ。今度聞いてみよ」

 そして二人はリニアクライマーに乗車し、帰路についた。来るときには気付かなかったが、大気がない世界では太陽が輝く昼間であっても星々が煌々と煌き、緑や紫や複雑な色を持つ天の川銀河のモヤまで鮮明に見ることができた。クライマーの窓からその景色を眺めながら、二人はまた抱き合った。

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