第4話
久しぶりに丸一日かけて講義を習い終えると、肉体労働とはまた異なる疲労がイグナートとナサニエルに襲いかかってきた。脳内に詰まっていた燃料が尽きたように呆然として気が入らない。銭湯にでもいって疲労を回復させたいところであったが、そもそも食事らしい食事をしていないことに気付き、研究室に戻ることにした。
研究室が存在する郊外には無人のあばら家が何軒かあり、イグナートとナサニエルはそこを住処にしている。イグナートの家には備蓄していた食糧、もとい狩りで獲った獣肉があったのでそのまま夕食を取ることに二人は決めた。
そう思って研究室に戻ったところ、研究棟の呼び鈴が独りでに鳴り始めた。
「あら、先生からの呼び出しだ」
「なにかやらかしたか」
「さあ?ひょっとして提出したサンプルに問題があったとか」
思ったままのことをナサニエルは言った。それはイグナートにとって最悪の想定だった。
「冗談じゃない。三日三晩かけて吟味したんだぞ」
「安心しなよ。もし落ち度あったなら今頃僕ら折檻されてると思うよ」
それもそうかと胸を撫で下ろすと、
「丁度いい。報酬金をもらえないか相談したかったんだ。今月も金欠だからな」
「それは僕もそうだよ。よし、一緒に直談判しよう」
ここに意見の一致を見た二人は明るい未来へと胸を膨らませた。
思い思いに忌憚のない意見を述べつつ、二人は研究棟の扉を開けた。
談話室の椅子に腕を組んで座っているサンジェルマンと見知らぬ客人がいた。
児女のように頬を赤くして、膨らませてわざとらしく怒りをアピールしている。
「プライスレスだと思わないのかい」
は?という声なき声を無視して再度唱えられる。
「だからプライスレスだと思わないのか、と言っている。君達に与えた課題というのは学院の誰もが望んでも得られるような、生中な試練ではない。それを課した師の気持ちが分からないのかい。弟子を信じて委ねた師の気持ちが」
「師のお気持ちは分かりますよ。面倒くさかったんでしょ?」
「プライスレスだと思わないのかい」
「すまん。話進めてくれないかい?」
全く同じイントネーションで跳ね返したイグナートの声に、サンジェルマンは押し黙った。
数秒後、何事もなかったかのように椅子を立つと、ソファで座っているもう四人目に仰々しく一礼をして視線を誘導する。
「君達に紹介したい子がいてね」
座っていたのは純白の髪を三編みにして二房に下げた少女。
目線が合う。それは奇妙な瞳だった。
結晶のように透徹した瞳は打ち付けたガラス玉のようにヒビ割れ、白い髪は一切の混じり気なく柔らかく纏まって腰まで伸びていた。纏う衣服は誰が見ても最上級の布に最高の装飾が施されており、彼女の身分が窺える。
そして異様なほど完成された顔の造形はまるで人形のようだった。
言葉もなく、ただその場で立ち尽くしていた。
ナサニエルも興味深そうに指を口に当てながらまじまじと見つめていた。
「おやおや、美人過ぎて男共は言葉を失っているよ」
「いえ、見たことがないほど美しいもので」
ナサニエルの瞳に好奇心の火が灯った。
対して、イグナートは未だに緊張が解けなかった。友人の余裕さがなんだか悔しかった。
「要件はこれか?」とやっとの思いで口を開いた。
「そうだ。名はハクといって、まぁ訳ありだから君等に云うことはなにもないんだが、私の研究室で預かることになった。ほれ、挨拶を」
白髪の少女は悠然と立ち上がると二人に向き合った。
両手を腰に当てて仁王立ち、品定めするような冷たい視線。
この感覚には覚えがあった。いつも身に受けているエリート共のそれと同じ。いや、純度でいけば学院で受ける視線を遥かに上回る。それほど透徹した圧力を感じさせるほど透明な瞳には威力があった。
冷気のような瞳はやがて怒りを孕んだものに変わった。
「これが、貴方が約束した護衛? 随分みすぼらしいけれど」
「護衛じゃなくて同じ研究室の同僚だといったろう?」
「汚いチビと線の細い優男じゃない。本当に使えるの」
「そこはご心配なく。早速お手並みを見てもらいましょう」
先ほどと全く違う意味で面食らう。
纏っていた神秘性が剥がれ、同じ年頃の少女の相へと変わっていた。
目の錯覚ではなく、髪も瞳も色が褪せているように感じる。人形が人に変わった。
「サンジェルマン。まさかこの無礼な女が新入りとは言わんよな」
