第30話 なつみの回想#3
それから大学を中退し、三年ほどした頃、私は〝彼〟と会った。
病院の廊下。私は一人で車椅子を引いていた時、前からすれ違う男性の人に声をかけられた。
「すみません! 僕と付き合ってくれませんか!」
「……は?」
それはまさに唐突だった。風を切って頭を振りかぶる勢いに、つい後退してしまう。私の目の前で九十度に体を折り曲げ、右手を差し出している。
「えっと……私ですか?」
「はい。まごうことなきあなたです。一目惚れしました!」
わけがわからない。突然すぎて出来事に頭がついていけない。少しの間、思考という硬直を強いられた。
(まさかナンパなのかな。いや、ナンパにしてはど直球の告白だったし。ほ、本当に告白なの⁉)
当然、私には告白されたこともなければしたこともない。なんなら異性に恋愛感情すら抱いたことがない。だから私なんかと会った瞬間に求愛する事実が、とても信じられなかった。
でも私はこの男を知らないし、正直に言うと服装が絶望的に合わなさすぎる。
「すみません。私急いでいるので」
「あ、名乗ってませんでしたね。僕は山代辰樹と言います。よければこの後お茶でもどうですか?」
「けっこうです! 通報しますよ!」
あまりにしつこく迫ってくるので、つい強めの口調で返してしまった。私には彼氏ができても付き合っている時間がないのだ。それに、姉たちに現を抜かしていると知られればたまったものではない。
そのまま男の横を通り抜けようとしたが、背後から聞きなじみのある声が聞こえた。
「あら、いいじゃない。まさか妹に惚れる男がいるなんてね」
「――⁉」
振り向くと、そこには姉がいた。腕を組みながら壁に寄りかかり、面白いおもちゃでも見つけたかのように、ニヤついた表情でこちらを見ていた。
「あなたはこの方のお姉さんであられますか?」
「そうよ。見たところ……あなたのファッションセンスは皆無だということがわかった」
なぜか姉はその男に興味津々の様子だった。ただ、随分と男と遊んでいる姉にしては、この男にそこまで食い付かない。
(もしかして私と無理やりくっつかせようとしている?)
「まあでもあなた、良い目してるじゃない。なにせ私の妹なんだから。それであんた。どうせロクにすることもないなら、一度お見合いでもしてみれば?」
嘲笑交じりの発言に、私はつい歯軋りしてしまう。この場でもそれを言うか、と姉を心の中で睨む。
しかしこの男は姉の言葉の真意に気が付きもせず、目を輝かせてきた。
「しましょうよ! 僕はあなたのことをもっと知りたいです! 車もありますし、近場の喫茶店にでも行きましょう」
「え、ええ……、じゃあちょっとだけ」
どうせここで断っても私にやることが決まっていないのだ。少しだけ羽を休めようと思い、妥協に妥協を重ねて首を縦に振った。
その後、私は男と一緒に病院の一階にある喫茶店に入った。さすがに知りもしない男の車に乗りはしない。ちなみに姉は私たちの姿を見送った後で颯爽と帰ってしまった。どうせ母と妹に吹聴するのだろう。
男は車椅子の私に配慮してか、移動中ずっと私を先導する立ち位置で歩いていた。意外と器用だなと思ってしまう。
私はカフェラテを、男は普通のコーヒーの他にサンドイッチやホットサンドを頼んだ。昼食がまだなのだろう。机を挟んで向かい合った状態で、男はようやく話を切り出した。
「じゃあ軽く自己紹介でもしますか。はじめまして。僕は山代辰樹と言います」
「こちらこそ。天堂なつみです」
「なつみさんかあ、綺麗な名前ですね! 綺麗と言えばなつみさん自身も、とても清楚で魅力的な方ですよ」
山代と言ったか……。山代に対する評価が私の中で数段下がった。これは紛れもなくセクハラだからだ。いきなり外見を褒めるのはあまりによろしくない。それにいきなり下の名前で呼ぶのかと、若干引いてしまったほどだ。そんな軽率な態度は、相手を舐めているようにも思えてしまう。
というのは顔に出さず、私はある程度常識的な立ち振る舞いを装う。
「そんな、恐縮です」
「本当に二次元のキャラみたいに整った顔立ちで、目も大きくて」
「そんな、恐縮で…………え?」
今なんて言った? 二次元? キャラ? きっと聞き間違いかな。
「ああ、すみません。僕実はゲームが好きで。よくギャルゲーとかやってるんです」
あ、ゲームはさすがにわかる。でもなに? ギャルゲー?
山代の発言にいくつもの疑問点が生じてしまうが、彼はこちらの様子に構わず、一向に喋る。
「ああ、ギャルゲーといっても堅実にストーリーを楽しむ派でして、キャラとかパッケージで判別せずにやるのが僕流でして。最近は『キモオタ』とかいうネットスラングが流行ってますけど、全然そういうのじゃなくてですね」
「す、すみません。ちょっとよく分からないです」
熱い舌を振るうように一方的に話す山代に、困った表情を見せて止めさせた。純粋にゲームが好きなんだなと思うと同時に、この人は集中しすぎると視野が狭くなるのだと感じた。
山代ははっと気づき、机に何度も頭をぶつけて謝る。
「ごめんなさい! ごめんなさい! なんだろうな、ちょっと緊張してるのかもしれません」
「気にしないでください。大丈夫ですよ」
なんだろう。さっきまでの彼と何かがズレてる気がする。多少気になる程度のことだったので、違和感を無視した。でもこの人に話のペースは任せられないと分かったので、今度は私が質問をした。
「ちなみに山代さんはおいくつなんですか?」
「今年で二十三です。あ、なつみさんはいいですよ。レディーの秘密ですしね」
年下か……。ちなみに私は先月二十五になったばかりだ。当然口には出さないが。
一瞬の動揺をなんとか隠し、また別の質問をしようとする。
「ありがとうございます。職業とか、なにをされてるんですか?」
「はい、ユーチューバーです。ぶんぶん!」
「へー、意外ですね。私はこの足なので何もできなくて……」
つい弱気に笑ってしまう。咄嗟に出た言葉とはいえ、自発的に失ったもので嘆いているとは、あまりにも情けないと思ってしまったのだ。
すると山代はそんな私の感情を悟ったのか、笑みが薄くなる。
「なつみさんがどう考えているかはわかりませんが、もし何かしようと思っているのであれば、誰かに強要されることではなく、自分が本当にしたいことだけに目を向けた方がいいですよ」
「私が本当にしたいこと、ですか」
そんなものは私にはない。天堂の家に生まれたからには、芸能という職に就かなければならない。ましてや裏方など、彼らはそれを芸能とは認めないだろう。
それなのに、なぜか山代の言葉に心の奥を深く刺されたような感じがした。
「少しだけ、参考にさせてもらいます……」
「そうですよ。人生は選択の連続なんだから。そう、ギャルゲーが教えてくれたんです!!」
なんだかいい言葉が台無しだ。相変わらずゲームの話に繋げようとしてるなこの人は。
「そういえばなつみさんのお姉さんって、よくテレビに出てるあの人ですよね。デザイナーの」
その話題は私にとって不意打ちだった。なぜ今ごろ姉の話など出してくるのか。
「……そうですよ」
「やっぱり。あー、ちなみにお父さんは演歌歌手で、お母さんは女優さんでしょ? すごいご家族ですね。どおりで姉妹揃って綺麗なわけだ」
「その話やめてもらっていいですか⁉」
――バン‼
私は無意識のうちに机を叩いていた。山代も、さすがに引きつった笑みを浮かべてしまう。
「あ、えっと、ごめんなさい。ちょっと詳しすぎてキモかったですよね。ハハ」
「いいです。もう帰ります。さようなら」
「あ、ちょっと待っ――」
私は自分の地雷が抑えきれなくなり、山代の引き留めを無視して店を出た。
(何なのあの男……私に興味があるなら親族なんて関係ないじゃん。どうしてそうクリティカルなところ突いてくるのっ。それにずかずかと私の家庭事情に触れるのかわけがわからないし)
私はただ山代から逃げた。必死に車椅子の車輪を回し、彼のことを必死に忘れようとした。
『自分が本当にしたいことだけに目を向けた方がいいですよ』
一瞬だけでも、自分があの家の娘だということを忘れてしまいそうだった。
「自分が本当にしたいことなんて、ない」
私には生まれた時から与えられたゴールがある。それを乗り越えなければ自由もないし、それ以外のことには目を向けてなどいられない。
なのに、なぜかその言葉が頭からずっと消えない。
陸上か、デザイナーか。でもそれらはあくまで手段に過ぎない。
結局、私のしたいことってなんだ――?
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