第20話 2022年10月24日
もう二十三歳の年末です。
光陰矢の如しとは、よく云ったものですが、何故、歳を重ねるほどにその矢の勢いは増すのでしょうか。
心理学によれば、時間の感覚とは、その経過を気にする程に遅く感じ、忘れるほどに早く感じるそうです。
つまり、つらい境遇に立たせられれば、早く過ぎ去って欲しいと願いますから、かえって遅くなり、楽しい境遇に立たせられれば、物事に熱中しますから……ということでしょう。
私には、もはや光も闇もありません。
つらい、楽しい、ありません。
しかし、人間が見せるあらゆる言動の一言一句について、四六時中考察してしまうという厄介な癖がありますから、つまり、ある意味、物事に熱中してしまっていますから……なのかもしれません。
または、光も闇もない、光陰ない。
矢の発射点から終着点までがゼロ距離だからなのかもしれません。
ところで、いい加減、この「光も闇もない」という表現が、いったい何を比喩するものかというのは、あぁ、いや、説明するのも、どうなのでしょう。
文学における作家論とか、作品論とか、あるいはテクスト論だとか、私には分かりませんが、なんとなく、このまま伏せておくことにします。分かる人には分かるでしょう。
新千歳空港にて、またあの「寒さに対する耐性検査」を合格すると、友人Cが到着ロビーで出迎えてくれました。一年ぶりの再会となるのに、やはり光陰矢の如しの影響か、まるで十日間かそこらぶりに会ったみたいに、「おう」とだけラフな挨拶を交わし、まずは、喫煙所に入りました。
Cは煙草に火を点けて、一口、深く吸い込んでから、
「今晩、予定は?」
と言いました。
気圧のせいか、この時、私はひどい頭痛にみまわれていて、具合が悪く、同じく煙草を深く吸い込むのですが、ひどい吐き気にまで襲われて、しかし、その喫煙所には人も多く、迷惑にならないようにと必死に堪えました。(これは私が後に患う精神病の、ひとつの初期症状だったようです)
「加藤?」
「ん、あぁ、いや、今晩は家族と飲み行くから、それ終わってからか、明日以降だな。悪い」
「おっけ。じゃあ夜の状況次第で連絡してくれ」
喫煙所の窓奥に見える雪景色。その純白さで身を清めるつもりで、ずっと眺めました。ようやく吐き気が落ち着いたころには、煙草の灰が1cmほど、直線状になっていました。
Cの車で地元に着いたころには、すっかり日が落ちていました。
団地のふもとに立ち、Cに別れを告げて、早速実家に入ります。
パタパタパタと、変わらない、母の忙しい足音。
玄関で出迎えられて、目が合い、母の表情は、嬉しさを隠すような、ちょっとだけの、温かい笑み。
その後ろには、すっかり大人の女になった妹ふたり。
あぁ、やっぱりだ、だから知っていたのだ、私には到底、光を掴むことなど出来ない。
そう思わされ、ました。
予想通りなのに、出鼻を挫かれるわけです。
家にいた全員(兄はいませんでした)、外出の準備が出来ている様子で、すぐにタクシーを2台呼びました。
私は助手席に乗り、後部座席には妹ふたり。バックミラーに映るふたりは、ぺちゃくちゃと仲良く話をしていて、私を会話に混ぜたいのか、東京の冬は何℃くらいなんだろうね、なんて言い始めて、それでも黙っていると、いよいよ、ねぇ兄ちゃん、と声を掛けてきます。
その姿が、態度が、とても可愛らしいのです。
理由なんてありません。
ただただ、可愛いのです。
「10℃くらいじゃないかな」
私は前を見たまま、適当に答えました。
すると妹たちは、
「えぇー! やっぱり全然違うんだね」「ね! あったかくて羨ましいなあ」
と、道産子の鍛錬された感覚を披露します。
それが面白くて、つい笑みがこぼれました。
店は、父の行きつけの居酒屋で、寒い北海道だというのに、入口は薄いアルミのスライドドアで、その分、中には何台ものガスストーブが置いてありました。入るや否や「よう! シゲちゃん! ありゃ、今日は家族連れかい!」と、大将が父の名を親し気に呼んで、父の方もまだ酔っ払っていないというのに、「どうもどうも! いやぁ寒いのなんのってもんじゃねえな!」などと、家にいる時とは打って変わった様子で明るく振舞います。
父の大きな背中と私の間に、鏡が置かれたような気がしました。
案内された席は、まさかの、家にあるような普通の炬燵で、驚き隠せず絶句していると、
「ウチは家庭をコンセプトにしてんだ」
と、大将が私の両肩に手を乗せて言いました。
その「家庭」の炬燵に皆で浸かり、ほっと一息つくと、早速、母と妹たちが友達のような会話を始めます。知らない友達の名をあげて、この前結婚したんだって、とか、大通りの方に新しいカフェが出来るらしい、とか、とても私には興味のない話なので、黙々と酒を飲み、仕事を辞めたいという告白の準備をします。
しかし、今日だけで散々と見せられた「家庭の幸福」によって罪悪が募り、どうしても言い出すことが出来ず、気が付けば1時間は経っていました。
更には酔っ払った母が、執拗に、私のことを、褒めてくるのです。
「あんたは偉いね。すぐ辞めて帰って来ちゃったらどうしようかと思ってたけど、とりあえず落ち着いてるようで安心した。ねぇ? お父さん」
母からそう言われた父の方も、何を言うでもありませんが、一瞬だけこぼした笑みからは、とても、否定的な意思は感じられず、両親ともに、現状の息子に満足している様子なのです。
あぁ、この、性。
私は、人一倍、優しい人間なんです。
聖人なんです。
本当です。
信じてほしい。
生活の中で接する個人に怒りを露わにするなんて、そんな罪悪を押し付ける行動、とれやしないのです。
ここまで育ててくれた肉親の期待を裏切るような真似、出来やしないんです。
いつだって個人のために労力を使って、欲しいものがあるというのなら身をそぎ落としてでも分け与えて、いかなる欲求にも応えて、社会を回してくれている強者に敬意を表し、弱者を守りたいんです。
本当です。
けれども。けれども。
嫉妬。迫害。
イコール、普通。
それじゃ生きていけないと、人間に分からされたんです。
みんな、汚いんです。
その汚い生き方に、馴染めないんです。
聖人であることが馬鹿な生き方だというのなら、そう、そうなんだ、不良になるしかない!
意を決して、口にします。
それでも少々言葉を濁らせてしまいましたが、充分な結果を得ることになります。
「今さ、仕事、辞めるのもありかなって思ってんだよね」
みるみる内に母の顔が、驚き、哀しみ、焦り、と、様々な形相に変わります。
父の方はピクリと肩が動いただけでした。
妹たちは隣にいたので、分かりません。
「辞めるってあんた、いやぁ、だめだって。せっかくそんないい会社に入ったんだから。お父さんが仕事辞めた時だって、どれだけ苦労したか、分かってるでしょ?」
母の荒い語気。
平穏だった家族の飲み会を破壊してしまった事実。
遠くにいた大将の視線。
充分なのでした。
「いや、ちょっと考えてるだけだよ。まだ全然、本気でそう言ってるわけじゃない」
咄嗟にそう付け足し、自分の病みを見せぬように、笑顔をみせてあげました。
約束された敗北。
私は、性に合わない普通の世界に、生き続けなければなりません。
しかし、この出来事だけではありませんでした。
私を普通の世界に留めることになる最大の原因は、のちに嫁となる女との、出会いなわけです。
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