第6話

 昼過ぎ。

 港町の活気は陽の光の暑さにも負けないほどに賑わっていた。

 大変眩しい限りの光り輝く大通りだったが、肌の黒い小柄で陰険な男の歩いている周囲のみ異空間のように重くなっていた。イグナートは不機嫌だったのだ。

 午前中の鍛錬を終えて、昼食を作り終えると日の出ている内に夕飯の買い出しだ。誰に命じられたわけでもないが、放っておけば誰も準備しないだろうから仕方なく己が行動するしかなかった。まるで家政夫のような体たらくだったのでより一層イグナートの不機嫌は加速していった。

 だが不機嫌が加速する理由はもう一つあった。

「私、夕飯はさっぱりしたのが良いわ。昼のお肉は美味しかったけれど脂っこかったもの」

 実に面倒臭い人物が後ろを追従しているからだった。

 言われずとも肉料理にする予定がないから買い出しに出ているのだ。付け加えてさっぱりしたものが食べたいという曖昧な要請はイグナートの不機嫌を加速させた。

 だがイグナートの懸念は別にあった。先程からみちのく露店を見回しているお姫様だったが、目線の先に食材を扱う店がない。調度品を扱う店でもない。

「イグナート、ちょっと良い?あっちに呉服屋が……」

 決定的な発言がついに繰り出された。イグナートは口をへの字にへし折って毅然とした態度で無視することにした。

 時間はまだ昼過ぎ。今日は学業もサンジェルマンの雑事も何もないので寄り道する時間は十分ある。

 しかし、これでハクの我儘に付き合うようでは本当に召使いか奴隷ではないか。

 憂鬱なイグナートの横でハクは無邪気に物見を楽しんでいた。普段の偉そうで嗜虐的な笑みではなく、純粋に少女のような笑みで。

「持ち合わせはあるのか」

「当たり前でしょ?庶民と一緒にしないでよね」

 肩に掛けた青紫に塗られた革製のポーチを軽く叩くと、承認したわけでもないのに服屋に入っていってしまった。イグナートが見た限りハクの財産はあのポーチくらいのもので新築にも私物らしきものは何も置かれていなかった。

 金があるなら高級そうなポーチに全て収まっているということになるが、なんとも危なっかしい。その場でしばし立ち尽くしていたが、イグナートの身なりで店に入るわけにもいかず、折衷案として店の近くで立っていることにした。

 小柄で色黒でボロ布を纏っている男が服屋の前で待つというのはそれなりに通行人の目につくらしく、道行く人の多くはイグナートを一瞥しながら去っていった。これでも十分面倒で不愉快で、我慢している方だ。

 腕を組んでしかめっ面で待つこと三十分。

 ようやくハクが店から出てきた。大きな箱を抱えた店主を連れて。

「おお、これがお嬢様の奴隷ですか……ちと小柄ですが持てますかな?」

「だから、奴隷じゃないってば。友人よ」

 苦虫を噛み潰したような顔でイグナートは逃げ出したくなった。

 イグナートの背丈ほどもある木箱が積み上げられていたのだ。

 どれほど買い込んだかは知りたくもなかったが、自然と荷物を持てという圧力が伝わってくる。ここで持てばまさに奴隷か召使いだ。

「冗談じゃないぞ。お前が持て」

「ありえない。まさか女に持たせる気?」

「お前の荷物だろ。それに召使いじゃないと言ったのはお前だろ。」

「タダとは言わないわ。ちゃんとお金は出すわよ」

「……」ぐぬぬと呻いてイグナートは箱を持ち上げた。

 重い。箱いっぱいに衣類が詰まっているのがわかった。

 何考えているんだこの女。

「なんと、怪力ですな。流石はお嬢様、良い奴隷をお持ちでいらっしゃる」

「だから奴隷じゃないってば」

「いや……もう奴隷だろう、これは」

 イグナートが諦めたように呟くと、

「ちゃんとお金は払うから」とハクは念押ししてきた。

 悲しいかな貧乏人はいつだって腹を空かせていて仕事が降ってくるのを待っている。イグナートも例外ではなかった。だが、間違っても友人などではない。

「もう買うなよ……持てんことはないが俺の体格だと限度がある。これ以上は手に余る」

「分かってるわよ。早くお魚を買いに来ましょ」

「誰が魚を買うといった。勝手に決めるな」

 ハクはどこ吹く風で港の方へと歩を進めていく。

 もう何も言う気力はなかったが、魚料理をイグナートも少し考えていたので黙ってついていった。

 どこで魚を買うのか全く決めていなかったというのに、ハクは当てがあるかのような身振りでまっすぐに漁港を目指した。イグナートは人混みをかき分けて付いていくのに精一杯だった。



