第17話 2022年10月11日

 蒲田、お台場、葛西。千葉の方では、舞浜、船橋、幕張と、異動や出張の激しい会社だったため、私は東京近郊を転々としておりました。


 特に印象に残っている町は葛西でしょうか。


 京葉線の駅から臨海公園の方に出ると、右手では国内最大級の、ダイヤだか花だかなんちゃらかと銘打たれた観覧車が悠然と佇んでいて、正面では入口に向かうタイルの道を、カップルやら、老夫婦やらが、それぞれの情を背中で語り、ほのぼのと歩いています。

 奥の方からは子供らの賑やかな声。海の香り。噴水がいきなり稼働する。


 お上りさんの身としては、東京駅の高層ビル群、渋谷駅の大迷路、浅草の観光地感、の方が、たしかに都会を感じられる光景ではありますが、それは分かるのですが、高揚感の他に、どこか胸がざわつくような気配を察してしまい、嫌になるところがあります。

 誰も、人を人として見ていない。

 皆、もくもくと前に進み、人の波に揉まれ、体と体がぶつかってみれば、迷惑そうな顔を浮かべて、聞こえないように舌打ち。

 

 葛西だけは、落ち着きを感じられる東京でした。


 ふたつめの気に入った町。


 しかし、私はこの地を、名護惜しさの欠片も無く去ることになります。


 二十三歳の年の四月。会社から、川崎への異動命令が出たのです。

 

 私は占いや怪奇現象といった類をこれっぽっちも信じないたちですが、この時ばかりは、運命というものを認めざるを得ませんでした。


 もちろん私を高揚させる理由は、ヨウヘイさんとの距離が近づくからであり、川崎という酔っ払いの町に住めること、なのですが、実際に住んでみて間もなく、もうひとつ、増えました。


 それはあろうことか、私の嫌いな人間が集まるはずの、職場、にありました。


 私が勤めていた会社は、耳にすれば、老若男女、誰もが知っている会社のグループ企業で、しかし、その業種は親会社とはかけ離れたものでした。

 社員のほとんどは親会社から出向された人間で、残りは私を含めた新卒採用の若手です。

 技術やノウハウは発展途上。トラブルも多々。

 頼りの綱は誰になるかというと、誰でもありません。元からその業種を生業にしてきた中途採用のおじさん達でした。(主にパートナーや派遣でした)

 

 そんなおじさん達だけで構成されていたのが、川崎の職場でした。(メンバーは私を含めて5人でした)


 何故、社員ではなく、パートナーなどのおじさん達を中心に構成されているのか。

 良く言えば、その職場は業務に必要な専門性が非常に高く、とても知識が未熟な社員では賄えないから。いわば、精鋭部隊。

 悪く言えば、皆、手に職を持った本物のプロなため、我が強く、コントロールが利かないから、だったのかと思います。


 まぁ、しかしです、ここが居心地のいいこと。


 彼らには、常識の強要という謎の結託が微塵もなかったのです。


 職場にはスーツでいくもの!

 は? なんで私服なん?

 ちょっと、シャツ、派手すぎんだろ。


 ありません。

 皆、ラフな恰好で、必要な時だけスーツ、作業着、でした。


 仕事は9時から17時!

 5分遅刻だな……?(怒)

 (飲み会にて)あいつ、また遅刻したってよ。プークスクスwww

 (飲み会にて)俺、皆勤賞なんだよね! すごくね!?


 ありません。

 いや、皆、基本的には守っていますが、フレックス制度というものが浸透していない当時から、峠を越える時間まで働いた翌日は、何食わぬ顔で午前11時に来たりしていました。


 何より、「なんでドウゾドウゾってやらねえんだよ」。


 へっ。


 社会の、日本の常識の中にいっさいの無駄がないと、本気で思っているのならば、別にいいです。


 ただし、無駄があると自覚しながらも強要するのであれば、それは利敵行為以外のなにものでもないと、私は考えます。


 恰好を統一したから、なんなのですか?

 毎朝面倒くさいスーツを着させて、何になるのですか?

 いつまで旧日本軍に所属しているのですか?

 スイッチが入る?

 私服と違って面倒じゃないからいい?

 知りません。でしたら、あなただけが着てください。


 5分遅刻したから、なんなのですか?

 それはまぁ、大事な用があったときや、毎日毎日遅刻をするような奴には何も頼めませんから、分からないことはないですが、例えば月に一回、何もない日に5分遅刻したから、なんなのですか?

 第一、大事な用があったとしてもです。

 例えば客を待たせてしまった?

