第14話 2022年10月5日
仕事を終えてから、川崎駅周辺をうろつくことが日課になりました。
あの、キャバクラの日、私の人間としての未熟さを痛感させられた町ではありますが、すこぶる気に入ったところもあるのです。
それは、あらゆる人間が、等しく酒という毒に犯されている光景。
集団で歩くサラリーマンも、買い出しか何かでハイヒールの音を響かせるキャバ嬢も、コンビニの前でカップ酒をちびちび飲むホームレスも、皆、毒に犯されているから、馬鹿になっているのだ。
毒に犯されているから、仕方がない。
電柱に嘔吐するおじさんも、素面で唾を吐く奴よりかは、幾分良い。
ナンパをする学生も、素面で一生自慰をし続ける奴よりかは、あるいは電車などで女子高生の足を視姦するような奴よりかは、幾分良い。
それについていく派手な女も、素面で一生、上から目線で男を酷評している奴よりかは、幾分良い。
皆、今だけは、筋を通して生きなくてもいい。
無礼講。それが酒という毒の存在意義。
この日、いつものように缶ビールを片手に、繁華街を歩きました。
既に家で、十本は空けていました。
酔いが過ぎた私は、何やらスマホのメモアプリに、こんな気持ち悪いものを残しています。
素面で人を品定め。
アイツはほんとに
おい、歌えよ。
歌が上手だから言える。
おい、飲めよ。
酒が強いから言える。
自己の常識を自負しているから言える。
既に自慢。
「俺、歌うまいよ」
(自分で言うかよ)
ナルシストに嫌悪する奴。
こいつも歌に自信あれば、俺の方が上手いし、と分からせたい一心で、歌を披露。終えて謙遜する。
あなたもナルシストでは?
何を、「俺、歌うまいよ」などと自慢をする輩を、本気で嫌悪しておいて、それが絶対に変なことだと疑わないで、自分はこっそり自慢かい。
こっそり自慢は常識の範疇?
変わらん変わらん。
むしろムッツリ。
気持ちが悪い。
常識バトル。
その行い自体が、そもそも常識から逸脱しているはずのに、そんなこと考えもせずに、人と人とで蹴落とし合う。評価し合う。
道徳に反している輩を見たならば、諭してあげれよ。
何が、もう大人なんだから、自己責任、だ。
大人なら必ずしも、誰もが常識を身に付けている?
奢るな。
ナチュラルに人を見下しているではないか。
この世にいったい何億の人がいる。
弱者は必ず存在するのだ。
……あぁ、間違った。
どうも私は、毒に犯されると、人間への憎悪が増してしまう。
うわっ、きもちわるっ。
プークスクスwww
これでいいんだった。
これでいて常識を語っていいんだった!
居酒屋メインの通りを抜け、キャバ嬢御用達の質屋を抜け、黒服が蔓延るピンク通りを抜けると、辺りは一気に、灰色の世界、とでも言い表したくなるような、外灯の少ない通りに出ました。
一件の雑居ビルの、地下階に続く階段が明かりを保っていて、私は、あの愛知の日にいた
ねじが何本か外れているのか、ガタガタ揺れる手すりに身を任せ過ぎないように階段を降りていくと、中は存外綺麗なバーで、店に入ってから、後ろの階段のボロさを再確認するために振り返ったことを覚えています。
マスターは父の容姿に似ていました。
背が非常に高く、細身で、威厳を感じる怖い顔。常に何かを睨みつけているような、目。
しかし、私が今回語る人間は、その人ではありません。
ひかりに続く、第二の、クズな恩人。
ヨウヘイさん。
季節は夏真っ盛りでした。
その人は、白のポロシャツにジーパンというラフな恰好でカウンター席に座り、焼酎のロックを飲んでいました。
店は、カウンター席が最大でも七人、テーブル席も二組分だけの狭い箱です。
私はその人から二席だけ離れたところに腰を掛けました。(その人が真ん中辺りにいたので、仕方なく)
「初めまして、ですよね?」
と、マスター。
「はい。すいません。一見なんですけど、大丈夫ですか」
と、何故だか謝りたくなった私。
「全然、大丈夫ですよ。何にしますか」
私は焼酎を好んで飲むたちなので、いつものように芋のロックを注文しようとしますが、ふと先客の男が同じモノを飲んでいるのが気に掛かり、被るのが気恥ずかしく、一瞬躊躇ってしまいました。
すると、その先客の男がいきなり言います。
「マスター、その坊主に、俺と同じのを」
映画のワンシーンでも観た気分でした。
どう反応していいものか、再び黙って男を見ていると、
「なんだ? 文句あんのか?」
