第六章 降臨
工業地帯の周辺には、緑地という緩衝地帯が設けられる。工場が発する騒音から住民を保護し、万一事故が発生しても民間への被害を防ぐためだ。
工場側には防風林を兼ねた高木が植えられ、市街地に近づくにつれて低木へと変わっていく。この緑溢れる空間を遊ばせるにはもったいないということで、大抵は緑地内に休憩施設が設けられているのだ。
〇〇市の緑地も多分に漏れず、緑地内に開けた芝生を有していた。召喚の儀式にはおあつらえだ。
俺は防風林の中で、杏樹を振り返った。
「これからユグノーの召喚儀式を行う。まぁさっき説明した通り、そいつがお前さんを保護してくれるように交渉してくるよ。まだ話がどう転ぶかわからないから、杏樹はここに隠れていてくれ」
杏樹は柳眉を下げながら、こくりと頷いた。
「はい。居守様がそう仰せなら。決して邪魔にならぬようにいたします。どうかお気をつけてください……」
「第七沈鎮丸は持っていくよ。これがないと神堂が幻術にかかっちゃうからな。万一ユグノーと敵対したら……俺もできるだけ抵抗するし、杏樹の護衛を最後まで続けるつもりだ。それでも負けてしまったら……杖を諦めて逃げてくれるか?」
杏樹は唇を噛んで、しばらく黙り込んだ。おそらく第七沈鎮丸は、衛境衆に欠かせない呪物なのだろう。何もない座敷牢で、杏樹とこの杖だけが残されていたんだ。杏樹を封じる他にも、衛境復興に何らかの形でからんでいるに違いない。
「呪杖第七沈鎮丸は、我が神祖『峠守居』召喚の儀式に必要な呪物です……それがなくては、新しい御館様をお迎えすることはできません」
やっぱりか。困って額に手をやると、杏樹は落ち着いて付け加えた。
「ですが御神祖様を喚ばずとも、新しい御館様を迎えずとも、我がマヨヒガに囲う妖怪様たちはお守りできます。あなた様は命を賭して、わたくしを人として生かそうとして下さっています。なのにこれ以上何を求めましょうか。諦めましょう」
そういってもらえると助かる。
「すまんな……継ぐことを拒否った俺が言ったら腹が立つだろうけど……すまんな……」
「居守様が謝られることはなにもございません……時代が悪うございました。状況も悪うございました。その中で唯一巡り合えた、素晴らしき後継ぎ様を、どうして悪く言えるでしょうか。わたくしは幸せ者にございます」
本当にわからなくなってきた。俺が杏樹の身を守っているのか、それとも杏樹が俺のメンツを守っているのか。
どこか釈然としないわだかまりを心に残しながらも、時は無情にことを進めていく。
神堂が枝葉の揺れる音をたてながら、森の薄暗闇から出てきた。痩せたネズミを一匹つまんでいて、俺に見せつけるように高く掲げる。
「生贄の鼠を捕まえてきた。居守。行くぞ」
「ああ。じゃあ杏樹、影を切るから。しばらく耐えてくれ」
杏樹の足に絡みつく影を解くため、杖を操作しようとする。
「あの……居守様……」
杏樹の指が引き留めるように、杖ごと俺の手を握りしめた。遠慮がちに伏せられた視線が、上目遣いで俺の顔色を窺っている。
杏樹は少しの時間、口元を恥ずかしそうに動かすだけだった。やがて緋色の唇を割り、震える声で呟いた。
「もし……わたくしの身柄が、ユグノー様に預かってもらえるとして……その……」
杏樹は意を決し、真っ赤な顔を上げ、はっきりと言った。
「また……お会いできますか……?」
杏樹がユグノーの預かりになったら、一般人の身分で再開は叶わない。アンタッチャブルと市民では、住む世界が違うのだ。だから彼女と再び会うためには退魔士に――それもアンタッチャブル案件を抱えるような、精鋭にならないといけない。
でもきっと。いつか必ず。その霊峰がごとき壁を越えて。
「ああ。きっと会いに行くよ」
杏樹はほっとしたように微笑み、杖を掴む手から力を抜いていった。
「はい。楽しみにしております」
神堂が俺の背中を叩き、芝生を指で差す。
「行くぞカス。見ていて恥ずかしいんだよ。お前だけ死ね」
「神堂様。この取り計らいをして下さったのは、あなた様だと聞きました。仇敵である衛境のわたくしを、御身を顧みず助けてくださいありがとうございます。今までのご無礼をお許しください。どうかお気をつけて」