金縛りが解けたようにイグナートも真っ当にイライラし始めた。
使っている公用語は通じる。が、意思疎通における踏むべき段階、その認識に大きな乖離がある。イグナートは顔に手を当てて、表情を隠した。
大きく吐き出した息は呆れか怒りか、それとも脱力したかったからなのかは自分でも分からなかった。
「俺達は召使いじゃない。自覚はないだろうがアンタの人使いの荒さは常識を超えてる。その上、こんな上流階級のお嬢様の面倒を見ろというのか」
これでは貴族の下男と何も変わらないではないかとイグナートは目で訴えた。
サンジェルマンは涼しい顔をしていた。
「私はなんのかんのと衣食住を君たちに提供しているつもりだがね?君たちが学院に籍をおけるのは私が学費を免除してやっているから、安らかに眠れるのは土地と家を君たちに貸しているからだ。金が無いのが不満だそうだがここは郊外故に近くに森と河があり自活もしやすい。控えめに言って至れり尽くせりだろう。むしろ感謝が足りないのでは?」
奴隷の主人としては平均的な物言いだった。
まぁ話して何が変わるわけでもないと思っていた。目の前で葉巻を咥えてよく分からない薄っぺらい冊子を読む高級スーツの女もまた、上流階級の人間には違いないからだ。期待などもとよりしていない。
「そもそも、どこで寝るんだ。研究棟はここ以外足踏み場もないほど本で散らかってるだろ。俺達のあばら家は絶対譲らんぞ」
「アホかね。あの犬小屋未満の家に彼女を泊めるわけなかろう」
サンジェルマンが指差すとその延長線上にはナサニエルがいた。
「幸い百人力の労働者がいる。イグナートも。あとは分かるね?今すぐ家を建て給えよ」
「ふざけろ。おい金を出せ。俺たちに丸投げした昨日の課題の」
「私は弟子と交渉はしない……早くやれ。でないと退学だ」
イグナートとナサニエルはもはや何も言い返さなかった。
何かが切れて、顔を見合わせると黙々と作業に取り掛かった。
ナサニエルが指揮棒を振るうように手を動かすと紐が藁人形のような形状を取る。手足をかたどって紐を何十にも重ねると胴になる。まるで御伽噺の妖精だ。
彼らはやがて走り回り、道具を運び始めた。イグナートも家屋の骨となる木材を切り始める。
最低限の骨組みが出来上がると十人ほどの藁人形達がヘラで漆喰を塗り始める。
「やればできるじゃないかお前達。大工になれば儲けられるぞ」
「名案ですね。今すぐなりたいと思い始めました」
ナサニエルが手の組み方を変えると藁人形達は瓦を持ち始める。
気付けば四角い漆喰の白い小屋がいつの間にか建っていた。着工が1時間ほど前と思えば驚異的なスピードといえる。残るは外見の仕上げだが、寝泊まり自体は今晩からもできるだろう。
「寝具その他調度品は奥に眠っていたものを引っ張り出してくれ給え」
「あのゴミ屋敷から?冗談はよせ」
そんな作業をすれば朝になる。家を建てるよりも大変だ。
とはいえ、ベッドくらいは引き出してやらねば寝られまい。
面倒くさそうに息を吐くとイグナートは研究棟の物置に足を運んだ。
途中の談話室でハクと目が合う。
ハクは紅茶を啜りながらイグナートを見つめ返してきた。
「なにか用か」
しかし、見るだけで何も言ってこない。
暫く無言だったが、間が持たないのでイグナートは作業を再開した。
どうにか夕食の時間までに全ての工程を終わった。
ひとえにナサニエルのマンパワーによるものだった。
「明日の朝から泉術の訓練を始めてくれ。基礎は君たちに仕込んであるから教えられるね?」
話を振られたがイグナートは苦々しい顔つきでキッチンに向かった。
サンジェルマンとしてはこの場で親交を深めて欲しいのかもしれないが談話する気など毛頭ない。
残ったナサニエルは取り繕うように笑顔でハクに話しかけた。
「ごめんねぇ。イグナートはああ見えて歓迎してる気がするよ。偏屈だから自分のテリトリーに入ってくる新しいものが受け入れ難い性格なんだ」
「小さい男ね」とハクは邪悪な顔でイグナートを嘲った。
イグナートは何も言い返さない。残念ながらナサニエルもこの件でいちいちフォローはしなかった。
「今日はいいけど明日からは仲良くしてもらわないと困るよ、イグナート」
「うむ。ナサニエルの言う通り。ハクもね。あの黒助はアレで可愛いところがある。慣れれば君も良さに気づくはずだよ」
