第19話 2022年10月22日

 人間から贈られる軽蔑は予想通りのことでした。何せ、私は小中学生の頃に身をもって体験していましたから。

 寡黙、根暗、不良、偏屈、ロジハラ野郎。見てくれだけは普通の人間でも、トカゲが描かれた絵を床に置かれて、さぁ踏んでみよ、とテストされれば、たちまち正体がバレて、島流しの刑に処されます。


 分かっているのです。


 しかしながら、会社の同期全員から毛嫌いされて(地元の友人からも、一線引かれたような気配を察していました)、光も闇も消えた気分だ、と、のたまうとは、私はどうにも未だ、中途半端なところがあったようですね。


 土曜日の18時ごろでした。ヨウヘイさんから電話があり、横浜の中華街に来るよう言われました。

 当時、私は川崎駅から歩いて十分ほどの賃貸マンションに住んでいましたから、急いで東海道線の時刻を調べます。すると二十分もしないくらいのちょうどいい時間に電車があったので、昨晩から家に入り浸っていた売女はしっしと追い払い、適当なスーツを着て(一着しかない私服が皴だらけでベッドに散乱していたので)、家を出ました。


 中華街。辺り一面に連なる店は、どれもこれも、中国古代建築特有の万人に分かりやすい芸術を感じられる迫力で、右むけば灯篭、左むけば灯篭、見上げても灯篭です。

  躍動感のある軒先や、赤やオレンジや金といった派手な装飾が、どこか、江戸時代の遊郭をも思わせられる風情を持ち合わせている(勝手なイメージですが)、はずなのですが、何分、大量の現代人が携帯で写真なんかを撮りながら歩いていますから、少々希薄になります。


 ヨウヘイさんから言われていた店は、それらとは一風変わった感じでした。


 漆塗り風の大きな木の看板に店名が掲げられていて、外壁は黒基調、シックで、落ち着きがあって、特別感がある、そんな感じでした。(かなりの高級店でした)


 なんだか自分の人生が、更に馬鹿らしく感じたものです。


 店に入ると、ヨウヘイさんはひとりで紹興酒を飲んでいました。

 珍しく横浜なんかに呼ばれた手前、てっきり何かの集まりかとでも睨んでいましたから、少々意外な光景でした。


「どうして今日は横浜なんすか」


 席について、すぐ言いました。


「おう。ここのフカヒレが食いたかっただけよ。最近ゲテモノ食ってなかったからな」


 ヨウヘイさんがフォークの先端で指した先には、そのフカヒレが、サイズに対しては大きすぎる皿に、盛られていました。


「フカヒレってゲテモノなんすかね」


「あ? だってお前、サメのヒレだぜ? ゲテモノだろ」


 と言うと、ヨウヘイさんはカチャカチャと皿の音を立てて、フカヒレを一口しました。大袈裟に口を動かして咀嚼してみせると、しかめっ面を浮かべます。

 

「うん。そんな美味くねえし、やっぱゲテモノだ」


 またカチャと音を立てて、フォークが置かれました。


 この人はいったい何がしたいのだか、と疑問に思いながら、特に理由もなくその皿を見続けていると、視界にヨウヘイさんの赤黒い顔が映りました。肩ひじをテーブルに掛けて、その手に顎を乗せていました。


「坊主、また目が変わったな」


 暖色の照明が彼の顔に影を射しています。

 どすのきいた声に、私は、はっとした思いで、ヨウヘイさんの目に焦点を合わせました。


 尾を落とし、ひたすらに逃げるトカゲ。

 案外ビビりで、トカゲと共に何かから逃げる恐竜。

 獲物を睨む虎。

 何も見ていない魚。


 様々な動物の姿が脳裏に過ぎりました。


 意表。あるいは図星。


 人間に虐げられ、皮を纏い、また剥いで、虐げられて。

 原因は身をもって知っていて、なのに、この居心地の悪さは何か。


 自分が憎たらしく感じてきて、とにかくどこかへ逃げてしまいたい思いで、一杯目のビールを一気に飲み干しました。


 炭酸を一気に飲むと、具合が悪くなります。


 ヨウヘイさんは黙って私を見たまま、紹興酒を追加で頼みました。


 私は、飲んで、飲んで、世間から逃げ続けます。


 赤ラベルの空き瓶が1本、2本、3本、増えていきます。


 ザラメを入れるのも面倒になり、その小皿だけが手つかずの状態で取り残されていきます。


 あぁ、私は。

 私だけは、美しく、イキタイ。


「坊主、今日はお前、やけに時間がかかるじゃねえか。いつもの長話はどうした。まだ飲み足りねえか」


 いいえ、充分に酔っていました。


 自分から話し始めるのが気恥ずかしかったので、ヨウヘイさんからのパスを待っていたのです。


「人間に、踏み絵にかけられました」


 我ながらセリフ臭い言葉です。とても酔っていなければ、言えません。


 ヨウヘイさんは、ほう、とでも言うように微笑して、話の続きを待っているようでした。


「また同じことをしてます。学生の頃、俺、虐められてたんですけど、それは俺が変な人間だったのが原因だと分かったので、普通の人間を演じるようにしたんです。だけど今、普通の人間に対する嫌悪感が振り切ってしまって、ほら、不良になりたいって言ってヨウヘイさんに付きまとったわけですけど、そうやって我を出してみたら、また踏み絵です。結局、俺は変な人間なんです。また同じことをしてます」


