第5話
昨日のささやかな晩餐はつつがなく終わった。あれほど飲んだくれていたサンジェルマンは朝には影も形もなく、談話室の伝言板に大きく指令が書き出されていた。
サンジェルマンの研究室はいつもこうだ。いつの間にか伝言板に無理難題が書き込まれており、添えてある期日を超過すれば破門を意味する。抗議の声を上げてもペナルティをちらつかされる。
ボードに記されていた内容は簡潔だった。
『基礎練習』
お嬢様に泉術を教示せよ、ということなのだろう。
昨晩サンジェルマンらしからぬ前振りで小さく触れていたので、あの女にしては親切な方だ。
何より、無理難題の類ではないのがありがたかった。
同僚が泉術を使えるというのは彼らにとっても望ましいこと。サンジェルマンの研究室に属するということは『向こう側』に足を運ぶということであり、自衛手段を確保する必要性がある。それが巡り巡ってイグナートとナサニエルの生存にも繋がってくる。
幸い、朝食の時間になれば否が応でもハクとは顔を合わせることになるのだから、人見知りのイグナートでも自然な流れで声をかけられる。よしんば二の足を踏んでしまってもナサニエルが言うだろう。
朝食を終え、教練が始まった。
庭先で机を囲むナサニエルとハク。イグナートは水田の小さな堤に腰掛けて後方で待機していた。
ナサニエルは卓上にばらまかれた小さな色石を一つ摘み上げると、
「とりあえず基本中の基本ということでこの石を動かしてもらうよ」
「いいけど……こんな白昼堂々に練習するの?」
素直に練習に乗ってきたと思いきや、ハクはどこか余所余所しかった。
「ん、なんで?」と疑問を口にするナサニエル。
「その……秘術……なんじゃ、と思って。誰かに見られたり」
「ご心配なく。この辺は廃村だからね。」
研究棟の周りはいくつかの家屋が立ち並び、田畑が開墾されている。
一見人の手が入っている土地だがその実、サンジェルマンとその門下生以外は誰も住んでいない。
「何故誰もいないの?」
「危険だから。ここは『向こう側』にだいぶ近いんだよ。いつ大地が形状変化するかもわからないし、未知の猛獣が山を下ってくるかもわからない。四月半島に住む住民なら誰も寄り付かない区域なんだよね。まぁそれが分かってない時代に村を作っちゃって痛い目を見たんだけど」
自然風化にしてはあまりに早すぎる倒壊した家屋が当時を物語っていた。
ナサニエルは色石を弄びながら机にいくつか置くと、
「まあ概要は知っていそうだけれども。こうして刻印を対象物に刻み込んで……」
ナサニエルが黒い筆で顔料を石に書き込むと、ハクに覗き込ませるように刻印を見せつけた。後方に座って無言で講義を任せきりにしているイグナートに向けて石を弾き出す。
それは投擲とは異なる現象だった。
石は目にも止まらぬ速度でイグナートに向かって一直線に放たれた。
大型の獣であっても風穴を穿たれ、ざくろのように肉が飛び出るほどの威力。
しかし、石は差し出された手の平の前で静止していた。
瞑目するイグナートに呼応するように石は軽々と浮遊し、ぱきぱきと何かが割れる音がしたかと思いきや砂を撒き散らしながら粉々に砕ける。
「どういうこと……?」
ハクは厳しい表情で一部始終を見ていたが、どうやら浮かすところから割れるところまで全てイグナートが思い通りに操作したようだ。旅芸人の手品ではない。
「お前、分かっていると思うが目測見誤れば俺は大怪我していたからな。いや、ひょっとすると首に当たる軌道だった。死ぬところだったぞ」
「ごめんごめん。ちょっと脅かしてやりたくてさ」
説明役を任せきりにしたことを恨んでいるのだろうか。確かに後ろに控えていたから少々眠たくなっていたが、厳しすぎないか。話すのも聞くもの苦手なのだから仕方ないだろう。
ナサニエルは刻印の刻まれた色石をハクに見せると、
「刻印を刻んだ物体を自由自在に操る。それが泉術」
「……刻印が刻まれていれば何でも操れる?」
呆然とハクは呟いた。ナサニエルは首肯する。
「無機物に経絡を通して自由自在に操る技術、といえば伝わるかな?刻印は経絡を通すための目印。先生曰く刻印がアンテナとすれば思考は電波のようなもの。もっとよく分からないあの人流の例え話だとモデムだのルーターだのわいふぁいだのと言っていたけどね」
人差し指を掲げて教師さながらに語りだす。
「誰でもできるの?」
「努力すれば誰でも一通りのことはできるよ。描く方は刻印の型を覚えればそれが全て。難しいのはそこに経を通す感覚、対象を操る感覚を身につけること。できない人は本当にできなくて基礎を修めるのに何年もかかっちゃうんだけどね」
