夏がいたこと

いりこんぶ

第1話


 親父は四十九で死んだのでその歳まで生きれば俺も死んでもいいと思っていた。

 賞味期限とでもいえばいいのだろうか。

 そこまで生き延びさえすれば、多分責任は果たしただろう。そんな感じの、世界への義務感や、今まで俺に与えられたものに対する義理のようなものだけで生きていた。


 中学二年生の夏、クラスメイトの田所が自殺した。仲が良かったわけでもなく、ただのクラスメイトで、ただの田所だった。

 田所は野球部のくせに中途半端な長さの髪をしていて、先輩とか先生に目をつけられていたように思う。

 比較的裕福な新興住宅地の中にある学校だったから、そこそこの良識と頭を持った奴が多くて、別地域に住む同年代の話を聞いても群を抜いて平和な学校であったと思う。

 蝉が鳴けば窓を閉めて暑い暑いと不服を漏らし、プールのあとの日本史は暗黙の了解で昼寝タイムで、学食では八十円の粒あんパンと三百二十円のかき揚げそばが人気だった。

 いじめとか、暴力とか、陰湿な匂いはしなかった。少なくとも俺には晴天の霹靂だったし、皆もそうであったと思う。担任から発表はされず、そのことは紙袋に包まれたパンの匂いのようにひそひそとクラスに行き渡った。

 遺書は、なかったそうだ。

 今のようにイジメだなんだのこうるさい時代でもなかったので、田所の自殺は少しの気まずさだけを夏に置いていって、秋になった頃には何事もなかったかのように秋だった。


 でも、田所は俺にクラスメイトという実感を残して気付かせてくれた。

 ああ、俺もきっと死んでいいんだ。

 不思議な心持ちだった。妙に居心地の良い、腑に落ちたような、使い慣れた毛布をやっと取り戻したように安心する手触りの感情だった。

 死はいつでもそばにいて、時々俺に語りかけた。

 叔父の家にあった蚊取り線香の匂いと、桃の当たって腐った部分と、靴下を脱いだ時の指の間にかいた汗と、暑いのに一瞬だけ首筋がぞくりと寒くなるのと、ぜんぶ同じ形をしていた。夏の輪郭は突き抜けた青色に入道雲を真白に切り抜いて、いつだって死にたいと叫んでいた。

 毎年、祈るように生きていた。秋になれば大丈夫だった。夏が終えればそれは夏だったと日常に身体と心をなんとか滑り込ませられた。

 受験や就活や、大事なことはおおむね春にあったので、残りカスをかき集めれば秋までは死んでいても生きていけた。

 そう、あの時点からおそらく俺は四分の一死んでいたのだ。

 誰にも言わなかった。言う必要すらなかった。

 当たり前のような顔をして夏は斜め横にいて、俺もしばしば夏を慈しんだり、冬の気配を鼻先に捉えたときは夏を懐かしんだりした。

 歳を取って、そのチューニングが段々と難しくなってきた。

 鼻の奥が膨らんでしまったように、夏はいつだって身体の奥にこびりつくようになった。

 周りほど出来の良い頭ではなかったので高い金を出してもらってなんとか経済学部に入りこみ、細々としたコネを繋いで単位を取り、叔父の紹介で地元の工場に経理として就職した。

 大学時代は周りの皆が大学生であったのに、地元に戻れば俺は大学出の息子であった。

 それなりに優遇され、それなりに遠巻きにされ、同じように馬鹿にされた。

 帰り道はいつも指先が半透明に薄くなって、夕暮れと同じ色に見えた。

 夏は優しくなった。

 いつでもこちらに来ていいと長袖の肌着を着た俺の肩を撫でた。

 俺は肩をすくめて震えるような仕草をしてそれを払ったけれど、本当は甘えたように擦り寄ってしまいたかった。

 俺はいつだって、ちゃんと死にたかった。

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