第五章 幻想卿 その4
杏樹のえづきが収まるまで、優しく背中を撫で続ける。彼女は次第に落ち着きを取り戻し、恥ずかしそうに首を縮めた。
「杏樹。そこでゆっくりパフェでも食べてな。俺ちょっと神堂と話があるから」
神堂の奴、流石に勘が鋭いな。不穏な空気を察して、しかめっ面になりやがった。
杏樹が小さく頷くのを確認して、それでも袖を離さない指をやんわりとはずし、俺は通信機片手に神堂を連れて席を立った。
店全体を見渡せて、入ってくる人間をチェックできる場所が望ましい。その上で杏樹に影を伸ばさないといけないので、カフェ入口の角しかいい場所がなかった。
神堂と顔を突き合わせた状態で、小声で語りかける。
「お前。アンタッチャブルとのパイプは持っているか?」
神堂は口元に侮蔑の笑みを形作る。だけど目元はちっとも笑っていない。いわゆる、マジでキレる直前の顔つきになった。
「あのカスを呼んでどうするつもりだ?」
一介の退魔候補生ではどうにもならない。宗教組織もアテにできない。そもそもこの世界の法が、杏樹たちの存在を許さないんだ。
なら。法の外の住人に、頼るしかねぇだろう。
「杏樹を万能生贄だと知っても神祖召喚を行わず、保護してくれる人に心当たりはないか?」
「おい。俺がドタマぶち抜く前に黙れ」
神堂が俺を突き飛ばして顔を背ける。つるむのは初めてだが、付き合いは長いんだ。お前がそういう反応をするってことは――
「心当たりがあるな」
「やかましいぞ。あるからなんだ? テメェの話だとアンタッチャブルから、あの女を守ってるんだったよな? それを引き渡すとはどういう了見だ。アンタッチャブルが個人で社会秩序を破壊可能なのは知っているよな? 水爆に起爆装置の原爆を埋め込むようなもんだ。馬鹿な考えは捨てろ」
神堂はこれ以上話すことはないと言いたげに、俺の腕を掴んでテーブルに戻ろうとする。
まだ終わってねぇよ。足に力を込めて踏ん張り、神堂を留まらせた。
「もう……いいだろ」
「何がだ?」
神堂のイラついた声が耳朶を打つ。顔を頑なに見せようとしないのは、お前にも思うところがあるからだろ?
「杏樹を受け入れてくれる場所はどこにもない……ただ身体だけを狙われて、彷徨うしかないんだ。そんな彼女から、これ以上何を奪おうってんだ……もういいだろ?」
「いいだと? 何がいいというんだこのボケ。想像してみろ。神格妖魔が実在するこの世の中、世界はいつ砕け散ってもおかしくない薄氷の上で成り立っている。そして今にも崩れそうなクソみたいな現実を、少しでも美しくしようと人々が苦しみ悶えながら生きているんだ。『俺たち』退魔士の仕事は、この薄氷を分厚くすることだ。違うか? お前はその薄氷に、大きな亀裂を入れようとしてんだクソが」
「じゃあ……万能生贄の素質を持つだけで、杏樹はまっとうに生きることは許されないのか? 人並みに苦しんで、人並みに悶えて、その先にある生きる意味を知ることも許されないのか?」
神堂は「ボケが。毒されやがって」と吐き捨てると、俺の髪の毛を掴んで額をこすり合わせてきた。
「今は可哀そうに見える。あの女は時代についていけず、身の振り方がわからない。しょげかえるしかねぇわけだ。だが時が経つにつれて現状に満足できなくなり、次第に己の力を使って世界を変えようとするだろう。その時、お前は責任取れねぇだろカス。ン?」
「さっき聞いたろ? 杏樹はただ生きたいだけだ」
俺も神堂の肩を掴み、真正面から奴の鋭い視線に応える。
「何かありゃあ、俺が退魔士として出る。この手でカタを付ける。だから……もういいだろ……」
神堂は一歩も引かない。俺の髪を掴む手は緩まず、怒りに燃える瞳で言葉にできない感情をぶつけてくる。だけど、どうしてだよ。何でそんなに恥じているんだよ? 口元は今にも泣きだしそうに開いて、四肢は怯えで震えていた。
剣呑な空気を、通信機越しに感じたに違いない。倉敷がおもむろに声をあげる。
『神堂くんさ……あなたも了ちゃんや、杏樹ちゃんの気持ち、わかるはずだよ。だってあなたの妹——』
「倉敷! 黙れぇぇぇッッッ!」
神堂が絶叫する。いきなり俺の髪から手を離すと、通信機に食って掛かった。
「テメェッ……それ以上喋ったらッ……本気で殺すぞッ……」
マジかよ……あの神堂が、見るも耐えないほど取り乱している。奴はひとしきり吠え終わると、逃げるように通信機から顔を背け、所在なさげにその場を歩き回った。やがて好機の視線を向ける学生客へと歩み寄り、テーブルに置かれた水を一気に飲み干した。
「あ……あの……その飲み物……」
学生客が及び腰になりながら、神堂に話しかける。
神堂は俯いて、震える声で言った。
「申し訳ありません……すこし興奮して、みっともない真似をしました。失礼しました」
神堂……守るべき市民に対しては、礼儀正しいんだな。しかし学生客に影をつけていないので、神堂の言葉には幻術のフィルターがかかっている。罵声を浴びせられたのか、学生客は視線をそらして黙り込んでしまった。
神堂は深い、深いため息をついて、俺の元へ戻ってくる。そして顔を寄せて囁いた。
「ユグノーを知っているか?」
古き良き魔女——ユグノー。ケルト系神族の律を持つ、自然を操る術士だ。人類に非常に協力的で、世界の食糧事情に多大なる貢献をしていることで有名である。しかしながら農作物の改変による大飢饉を引き起こせるため、アンタッチャブルに選定された女性だ。
「ああ……ヨーロッパの人間だよな。間に合うのか?」
「瞬間移動が使える。それにあのババァも万能生贄だからな。神祖召喚なんてふざけた真似はしないし、杏樹にも親身になってくれるだろう。実際そういう人間を、何人か囲っている……」
それなら安心だ。
「どうやって連絡をつける」
「俺が召喚する。いくつか条件があるが、どれも簡単なものだ。小動物の生贄。樹木に囲まれた場所。そして月光だ。分かっているとは思うが、まだ受け入れてくれるかわからんぞ? 会って話をせんことにはな」
「十分だ。また別のコネを紹介してもらえるかもしれん。ここで腐るよりはるかにいい。よし。召喚場所だが、西の県境はエクソシストがいるし、南の山は杏樹が出てきたところだ。きっと抑えられている。倉敷。いいロケーションはないか?」
『はいはーい! この倉敷ちゃんにまっかせーなさーい! 東の海沿いに工業地帯があるんだけどさぁ、そこに緑地があるよ。森もあるし人目もないしで、召喚にはもってこいの場所だね~。マップにマーカーつけておくから、ささっとやっちゃお~! 善は急げだ出発しよー!』
倉敷の奴、神堂が心変わりを起こすのを警戒しているな。さっさと仕事にとりかからせたい様子だ。
俺も一刻も早く、杏樹を安全な場所に逃がしたい。だがあれだけ反対した神堂が、どうして意見を翻したのかだけは知っておくべきだ。裏切るような奴じゃないことはわかる。だが万一、世界を守るために恥を忍んでいるとしたら……さっき恥じていたのは、嘘をつくことだったのだとしたら……。
「聞かせてくれ。どうして協力してくれる気になった?」
いきなり神堂に胸倉を捕まれ、乱暴に揺さぶられる。そして拷問でも受けてけているかのような、奴の苦悶の表情が突き付けられた。
「お前ッ……お前がッ……そもそもお前がッ……テメェッ……!」
一体どうしたっていうんだよ。憎らしいほど冷静なお前らしくない。困惑したままされるがままになっていると、神堂は我に返ったように硬直する。
「神堂……?」
「……すまん。悪かった。自分の非を押し付けた」
神堂は俺の胸ぐらから、ゆっくりと、どこか口惜しそうに手を離した。
「高原のために、命がけで戦うことを氏神に誓う。だからもう……何も聞かないでくれ」
神堂はそのまま俺に背中を向けて、寂しそうに立ち尽くした。
『あの……大丈夫? 了ちゃんこればっかりは神堂君は悪くないの。だって……』
「倉敷。余計なことほざいたら、今からテメェを殺しに行く。脅しかどうか試してみるか? 死に方に注文を付けるなら今の内だぞ」
どうやら神堂は本気らしい。恐れ知らずの倉敷が、緊張に固唾を飲む音が聞こえた。
『わかった……もう何も言わない。私はアンタッチャブルに杏樹ちゃんを渡しても、責任を問われないように情報工作するから。了ちゃんと神堂君はやむえない事情があったから、アンタッチャブルに杏樹ちゃんを引き渡したって下地を整えておく』
カタカタと、通信機からキーをタップする音がする。
『天御門は第七次七次文明開化計画の資料で黙らせられる。退魔組織がバチカン聖約違反だなんて、それこそ笑えない冗談だから。クロイツは幻術で狂っているけど、了ちゃんたちが幻術にかかっていない事を突っ込まれたら危ない。アンタッチャブルとグルだったと責められる可能性があるの。万能生贄を引き渡すための、芝居を打ったってね』
確かに。そう言われるとぐうの音も出ない。嘘を正論として固めるには、真実を使う必要がある。
「何が必要だ?」
『今までのクロイツとの交戦記録を送ってちょうだい。スカージちゃんだっけ? 妖魔を洗脳して戦わせていたなら、杏樹ちゃんを預けるのをためらう理由になる。それとクロイツの奴ら、結構やんちゃしてるみたいじゃん。杏樹ちゃん裸にしたり、戦域を封鎖せず手榴弾使ったり、持ち出し禁止の武装使ったりと。でもまだ弱いから、あと一個ネタあったら嬉しいんだけど』
「すまんがそれぐらいだ。それで何とか――」
急にカフェの外が騒々しくなった。どうやらどっかの馬鹿が、近所迷惑も顧みず大音量で音楽を流しているらしい。いるんだよなぁ。人の多い昼間にやればいいのに、夜闇に隠れるようにして目立とうとする奴が。こっちはそれどころじゃないんだよ!
関わるだけ時間の無駄だ。無視しようと思ったが、騒音が次第に大きくなる。どうやら近づいてくるようで、その歌詞が聞き取れるようになってきた。
「……グローリグロリハレルーヤ! グローリグローリハレルーヤ!」
え……ちょっと待って。この曲ってもしかして。カフェの窓に速足で向かい、外の景色を眺める。俺の後を神堂が追い、杏樹も半分に減ったパフェを置いて駆け寄ってきた。
カフェの前にある商店街路を、一台のクライスラー・ジープがのろのろと走っている。窓は全てスモークガラスに取り替えられ、ルーフには機関銃を取り付けたリングマウントが搭載されている。うわぁ~……クロイツご自慢の武装車両だ。マジで持ってきたよ。
「清澄……パイセン……」
だから拘束してほしかったんだ。あの女……助手席で箱乗りをして、メガホン片手に喚き散らしてやがる。
「居守了出てきなさい! いるのはわかっています! 出てきて私と聖戦を行うのです!」
「せんぱぁい……私たち山を探すように言われたじゃないですかぁ~。こんなところで油売ってていいんですかぁ……」
メガホンは最大音量に設定されているらしく、運転する毒島の気弱な声を拾った。
「良いも何も! あの悪魔がほざいたことを忘れたのですか!? 悪魔は私のハメ撮りをばら撒くといったのですよ! 信者の皆様方に私のアヘ顔ダブルピースが晒されることがあってはなりません! 一年前のように、拡散される前に仕留めるのです!」
メガホンのスイッチ切れ。自分でばら撒いてるじゃねぇか。それとお前、一年前何しやがった。
「せんぱぁい……正直私付き合いきれませんよ……クロイツが秘密裏に持ち込んだ機関銃を勝手に使ってぇ……この武装車両も道交法違反満載で、警察に見つかったら終わりですよぉ……」
「お黙り! 勝てば神軍! 負ければ異教徒! 勝てばいいのですよ勝てば! あなたも他人事じゃないでしょ!? 通信機、閃光手榴弾、ナイフなどの装備を奪われたのですから! 審問会に召喚されたくなければ、突き進むほかないのです! さぁ居守了! 出てきなさい! さては臆したのですか!? この卑怯者!」
いや……あなた……このままだと勝っても破門、最悪逮捕だぞ? さすがに法律を破りすぎだ。
「うるせーぞ! 今何時だと思ってんだボケがぁ!」
ほら見ろ。一般市民からのお叱りが入った。
「うるさい!? 神の言葉を代理する、この私がうるさい!? 毒島! そこのウサギ小屋に横づけなさい! 主が何たるかをわからせてやります!」
「もう知らなーい……」
クライスラーが住宅街へと続く、路地の暗闇へと消えていく。ほどなくして、清澄と市民の言い争いが聞こえてきた。
清澄パイセン……なんて下品な言葉を吐くんだ……あなた同じ口で、主を讃えるのか……?
「居守。今の記録したぞ」
神堂が俺の肩を叩く。
『ばっちり。数え役満だね。このやらかしなら天御門と同じぐらいの弱みになるよ。じゃあ私、工作活動に入るから。二人とも気を付けてね』
倉敷の通信が途絶える。
「あ……あの方……本当に『くろいつ』の悪魔祓いですか……?」
杏樹は嫌悪の表情を浮かべながら、こだまする奇声に耐えかねて耳を塞いだ。
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