第三章 忘れ去られし神々

 太陽が地平線の彼方に沈み、夜の帳が空に降りた。町は街灯の光で包み込まれ、柔らかな月の光は届いてこない。

 俺たちが潜む、商店街の路地裏を除いては。


 俺は贄姫の肩を抱きながら、電柱の影で上がった息を整えていた。

 クロイツの宗教施設に逃げ込めない以上、人目につかない場所で機を窺う他はない。苔むしたブロック塀で区切られた空間には、湿った臭いが充満している。肺に入り込むかび臭い空気が、胸に溜まった不安をより重苦しくした。


 街に逃げ込んだはいいものも、クロイツは包囲網を敷いたに違いない。ここから逃げ出すのは、相当に骨が折れそうだ。

 大通りから聞こえる喧騒に、神経をとがらせてみる。

「あ~! 今日は残業もなく上がれたぁ」「やだよアタシィ。来週試験なのにぃ」「モヒートを出す店は見つかったか?」「今日はカミさんにも許可もらったんだ。早いけど酒飲みに行こうぜ」「え~……あそこのゲーセン設定渋いじゃーん」「モヒートを出す店は見つかったか?」「いや。まだ見つからない。ここでは店を出していないのかもしれない」


 飛び交う会話を聞き集めていると、同じ声が同じ話を繰り返している。贄姫がモヒートで、俺が店ってところか。『ここで店を出していない』と思ったなら、もう少し待てば離れるかもしれない。

 それにしても……。

「思ったよりエクソシストの展開が速い。街を巡回しているってことは、主要道路の封鎖は済んだってことか……」

 警察の姿が見当たらず、他の宗教組織の妖気も感じられない。クロイツはこの件を内々に処理することを決定したようだな。メンツが半分、勢力が入り乱れて収集がつかなくなるのを恐れたのが半分と言ったところか。


「統率の高さからして、中枢はまともに機能している。洗脳じゃ集団行動に齟齬が出る。こりゃ幻術を使って、俺を犯罪者に認識改変したに違いない」

 さっさとお暇したいが、ノコノコ道路や駅に出たら抑えられる。下水を通って逃げようにも地図がない。

「交戦してクロイツの包囲網を崩し、隙を作って脱出するしかないな……」

 使える武器と言えば、贄姫から回収した第七沈鎮丸と、古めかしいリボルバー一丁。ああ。どさくさに紛れて毒島から失敬した、閃光手榴弾も二個ある。

 リボルバーは封神弾を撃っちまったから、落憑弾しか残ってないけど——ってマジか? いつの間にかアンダーバレルに、散弾が装填されていやがる。どうやらこいつも呪物らしい。


 説明を求めて贄姫を睨むと、彼女はおどおどと肩をすくめた。

「その銃は先代様がお使いになっていた、落憑拳銃にございます……イッポンダタラの赤城様がお作りになり、拳銃弾は六秒ごとに一発、散弾は六十秒ごとに装填されます……」

「いったい何者なんだよ……衛境衆って……」

「わたくしは衛境衆復興のための生贄にすぎません。詳しくは跡を継いで、衛境衆に参加する妖怪様方にお尋ねになられた方がよろしいかと」

「それだけはごめんこうむる。俺は死んでもカルトにはならん」

「え……あの……」


 しかし第七沈鎮丸……えらい呪物だ。杖に触れた者はもちろん、影響を受けた人物の影にも、落憑効果があるらしい。おまけに影は操作可能ときた。

 術士に落憑弾を撃ち込まないとできない結界の無効化が、杖で殴るか影で縛るかでできてしまうのだ。

「教官に教わった通りならば、術士同士の戦いは結界の削り合いだ。この杖なら近づきさえすれば、問答無用で無力化できてしまう。リボルバーは相手の術に撃ち込んで、近づき易くするための武装か……」

 デメリットとして杖に触れている使用者も結界を張れなくなってしまうが、もともと術を使えない俺にとっては大した問題にはならない。それに贄姫を影で縛っておけば、アガルタの幻術から守れる。実際、今まさに贄姫の足首には、俺の影が蛇のように巻き付いていた。


「何とかなるかもしれん……」

 とにかく情報が欲しい。後方支援がいる。脳裏に倉敷のイカれた笑顔が思い浮かぶ。この時間なら風呂と飯を終えて、ベットで寝転がっているはずだ。

 贄姫に杖を預かってもらうと、毒島から奪った通信機を操作した。俺の身元が割れたなら、天御門の端末はマークされているだろう。

 アガルタが街全体に結界を張り、天御門の執行機関に幻術を用いた可能性があるため、応援要請するわけにはいかない。下手すればアガルタ側の戦力に加わることになる。倉敷を巻き込むわけにもいかない。あいつ俺が泣き言を漏らしたら、すっ飛んできてこの街のインフラを破壊するかもしれんからな。