「その話はもう良いわ。それよりも夕食の準備はできていて?」
ああそれなら、とナサニエルはイグナートの去った方向を見た。
早速失点を挽回するチャンスだと思ったからだ。サンジェルマンも意図に気付いたようで、小さく頷いていた。
ナサニエルがあばら家に戻ると不機嫌そうなイグナートの調理が始まっていた。
「ありがとう。材料持ってくるから四人分頼むよ」
「冗談じゃない」
短く断ち切って鍋に向き合っていた。イグナートは狩りで獲ったものを毛なり羽なり毟って無造作に鍋に放り込んだ。中には有毒なものもあるかもしれないが経験則でそのような獣は捌いて食べられそうな部分だけ肉を備蓄していた。臭みを消すための草を少々入れて、秘伝の粉をふりかけて完成。
「持っていってくれ」
「もちろん、全部の皿は持っていけないから一緒に来てくれるよね」
露骨に嫌そうな顔をするイグナートだったが結局ついていった。便宜を図ってくれるナサニエルの顔も立ててやらねば後々面倒なことになる。
イグナートは下唇を限界まで持ち上げながらぶすっとした顔でハクに皿を差し出した。
「なんとまぁ野蛮な……骨付き肉をそのまま煮たの?」
悍ましいものを見るような眼でハクが言った。
イグナートは肉を細かく捌くような作業はしない。よって保存している肉は大体骨がくっついており、なんなら飛び出た肋骨に糸を通して部屋にぶら下げる始末だ。
ハクは完全にゲテモノを見る目だったが、意を決して齧りついた。口が汚れないように小さく肉を頬張る姿はやはり育ちの良さを感じさせるものだった。
咀嚼しながら天を仰ぎ見るハクはやがて感心したように再度肉に齧りついた。
「美味ね」
「お褒めいただき光栄です」
ナサニエルが嬉しそうに答える。
対して、イグナートは目をつぶって無言で飯をかき込んでいた。
「調味料が良いわね」と咀嚼して飲み込んでからハクが言った。
「流石、舌が肥えているね。そこのイグナートは中々凝り性でね。日頃から調味料や香辛料の調合をしているんだ」とサンジェルマン。
「まともなモノを食べたいだけだ。向こうだと食材が珍味ばかりで舌がおかしくなる」
謙遜でもなんでもなく、イグナートは不満を口にした。
最終的に四人で晩餐のような様相を呈してしまった。よくよく考えればイグナートとナサニエルは仕事終わりで朝から碌なものを食べていない。対面のハクも長旅の疲労か空腹だったようで、気付けば研究棟の台所を借りてもう一品二品作り始めていた。
調理用の底の丸い鍋を軽やかに扱う姿を見て、ハクも思わず感心していた。
「東洋の料理が得意なのね」
「炒めものはやはりこれだろう」
イグナートは一瞬だけサンジェルマンに目配せすると、炒飯をハクに差し出した。
「この鍋はカン鍋というらしい。中原にかつてあった大国の名前だそうだ」
ハクの料理を頬張るスプーンが止まる。
ナサニエルもサンジェルマンも途端に手を止めて神妙な顔つきになった。
「お前の着ている服はその国の意匠が垣間見える」
紫の精緻な生地に、金細工が縫い合わせあった衣服。だが見る者にとっては出身地の察せられるものであった。
ハクはなにやら満足した表情でイグナートに向き合った。
「良かったわ。逆に私のドレスを見て何も分からないような田舎者だったらどうしようかと思っていたもの」
「たまたまだ。この鍋を売ってくれた行商人が似たような服を持っていた。お前のそれとは比べ物にならないほど品質に差はあったがな」
「ここは土地柄色んな国の人間が行き来するからね。イグナートのような粗忽者でも多少は知見が身につく」
サンジェルマンは感心した風だったが、知っているのが驚きという口ぶりだったので鼻につく。まだ、ハクのように田舎者だの好き放題言われたほうが嫌味がない。
カンの出身ということは一つの事実を意味しているのだが、イグナートはそれ以上の追求をしなかった。流石に晩餐の空気を破壊するほど唐変木ではない。込み入った話はここまでにして予定していた食材を使い切ろうと思った。
まだ足りないのか大きな重低音が下腹部から響いてくる。
腹の音が、使用人生活の始まりの鐘のように聞こえた。
いよいよハクとやらが隣人になるのだと実感が湧いてくる。
明日も明後日も明々後日も、その又明日も。
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