第六章 降臨 その3
場を支配する空気から緊張が抜けていき、肌を刺す違和感が消失する。アガルタの野郎……杏樹を殺すわけにはいかないから、結界を解きやがったな。
今なら俺でもアガルタに勝てるはずだ。もうちょっとだ。もうちょっとで杏樹を助けられる。俺の体よ……後で死ぬほど寝かせてやるから、今だけわがままを聞いてくれ!
俺の気勢に反して、体に満ちるのは虚脱感だけ。指ひとつ動いてくれず、もはや声すらも出なくなる。
情けねぇ。目の前に助けたい人がいるのに。情けねぇよ。何もできないなんて。
アガルタが銃口をゆっくりと持ち上げ、俺の頭に狙いを定めた。
「贄姫ちゃん。二度は言わないからよく聞いてね。ナイフを捨ててこっちにきなさい。じゃなきゃこのガキのドタマぶち抜くわよ」
おまけに、人質に取られるなんて。情けない。情けない。マジかよ俺。なんで泣いているんだよ。泣きたいのは不甲斐ない護衛を持った、杏樹の方だろうがよ。
「ほう……言葉を交わせたのを察するに、結界を解いたようだな。だがその前提で交渉をすれば、わたくしの面目が立たぬことは必至。さらにわたくしの望みが叶わぬのなら、御館様も死んだも同然である。衛境の役目を果たせず、御館様を死に追いやった失態、最後に残った命を捧げて報いるまでだ」
ナイフがさらに深く、杏樹の首に埋まった。もう軽く引くだけでも、頸動脈が切れる。
「待て! 待てって言ってんのよメスガキ! あんた……一体どうしたいのよ……」
「聞け、アガルタ。わたくしはマヨヒガの人柱であり、擁する妖怪様をお守りする使命を帯びている。よってわたくしが生贄に捧げられ、マヨヒガは潰れてしまっては、私の面目が立たぬのだ。そこでこの人柱を居守様へと譲らせて、その命を助けて頂けるなら、この身なぞお前にくれてやろう。如何にする。アガルタ!」
杏樹の凛とした声が、夜を支配する。
アガルタは視線を泳がせて逡巡した。奴としては結界を張り直して術を使いたいが、不審な動きをすれば自殺されるかもしれない。そして杏樹の条件を飲もうにも、マヨヒガ継承の儀にどんな副作用があるかわからない。そんなところで悩んでいるのだろう。
「正直に答えなさい。マヨヒガを渡しても、あなたの生贄としての力に影響はないの?」
「わたくしをお前如きと一緒にするな。御館様にマヨヒガをお渡ししても、わたくしの能力に一切の影響はない。まぁそれも……小物の術師がくだらぬ猜疑心で、全てを台無しにしなければの話だがな……」
杏樹は血の滴るナイフで、自らの首筋をそっと撫でた。
「チッ……わかったわ。好きに為さい」
杏樹は跳ねるように動いた。まず神堂の元に急ぎ足で駆け寄ると、その口に指を突っ込んでゲロを掻き出した。神堂は激しく咳込んで、喉にこびりついたカスを吐き出す。しかし気を保てるほどの体力も残っていないらしく、再び気絶してしまった。
「神堂様……どうかお許しください」
杏樹は神堂を芝生に寝かせて、次は俺の元に駆け寄ってくる。
頼むから来るな。無様ですまん。一人で逃げてくれ。胸の内で荒れ狂う様々な感情が言葉にならないまま、掠れた呼吸として吐き出される。
杏樹は俺の傍らで片膝をつき、芝生に投げ出された呪杖を拾い上げた。
「待ちなさい。第七沈鎮丸は捨てなさい」
アガルタがすかさず咎める。第七沈鎮丸が秘めるポテンシャルは、杏樹以外よくわかっていないのだ。当然の警戒だと言える。
杏樹は鼻で笑って、アガルタへの答えとした。
「面白いことを言う。これがなくてはお前の術中に落ちるであろうが。それとも何か? お前はわたくしを謀るつもりでいるのか? だとしたら、わたくしも危ない橋は渡れんな……」
杏樹は手の内でナイフをちらつかせ、アガルタを挑発した。
杏樹……アガルタを怒らせるな。何をされるかわからないんだぞ? アガルタは滾る怒りを鎮めようと、歯を食いしばり、拳をきつく握しめた。
「あんたさ。必要以上にグロテスクな方法で生贄にするけど……いい?」
「わたくしはお前と違って嘘はつかぬ。我が身なぞ好きにするがいいさ」
杏樹は言い捨てると、俺の上半身を抱き起した。潤んだ瞳が、俺のことをじっと見つめてくる。そのひたむきな視線に、どう応じていいか分からない。俺は唯一動く目をそらして、逃げてしまった。
すまん。勝てなかった。
って何弱気になっているんだ! ここで俺が挫けてどうする!