「こっちのことは伏せて……情報だけ渡してもらうか」


「あの……第七沈鎮丸は御館様が持つべきでございます……」

 周波数を合わせていると、贄姫がおずおずと声をかけてきた。

「俺は御館様とやらになるつもりはない。ちょっと電話するから杖はお前が持っていてくれ」

「あの……あなた様は衛境衆を継ぐために、わたくしを呼び覚ましたのではないのですか……?」

「ッたりめぇだ。巻き込まれたんだよちくしょう」

「継いで下さらないのであればでは……わたくしはこれから……どうなるのですか……?」

「お前さんの時代ならいざ知らず、現代ではバチカン聖約が成立した。無暗に神祖復活はできないの。天御門に保護、収容してもらうから、それまで辛抱してくれ」


「先ほどから天御門と仰ってますが、あなた様は天御門の術士なのですか?」

「そうだよ。天御門の見習いだ。っと……」

 通信機の設定が終わり、コール音が鳴り響く。指先で地面を叩きながら、相手の応答をじっと待った。

『はろー。端末情報からすると、クロイツ教のエクソシストさんだね? なぁに? 天御門の情報が欲しいの? それとも身内のクソ野郎を売りたいの? どっち?』

 倉敷ちゃんトばしてるなぁ。黙って聞いていたら、とんでもない爆弾を掘り起こしちまいそうだ。


「あー……今職務中だから名前は呼ぶなよ? 俺だ」

『ふぇっ? まさか……ああー! ミスター・ヒーローねミスター・ヒーロー。どうしたの……ってまさか! マジで天御門やめてクロイツ教に行ったの!? ちょっとそれならそうと早くいってよぉー。私もクソ御門やめてそっち行くからさぁ! やっぱ部門は異端審問会? ひょっとして奇跡認定庁はいれちゃった口かなぁ!? 私はコネあるから情報部に行くね。そうしたら二人で邪教徒と戦えるじゃないやっだもー! 神堂君をこき下ろすネタ探さなくてよかったのに無駄しちゃったー』

「神堂君は何も悪くないから……それ以上虐めるのはやめてあげてください」

『エクソシストの端末使っているってことは、会って話してるんでしょ? まだ迷ってる段階かな? それとも何? 不利な条件突き付けられて困ってるの? ふざけんなよ公式カルト! 私のミスター・ヒーローを虐めるなんて許さねぇ! そいつの名前教えて! 弱みの一つや二つすぐに見つけてみせるから!』


「そういう問題じゃなくてだね……うん。一つ頼みごとがあるんだ」

『え……? なに……急に改まって……まさか……』

 気まずい沈黙が二人の間を流れていく。

「どうしたの? 急に黙らないで? 不安になるから」

『退魔士は諦めて一般人に戻るけど……独りは怖いから私と一緒に天御門を出ようって……コト……?』

「違いますよ? 話を聞いてね」

『私……保育士免許もってるんだぁ……それもいいカモねぇ。そういえばお料理系の免許ってまだとってなかったなぁ……これを機に手を出してみるのもいいカモ。ああ~、寮を出ないといけないから、住むところも探さなきゃ』


「おーい……もしもし? 聞いていますかぁ~?」

『それで……いつ退学届出すの? それに私も合わせるから、二人で一緒に提出しようよ……』

 俺は幻術にかからないし、お前は距離的にかかりっこない。

「話を聞け! お前だけが頼りなんだぞ!?」

『そ。わかった。午後から姿が見えないから、また幻術関係の仕事に引っ張り出されたと思ってたんだけど。なんかトラブったの?』

「要点だけ言うぞ『かぁんこれ!』ソシャゲ起動したところ悪いが落としてくれ。大事な話なんだ」


 ベットから身体を起こす衣擦れの音と、ノートパソコンを開く物音が耳朶を打った。

『あら? マジでやばそうだね。話してみ?』

「〇〇市のマップを送ってくれ。下水、地下鉄、林道、使えそうなものは全部頼む。あと現地のクロイツ教が所有している建物に、印もつけておいてくれ」

『え……ミスター? 一体何してるの……?』

「なぁに。ちょっと任務で外に出ているんだけどな、俺の案件とは別にトラブルがあったみたいなんだ。んでクロイツの端末を拾ったんだけど、天御門に濡れ衣着せられたらいやだろ? だから管轄の施設に端末おいて、さっさと逃げようと思ってる」

『そんなのほっておけばいーじゃん。危ない事しないで帰ってきなよ』

「そういう訳にも行かん……邪教がらみらしくてな。俺が邪教嫌いなの知ってるだろ?」


 数秒。倉敷が黙りこくった。やっぱ怪しまれたか?