ナサニエルは色石を大道芸のお手玉のように両手の間を行き来させている。全く腕を動かすことなく。
「動かすのは簡単?」
「一応、基本中の基本だからね。段階としては動かす、じゃなくてまずは通すところからだけども」
「どっちでも良いわよ」
頭でっかちな講師にありがちな論理だ。まず自分たちの言葉の使い方に生徒を合わせたがる。
そんな些事よりもまずやって覚える、といわんばかりに色石の山をハクは鷲掴みにした。
「通すのと動かすのは明確に分けたほうが覚えやすいんだけどなぁ」とナサニエルは小さくぼやく。
ハクは無視して手のひらの石に意識を集中させる。
瞳を閉じて念じる。
一秒……二秒……十秒ほど経つが動かない。
「繋がりを意識して。刻印と君の意識にかすかな
ナサニエルの助言は聞こえていたか聞こえていないのか。
ハクは自分の意識に埋没して、一心に願った。
願った。願った。願った……が、何も起こらない。
「ああもう。馬鹿らしい」
苛立ちを隠そうともせず地団駄を踏む。傍目には我儘なお嬢様の癇癪が始まったようにしか見えなかった。いや、実際に始まっていた。
「まあ、難しいよね」
「一回目で出来るはずがない」
イグナートとナサニエルは口々にフォローを始める。
講師役は初めてだが、とにかくやる気を維持させることが肝要だと二人は思っていた。
「そもそもなんだけど、石が動かせたからってなにかすごい訳?」
思ったより早くお姫様は腐り始めた。
ナサニエルは苦笑いして、二の句を継げずにいた。
任せ切りも悪いと思い、イグナートは指をひょいひょいと動かした。
弄んでいた二つの石を空中でかちかちとぶつけ合わせる遊びだった。初めは小さくぶつけ合っていたが勢いと力は回数を増すごとに増え、衝突音の質が変わっていく。やがて火花が散って互いが互いの圧力で砕け合った。
「荒事だと便利だ。非力な者でも甲冑を着込んだ騎士の頭くらい簡単に穴を開けられる」
「いかにも野蛮人の発想ね」
「だが強力だ。文明人の戦争なら泉術で英雄になるのは容易いかもしれんぞ」
英雄になれる、と我ながら大風呂敷を広げたものだが説得力はあった。振るえば頭を割れるほどの石がまるで大砲から放たれたかのような勢いで飛んでくれば如何なる防具も意味を成さない。
「そうね。戦場ではさぞ活躍できるでしょうね」とハクが冷たく言った。
「だが、足りない。『向こう側』じゃこれを身に着けていたってどうにもならないときがある。俺が戦った百足はこんな石を高速でぶつけたところで怯まないし、かすり傷一つ付けられない。だからこそ最低限の技術として覚えておいてほしいんだよ」
一応、切実さを込めてイグナートは思いの丈を伝えた。
ハクもどうやらその意図を汲んだようで、
「コツはないの?」と前向きな発言を言った。
きょとんとイグナートは面食らったような表情だった。次にナサニエルの方へ顔を向けた。
あいつに聞けと言わんばかりの態度だったが、イグナートは実際にそう思った。
「貴方も教育係なんでしょう?私を教育する栄誉を与えられておきながら手遊びをして過ごすつもり?」
ハクは明らかに苛立っていた。
なるほど、教える気もないのに能力だけ誇示されても鼻につくだけだ。もしくは、さっき眠そうにしていたのを見られていたのかもしれない。
「俺に聞くのはいいが、ナサニエルのほうが遥かに優秀だぞ」
「要領が悪いからこそ言える助言もあるでしょ」
途端にナサニエルが吹き出すと、
「ははっ。言えてる……いや、失敬」
イグナートは獣のような目でナサニエルを睨みつけた。
「そう言われても何を言えばいいか分からん。何故俺に聞く?」
「下手くそのほうが時間かかる分、感覚じゃなくて理屈で覚えるでしょ」
言い過ぎだろ、とイグナートは険しい表情で睨み付けたがハクはどこ吹く風。
「ああ、それはあるかもねぇ……」とナサニエルはフォローどころか、しきりに頷いていた。
イグナートはへそを曲げそうになったが、落ち着いて考えると彼女に見込まれているような気がしてきた。ハクの言動は失礼極まりないがどこぞの貴族共と違って悪意というものがない。
考えてみれば講師役としてここにいるのだから、全く仕事をしないというのもバツが悪いとも思う。
イグナートは腰を上げると、ハクの持っている色石を野晒しの机に置いた。
目でもう一度動かしてみろと促すと、ハクも聞いた手前があるので素直に従った。
「まず石と繋がっている糸のことは忘れろ。刻印を見ろ」
ナサニエルとは全く逆の指示だが、言う通りにする。
見えない糸との繋がりを意識して瞑目していた先刻とは真逆に、刻印を凝視する。
「そうだ刻印を見ろ。それがそいつの顔だ」
