第四章 100年の孤独 数時間の邂逅


 闇の中にいた。

 身動きの取れないクローゼットの中で、両手を口に当てて息を殺している。身体は凍えそうなほど冷たいのに、手のひらだけは吐息を押さえて異様に熱かった。

 クローゼットの薄い戸板を隔てた向こうで、両親が邪教徒に囲まれていている。二人とも満身創痍で、椅子に針金で縛り付けられている。拘束されるまで派手に抵抗していたんだ。身体を支える力すらなく、背もたれにぐったりと寄り掛かっていた。


 スカージのせいだな。死に際にこんな夢を見るなんて。

 親父はどこにでもいるサラリーマンで、おふくろは旦那より稼ぐキャリアウーマンってやつだったらしい。俺がそんなことすら理解できない小二の夜に、二人は襲われた。

 泣き叫びたかった。救いを求めたかった。助けに行きたかった。

 でもそれはできない。

 邪教徒どもの狙いは、無力な俺だったからだ。


 一人の邪教徒が、親父の顎を掴んで顔をあげさせた。

「息子はどこだ? 居場所を言え」

 親父は唇を結んで何も答えない。おふくろはさっきから静かだ。多分……もう……。

 邪教徒が銃把で親父の横っ面を殴りつける。血飛沫がクローゼットの戸に跳ねたらしく、タタッと軽い水音が響いた。

「答えろ」

 二度目の質問は、語気が強まっていた。親父も負けじと、首を左右に振ったのだった。


「おい。もう時間がない。じき天御門が来る」

「しかし生贄がないことには例の儀式は行えん。星辰の導きから、この機を逃すことはできん」

 一人の邪教徒が急かすと、別の一人が苛立ちを露に返す。

「こいつもそれを知っていて時間を引き延ばしているんだ。今日を逃しては次の星辰まで、十年も時を空けることになる。それはまずいぞ」

「我々は十年も待てんな。信者はもうここにいる全員を残すのみだし、無理をして天御門を刺激しすぎた。来たぞ……」


 家の外が騒々しい。やっと天御門が助けに来たのか。遅いお出ましだな。

 邪教徒たちは身を寄せ合って、何かを話し合っている。意見を交わし合うものの、腹の中ではどうするかは決まっていたらしい。互いの意思を確認し合って頷くと、親父へと向き直った。

「我らが神祖のために」

 ドン――っと短い銃声と主に、親父の頭が跳ね上がった。飛び散った血潮がクローゼットの戸にかかり、俺は思わず身じろぎしてしまった。


 邪教徒たちが一斉にクローゼットの方を見た。

「……なんだ? そこにいたのか」

 情けない。怒りよりも、悲しみよりも、恐怖を強く感じて震えることしかできなかった。

 邪教徒たちがクローゼットへと歩み寄ってくる。

一歩、カーペットを踏みしめ。もう一歩、血溜まりを踏みしだき。さらに一歩、クローゼット前の床板に乗る。

 戸に手がかけられたのか、クローゼットが軽く揺れた。恐ろしさのあまり、頭がおかしくなりそうだった。

 扉が小さく開けられ、隙間から月光が差し込んだ時だった。


「動くな! 天御門探索部だ!」

 数人の退魔士が部屋へと乗り込んでくると、邪教徒へと銃を構えた。間を置かず銃撃戦が始まり、目の前でカルトどもは駆逐されていった。


 記憶の追体験が終わり、意識が微睡みへと沈んでいく。

 それからどうなったっけ? ああ。身寄りをなくした俺は、天御門に保護されることとなったんだ。児童養護施設に行くのを断り、天御門に残ることを決めた。その時に誓ったんだ。


 俺は退魔士になる。復讐じゃない。


 俺のような目に合う人を、一人でも多く助けたい。俺が勝てなかった恐怖に、二度と負けないよう克服したい。そしてあの時助けられなかった命を、救えるほど強くなりたい。

 あの時捧げた悲痛な祈りに、応えられる奇跡になりたかったんだ。


 で? 俺は何をしているんだ? 微睡んでいる場合じゃないだろ。贄姫が生贄に捧げられたら、多くの命が失われることになるんだ。

 戦わなければ。

 意識が身体に戻っていく感覚がする。五感が息を吹き返し、肉体の重みを感じるようになってきた。身体はだるいが、痛みは嘘のように引いている。怪我したのが嘘みたいだ。


 どういう訳か、助かっちまったらしい。現場に駆け付けたクロイツが応急処置をしてくれたのか、それとも天御門が異変を察知して助けに来てくれたのか。どちらにしろ、ここはアガルタの結界内だ。これから拷問されるんだろうなァ。親父を見習って、沈黙を守って死ぬとするか。

 身体を見ると上半身だけ脱がされていて、鎖骨を冷たい夜風が撫でている。壁に背を預けて座っているみたいだが、柔らかくて暖かい何かに包まれている。布団……か? いや、座った状態で包まれているんだから、クッションなのかな? それにしては、妙に生々しい感触がするんだが。おいおいおい。背中から腹に回されているのは、白い女の腕じゃないか。


