第5話 2022年9月5日
文字で暴れたい、という表現が、我ながら、あまりにも美しかったので、4話は、あれはあれで、残すことにしました。
さて、早々に話を戻します。
私は、1995年(阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件があった、暗黒の年です)、北海道の田舎町に生まれました。
上には年の近い兄が一人、下にも年の近い双子の妹がいましたので、4人兄弟、6人家族、平成の時代では大家族と云っていい家庭で育ちました。
父は、「昭和の男」を具現化したような人で(実際、昭和の人間ですが)、息子に厳しく、娘に甘く、寡黙……、随分と陽気になったかと思えば、片手に缶ビール、口癖は「男のくせにめそめそ泣くな」、そんな人でした。
幼少の私は、まだ普通の人間を演じる前ですから、つまりは、今の自分といえるでしょう。
いや、今の自分から偏屈さを取り除いた、最も純粋な私、でしょうか。
大人たちに、よく言われた覚えがあります。
「優しい子」
「利口な子」
私は、父に叱られる兄を目にしては(時には殴られていました)、自分は失敗しないように、と、学習し、わがままな妹たちに眉をひそめる母を見ては、自分は何も求めないようにしよう、と、これまた学習し、いわゆる世渡り上手、なのでしょうか、まさしく「利口な子」と評されて何らおかしくないほど、日々、その、世渡り上手訓練に、自然と勤しんでいたのです。
しかし、利口で、優しい。
この性が、私を崩壊させます。
恥に対する耐性がない、と、前に書きましたが、ここまで、その他にあげてきた言葉として、「罪悪感」や「強要」というものがありました。
それらに対しても耐性がなく、その原因は、「利口で優しい」という性によるものだ、と、今の私は分かります。
優しいからこそ、他人に対して罪悪を感じるのです。
利口だからこそ、あらゆる人間の言動から、強要じみた気配を感じてしまうのです。
妹たちの、十歳かそこらの誕生日でした。私が小学校五、六年生の時です。
父は、相変わらず、娘たちのことは目に入れても痛くない様子で、溺愛しています。
私は子供ながらに、毎夜、スーパーのレシートや、家計簿と思われるノートを前に頭を抱える母の姿から、金銭的な事情を察しておりましたが、何も、晩飯は米一杯に漬物、というほどに貧困を極めているわけでもなく、妹たちに、誕生日プレゼントとして、衣服が買い与えられました。
白基調の、ふりふりが付いた、可愛らしいスカートでした。身に纏い、そのスカートを揺らして回る妹たちの光景は、今でも覚えています。とても可愛らしく、つい、頭を撫でた覚えがあります。
妹たちは、よく、物を買い与えられます。衣服に関していえば、兄も当然、そうです。
私は、兄のおさがりになります。次男あるあるです。
不満は言いませんでした。
しかし、どうしたことか、特別、私の誕生日でも何でもない、普通の日でした。何かの帰り道で、母の運転する車に乗っている時、
「そろそろ新しい服、買おうか」
と、母が言いました。
当時の私は、何かいいことでもあったのかな、程度に思っていましたが、母なりの懺悔の気持ちというか、愛情だったのだと思います。
近所のスポーツ用品店に二人で入り、子供用のコーナーから、ジャージを探しました。(小学校は私服通学で、私が運動部に所属していることから、私の恰好はジャージがメインでした)
本当に気持ちだけ光沢が入ったような、空色のジャージを選び、上下セットで購入しました。
田舎の小学校とは、貧富の差が著しく恰好に表れるもので、一部の「富」側のクラスメートが身に纏っている綺麗なジャージ姿に憧れがあった私は、とても嬉しくなり、以降、珍しく、母にお願いをするようになりました。(私は罪悪感から、人に何かをお願いすることは滅多にありません)
一日でも多く、あのジャージが着たい。
早く洗濯してほしい。
あのジャージを身に纏うと、何故だか自分が強くなったような錯覚に陥って、嫌いだった学校に向かう足取りも、軽快になりました。
二、三か月が経った頃だと思います。
いつものように、あのジャージを着て登校しました。
当時の私は、その「利口で優しい」という性と、物静かな子だったことも相まってか、よく、一部のクラスメートから虐めのような扱いを受けていました。
不意に足を掛けられて転ばされたり、流行っている漫画の技をかけられたりで、怪我はしょっちゅうでした。
その日も、いつものように転ばされます。
すると、ジャージのひざに、穴が開きます。
虐め自体は半ば諦めていましたし、ひ弱な自分がいけないと考えていた私なので、彼らに対する怒りはありませんでした。
ただ、ジャージに穴が開いてしまった。
帰っても、母に洗濯を頼めません。
どうせバレるのですが、私も子供ですから、言えません。
で、バレます。
「ちょっと、これ、もう穴開けたの?」
子供部屋と母の寝室を兼ねている部屋で、誰にも言えない哀しみを抱え、寝転がる私に、母が若干怒り気味で、言いました。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
心の中で、ひたすらに唱えながら、言い訳をしました。
「体育の授業で転んじゃったんだ」
私は、リビングに去る母の背中を見送り、おままごとをする妹たちの声を完全にシャットし、枕の中、考えました。
これは未だ答えの分からない、生涯に渡る疑問であり、私が人間を失格することになる理由でもあり、高校生から社会人になり、会社を辞めてしまった今の今まで、普通の人間を演じるようになった原因、ともいえる疑問です。
人間には喜怒哀楽がある。怒って当たり前。果たして、本当にそうなのだろうか。言い訳じゃないのだろうか。制御出来ないだけではないだろうか。思いやりがないだけではないだろうか。人は、人の事情の全てを、知ることなんて出来ない。
なのに、感情のままに怒るのは、当たり前……?
人のために生きる。いわば内気に生きる。すると、虐められる。暴力を受ける。淘汰される。自由奔放に生き、知らぬところで人を傷つけ、または知りながらも傷つけ、「当たり前の差別」を行使しながら、ゆくゆくは皆、普通に生きる。学業。労働。結婚。子育て。俺は、私は、頑張っている。
……?
小学校時代は、こんな感じでした。
あのジャージは、私も成長期ですから、穴が開いてから、二、三か月で、そもそも履けなくなりました。
子供の私は、ジャージが履けなくなる日が来るなんて、考えもしていませんでした。
「すっごい高かったのに、もう履けなくなっちゃったね」
母がポツリと呟いた言葉に、私は死にたくなるほどの罪悪を覚えました。
服が嫌いになりました。
大人になった今は、常に、一、二着しか持たないようになりました。
元嫁からは、よく、
「だらしないから、服買いなよ」
と言われました。
名前すら覚えていない元恋人の女たちは、よく、
「服無いなら、私が選んであげる」
と言い、背の高い私ですから、入った服屋では、まさしくマネキン遊びでもするかのような感じで、色々着させられました。
昭和の女のような、世話好きな感じを、見せつけられている気分でした。
女が選んで買った服は、一度も着ませんでした。
男はつらいよ。と、言いたくなります。
父の訓えがありますし(陰鬱な経験談ばかりを書いていますが、私は、父と母を尊敬しています。彼ら個人にではなく、人間に対しての文句を言っているのです)、やはり、男がなよなよと「俺はつらいんだ」「こんなことがあったんだ」などと言っても、聞く耳は持たれないでしょうし、女々しいと一蹴されます。
男はいつの時代も、男を強要されます。
それに、「男はつらいよ」?
女の方がつらいに決まっている、と、昨今の世間は言い返してきますから、言えません。
ただ、私は何も、対抗をしようなどとは思っていないです。
男には男の、女には女の、つらさがある。
それで、よくないですか。
人がつらい思いをしたと言うなら、慰めればいいじゃないですか。
……これも、間違い。
そう、人の人生なんてどうでもいいのです。
へぇ、そうなんだ(棒読み)
俺の方が、私の方がつらい。
これが、人間。
小学生の私は、いわば幼虫。
次は中学生の話になりますが、そっちは、いわば、さなぎです。
人間を完全に拒絶し、普通の人間の皮を纏う蝶へとなります。
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