「ン……ババァの預かりになっても、定期的に連絡よこせよ? 途絶えたら弊意アリとみて、居守ととっ捕まえに行くからな」
杏樹が深々と頭を下げる。俺たちはそれを見送り代わりに、芝生へと出た。
月光の輝きの下、二人がかりで魔法陣を書き上げていく。
組み上げる術式は二つ。外側にアガルタの幻術結界から身を守る防護陣、内側にユグノーを呼び寄せる召喚陣だ。お互いの術式が干渉しないよう複雑な陣を描くことになるが、こうでもしないとアガルタの幻術にかかってしまう。
とりかかること、たっぷり十数分。メモ用紙二枚分の計算、術同士の干渉を打ち消す補助陣を付け加えて、ユグノー召喚の下準備が整った。まじめに授業受けておいて助かったぜ。
神堂は最後の仕事にと、捕まえた鼠の全身に呪詛を書き込んでいった。内容は生贄の耐久力を上げる術と、その感覚を引き上げる術だ。これらは杏樹の身体にも、入れ墨として彫り込まれている。
神堂は筆を走らせながら、ぼそりと呟いた。
「生贄は死ぬまでの瞬間に意味がある。生が死へと移り行く瞬間に、現世と幽世の境界が曖昧になることを利用するからだ」
鼠の身体に術式が組みあがると、神堂はナイフでその腹を縦に裂いた。「ぴきぃ」と哀れな生贄が鳴き、傷口から血と共に、はらわたがこぼれ落ちていった。
「現世よりも幽世にいる存在を呼ぶ場合、そして小さな妖魔より大きな神格を呼ぶ場合、より死ぬ瞬間を長引かせる必要がある。生贄が感じる苦痛が大きければ大きいほど召喚する力が強くなり、長ければ長いほど召喚が有効な時間が伸びるからだ」
神堂はこぼれ落ちた臓器をつまむと、指の腹で弄んでから潰す。手当たり次第に。死なない程度に。肺が潰れ、心臓は破裂し、肝臓も砕け散る。それでも術の効果で鼠は死ぬことを許されず、おぞましい悲鳴を上げ続けた。
あらかたの臓器を潰し終えると、ネズミは息も絶え絶えとなり、ひくひくと痙攣するだけだった。
「生贄はクソだ。あってはならない」
神堂の奴……ずっと様子がおかしいと思っていたが、生贄に特別な思い入れがあるみたいだ。そう吐き捨てた神堂の声色は引きつり、四肢は戦慄いていた。
「さっさと終わらせるぞ」
生贄が魔法陣の中央に置かれ、神堂は術式に手を置いて妖力を込めた。芝生に引かれたラインが淡く輝き、そのささやかな光は月明かりを吸って強まっていく。
「別たれた世界を越えて、我が愛を受け取り給え。これより道を開き、家へと案内仕る」
神堂の祝詞が、夜闇に吸い込まれていく。
「深き場所から古代の霧へ、我が目印を辿り給え。これより道を開き、家へと参ろうぞ」
ざわざわと防風林が、風以外の何かに揺れた。ビシリと空振が肌を叩き、召喚結界が張られたことを俺に伝える。
気が付くと、神堂以外の妖力を感じる。ただものじゃない。アガルタと比べても、遜色がないほどの鋭さがある。
つまりユグノーが召喚に応じたんだ。
来る。
光渦巻く魔法陣で、鼠がかん高い断末魔を上げる。切り裂かれた腹からは植物が芽吹き、凄まじい勢いで成長すると、朱色の花を咲かせた。
「ティル・ナ・ノーグ! 嗚呼! 古代の霧を越えて! ティル・ナ・ノーグ! 嗚呼! 我の元まで!」
花はその美しさに見惚れる間もなく枯れ、緑色の果実がなった。干からびていく鼠とは裏腹に、実は命を吸ってどんどん成長していく。やがて一メートルを超える球体になると、赤く熟した。
「ティル・ナ・ノーグ! 嗚呼! 古代の霧を越えて! ティル・ナ・ノーグ! 我の元まで!」
神堂が祝詞を終えると、赤い果実に縦の亀裂が入った。内側から人の指がかかり、割れ目を押し広げて誰かが出てくる。白い果肉の破片を振るい落としながら、赤い果汁の雫を滴らせて。
銀色の髪。チョコレート色の肌。頭からすっぽりと被った赤い外套。
月光に照らされた顔はサディスティックな笑みを浮かべており、俺たちを嗜めるように舌を鳴らしている。
「アガルタ……」
どういうことだ……俺たちが喚んだのは、ユグノーのはずだ! それがどうして……!?
神堂が裏切ったとは思えん。嘘すら恥じるような男だ。
幻術に対する防御結界に穴があったのか? だとしたら神堂が、敵意を剥き出しにしている訳がない。まともにアガルタの姿が見えているんだ。
じゃあ……一体……。
「びっくりさせた? フフ……召喚っていうのはね……面倒くさがりなのヨ。条件に合うならば、最も近い存在を喚び寄せる」
アガルタが果実から出ると、その体皮からモヤが上がった。さては……何らかの術を使いやがったな?
「私は世界一の幻術士よ? 自分の存在を誤認させるなんて朝飯前よ」
「何故……ユグノーを喚ぶと?」
神堂が呟く。アガルタにというよりは、俺に向けて。心配しなくても、お前とアガルタがグルだなんて、欠片も思っちゃいねぇよ。
「人類に手を貸す物好きなんて、ユグノーかグリッター、スピリットマンぐらいのものでしょ。ああ、ゼペットもいたわね。その中で生贄関係は、あのおばあちゃんしかいないじゃない。さて……」
アガルタの視線が、人を探して左右に振れた。やがて寒風が人気のない芝生を流れていくと、その鋭い眼光が俺たちを射抜いた。
「贄姫はどこかしら」
「とっくに逃がした。こちらは応援要請と囮を兼ねた陽動だ。かかったなカス」
神堂が即答する。だからお前のことは疑っていないって。早るな。落ち着け。
神堂の肩を叩くと、奴は深呼吸をして気を鎮める。そしてアガルタに見えない位置で、サムズアップした。
「アッハハァ! 下手な嘘ねェ……。死ぬ危険を冒して、応援を呼び、囮になる意味があって?」
「あるに決まってんだろ。俺たちなら、お前に勝てるからだよ」
今度は俺が即答する。神堂。お前となら誰が相手だろうと、負ける気がしない。
アガルタが心外そうに目を丸くして、忍び笑いを漏らした。
「可愛いわねぇ……昔を思い出すわ。チェリーボーイのガキが私を買うときねぇ、しわくちゃのドル札を握りしめて、今のあなたたちみたいに強がっていたものよ。ま、始まったら先にイっちゃうんだけどねぇ……」
何の話をしているんですかね? 変な妄想しちゃうからやめてください。
しかしアガルタの野郎、焦っている様子がまるでない。さては俺たちをナメて、追い詰めたと思っているな? いいだろう。吠え面かかせてやる。
俺と神堂は意気込みで前のめりになったが、アガルタは相手にしてくれない。召喚で生まれた植物に背中を預けたかと思うと、外套をめくり裏地のポケットを見せてきた。
「ちょっとお話ししない? 煙草吸うわね。撃たないでちょうだい」
アガルタは俺たちの返事を待たず、紙巻きタバコを取り出して口に咥えた。ライターで火をつけ、紫雲を吐き散らす。
煙が風に乗って、俺と神堂の鼻先をかすめていく。この女正気か? これから戦うのに、マリファナなんか吸いやがって。ラリっていても、勝てるとでも言いたいのか?