「おいたわしや……なんてこと……」
杏樹は俺の頬を優しく撫でて、振袖で顔の血を拭った。そして手当てをする素振りを見せながら、そっと俺の耳元で囁いた。
「御館様。よもやこれまで。せめて御館様の命だけは、救いとうございます。これよりわたくしのマヨヒガをお渡しし、御館様には贄姫の座を継いでいただきます。さすれば御館様はマヨヒガの座敷牢に送還され、アガルタの魔手よりその御命をお守りすることができるでしょう」
バカなことを言うな。そんなことをさせるために、今まで戦ってきたわけじゃない。
「あ……ッ……うッ……」
頼むから声ぐらい、まともに出てくれよ! 言葉の代わりに血を吐く口を、杏樹がそっと手のひらで塞いだ。
「もう良いのです。御館様がなさってくださったこと。この杏樹、一生忘れません。わたくしが望むことは、もはや御館様の無事だけにございます」
杏樹はふっと、頬を綻ばせて笑った。
「思えば大正の時代にて、わたくしは学生生活に未練を持たずに、先代様と戦って果てるべきでした。死ぬべき時を見失い、そぐわぬ世に目覚め、人々にいらぬ迷惑をかけてしまいました。申し訳ありません。わたくしにできることは、もうこれだけなのです」
頼む……死ぬなんて言いながら、悲しそうに笑わないでくれ。
いつの世だって……人間は……自由に生きる権利だけは持っているんだ。
それを守るのが俺の仕事だろうが! ここで何もできなかったら、クローゼットに籠っていたあの時と何も変わらねぇぞ!? このまま未練を残してくたばってたまるか!
神堂は助からねぇし、世界だって変わっちまう! 多くの人間が、生きる権利を奪われる!
「ウッ……アッ……うー……」
必死にもがく俺を、杏樹は痛ましく見つめた。
やがて彼女は舌をチロリと出すと、噛み切って血を滴らせた。血で赤く濡れた唇が、ゆっくりと迫ってくる。
冷たい感触が俺の唇を食み、差し出された舌が血を注ぎ込んできた。
口の中一杯に、血の味が広がる。考える間もなく視界が暗く染まっていき、四方八方から男が呪詛を唱える声が聞こえてきた。
『東昇西沈吾座不転、東昇西沈吾座不転』
まずい。マヨヒガ譲渡の儀式とやらが、始まりやがった。結界も張らず式もないのに、どうやって術式を発動させたんだ。視線を巡らせると第七沈鎮丸が微かに震え、俺の影が闇よりも色濃くなっていることに気づく。
第七沈鎮丸に術式が組み込まれていて、俺の影を結界に使ったか。このままだと……杏樹は一人で……。
『東昇西沈吾座不転、東昇西沈吾座不転』
男の呪詛に紛れるように、杏樹の声が聞こえた。
「さようなら。わたくしの素敵な殿方」
ずるり。まるで蟻地獄に身体を取られたかのように、身体が影の中に沈んでいく。
「この……メスガキ……やりやがったわね!」
アガルタの罵声が轟き、杏樹が殴られて芝生に倒れ込んだ。
やめろ! 杏樹に手を出すな! 俺のアホが! 達者なのは口だけかよ!
身体はどんどん影に埋まっていき、沈んだ皮膚から感覚が蒸発していく。
動け! 動けよ! またあの時と同じ過ちを繰り返すつもりか!
頼む――ッ!
俺の願いを聞き届ける神はなく。
身体は影に沈み切った。
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