 5分遅刻くらいでキレないでください。社会人というのは、極限まで器を小さく生きなければ、勤まらないのでしょうか。

 あなただって遅刻の一度や二度や三度や四度、やったことあるでしょう。


 ドウゾドウゾ。

 これは、いわゆる日本の美しい文化的なものかもしれませんが、それは本心から行うからこそ奥ゆかしいのであって、強要など、もってのほかじゃないですか。

 心の底から上司を敬う人間なんて、一握りなんです。

 お願いですから、それを理解してください。

 こいつ! ドウゾドウゾってやらねえ!(怒)

 あなたが最も醜悪です。


 人間は革命を嫌う。


 文句を抱きながらも、私も利敵行為に励み、つまり、極端にいえば、日本のGDPの低迷に貢献していたといっても過言ではないと、私は考えるのですが、川崎の職場に馴染んでからは、あの分厚く纏っていた人間の皮が、いよいよ、徐々に剥がれていくのが分かりました。


 やはり、皆、常識をはき違えているのだ。


 常識は、おかしい。


 職場のおじさん達は、無駄のいっさいを省き、仕事だけに熱中している。

 更に私生活では、ヨウヘイさんが、本来の私を気に入ってくれている。


 私は私で、いいのかもしれない——。


「加藤、調子はどうだ? もうお前が東京にいってから五年は経つか」


 高校の頃の友人(野球部のエース君です)が、出張で東京にきました。帰りは翌日、羽田空港だから、京急線に乗ればちょうどいい、となり、川崎駅近くの干物をメインに提供している居酒屋に入りました。


「まぁまぁ、ぼちぼちかな。俺は戻ったりしないと思うよ」


 この頃、私と同じく北海道を出た元同級生たちが頻繁に仕事を辞めていたので、そう答えました。


 彼はアジの開きを不慣れそうに割り箸でほぐしながら、


「ならよかった。東京に出た奴は大体病んで帰ってくるからな。ま、加藤は大丈夫だと思ってたけどよ」


 と、笑みを湛えて言いました。


 久しぶりに再会した友人二人の何気なさすぎる会話に、私は、安らぎでもなく、憩いでもなく、いきなり、背筋が凍るほどの恐怖に襲われて、持っていた酒のグラスを口元で止めました。

 不意に背後から、涎を垂らした獣の鼻息が聴こえたかのような、そんな錯覚に陥りました。


 加藤は大丈夫だと思っていた。

 

 この友人にとっての私の印象は、高校生の頃から何も変わっていなくて、クールで、時々冗談を言って、一緒になってクラスの変な奴を蔑んで、共に青春を謳歌した、同格の人間、なのか。


「しっかし変な感じだな。今ではこうやって、東京でふたりで、酒なんか飲んでるんだぜ。ほんと大人になったって感じだな」


 感慨深そうに語る友人と私の背中とを睨み続ける、獣。

 それは恐らく、本来の、私。


「あと俺さ、ほら、彼女いるだろ? 実は今、結婚しようかってなっててよ」


 何故だか大変言いにくそうに発表されました。


 この友人は、間違いなく、人間としての幸せを掴み取っている。


 高校の頃に犯した罪など、本当に「無」なのだ。


「アイツ無視しようぜ、キモイから」


 そんな愚行をとる人間でも、いや、もしかしたら「大人になった」と実感する歳になった今では、罪の心を覚え、清らかな心を持ったかもしれない、あるいは上手に隠しながら人を見下すようになったかもしれない、それでも、この友人は祝福をされて当然の人間なのだ。


 ましてや、


「ほら、これ見ろよ。加藤はSNSやってないから知らないだろ? 高校の同級生皆で寄せ書きみたいなの作ってくれてよ。マサキなんて、ほら、『ぜってえ幸せにするのじゃ。じゃないと殺すのじゃ』って、あのふざける時の語尾よ、変わってねえよな」