 まさか――

 恐る恐る首を巡らせると、耳の後ろに贄姫のほっとした顔があった。

「気付かれましたか?」

「お……おはようございます……」

 贄姫は着物の前をはだけて、俺に肌を密着させていた。人の間で妖気をやり取りする、交抱と呼ばれる儀式だ。道理であれだけ派手に暴れたのに、気力が充実しているわけだ。密着する背中は人肌以上の熱を帯びて、力が流れ込んでくるのを感じた。

「もう……大丈夫だ……」

 贄姫はこくりと頷くと、背後で衣服を纏い直す衣擦れの音がした。


「流石に交合はできず、添い寝にて妖力を渡させていただきました」

「しなくていい、しなくていい」

 交合つったらあれだぞ。交抱の上位にあるセックスで……俺はこの非常時に何を考えているんだ。

 つーかここどこだ? 床も壁も一面板張りになっていて、天井には豆電球すらぶら下がってない。室内を照らすのは、窓から差し込む柔らかい月光だけだ。古びた日本家屋のようだけど。


「ここはどこだ?」

「霊的要地の気配を感じましたので向かったところ、山の神をお祀りする社がございました。ここは人目につきにくいので、安心しておやすみいただけます。外ではくろいつが御館様を探し回っておりますので、しばらく身を潜めた方がよろしいかと思われます」

 神社か。荒れ方から見るに、管理をされていないみたいだな。神棚には御神体らしき大きな姿見が安置してあるが、妖気を欠片も感じない。超常存在が祀られているわけでもなさそうだ。


 俺は贄姫に背中を向けて、祀られている鏡の前まで歩いた。

「どうして俺を助けた? 逃げるチャンスだったのに……」

「逃げても無駄だからです。この社に神様か妖怪様が祀られておりましたら、あなた様を置いて姿をくらませたでしょう。しかしこの有様でしたので……この世界にわたくしが落ち着ける場所はないようでございます」

 贄姫はとても虚しそうな声色で続けた。

「世相も、常識も、時代も、何もかも変わってしまったようにございます。頼りの妖怪様のお姿はどこにも見当たりません。どうやら文明開化政策が完遂され、ほとんどが幽世へと送還されてしまったようにございますね」


「そうだ。昭和初期に文明開化政策が完了した。神格はほとんど封神されて、神社仏閣に安置されている。お前が言う妖怪の類は、宗教じゃないし信者も持たない。祀る訳にもいかないし、ほぼほぼ幽世に強制送還された。討ち漏らしがたまに出てきたりするが、ソッコーで天御門が対処する」

 鏡の前に立って、背中の傷を確認する。見事なものだ。手榴弾の破片は奇麗に取り除かれ、新しくはった皮膚が傷痕として残るだけだ。かなりレベルの高い現実改変系の術を使ったようだな。不本意だが、礼の一つは言わんと駄目だな。


 贄姫を振り返ると、彼女は初めて出会った時のように、三つ指をついて深く頭を下げていた。

 勘弁してくれ。急ぎ足で贄姫の元に駆け寄ると、脇の下に腕を入れて顔をあげさせた。贄姫は俺の腕に縋りついて、顔をあげようとはしなかった。

「ならば……ならばこそ。わたくしがマヨヒガに預かる妖怪様だけは、なんとしても守り抜かなければなりません。御館様。どうか考えを改め、衛境を継いではいただけないでしょうか? お願いいたします。衛境衆の新たな長となり、私を生贄に捧げ、御神祖を呼んでいただけないでしょうか?」


「俺は天御門だ。邪教を取り締まる側の人間で、世界秩序を守るのが仕事だ。妖魔に転ずるような不祥事を起こすわけにもいかないし、神格を召喚するなんてもってのほかだ。大体お前ら――衛境衆だっけ? どうして妖魔を匿う?」

 お願いだから「このトンチキは一体何を言いだしたのかしら?」みたいな顔をするのはやめて欲しい。俺からしたらおかしいのは、お前らカルトの方なんだぞ? これが百年のジェネレーションギャップか。

「神格、妖魔などの超常存在は、人に組みするよりも害なすことの方が多かったはずだ。人を神隠しに合わせたり、妖魔へと墜としたり、災害を引き起こしたり……そうして人心を惑わし、カルトを形成し、現実を変えようとする。人々が築き上げた日常を、一瞬にして破壊しちまうんだ」

 思い当たる節があっただろ? だから贄姫はきゅっと、唇を軽く食んだに違いない。畳みかけるようにして続ける。


「バチカン聖約では、今この現実を変えてはいけないとある。つまり人々が信仰すべき、有益で無害な神格が決まっているんだ。それ以外は幽世に送還してしまうのが一番だと思うが」