「うん」
「顔は覚えたか?」
「うん」
「そいつはお前の臣下だ。下僕だ。奴隷だ。」
そのように思い込む。普段通りに。お姫様なのだから、跪かせるなど日常の出来事。
「こいつらをどうするの」
「お前が主だ。好きなように命を下せ」
「消えて」
瞬間、何が起きたか分からなかった。
気付けば視界は白く覆われて咳き込んでいた。
すぐに煙が晴れると、何が起きたか理解できた。机を圧潰させて、地面に小さな空洞ができていたのだ。そして辺り一面には細かい砂利が撒き散らされていた。
「これ……どうなった、の?」
「派手にやったな。せっかく作った色石が全部壊れた」
「どういう訳だい?イグナート、君が何をしたか分からない」
石のめり込んだ黒い穴をなぞるイグナート。威力を確かめるように穴の伸長を指でさすっている。困惑するナサニエルをよそに実践で使えるかどうかをイグナートは考え始めていた。
「別に。お前は簡単そうにいうが経絡だの糸だのを感じろというのは実に難しいからな。どちらかというと初心者はこっちのがやりやすいんじゃないかと、まさかここまで効果があるとは思わなかったが」
糸を辿って刻印まで意識を到達させるという行為は実に論理的で手順を追っていて、基本的だ。だがイグナートは非才とはいわないまでも凡才だった。基礎ですら一朝一夕では身に着くものではなかった。少なくともナサニエルと同程度まで修めるまでには相当の時間を費やさなければならない。
「系の通し方は大別して二種類あるんだ。『命令式』と『感覚式』というんだが、お前は命令式のほうが向いているらしい」
「動かしたつもりはないんだけど……」
ハクの声は少し震えていて、自分が何をやったのか受け止められずにいた。
「要は関係性の違い、イメージの違いだ。誰かに命を下す上下関係か、自分の体を動かす肉体構造か」
「そこにある刻印を眼で認識して声で命ずる……か。興味深いねぇ。確かにこちらの方が発信が届きやすいのかもしれない」
「天才には縁遠い技だろうがな」
「いやいや、僕も普通に使ってるからこれ。要は複合できれば最高なんだよ」
イグナートは無視した。天才の世界の話など聞きたくもない。
とにかく、義理は果たした。成果を出したのだから講師役としては十分だろうと再び後ろに下がった。
「私、こうなると想像してなかったわ」とハクは地面の砂を指で擦っていた。
「そうだ。この方法だと細かいコントロールが難しい。消えろと念じて卓上の石は飛んだり砕けたり反応に差異があった。イメージをもっと固めないといけない」
事実、自由自在に動かすとなればナサニエルの『感覚式』の方が適している。
他人を思い通りに動かすことは例え絶対的な上位者であっても至難の業なのだから。
「消えろと命じたときはこれくらい早く視界から消えてねってことだよね。覚えておかないと怖いね」
ナサニエルは手を叩いてケラケラと笑っていた。どうも琴線に触れるほど興味深い成果だったらしい。一見すると柔和な表情なのだが、イグナートにしてみるとかえって軽薄で恐ろしい印象を抱かせる。
ハクもまた訝しむ眼差しで向けていたが肝心の当人は気付いていない様子だった。
「俺はこのやり方ですらひと目に出しても恥ずかしくないレベルになるまで一ヶ月かかった。喜べ、お前は才能があるぞ。どうも、意志の強いエゴイスティックな人間ほど向いているのかもしれん」
余人でさえ思わず従いたくなるほどの凛としたハクの声を思い出す。
ハクの素性に興味はなかったが、知ってみたいとイグナートは思い始めていた。
覇気とはあのように放たれるものなのかと、器の違いを感じたのはこれが初めて。
ナサニエルが珍しくはしゃいでいるのも、全く異なる人種に遭遇した悦びからかもしれない。
「じゃあもう一回……飛んで!」
飛ばない。
意気揚々に玩具を弄ぶように話しかけるハクだったが、石は返事をしない。
「ちょっと、飛びなさいよ。飛んで。飛べ!」
反応はない。
先程の超集中とは真逆に地団駄を踏みながらただ怒鳴り散らしているだけだった。
石に向かって。
「どうして言うことを聞かないのよ!」
「雑だからだ。さっきの集中はどうした」
「まぁまぁ……上々だと思うよ。小休憩をいれよう」
ナサニエルが提案するも鼻から意気を吹き散らしながらハクは小石と睨み合うのを辞めなかった。誘っても頑迷に断るのでイグナートは台所で昼食の準備を始めた。
ハクが食卓で大人しくなったのは料理の香りに釣られてから一時間後のことであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます