第五章 幻想卿 その3

 注文の品が届くまで、気の抜けた沈黙が俺たちを包み込む。そういや夕方の六時から、戦うか、逃げるか、ぶっ倒れるかしてたんだ。恐らくこれが、最後の休息となる。休めるだけ休まないと。

 重苦しい空気の中、杏樹が俺の袖をそっとつまんでくる。心細いのが震える指先から伝わってくるが、さっきから神堂がその仕草を目で咎めていた。

 わかっているよ……護衛と要人、退魔士と妖魔、その二人の距離が近すぎるってんだろ? 自分でも痛いほど……わかっているよ……。


「お待たせしましたー」

 数分後ウエイトレスが戻り、トレイから注文の品物を振り分けた。俺と神堂の前にはカツサンドが、杏樹の前には特大パフェが置かれる。

 男二人はカツサンドを取り、早速無言で頬張った。倉敷も小腹が空いたのか、通信機の向こうから麺を啜る音が聞こえてくる。

 杏樹は——豪勢なパフェに、目を白黒させていた。さもありなん。ペットボトルを超える丈長のグラスに、クリームやスポンジ、フルーツがこれでもかと押し込まれているんだ。さらに収まりきらないアイスクリームが、グラスの縁を超えてタワーを作り、冠代わりにプリンを頂いている。木造平屋を見て育った人間が、スカイツリーを見せられたようなものだ。


 杏樹はパフェに魂を吸われて、夢中で魅入っていた。やがて我に返ると、わたわたと身体を漁り始めた。

「お……お金……お金になるような物……」

「金はいいから。アイスが溶ける前に食いな」

 杏樹はごくりと音を立てて、生唾を飲み込んだ。

「これが……パフェーでございますか……?」

「そうだよ。下からカステラ、クリーム、おっこれクッキーも入っているんじゃないか?「スコーンだアホ」だそうだ。んでアイスクリームときて一番上に乗ってんのがプリンだ」


『おお~、ツルダカフェに入ったんだ。杏樹ちゃんそれロイヤルパフェっていうんだけど、パフェの良い所を全部ぶち込んでみたっていう、最高に頭の悪い商品なんだ。どんな感じ?』

「ど……どんな感じと仰られましても……圧巻という他には……すいません」

『あ。ごめん。感動の邪魔しちゃったかな? 逢った時に詳しく聞かせてね』

「はい。かしこまりました……あはぁ~……」


 杏樹が奇声染みた感嘆の声をあげながら、しげしげとパフェを眺めている。あまりに新鮮な反応をするものだから、俺と神堂の手が止まって、彼女の一挙手一投足に釘付けになった。

 杏樹がスプーンを手に取り、両手を合わせて「いただきます」と呟いた。差し出されたスプーンが震えつつ、プリンの一角を切り取る。一口大の塊が魅惑的に揺れながら、ゆっくりと杏樹の口元へと運ばれていった。


 さぁどういう反応をするんだ? 甘いものが珍しかった大正時代の人間が、大量破壊兵器並みの砂糖を口にしたんだ。そりゃすごい反応を見せてくれるに違いない。

 杏樹はぱくりとプリンを口にして、上品に口を当てて咀嚼した。おお。目をキラキラさせて、犬が甘えるような声を出しちゃってまぁ。ツイッターに上げたら千単位のいいねが貰えそうだ。

 食感が珍しかったのか、味わったことのない甘みに圧倒されているのか。杏樹はもにゅもにゅと口を動かして、プリンを大いに楽しんでいる。その子供じみた振る舞いが、普段の凛とした彼女とのギャップもあいまって、とても可愛らしく見えた。


 パフェを痛く気に入ったようだ。杏樹はスプーンを一旦置くとグラスを両手で包み込み、まじまじと熱い視線を注いだ。

 この後どうなるかは想像がつく。欲望に身を任せてがっつくんだろうなぁ。あんまり不躾に眺めるのも失礼だし、俺もさっさとカツサンドを食っちまうか。

 俺がカツサンドを咥えたのと、杏樹が顔をあげて辺りを見渡したのは、ほぼ同時だった。


 明らかに誰かを探していた。この感動を伝えたい誰かを、この喜びを分かち合いたい誰かを。瞳からは責務に追われる緊張が解けて、年相応の無邪気さで溢れている。宗教のしがらみ、時の悪戯、生まれ持った呪いに邪魔されない、彼女本来の笑みがあったのだ。

 しかし杏樹は笑みを向ける相手を見つけられず、視線は虚しく宙をさまよった。やがて自分の置かれている状況を思い出したのか、顔色を暗くして俯いてしまった。


「うぇっ」

 皮切りの嗚咽は鈍いものだったが、俺にとっては絹を裂くような叫びだった。俯く杏樹の顔から、雫がきらめきこぼれていく。両手で顔を覆って隠そうとしたが、頬を伝う涙までは隠せなかった。

「どうした……」

 カツサンドを放り出して、杏樹の背中をさする。

「お目汚しを失礼いたしました。どうかお忘れになってください」

「忘れろって……お前……」

「いえ。つまらぬことです。些細なことで、居守様の計画に支障をきたしてはなりませぬ。お許しを」


 きっと。俺は今日という一日を、ボケたジジィになっても忘れないだろう。

 だからいつか。思い出を振り返る日が来た時、後悔するのだけはごめんだ。

「つまらない事なんかじゃない。今決めているのは、杏樹のことなんだ。杏樹の将来と、幸せに関わることなんだ。だから……何か思うところがあるなら……正直に言ってくれ……」

 杏樹はひくっとしゃくりあげてから、浅い呼吸を繰り返して息を整えた。


「わたくし……贄姫となる前は、学校に通えることになっておりました。女の身で勉強できるなんて、夢のようでございまして……」

『当時、義務教育の尋常小学校から、女性の高等学校への就学率十五パーセント。確かに……夢のような話だね』

 倉敷がそっと解説を入れてくれる。

「それに素晴らしいお友達にも恵まれて……そのお友達が……パフェーをご馳走してくださると……そのことを思い出したら急に……」


 言葉が出ねぇ。その学校も、夢も、友達も、もうないんだ。杏樹だけが止まった時の中、一人取り残されているんだ。

「わたくし……勉強が楽しみで……それで素敵な殿方に出会って……それが叶わなくても先生になって……妖怪様と……人々をつなぐ存在に……う……うわぁあああああっ!」

 目覚めた世界で学校は無くなり、夢は朽ち果て、知る者はいない。全てを奪われ、死ぬのを待つ定めだけが待ち構えていたんだ。


 大丈夫なわけないだろうが。

 十六かそこらの女の子だぞ?

 大丈夫なわけ……ないだろうが。


 杏樹の背中をさする手のひらが、異様に冷たく感じられる。だってそうだろ。言葉で助けると言って、彼女の幸せになることはできていない。

『裏寒い世の中ではありませぬか?』

 その通りだ。杏樹の祈りを聞く神も、拠り所となる信仰も、この世には存在しない。

 もうだめだ。後で上に何言われようと知ったことか。

 乾いた笑みが口元に張り付く。これからやろうとしていることは、世界の宗教機関を敵に回すことになる。だが人の道としては、それが正しいはずだ。


 ああ。だから俺は、退魔士になれないんだろうなぁ。

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