と、やっと私の方を見ました。
怖さは感じなかったです。
いや、その男の容姿は、父やマスターのそれよりも、明らかな漢が感じられ、底知れない……、なんでしょう、重たさ……、みたいなものがあったのですが、への字になっていた口元の末端に、若干の笑みも感じられ、それが全ての恐怖を打ち消していたのだと思います。
きた焼酎は麦のロックでした。
「俺はヨウヘイってんだ。坊主は? いくつよ」
「加藤です。二十二です」
「ほーん。わけえな。ひとりでバーなんて、色気づいてるじゃねえか」
「すいません」
「あ? なんで謝んの」
「……馬鹿にされた気がしたので」
私も酔っていたので、思ったことを素直に口にしました。
すると、ヨウヘイさんは私を見たまま止まって、しばらくしてから吹き出し、口を手で押さえました。
「ぷはっ。そうだな。たしかに、馬鹿にしたわ。すまんすまん」
変わった人だな、と思いました。(私が言える立場ではありませんが)
私は若いうちから酒を覚え、酒を、人生の悩みを払拭する道具として利用していましたから、よく同郷の人間と飯にいくと、私だけが酒を飲みます。
廻りの人間も若いですから、馬鹿にされることが多々ありました。(今でこそ、そのようなことはなくなりましたが)
「何、大人ぶってんの」
とか、
「酒強いアピールうざ」
とか、
「でもお前、酒弱いよね。飲んだらぶっこわれるじゃん」
とか、ですかね。
別に、大人ぶってるわけじゃないですし、アピールではなく、ただ大量に飲んでいるだけですし、そもそもぶっこわれるために飲んでいるのです。
だからこそ、飲んでいるだけで、なんかすいません、と、罪悪感に駆られる訳です。
はぁ。
しかし、なんですか。
あなたたちだって、歌が上手ければ、カラオケでそれを見せつけるじゃないですか。
カラオケに限らず、自分の得意な分野を披露する場があれば、みせつけたくなるじゃないですか。
ひいては、下手な私に強要するじゃないですか。
私は人に酒を強要しないですよ。
また自分がやっていることを棚に上げて、自分が劣等側の分野になれば文句ですか。
そんな正直な気持ちを、考えてみれば初めて、「馬鹿にされた気がしたので」と、ヨウヘイさんに伝えた訳です。
「坊主、面白いな。馬鹿にされるのは、嫌いか」
嫌いじゃない人なんて、いるのでしょうか。
しかし、正確には、違う。
「いや、どちらかといえば、平気で人を馬鹿にする人間が嫌いっすね」
「ほーん。ま、人間なんてみんな、そんなもんじゃねえか?」
悪事の正当化。納得いきません。
麦の柔らかな香り、なんてものはいっさい分からず、ただ喉を焼き、毒に犯され、いよいよ理性のタガが外れた頃、(この先の記憶は曖昧なので、ニュアンスで書きます)
「……筋を、通せって話ですヨ」
しばらく無言の空間でした。何杯目かの麦焼酎を流し込み、もはやグラスの底にくっついてきたコースターにも気が付かず、それをヒラリと足元に落としながら、私の文句が空間に響きました。
「ほお?」
焦点の合わない視界の中央で、ヨウヘイさんが興味深そうに私を見ていました。
私の文句は続きます。
「どいつもこいつも、常識なんてねえくせに、人には常識を強要しやがル。そんな阿呆たちに付き合わなきゃ、社会では生きていけないんすヨ。女は、いいです。私がしこしこと飲んでいたら『強いんだね』って、感想だけ言うし、『飲み過ぎだよ』って、心配だけしますから。ただ、男。こいつがたち悪い。俺はぶっこわれるために飲んでるってのに、酒が強い弱いの勝負を勝手にしてきやがる。あーはいはい。私は酒が弱いですよ。泥酔常識無し男ですヨ。これで満足ですカ」
ちらとヨウヘイさんを見ると、酔っ払いを見物しながら、笑みを浮かべて酒を飲んでいました。
「俺から言わせれば、みんな飲んでいなくても酔っ払いなんすヨ。だから、酒に犯されなくても生きていけるんだ。だから素面でも、愛だの恋だの、恥も無く語れるんだ。劣等感を感じさせられたら、常識という便利過ぎる剣を振りかざして、強者の足を引っ張り、なのに、それでいて、自分が優越感に浸れる展開が来れば、つまり、自分が強者になれる展開がくれば、積極的に弱者を見下すんだ。何の才能も無い人間は、酒とか、歌とか、カーストとか、女とか、それこそ、常識とか、そんなものでしか優越感に浸れない。そんなくだらないもので優越感に浸りたいくせに、強者を叩くなって話、ですヨ。……あぁ、いや、そうか。だからこそ問題をしでかした芸能人を叩くんじゃないですカ。その人がどれだけ、普通の人間とは違う、血のにじむ努力をしてきたとか、そんなこと考えもしないで、常識という便利過ぎる剣で制裁を与えるんですヨ。この世の結構の男が、結婚をしてもソープに行くし、私が接してきたほとんどの女が不倫や浮気だったように、そんなクズの集まりが世間なのに、自分のことは棚にあげて、劣等感を感じさせてくる人間を叩くんだ。ここぞとばかりに、ざまぁみろ、ってネ……」
