第六章 降臨 その4
ここは……どこだ?
影に飲まれた向こう側の世界。静けさを湛える湖の中心で、俺は仰向けに倒れていた。
見上げた空には優雅に満月が漂い、優しい光を俺に浴びせている。月は次第に西の水平線へと沈んでいき、東の空が明るんで太陽が昇ってきた。そんな恐ろしいまでの静寂の中で、弱々しい俺の心音が水面にさざ波を立てる。
現世じゃないな。幽世だ。
恐らく……衛境衆が神祖、峠守居の聖域だろう。
ところで肝心の御神祖の姿が見当たらないのだが、何処におわすことやら。
俺は一刻も早く現世に戻って、杏樹を助けないといけないんだ。見つかる前に、ここを脱出しないと。
『ははは。面白いことを言う。そのザマで、どう役に立つというのだ』
渋い男の声が耳朶を打つ。この声は……聴き間違えるはずもない。呪詛を唱えていたものと一緒だ。
姿を求めて視線を巡らせると、股下の水が隆起する。水面を割って黒い影が立ち昇り、俺に覆いかぶさるようにして見下ろしてきた。
巨大な鴉だ。鯨に比肩しうる体躯。夜よりも黒い羽根。ボッキリと折れた角。鋭い嘴には人間の歯がずらりと並び、三つある眼窩は目玉がくりぬかれて暗闇を湛えている。背骨がないみたいだな…鴉は今にも倒れそうな体をふにゃふにゃと揺らして、なんとか屹立いるのだった。
男の声が、頭の中で鳴り響く。
『欠けた体が気になるか? 角は『天御門』に奪われ、瞳は『ファミリア』なる宗徒に持ち去られた。背骨ならほれ。うぬが手にしているではないか』
俺が持っている? 言われて視線を落とすと、骨を組み合わせて作られた大錫杖が、膝元に置かれている。
第七沈鎮丸……? じゃあ……お前が……。
鴉は嘴を歪めて、にやぁと笑った。
『いかにも。わしが衛境衆が神祖、峠守居である』
なんで……? 生贄なんて、捧げていないのに……。
『はははは……贄姫を生贄にしては、儂との拝謁は叶わぬぞ? そうであろう。衛境は神祖、妖魔と、人をつなぐ存在なのだ。守るべき妖魔を贄に捧げるなど、言語道断ではないか』
じゃあ……騙したのか? 継承の儀を行うために、贄姫が生贄になる必要はないのか!? くだらない嘘で、杏樹の生き方を縛ったのか!?
『騙したとは、無知から出る言葉だなァ……贄姫の入れ墨を調べれば、いくらでも儂に拝謁する方法が見つかったはずだ。その智慧こそが、衛境衆を継ぐに相応しい素養というものだ』
峠守居が大きく身を屈めて、俺の鼻先に嘴を近づけた。虚ろな三つの眼窩が、じぃっと俺を注視する。
『お前は最も愚かな方法を選んだ。贄姫の責を引き受け、新たな贄姫と成ることで、儂の元へ送還される方法だ。これで拝謁を許すのは、己が身を犠牲に贄姫を救う心意気を買ってのことだ――だが……』
ツンっと、峠守居の嘴が俺の胸を突いた。
『見ておったぞたわけが。うぬは贄姫に守られて、儂の元へと引き出された。そのような愚図に衛境はやれんなァ……』
やかましいわボケガラス。お前らカルトの仲間入りをするのは、こっちから願い下げだよ。俺に用がないなら、現世に戻してくれ。まだ間に合う。杏樹を助けたいんだ。
泥のような体に力を込めて、必死で立とうとする。身体はうんともすんとも言わない。ただ湖の上で、細波を立てるだけだった。
『大口を叩く。今のお前が出向いても、何の助けにもならぬわ。大人しくここで贄姫となり、新たな後継者が現れるのを待つがいい』
おい……その新しい後継者は、杏樹を救ってくれるのか?
『無理に決まっておろう。こうして無駄話を重ねている間にも、現世では刻一刻と時が過ぎ去っていく。次の後継者がお前を見つけ出す頃には、今は昔の話になっておるわなぁ……』
なら……待てねぇなァ。それに……もう杏樹を待たせることもできねぇなァ。あいつは百年待った。そして俺が連れ出した。責任をもって解放しなけりゃ、神や仏もあったもんじゃねぇ。
仰向けに倒れていた身体を、死力を尽くしてうつ伏せにする。そのまま第七沈鎮丸を支えに、ゆっくりと上半身を起こした。
クソが。膝が笑って立ち上がってくれねぇ。笑わせるなら俺の方にしてくれよ。
『ほほぅ……現世で精も根も尽きた体、よう動かせるなぁ。だがホレ。もうどうにもならんのだ』
背中を尖った何かで突かれ、俺は再び湖に突っ伏した。峠守居の野郎が、嘴で突きやがったらしい。
邪魔するなよ。カルト野郎。
『ははははは。背骨のない儂にやられるようでは、アガルタに勝つなぞ夢もまた夢。ここで大人しゅうしとれ』
残された力をかき集めて、もう一度上半身を起こし、片膝をつく。すかさず背中を突かれ、俺はまた湖に転がされた。
『じき意識も途絶える。お前は座敷牢にて、儂と共に来たるべき日を待つのだ』
来たるべき日? それはいつだよ。
『衛境を継ぐに相応しいものが、現れる時だ。いつの日か、衛境衆の役目が必要となる時代が訪れる。その時に必ずや、儂に拝謁を願う益荒男が現れるであろう。それは今の現世のように、人と神祖の関係が途絶えた冷たき世界ではない。もっと世界が律で溢れた、温かき時代なのだ』
何を的外れなことを言ってるんだ。そもそもお前が杏樹の祈りに応えないから、こんなやべぇことになっているんだぞ?
ボケガラス。あんたずれてるよ。衛境衆が必要な時代は、今において他ならない。そんなことも分からない神様と、座敷牢で過ごすなんてごめんだね。
『ほほう? それはどういう意味だ? 申してみよ』
この事件での体験が、走馬灯のように脳裏を巡る。
この事件に関わって、痛感したことがある。
現世には、神社仏閣と座敷牢以外に、神格妖魔の居場所がない。
杏樹も、スカージも。拠り所さえあれば、居場所さえあれば、帰る場所さえあれば、虐げられずにまっとうに生きることができたはずなんだ。
他人の信条に縋ることなく、自分の信じるもののために。誰かに強要されることなく、自分のやりたいことを。妄想に耽ることなく、明日を生きることができるはずなんだ。
ひょっとしたらアガルタすらも、彼女の悲痛な祈りを聞き届ける神様がいたら、苦境を別つ仲間さえいれば、こんな馬鹿な真似をしなかったかもな。
だから――
鉛のような体を起こし、棒になった足で何とか立ち上がる。
「お……お……おおおおおおッッッ!」
杏樹を現世に連れ出した俺の責任だ。せめて杏樹の居場所だけは作りたい。そして杏樹の居場所を守るために、この命をかけたいんだ。
薄暗いクローゼットで息を殺して隠れるんじゃなくて、堂々と外に出て笑ってパフェを食って欲しいんだ。
そのための力になりたいんだ!
『いいだろう。お前に衛境をくれてやる』
峠守居が俺の頭越しに、顔を覗き込んできた。
あ? いきなり何を言いだすんだこのボケガラスは。テメェはお呼びじゃないんだ。とっととここを出ていくから、放っておいてくれ。
『奇異なことを。お前は拝謁を果たし、儂がお前を認めた。それ以上の理屈がいるか?』
だがな。俺はカルトが嫌いなんだ。邪教徒にはならねぇし、教祖なんてもっての他だ。いいからここを出してくれ。
『はははは……繰り返すが、その有様で現世に出ても、贄姫の厚意を無駄にするだけだ。それにな――』
峠守居が嘴を開き、舌で空を撫でながら笑った。
『正道を歩むことを誓った人間が、何故汚泥を進むことを恐れる? それは汚れることを恐れ、染まることを忌避しているからではないか? 正道を口にするだけで、歩む覚悟を持たぬからではないか?』
なんだと? つまり俺が教祖になりたくないのは、カルトに堕ちることを恐れているからだと言いたいのか?
俺は死んでもカルトにはならん!
『ならば臆することはない。儂の召喚で現世に出るのは、儂の身体で作られた呪物のみだ。そして衛境衆が復活したところで、その運営にいちいち口を出すほど無粋でもない。そもそも儂の意識は、律としてうぬの身体に埋まる。邪道に落ちたとしたら、それはうぬが汚れていただけのことだ』
峠守居の表情から笑みが消えて、暗い眼窩が俺を問い質してくる。
『決まっていないのは……うぬの覚悟ではないのか?』
俺は……ずっと退魔士になりたかった。
一人でも多くの人を助け、子供の頃に負けた恐怖に打ち勝ち、両親を目の前で奪われるような悔しい思いをしないためだ。
だがどうだ? 杏樹一人救えず、妖魔に堕ちるという恐怖に負けて、目の前で世界が壊されるのを見ているだけだ。
違うだろ。
俺が守りたいのは、つまらない意地じゃないだろ。
今まで生きてきた、自分が信じる全てのはずだ。
ならば何も恐れることは、ないはずだろう!?
『いいツラだ。慎之助を思い出す』
峠守居は笑うと、俺の背中に寄り添った。
『覚悟を決めたのであれば、呪詛を唱えよ。東昇西沈吾座不転。分かるか?』
ずっと思っていたけど……それはどういう意味だよ。
『月日がどれだけ過ぎようと、我が玉座は不動なり。東昇西沈吾座不転。東昇西沈吾座不転だ。さぁ如何にする? 衛境の後継者よ』
俺は。
俺は——ッ!
「東昇西沈吾座不転ッ!」
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