 居並ぶ漁船の前で魚を直に捌いて卸す市場が開かれている通りまで来るとようやくハクは立ち止まった。半島の最南端の区画だ。生鮮食品を扱う卸売場の中でも人気のない一角へと入っていく。

「落ち延びてきた身にしては随分羽振りがいいんだな。ここが何処か分かってるのか」

「分かってるわよ。ここで卸されてる魚は最高級なんでしょ」

 ハクの言う通り、富裕層か規模の大きな飲食業の人間しか出入りしない区画だった。

 イグナートは足取りを確かめながら必死にハクを追いかけた。商品の上に木箱をぶちまけたら目も当てられない。

「おい、金はあるのか」と慌てて聞くと、

「何の資産を何も持っていないとでも?」と、こともなげにハクは言った。

 歩みが止まる様子はない。イグナートは恥ずかしかった。少女と荷物持ちの男子という組み合わせは悪目立ちしていて、海の男たちの視線が痛かった。

「まぁあるんだろうな。資産家には見えなかったが」

「資産なら目の前に並んでるわよ」

 並んでいると言われても目につくものといえば魚だけだ。真意を測りかねたが、市場の外を眺めているとはっと思い至った。

「お前の船か?」

「そこに並んでるうちの三隻はね。元々持ってた一隻と私財をはたいて買った二隻と」

 素人目にもそれなり以上のサイズの船だというのはわかった。それにさほど使い込まれた様子がない。つまり傷んでいない船だった。外装から察するに漁船として使用されているのだろう。

「つまり漁師を雇っているのか」

「まぁ似たようなものね。ここの人たちに船を貸してるのよ。これ借用書」

 ポーチから無造作に巻物を取り出す。イグナートには真贋など到底分からないが、嘘ではないのだろう。自分とそう年の変わらない少女が三隻もの船のオーナーだと思うとイグナートの自尊心は大いに揺らいで、笑っているのか驚いているのか微妙な表情になる。

「そんな大事な書類を見せびらかすな……危ないだろう」

「平気よ。これはコピーだもの。原本は商工会が保管してるわ」

「しかし私財を叩いてと二隻も買えるものなのか……」

「そりゃあね?この世に二つとない調度品を売ったもの」

「惜しくはないのか」

「惜しいけど邪魔だし、船を買いながら身軽になれるなら一石二鳥じゃない」

 なるほど金持ちらしい稼ぎ方だ。ある程度金を持っていればさらに増やすのは造作も無いと。

「この町は自治体が無い代わりに商工会がしっかりしていて良いわ。借用書を見せればしっかり効力があるし、それを狙ってくる賊もいない。サンジェルマンの言う通り、良い街ね」

「まぁ無法を働けば制裁されるからな。抵抗しようにも泉術を修めているノッカーが相手だから」

 この街はいわゆる無政府地帯だが、ノッカーという絶対的な支配者が隠然と治めている。

 サンジェルマンやマーサーからは想像もできないがこの街を作ったのはノッカー達であり、そこに自負と責任がある。他ならぬ自分たちの庭で秩序の乱れを許すほど甘くはない。

「ノッカーって酔狂よね。土地があるんだから王様になればいいのに」

「あいつらは横で繋がってる趣味人しかいないからな。だからこそ何をするかわからん怖さがある。裁判は理不尽だし、罪人は司法機関も真っ青の極上の苦痛を以て処されると聞いたことがある」

「それはまぁ随分適当ね……」

「あれ、お嬢じゃないですかい。今日はどんな用向きで?」

 しばらく話し込んでいると、ハクを見つけた漁師が話しかけてきた。

「買い物よ。活きの良い魚を頂戴」

「ええお嬢なら大歓迎だ。お安くしときますぜ。ささ、こちらへ」

 海の男らしく調子の良い挨拶だ。若者に見えるが、肌が焼けすぎていて壮年のような成熟した雰囲気を醸し出していた。

ハクとは顔見知りのようだが、この地に来てまだ日も浅いというのに随分打ち解けている様子だった。

「一通り見て回ったのだけど、どれも見たことのない魚ばかりでねぇ……おすすめはある?」

「そういうことでしたら、さっき獲ってきたばかりのがありやすぜ。ちょいとお待ちくだせぇ」

「あらそう?悪いわね」

 漁師は漁船に向けて走り出した。集団でなにやら大きな木箱を荷降ろししているのが見て取れる。

「どう、私を連れてきてよかったでしょう?」

 ハクはしたりといった顔で言った。初めからこうした展開になると分かっていたのだろう。当てつけられたイグナートはなんとも面倒で仕方がなかった。だが、身銭を切らなくて済むと思えば不快さはない。そうとも、見返りがあるならお姫様にこき使われるのも悪くない。

「大丈夫?それ、奴隷根性よ」

「人の心を読むな」

 話し込んでいると漁師が獲ってきたばかりという魚を運び込んできた。

 鋼の刀身をびっしりと編み込んだような、厳しい大魚がそこにあった。

「何この魚。キモいんだけど」

「お嬢、これはカネメダイっつって見た目はヤバいッスけど鱗の下は白身で結構イケるンスよ」

「全く見覚えがない。普通の市場じゃ出回ってないやつかな」

 大融解の以後に発生した生物だろう。異形の魚といっても魚なんぞ異形揃いだから珍しくもないが、一際目につくのはやはり堅牢そうな金属質の鱗だろう。鈍く光沢のある鉛色のそれは実際に金属で出来ていて酸化すると油が滲み出て七色に輝いている。

「これは、本当に鋼のような鱗だな」

「本当に鋼ですよ。こいつ鎧みてぇのをびっしり着込んでいて銛を一切通さねえんです。だから網で引き上げるっきゃねぇ。外海にゃいねぇですよこんな怪物」

 イグナートと漁師の話は弾んでいたが、ハクの目は青褪めていた。

「た……食べれるの?」と漁師に尋ねると、

「ええ、鱗を落としてきっきり捌けば大丈夫です」ときっぱり漁師は断言した。

 イグナートは興味深そうに手にとって鱗をなぞりながら考え始めると、

「面白い。これを買うぞ」

「ちょっ……冗談でしょ!?」

 ハクの抗議の声は聞こえない。イグナートの頭の中は調理手順の構築で一杯になっていた、

 鱗に近い肉は有害性金属の含有率が高い。適切に捌かなくては中毒症状を起こすかもしれない。そうしないためには鱗をどう剥がすか、どう斬り込んでいくのが適切か。

「魚料理にしろと言ったのはお前だぞ」

「いや……でもぉ」

 呂律ろれつが回らなくなって、ハクは言い澱んでいたがイグナートの心はもう決まっていた。あまり自覚していなかったが難しい調理に挑戦するシチュエーションに燃えるものがあったらしい。

 どうせ時間は余っているのだから、慣れない食材と格闘してみるのも良いものだ。

「頼む。必ず美味しいものにして見せる」

「こんなの食べたら口の中血まみれよ。冗談じゃないわよ……ちなみに値段は」

「お代は結構でさ。お嬢には贔屓にしてもらっていますので」

「他の魚はないの?もっと普通に食べられそうなの。いや、別に嫌じゃないわよ?一応他のもないかなと思っただけ」

「これを貰っていく。次も来るからな」

「ありがとうございやす」

「いやあああ……」

 イグナートの抱える荷物に新しい木箱が追加された。

 本当に重い。まるで剣の束を渡されたかのような重量がイグナートの総身に伸し掛かった。

 信じられないような眼でイグナートを引き留めようと裾を掴むハクだったが、箱を盾にして視線を切った。バランスが崩れるから裾を掴むのはやめてほしい。

 しかめ面をしていると聞きたくない声が聞こえてきた。

「おや?貧民のイグナート君じゃないか」

 振り返ると学院の貴族様がぞろぞろと物見に来ていたのだ。

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