第18話 2022年10月16日

 人間の皮を剥いだ私は、とにかく一生懸命に、自分が思う美学に生きることを目標にしました。


 しかしながら、この決定こそが、私の人生をどん底に陥れるきっかけとなります。

(逆接を用いましたが、もしかしたら察せられているかもしれませんね)


 世間。常識。人間。


 その強大すぎる正義に、「当たり前」に、私という小さな悪が抗ったところで相手になるわけもなく、赤子の手をひねるかの如く、と云えばまだかわいい、もはや直接手を下されることもなく、無様に打ちのめされます。



 川崎の職場での私は、特に変わりありませんでした。

 おじさん達の仕事ぶりには相変わらず頭の上がらない日々で、私は彼らを心から尊敬していましたから、何を言うこともありません。せめて迷惑にならないようにと、寝る間も惜しまず、職場のデスクで朝を迎える日も少なくありませんでした。(本当に楽しい仕事でした)


 人間の皮を剥ぎ、変わったこと。


 強いて言うなら、他部署の若手が集まる際に始まる「悪口大会」。

 それに参加するのをやめたことでしょう。

 

 川崎の私、この頃東京に帰って来ていた沢田、あと、先輩が数名。何でもない六月の休日に、東京観光しようなどと、今更誰かが言い出し、浅草寺と東京スカイツリーに行きました。

 昼飯、スカイツリーのふもとの屋外席に集まり、キッチンカーで売られていた変に値の高いホットドックなどを食べながら、先輩の内の誰かが言います。


「ウチの所長はさぁ、ほんとダメだわ。自分は何にも知らねえくせに、現場のことには口ばっかだして、そのくせこの前なんてトラブルがあったから急に打ち合わせになったんだけどさ、あいつ、知識ゼロだから、客先から質問きたらきょどっちゃってよ。代わりに俺が答えてあげたわ」


 いつもの、他人の自慢が嫌いなのに自分は自慢をする行いです。


 これまでの私であれば、「あぁ、あいつですか? ほんとダメらしいっすね。ハァ、しかし先輩も大変ですね」などと同情の顔を浮かべて言い、良き人間を演じるところですが、もう、そういうのはやめました。

 基本的には無視。すると、他の人間(主に沢田)が代わりにやってくれます。

 矛先が私に向いた場合は話題を転じます。

 それでも食い下がってくる場合は、「本人に言ったらどうですか」と、空気を裂きます。


 すると決まって、そういうことじゃねえんだよ、という顔をされるので、その度、私は、人間がロボットのように見えて仕方なくなりました。


 また、研修がありました。

 入社から数年が経ち、各自同期は、どんな仕事をし、どんな感情を抱いているのかというものを発表する、精神的要素の色濃い研修でした。


 大会議室の壁に各々が準備してきた資料が映し出され、それを皆が見やすいように、また、ディスカッションをしやすいようにと、テーブルを「コ」の字にして囲い、その研修には大卒のエリート組も含まれていましたから、全部で十五名ほどで、順番に発表をしました。(歳を重ねるほどに、同期はふつふつと姿を消していました。あの不良の成瀬も、「サラリーマンになんて夢がねえ」などと言い残し、既に去っていました)


 沢田の番が来ると、彼は、長かった愛知での経験談を主に、慣れない地で奮闘した記録を、自虐を交えて、赤裸々に語ります。終わり際には「加藤君が応援で来てくれた時は、色々あって、楽しかったです」と、「色々」の部分を誇張して言い、その含みが周囲の人たちの想像力を掻き立て、笑いが生まれました。

 中には私の不倫について知っている人もいて、そういう者は手を叩いて笑っていました。

 

 コネ入社のコミュ障君の番が来ると、彼は相変わらずどもり散らかして、逐一、というよりかは、トータルで数えれば沈黙の時間の方が長いありさまで、聞いている皆は、様々な反応を見せました。

 心底呆れた顔で口を曲げる者。

 こっそり隣の席の人と目を合わせ、笑う者。

 微妙な空気感に居心地が悪くなったのか、俯き、資料に目を通すフリをする者。


 全てが、確実に人間でした。

 または、トカゲを囲い啄むカラスとでも云いましょう。


 では、常識に真っ向から歯向かうと決めた私はどうするかというと、常識人面をせず堂々と! 徹底的に低脳を搾取する! というわけではなく、流石にそこまでの馬鹿になったというわけではなく、逆に、彼を心から励ましました。


 たしかに私は、サラリーマンとしての時間を終えれば、低脳から徹底的に金を搾り取るヨウヘイさんの仕事を援助する日々でしたが、そっちはそっちなのです。


 お茶を濁しているわけではありません。

 誤魔化しているわけではありません。


 つまり、会社の研修に参加している私は、あくまでサラリーマンなのです。

 私が敵対している「常識」とは、人間たちによって散々と都合よく履き違えられてきた「常識」なのです。


 自分より目上の人間が、更にその上のトカゲよりの人間に対して批評をすれば、「本当にそうですね!」と反応するのが「常識」で、コミュ障が社会人のくせにどもり散らかして、「あいつ、やばくね?www」と誰かがアイコンタクトをしてくれば、「それな」と反応するのが「普通」で、それが世の理だと抜かすから、私は反抗するのです。そんな行いをしてきた自分が、人間の皮が、嫌になったのです。だから不良なのです。


 研修を終えると、もう数十分で定時でした。


 研修後は飲み会が当然でしたから、微妙な時間を持て余した私は、喫煙所にいったり、本社のデスクをうろちょろして、親交のある人と与太話をしたりしていました。


 そこでコミュ障君が端のデスクにひとり座っていることに気が付いたので、私は彼のもとにいき、軽く肩を叩きます。


「おう。今日のはお前、気にすんなよ。出来ねえもんは出来ねえんだから、あれだ、得意なことだけ、やればいいさ」


 コミュ障君はコミュ障らしく、きょどり、なよなよと変に体を揺らして、照れ笑いを浮かべてから、


「あ、ありがとう。加藤君は本当に、仕事も出来て、イケメンで、格好いいよね」


 と言いました。


 本来の自分が肯定されるのはヨウヘイさんとの初見以来だったので、また、素面だったこともあってでしょうが、とても気恥ずかしくなり、再度彼の肩を二、三回叩くだけで返事して、その場を去りました。


 そのまま飲み会になります。


 大人数でしたから、船橋にある海鮮系のチェーン店に入りました。入口を入ってすぐ右手に1メートルほどの大きな水槽があり、何匹もの魚が(私は魚や肉など、ひどいものでは野菜も含めて、それら食べ物の見た目や味を覚えられないので、種類は知りません)、この先の未来も知らずに、闇も光もない目で遊泳していました。


 この日の日中、つまり研修では、私は川崎の職場の「常識にとらわれない素晴らしさ」や、中途採用のおじさん達の技術力についてを熱弁していて、もっと社員の私たちは見習うべきことがある、あまりにも私たちは時代遅れで、技術にも乏しい、というようなことまで言いましたから、一部からは少々反感を買った様子で、飲みの場ではひたすらに居心地が悪くなりました。


 ただ、堂々と自信ありげに発表したこともあってか、または私が普段みせるクールな印象も相まってか、それはないだろ、と直接言われるのではなく、眉を上げた表情、例えるなら、古いガスコンロに染みついた油汚れを擦り取っている時みたいな、そんな卑屈の表情で、「でも、その考え方は——だよね」と、やんわりした反論を受けました。


 しかし、皆、酒を飲みます。


 次第にやんわりした反論のオブラートは剥がれていきました。


「加藤君はさ、たしかにその川崎の人たちと一緒に仕事をしてるから、いろんな経験

が出来ていると思うけど、他の皆は皆で頑張ってるわけだし、全員が全員、川崎で一回は勉強をするべきだ、しなければいけない、って言うのは、ちょっと、どうなのかな」


「そうですかね。なんでもかんでも下請けに投げて、それを上手に管理すればいいっていう考えこそ、どうなんですかね。自分たちでも出来るからこそ正しい管理が出来るんじゃないですか」


 前に言いましたが、私たちの会社は発展途上の段階で、知識やノウハウは希薄、ほとんどの仕事を下請けに丸投げする状態で、私がその問題を提起したことによる論争が始まりました。相手はエリート組のひとりです。


「そうかもだけどさ、なんかその、他の部署を馬鹿にしてる感じは、よくないと思うよ」


 彼の語気の棘が、いよいよ姿を現しました。

 