『ふぅん……まぁいいけど。送り先はそのデバイスでいい?』

「ああ。そうしてくれ」

 怪しいと分かっていて、協力してくれるか。お前はマジでいい女だよ。

 パチパチとキーボードを叩く音がして、ファイルが送られてくる。これで多少は状況がマシになった。地図に目を走らせながら、もう一つ聞きたいことがあるのを思い出した。


「なぁ……それと衛境衆って宗教団体について調べてくれないか? 発祥は不明だが、恐らく國譲り前から。神祖は峠守居。神道系。断絶は大正だと推測できる」

『それはミスターのお人好し行為と、何の関係があるのかなぁ? 余計なことに顔突っ込まないで、大人しく帰ってきなさい。國譲り前の古神道なんて、明らかに強力な宗教じゃん。私やだよ。ミスターが危ない目に合うのに手を貸すのは』 

 最もなご意見であり、後方支援者として理想的な提言である。あまり突っ込んだら拒否られそうだが、護衛対象のことは知っておきたい。


「クロイツと揉めてる邪教なんだが、どうやら天御門と関係があるみたいなんだ。うまく調べれば手柄になるし、探索部に入る足掛かりになるかもしれない。だから頼むよ」

 言い訳は慣れている。だけど嘘をつくのは辛い。俺を信じてくれている、倉敷が相手ならなおさらだ。自ずと声が震えて、発音が怪しくなった。

 倉敷は俺の感情の揺れを、どう取ったのかわからない。ただ深いため息をつくと、先ほどの陰鬱な口調とは打って変わって、からりと明るい声で言った。


『学食の新メニューでさぁ、新しくパフェ出るんだってぇ! ちゃんと帰ってそれおごるんだよぉ? それなら引き受けたげる』

「オーケーオーケー。パフェだな? 好きなだけトッピングつければいいぞ」

「ぱ……ふぇ……ー?」

 贄姫。何で反応したかわからないが、今は黙っていてくれ。幸い今回は聞き逃してくれたようだが、倉敷は女の声を聴くとヒステリーを起こすからな。

『やりぃ。約束だよぉ? じゃあ調べてくるから一回通信切るね。次の連絡はどうする?』

「資料だけ送ってくれりゃあそれでいいよ。今は何時だっけか——っと……八時ね」


 空を見上げると、真円に近い月が優雅に浮いている。今宵は満月。我らが天御門の妖力が、減界以上に増す日でもある。反対にクロイツは、満月の夜は妖力が減退する。

 月が満ちるのを待つか。受け取った情報を元に、漸減戦を挑むか陽動を仕掛けるか決めよう。

「二時間でできるだけ情報を頼む。時間を過ぎても応答がなかったら、この件は忘れてくれ」

『あー……今日は満月か。やっぱただ事じゃないねぇ。ま、私はいい女だから、一度決めた事を翻したりしないけどね。やっぱトラブルじゃん! 了ちゃんの意地悪ッ!』

 気づかれたか。だけどお前は約束を破らない人間だっていうのはわかっている。

「パフェを注文するとき、うんと俺を困らせてくれや」


 ブツリと通信が途切れて、俺は一息をついた。

 二時間耐えるのはそう難しくない。俺は結界を張れないし、贄姫は第七沈鎮丸を握っている。互いに妖気を出せないから、奴らも地道に探すしかない。息を潜めているだけで、ぐっと見つかる可能性は減る。


 クロイツの通信を傍受していたから、奴らの動きは大体想像がつく。最初にクロイツ教の施設に逃げ込んでいないか確認し、街から出られないように封鎖。それから情報を共有して体制を整え、大通りに警邏を送り出したのが現段階だ。次の指令は出ていないが、おそらく路地裏や廃墟なんかを徹底的に調べてくるに違いない。

「ここは大通り近くの路地裏だ。自由に動けるうちに、脱出に適した場所を移ったほうがいい。贄姫。移動するぞ」


 それにしても妙に静かだな。頼んでもないのに、『御館様』と返事してくれそうなものなんだが。

「贄姫? 場所を移るぞ……って。贄姫? 贄姫!?」

 顔をあげて視線を巡らせると、贄姫の姿が忽然と消えている。排水溝を汚水が滴る音が虚しく響き、生ごみのすえた臭いが鼻をつく。その中に俺だけが、アホみたいに突っ立っている。


 ひょっとして……逃げたってやつですか?

「大人しいからって油断しすぎた……」

 落ち込んでる暇はねぇ。贄姫が捕まったら試合終了だ。アガルタはクロイツ教を盾にして、神祖降臨の儀式を行う。エクソシストの包囲から、彼女を奪還する力は俺にない。

 世界が変わっちまう。

「ちきしょぉぉぉぉッッッ!」

 月明りが照らす暗い道のりを、絶叫しながら走りだした。

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