 こういう人間ほど、多大なる祝福をされるのだ。

 携帯に映された電子の寄せ書きには、虐めの対象になった人間の名は、当然のように無く、それでいて「皆」と紹介されるのだ。


 人間は、間違いだらけの人生を送る。


 間違っている人間ほど、幸せを掴み取り、祝福される。


 あいや、そんなわけはない。


 人間はそこまで馬鹿じゃない。


 キモイ人間の方が間違っているのだ。


 私は上半身を前のめりにし、見せられた携帯の画面を、さも一字一句読むように演技し、ほどよい時間で姿勢を直します。


 そうか、と、吐息交じりに呟き、焼酎を一口してから、


「めでてえな。おめでとう」


 と、照れ臭そうに見られるように、落ち着いた声で、微笑して言いました。


 これが、しばらく最後となる人間の皮被りとなります。


 干物屋を出て、京急線のホームまでいき、彼を見送りました。


 偽りの自分を乗せた気になって、走り去るその電車を眺めていると、京急川崎駅特有のメロディが流れます。


 オルゴール調で、上を向いて歩こう。


 黙って聴いていると、その切ない曲調が、私をひどく感傷に浸らせ、すると、不意に、ほとんど消えていたはずの昔の記憶が蘇ってきました。


「かとう! おまえあのゲームもってんの?」

「うん。でもまだ買ってもらったばかりで、クリアしてないんだ。」

「はあ? いいから、かしてくれよ。」

「え……うん。わかった。いいよ。」


「かとう、あのゲームかしたってマジ? なんで買ってもらったばっかでかしてんの? ばかじゃん。」

「うん……。どうしてもっていうからさ。でもその代わりに、かえすときにコウリャクボンをくれるっていわれたんだ。」

「はぁ? あいつがそんなのくれるわけねえだろ。ばかだなあ(笑)」


「おい、かとう、おまえ、セーコマ(地元のコンビニ)で菓子買ってこい。」

「え、でもお金ないよ。」

「いいからさっさといけや」

「あ、うん。ごめん。」


「ちょっとあんた! どうしたの!? その手! 早く病院行くよ!」

「痛い、痛いよ。」

「ねぇ、どうしたのって!」

「ちょっと、友達とふざけあってたら、転んじゃって、変な態勢で床に……、痛いよ。」


「ねぇ、加藤ってなんで喋らないの?」

「……」

「ねぇって。」

「……」

「ねぇって!」「やめてあげなよ。かわいそうだよ。行こ。」


「おい、加藤。何無視してんだよ。こっちみろや。」

「……」

「おい!」

「……」

「おい、なんだよ……。今日はどうしたんだよ。」

「……」

「……ごめん。」


「なぁ加藤、アイツ、無視しようぜ。キモイから」

「あ? アイツを?」

「うん。ちゃんと協力しろよー?」

「ふっ。へいへい。りょーかい。」


「あなたは本当、友達が多くて、勉強も出来て、ほんっとに、婆ちゃんにとってのね、自慢の孫。」「なに、勉強なんて全然だって。でも、ほんと、友達は多いわよねー。」

「……ハハハ。」


「なぁ、加藤って中学の頃、一言もしゃべらなかったって本当なん?」

「あー。そうだよ。」

「へぇ。じゃあ高校デビューなん?www」

「あー。まぁ、そうだね。」


「〇〇高校の加藤君ですか?」

「ん? そうだけど。」

「あの、学際のときのダンス、みにいきました。めっちゃかっこよかったです!」

「あー。どうも。で、なしたん?」

「いや、あの、その……」


「じゃあな。」

「ちょっと、それだけですか。」

「……世話、なりました。」



 人間になってやる。


 私の復讐によって得られたものは、友と、親族の安心と、俗にいう「幸せ」でしょうか。


 しかし、日を増すごとに、ダメになってきた。


 人間は、間違っている。


 その間違いに、世界中で、私だけが気づいているようにしか感じられなくて、全部が馬鹿に見えて、ダメだ。


 手に入れたものの全てが、どす黒く見えて、ダメだ。


 常識が愚かに見えて、ダメだ。


 本当は誰も、こんな偏屈な私など、愛さない。


 不倫? 浮気? 誰だってやっていることでしょう。大体、本当にあなたは生涯その人だけを愛するのですか。

「最低!」


 ドウゾドウゾって……。

「サラリーマンを馬鹿にしやがって! 俺たちだって頑張ってんだ! いいからドウゾドウゾってやれ!」


 5分遅刻がなんなんだ。

「いや、悪いに決まってんだろ」


 如何に世間に訴えても、私はただの異常者なのです。つまり、寄せ書きに名前がなくとも、「皆」と呼称されるような、存在しない人間なのです。


 私には私が感じる「間違い」があって、それを是正したいだけなのです……。

 

 美しく生きたいのです。

 嘘をつきたくないのです。


 しかし、ダメダメ。


 人間は革命を嫌う。


 あぁ、やはり私は強欲なのかもしれない。



 ホームをあとにして、仲見世通りに戻りました。

 ヨウヘイさんと飲みたい。

 居ても立っても居られない思いが湧き起こり、ポケットから携帯を取り出すと、着信履歴が入っていたので、すぐに折り返しました。


「——坊主、やっと出たか」

「——すんません。友達と飲んでました」

「——だち? 坊主にもそんなのいるんだな」

「——意外といますよ」

「——ほーん。そぉか。んまぁ、俺も坊主が仕事を辞めるまではよ、あんましたくさん頼むのも申し訳ねえんだが、わりぃ、今日もいっこ、いいか?」

「——あ、そっちですか。今日は酒を浴びたい気分でした」

「——明日以降な。今日はお前、ひとりか、だちか、会社の若手とでも飲め。んで、酔っ払いのフリをして、西口のロータリーにあるホームレスの家をぶっ壊してくれ。あいつは夜はそこにいねえし、交番からは死角で見えねえからよ。問題は起きねえはずだ」

「——うっす。分かりました」


 そのまま会社の後輩ふたりに声を掛け、適当なキャバクラで酒を浴び、終電もなくなった深夜、私は、人の家を、破壊しました。


 真っ向から常識に歯向かいます。


 恥に恥を、重ねていきます。

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