第29話 なつみの回想#2

『あんた、結局大学に行くの? 今までロクに勉強してこなかったんでしょう』

『母さーん。高卒のアタシらが言えることじゃないよー。でもまあ、忙しくもないあんたは大学でしか時間を潰せないんじゃないの? あーあ。大学行きたかったなー。アタシにはそんな時間ないんだもん』


 私に対する嘲笑と睥睨は止むことはなく、むしろ増していった。

 それから私は一般受験で、せめて駅伝に出場できる大学を受けようと思った。でも父はそれを許さなかった。代わりに受けろと言われた大学は、駅伝とは無縁の、しかも私の学力ではギリギリの中堅私立だった。


『そこの大学のコーチのもとで陸上をやれ』


 それは完全に私の意図を無視した命令だった。背こうと思ったが、聞いた話だと、そのコーチは日本代表選手を何人も育成していた人物だと知り、指示された大学に入った。

 大学は自由だった。制服に縛られていた学校とは違い、行き交う人は全員輝いて見えた。

 残念ながら、私にはそこまで羽を伸ばす余裕などなかった。一刻も早く陸上の選手として認められるために、友達も作らず、誘われてもなんでも断った。もう二度と同じ思いはしたくない一心だったかもしれないけど。


 そして例のコーチの練習が始まった。皆レベルが高く、追い付こうと必死だった。

 ある日、コーチは私を呼び出した。やはり、というべきか。私の実力不足を指摘されたのだ。それでもコーチは私を見捨てなかった。


『お前だけの練習をさせてやる』


 私はその言葉に縋りついた。とにかく早く周りと差をつけたかったからだ。そしていまだに家族と同じ土台に立てていないことへの焦りも含まれていたと思う。私はコーチに頭を下げてお願いした。

 それからが忘れられない、の始まりだった。

 コーチは私を監督室に呼び出し、その密室で服を脱げと命令された。

 当然嫌だと言ったが、そうしたら練習の件は取り下げると言い出した。

 詰め寄られる強迫に私は逃げ出してしまう。今考えれば正解だった。でもそれがきっかけで私は練習に参加できなくなった。あの顔が忘れられない。たったそれだけで私の陸上を続ける理由がなくなってしまった。


『どうすんのよ。陸上やめて役者でも目指すの?』


 仕方ないじゃない。


『デザイナーなめんなよ。アタシたちと同じ土台に立つためにやるんだったらセクハラコーチの言うこと聞いとけば?』


 舐めてなんかない。かつて目指していた夢を今更叶えるのはおかしくないでしょ。


『まあセクハラに関しては、アンタが有名になってからマスコミに流せばいいじゃなぁい。さー何年かかるでしょうねぇ』


 そうだ。マスコミ。一連のことを報道してもらえばそれで――


『お前を何のためにあの大学に行かせたと思っている。言うことを聞け。もう子どもじゃないだろ。ノルマを果たせていないお前には……』


「選択肢はない」


 その台詞はもう耳にタコができるほど聞いた。死ぬまでには芸能の道に行かなければならない。それが家族の中で達成できていない私には、決められた手段しか残されていない。

 進もうとしても藻掻いても抜け出せない沼に足をとられ、目標と現実の合間で、そこに至るまでの絶壁に阻まれていた。


 私は考えた。ノルマを果たすには陸上で名をあげるしかない。でもそれはコーチに指導を受けてもらうことと同義。父は陸上から離れることを許さない。母と姉妹は急かす。


 ――――これか……。


 すべての元凶。私を陸上に縛り続けた呪いの遺物。それさえ絶ってしまえば、私は自由になれる。

 この足がすべての始まりだったんだ。

 だから私は

 でも気づかなかった。彼らに追い付くための足すら切ってしまったのだと。




『交通事故? そんでまあ派手にやられたわね』

『うわあ、骨ぼっきぼきじゃーん! トラックが相手ならそうなるわー』

『どうせ自殺しようとしたんでしょぉ。直前でチきるからそうなるのぉ』


 大型トラックとの交通事故に装い、私は器用にも足だけ轢かれるようにした。結果、両足とも粉砕骨折。原型はもうない。治療はしたが、神経の方は壊れてしまっており、下半身不随となった。


 一年間の療養を経てようやく退院。そして車椅子に乗ったまま家に帰宅する。皮肉交じりの退院祝いを言われたのは想像に難くないだろう。

 それが終わればいつものあれだ。豪邸のリビングにて、夕食を囲みながら私に対する罵倒が始まる。


『どうすんのアンタ。大学も意味ないじゃない』

『これが芝居だったら役者なれるってーの』

『でも車椅子の競技があるじゃぁん。障害者が出演する番組に出せばいいギャラ貰えるでしょぉ』


 いつもより彼らが私を見下している気がした。角度的にも態度的にも。

 確かに私は実質的な自由を手に入れた。父からは見放され、彼らからの言葉には耐えていればよかった。でも結局、私は何をしたかったのか、わからなくなった。

 服を勉強してデザイナーにでもなるか。それでも姉や妹のような知名度がないと売れないし、だいいち服の知識なんてものはない。

 役者はさすがに無理だ。不自由なこの足でできる芝居などないし、私は演技ができない。


「どうしよう……」


 自由になった束の間、私は不自由の底に落ちてしまったのだ。何をしようにもやはり「芸能」という文字が頭にちらつき、ゴールまでの手段を必死に考えていた。

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