 馬鹿にしたつもりはなかったのですが、彼にはそう聞こえてしまったようです。


 そうして、いきなり発せられた人間の怒りに罪悪を感じながらも、私は、美しく生きます。


「馬鹿にするのはよくない……?」


 彼の真っ当な反論に苛立ちに近い感情を覚えて、ほとんど無意識にオウム返しをしました。


 私たちの論争は席の近い人たちにしか傍聴されていなかったのですが、何故だか、私の、そのオウム返しによってなのか、奥の方まで注目を集めました。

 居酒屋の沈黙とは、ただの沈黙よりも嫌なものです。

 怒りの沈黙、哀しみの沈黙、気まずさの沈黙。

 周囲の喧噪さが、静けさと、それらの感情を引き立てるのでしょうか。

 うるさいはずなのに、より一層、沈黙なのです。

 人生で何度かだけ経験しました。


「うん。そうやって川崎(の職場)は、自分はすごいみたいな言い方さ。正直、気分悪いよ」


 そう言われて、私は人生で初めて、個人に怒りを伝えることにします。しかし、それは見てくれだけの問題であって、あくまで私の棘の矛先は人間全体にであり、世間である、と自分を戒めるように酒を一口、さらに一呼吸してから、


「馬鹿にしているようで気分が悪い。皆は皆でがんばっている。それはちゃんちゃらおかしい話ですよ」


 と、声は小さく、しかしながら確かな攻撃性を持って言いました。


 彼は年下の私から不意に放たれた怒りに驚いた様子で、誤魔化し笑い、という表現が適切かは分かりませんが、一瞬ふっと鼻で笑ってから、言います。


「え? 何がおかしいの?」


 周囲のピリ付きは感じましたが、無視しました。


「劣等感から、常識を利用して逃げてるだけじゃないですか」


 そう言うと、彼は、はぁ? と首を引っ込めながら言って、しばらく意味が分からなかったのか、黙って私を睨み続けますが、卑下されていることは悟った様子で、語気は更に荒々しくなりました。


「いや、やっぱり馬鹿にしてんじゃん。そういうところがさ、どうなのって話をしてんのよ。つーか利用? どういうこと? 意味分かんねえよ」


「じゃああんたがいう『皆は皆で』ってのは、その『皆』の中には、山内(コミュ障君)はいるんすか。がんばっている? 認めているんすか。今日の彼の発表の時のあんたの見苦しい笑顔は、なんですか。『皆は皆でがんばってる』? 都合のいい時だけ耳当たりの良い言葉を使って、俺を非難ですか」


 私もだいぶ、血が上りました。 

 ああいうときは、本当に視野が狭くなります。視界の外側がどす黒く塗りつぶされていて、隣の沢田が私を宥めていることには、あとから振り返って気が付きました。


「いや、だからさ、そういうこといってんじゃねえのよ」


 反論は、これだけでした。

 血が上りながらも、私は、彼の反論に多少の期待をしている節がありました。言い返す準備をしていました。

 しかし、これだけだったのです。


 そういうこといってんじゃねえのよ。


 人間が分からない私にとっては、どういうことをいわれているのか、全く見当が付きませんでした。


 あぁ、ダメだ。私が何をいったところで、一切合切無駄なのだ。

 そう思わされて、段々冷静になりました。


 視界の端のどす黒さが消滅していくのが分かりました。そこには同期皆の気まずい表情が映っていました。


 私はただの、空気が読めない、ロジハラ野郎。

 コミュ障を馬鹿にしながら、「皆は皆でがんばっている」!

 今まで仕事をしてきて、自分全然ダメでした! 謙遜謙遜! 自分を蔑み、「皆」で仲良く、「馬鹿」にしない、そんな当たり前が出来ない、人間ではない生命体。


 ただの、妖怪。

 

 沢田が空気を読んで、話題を転じました。

 次第に雰囲気も戻ります。


 帰り、店を出て、解散となった時、私は、論争相手の彼に、心の中で労いの言葉を送りました。


 ゴクロンサン。



 人間の皮を剥いだ私は、要約するとこんな感じだったので、同期からは徐々に嫌われていきました。


 飲みに誘われなくなりました。


 沢田だけになりました。


 しかし、数か月も経てば、沢田からも、こう叱られました。


「加藤君、なんか変わったよね。そういう悪口ばかり、よくないよ」


 もはや、光も闇も消えた気分でした。


 いや、何も、絶望、なんて言いません。それほど大層なことではありません。


 私は人間に馴染むことが出来ない。


 それを、再認識しただけなのです。

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