贄姫は頭から、俺の思想を否定しなかった。言葉を噛み砕き咀嚼して、深く理解するように何度も頷いて見せる。やがて清冽なため息を一つつき、前置きにした。

「それでは裏寒いではありませぬか……定められた神しか信じられぬ世の中など……奇跡を祈れぬ世の中など……」


 おおー。世界三大宗教どの神官が耳にしても、顔をしかめそうなお言葉だ。今いる神様じゃ不満だって言ってるんだからな。しかしお前が誠意を持って聞いてくれたからには、俺も頭ごなしに否定する気はない。近くの床に背中を預けて、顎でしゃくって先を促した。

「定められた神格様の教えから外れる神々は、全て邪教に類するのですか? その神格様に仕える妖怪様も、消し去らねばならないのですか? それらの超常存在に縋る人々たちは、迫害されてもいいのですか?」

「痛いところをついてくるな。だけど仕方のないことだろ。今では人類は物理法則による発展を遂げて、その力を背景に秩序を創り、世界中がつながって安寧を保っているんだ。何か一つが崩れでもしたら、人が大勢死ぬことになる」


 ちょっと嫌な記憶を思い出して、表情が歪むのを感じる。これは胸に留めておかず、贄姫にも知っておいてもらった方が良いな。

「お前は知らないことだと思うけど、現代で神格を呼ぶのは大変なことなんだぞ。アフリカではテロリストが旧神を呼び出した結果、認識が狂って数万人がなくなる戦争が起こった。アメリカでは呪術で、過去が書き換わってしまった事もある。日本でも邪教が知識層を狂わせて、凄まじい毒ガスを散布する事件もあった。伊達や酔狂でカルトに分類されているわけじゃないんだ」


「お言葉を返すようで誠に恐縮でございますが、わたくしの時代でも痛ましい事件はございました。生贄により将来を奪われし子供もいれば、神の怒りによって飢饉に見舞われた集落もございます。『くろいつ』と『いしゅめいる』も信仰する神様を巡って争い、たくさんの血が流れました」

「つまり……被害の程度は今も昔も変わらないと?」

「そんな乱暴を申すつもりはありません。ただ……争いの切っ掛けは、人間側にあることがほとんどでございます。静まる御霊に無礼を働き、邪神へと変えた事例は少なくありません。自らの宗教を過大解釈し、異教の神を隷属させることもありました。果てには神の眷属たる妖怪様を、私利私欲のために支配する不届き者もいる始末です」


 まぁ……それは一理ある。神格と呼ばれる存在はほとんどが自我を持たない、完全な律の塊であることが多い。神にアクセスするためには精神を同調させる必要があるのだが、その精神に至る手法として教義が作られ、宗教となっていくわけである。人間側の勝手な解釈で神格が邪なものになることもあれば、他の神々を教義に取り込んでその在り方を捻じ曲げることもある。そして神格が持つ律を受けた妖魔を、奴隷にして世界を改変するような輩もいる。

「祈りの届く場所に神様が、居てはならぬ道理はございませぬ。手の届く場所に妖怪様が、居てはならぬ道理もございませぬ。道に迷った人々に、救いの手を差し伸べるのが宗教にございます。なればこそ我々衛境衆が間を取り持ち、現世と幽世の均衡を保つのでございます」


 贄姫は俺の反応を窺うように、ちらとこちらを見上げた。

「選ばれた神が、限られた思想で、冷たい世界を形作る。これほど裏寒いことはないと思います。祈りを絶やし、望みを絶ち、ただただ受け入れがたき現実だけを押し付ける。それこそが御館様の仰られる、カルトではございませぬか?」

「なるほど。衛境衆の存在意義はわかったよ……だが妖怪の類はほぼ世界にはいない。そして物理法則の信仰は、世界全体に受け入れられている。もう超常存在が入り込む余地はないし、その存在は世を乱す害でしかない。お前の主張は受け入れられない」


 ここで贄姫はゆっくりとだが、自分の気持ちを伝えるためにかきっぱりと首を振った。

「スカージを見ました……彼女は忘れ去られし神様の律を受けた、妖魔だとお見受けできます。しかしながら彼女は神がいないがゆえに迫害され、『くろいつ』の教義に取り込まれ、そしてその私利私欲のために使われているように思えます」

 この子……俺なんかよりはるかに賢いんじゃないか? たった数時間ぶらついただけで、現在の宗教界に潜む闇を見抜いてやがる。

「それは……な。反論はできないよ。スカージは北欧系の古い神様の律を持っているみたいだな。たまにいるんだよ。先祖が信仰していた律が、隔世遺伝で発現する人間が」


「何となれば、彼女を助ける神様が、拠り所となる信仰が、生きる目的が必要ではありませぬか? 我々衛境衆はそのためにも忘れられし神格を祀り、行き場をなくした妖怪様たちを保護しているのでござりまする」

 贄姫が俺の縋る力を強めた。

「衛境が甦れば彼女の後ろ盾となり、まっとうに生きて頂くことができるのです。御館様。どうかご一考を」

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