 そう言うと、ヨウヘイさんはしばらく黙りこくってから、


「ま、それはなんとなく知ってるよ」


 と言いました。


 知っている? 何故? 疑問。しかし、すぐに解消されます。


「坊主に初めて会った時、人間が気に食わねえみたいなこと言ってただろ。なのにお前はサラリーマンとして生きている。最も人間が、世間が凝縮された、世界の縮図といえる堅気の職場にだ。だから何回も言ってんだ。お前にサラリーマンは似合わねえ」


 はい。それも知っているんです。

 けれども。けれども。


「で? なんだ。人間に歯向かって見たら、またその踏み絵? ってのは、よくわからねえけど、邪険にでもされたんか。それに腹でも立ったんか」


 ……腹が立つ。たしかに、私はあの研修と飲み会の場で見せられた人間の愚行に腹が立ちました。いつもとは変えて、空気を読むことをやめた私に対する反応にも腹が立ちました。


 何故か。


 それは、期待していたからなのだと、思います。


 私が学生の頃に遭遇した迫害の全ては、子供が起こしたものでした。

 善悪の区別もつかぬ子供。

 欲しい玩具を手に入れれば失うことも考えずに喜び、気に食わない人間と鉢合わせれば相手の深層心理も考えずに怒り、玩具を失くせば周囲の迷惑も考えずに泣き哀しみ、ゲームをして勝てば相手を讃える気持ちもなく楽しむ、子供。


 そんな自己愛で完結された子供が犯す虐めという罪。致し方ないのかもしれない。


 大人になった人間たちは、全員、いつだって自身の間違えを認め、よりよい生活を営むために社会を改善して、優秀な人間を讃え、敬意を表し、劣等な人間を助け、喜怒哀楽は他者の迷惑にならない範囲で、ああ、あああ、ダメだ、違う。


 間違えた!


 ……。


 私は、大人になったつもりでした。


 私だって、それはもう、喜びの感情を持つこともあります。

 母にジャージを買ってもらった時、嬉しかった。

 就職が決まったときの、父と母が見せてくれた安堵の表情、嬉しかった。


 私だって、それはもう、怒るときもあります。

 しかし、いつだって、個人に怒ることはしませんでした。

 私を虐めた田中。子供でした。致し方ありません。ひ弱だった私がいけないのです。

 筋を通さない人間たち。致し方ありません。馴染めない私がいけないのです。あるいは、人間たち、社会、世間、その集団に怒るのです。

 非は、我にあるのです。


 哀しいのもそう。楽しいのもそう。


 大人になったつもりでいました。


 大人になった私が関わる人間は、大人が多くなります。もう、周りに子供はいません。


 だから、薄っすらと、期待してしまったのです。


 馬鹿馬鹿。なんてことはない。くっだらない。うるさい。

 我らに必要なのは、常識常識! ん-コイツ雑魚。迫害!w


 いやはや。なぁんにも、変わらないのです。


 ヨウヘイさんとの真面目な人生相談も、馬鹿らしくなってしまいました。


「踏み絵ですよ。ほら、前にいったじゃないっすか。トカゲ。トカゲの絵が描かれた踏み絵を置かれるんです」


 私は、くだらない話題だけを膨らませます。


「あぁ、踏み絵って、そういうことか。なるほどな」


 ヨウヘイさんはニヤと口角を上げました。


「魔女狩り。宗教弾圧。歴史は繰り返す」


「はい。それはもう、ヨウヘイさんと一緒にいるときは、めちゃくちゃに踏みまくってやりますよ。でも、真っ当な社会人としてふるまっている時に差し出されたら、踏めるわけないっすよね」


「そうだな。それが筋ってもんだ」


 ヨウヘイさんと私。視線が合い、紹興酒を一口。どっちからか、これは覚えていませんが、「じゃあ正解は……」という声が小さく響きました。


 テーブルに、コトっと、グラスを置きます。


 答え、合わせ。


「かわいそうと言いながら、踏む」



 結局、この日は、やはり、いつもの夜遊びではありませんでした。


「いい加減、中途半端なのはやめにしよう。ちゃんと親に話してこい。黙って会社辞めるのは、坊主、性分じゃねんだろ」


 最後の、勧誘なのでした。

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