怪訝げな俺をよそに、アガルタは話し始めた。
「人間って勝手な物じゃない? 信じたいものを信じ、そのためにやりたいことをやって、当たり前になるよう広めようとする。自分の妄想が、少しでも現実になるように。まるでカルトみたいねぇ……」
その発言は邪教嫌いとして聞き捨てならない。俺たち退魔師は、カルトから一般人を守ることを誇りとしている。その言い方だと……つまるところ……。
「お前は人間もカルトも、変わらないと言いたいのか?」
「えぇ……同じも同じよぉ。術を使えようが使えまいが、そんなのは些細な違い。人は自らの欲望を、現実にするため生きている。結果他人が傷つこうとも、顧やしないんだから……私はね、そんな欲望の渦で生まれたのよ」
アガルタが外套をひるがえし、裸体を風に晒した。視線誘導だ。頭ではそうとわかっているが、ほんの一瞬とはいえ美しい肢体に視線を奪われてしまう。
そして気づいた。アガルタの身体に走る、無数の傷跡に。
一体……何をされたってんだ。裂傷、火傷、おいおいおい。銃創もいくつかある。特に酷いのは……両脇腹についた手術痕だ。あれはおそらく……避妊手術の――
「母が娼婦ならその子供も淫売だと、父は行きずりで愛もなく生まれたと、みんなが信じていた。淫売ならセックスが好きだと、何をしても許されると、みんなが群がった。私はその妄想を受け入れて、それが現実になった」
アガルタが風に逆らい、外套を纏い直す。
「ある日。私は首を絞められながら突っ込まれた。そのお客さんなかなかしぶとくてね、そいつより先に私の方が逝っちゃったのよ。その時に神の声を聞き、この力を手に入れた。面白かったわよぉ。壁に向かって腰を振り、シーツにむしゃぶりついていたんだから――おかげで私は助かったし、それから客の相手は幻覚にさせるようになった」
アガルタの余裕の笑みが、次第に強張っていく。
「でもねぇ……みんな幸せそうなの。本当に幸せそうなの。妄想が現実になったことで、喜びの表情を浮かべながら絶頂するの。素敵じゃなぁい。信じたいことを信じても、誰も傷つかない。やりたいことをやっても、誰も傷つかない。妄想が現実になっても、誰も傷つかないんだから……」
お前……そのツラは本当に素晴らしいと思ってねぇだろ。鏡を見せてやりたい。それしか救われる手段がないって、絶望に追いたてられねぇとできない顔をしてるぞ。
「だから……みんなが好きな幻想に溺れられる、そんな世界を作りたいと思った」
アガルタはすっかり短くなったタバコを、指で弾き捨てた。
「杏樹ちゃんだって、生贄になりたがっていたじゃない。彼女の望みが叶えば、あなたたちの望みも叶うわ。インカミ君は退魔師になる、チントウ君は邪教従の根絶だっけ? それが叶うのよ? どう? 大人しく贄姫を渡してくれない?」
返答を問うように、アガルタは顎でしゃくってきた。
答えなんか、とうの昔に決まっている。
俺と神堂は、顔を合わせる必要がなければ、言葉もを交わす必要もなかった。肩を並べて、一歩前へと進み出た。
神堂が右手にタウラス・ジャッジを構え、左手で太刀を抜いた。
「バチカン聖約制定以降、宗教は死後の世界を論じるものになった。徳を積めば各宗教が幽世に有する、天国へ行けるという具合にな。人間は術が使えなくても、生きることで死後の世界を……仕える神を選べるようになったんだよカス」
俺も右手に電磁警棒を持ち、左手でリボルバーを構えた。
「だからカルトという言葉が生まれた。自らの信条を押し付け、他人の信条を犯し、妄想を具現化して世界を壊そうとするからだ。人が真っ当に生きられず、神を選ぶことができなくなるからだ。限られた神による、独裁も実現するからだ」
「アガルタ、カス、コラ。お前の言う通りこの世はクソだ。欲の海の上に、死肉の大地が浮かび、その上で人々が嫉妬の太陽に焼かれ、苦痛の空気を吸い、虚しさで腹を満たしている。不平等や不運、不幸でいっぱいさ。それでも自分の信じるもののために、生きることができるんだ。それだけが全ての人間に許された、何者にも侵害されない権利なんだ」
「俺たちは退魔師だ。人々が生きる世界を守るため、世界を破壊する律と戦う」
アガルタは露骨に顔を顰めると、つまらなさそうにため息をついた。断りもなく外套をめくり上げ、ホルスターからスチェッキンを抜いた。
「あっそ。タマナシのガキめ」
交渉は決裂。杏樹を置いて逃げることはできず、アガルタを撒けるはずもない。
ここで決着だ。
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