そこまで言ってから、自分の酔っ払い加減が急に恥ずかしくなり、口を止めました。
マスターが子供でも見るかのような目で私に水を出してきたので、父の面影を更に感じました。
さらけ出してしまった恥を飲み込む思いで、差し出された水を一気に飲み干すと、ヨウヘイさんの方は変わらず、ロックのグラスを片手に、いつの間にか扇子も手にしていて、それを仰いでいました。
「何言ってか分かんねえけど、筋を通せってのは、いいな」
私の長たらしい文句は、涼しそうに、ただ、それだけの感想で返って来ました。いや、別に、何故共感されないんだ、などという不服の思いはありません。やはり、私の偏屈な思想を個人に伝えたところで何にもならないことは分かっていますし、それを人前で露わにしてしまったことへの後悔が勝っていたのもあります。
「つまり? 坊主にとって、筋を通すってのは、どういうことなんだ」
ヨウヘイさんから恥を抉られ、それが更に私を冷静にさせ、少し思慮します。
筋を通して生きるとは、果たして自分で言ってみたものの、何なのか。
私が人間に対して抱く嫌悪の源。
それは、そう。
当たり前の差別と、身勝手な怒り。
そんな愚行を重ねながら、常識を語る、様。
常識とは、人を差別するための天秤ではないはずだ。
人が人に不快感を与えないために決められたルールのようなものかもしれないけど、完璧に守れる人間など、いやしないのだから、外れた者に怒りを覚える資格のある人間は、この世に存在しない。それが他者に危害を加えていない場合に限ってだけど、あくまで守った方がいいよね程度のもの。
人には個性だってある。
常識。
じょうしき。
ジョウシキ。
それを血眼になって求める人間は、いくつかのパターンに別れるのかもしれない。
優越感に浸りたいために、人を見下す材料にしてしまっている者。(虐めとか、歌とか、酒とか)
劣等感に腹立たしくなり、強者を叩くための材料にしてしまっている者。(本来、他人のことなどどうでもいいのに、人の恋を叩くとか)
あるいは、都合に合わせて、双方を利用している者。
なるほど。
ここまで考えて、ヨウヘイさんの質問に対する、端的な回答が思い浮かびました。
「嘘をつかないこと、っすね」
ヨウヘイさんは表情を変えず、口元をへの字のまま何も言いませんが、続きを催促している様子は見て取れました。
「常識という天秤で人を卑下するのならば、まぁ、卑下すること自体は、熱心な教徒ということで目を瞑りましょう。ただし、そういう人は、絶対的な聖人とは言えませんから、自分は嘘つきです、と、自己紹介をするんです。常識という剣で強者を叩くものは、自分は嫉妬深しい愚か者です、と、自己紹介をするんです」
そして、常識という概念に否定的な私は、人間の皮を被るのではなく、真っ向から常識に歯向かう不良になるべきなのかもしれない。
と思いましたが、それは口にしませんでした。
しかし、不良になるべきかもしれない。
これからヨウヘイさんとの付き合いが増えることで、存外早く、その思想は叶うことになります。
この頃の私は、自分の思想を正しいことと考えて疑っていません。
そういう意味では、私が嫌悪する人間と変わりないのかもしれませんね。
道を逸れます。
「坊主、学生か?」
「いや、サラリーマンっす」
「……なんだ、そうか」
ヨウヘイさんの、への字の口の末端から、笑みが消えました。
何かを考え込むように、扇子をゆらゆらと仰ぎ、しばらくしてから、
「その死んだような目、気に入ったわ。ちょっと、付き合え」
と言われ、二人でバーをあとにしました。
外は馬鹿みたいに暑かったはずですが、水の飲み過ぎで冷えた体には、ちょうどいい、暖かさでした。
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