第13話 打開
館内一階には休憩所として用意されている、日の当たるラウンジがある。僕がなつみに足止めを喰らっている間に親子はそこへ移動していた。
水槽から漏れ出る青い照明とは違い、ラウンジは外の光が直接入る。ドアを押し開けると同時にベランダテーブルに座っている親子を見つけた。こちらには気づかずに飲食をしている。他の席を見回すも、この空間にいるのは僕と親子だけだ。
(確認するなら今か……)
僕は親子にそっと近づいて話しかける。
「すみません。ちょっとお聞きしたいことがあるんですけど、いいですか?」
「ん? はい、なんでしょう」
父は訝しむことなく、こちらに応答してくれる。
「イルカショーの抽選に当選された方でしたよね。自分は当選しなかったんですけど、写真だけでも撮って帰りたいなと思いまして」
「そうなんですか。ちさと、ちょっとだけイルカさん見せて」
ちさとと呼ばれる少女は首を振って父に渡さない。それほど気に入ったのだろう。
「お兄さんに見せてあげたいんだ。いいだろ?」
少女は渋りながらもブツを箱に入れた状態で差し出す。
「ありがとな。ではどうぞ」
「すみません、ありがとうございます。すぐ済みますので」
一言断りつつ、僕は箱を受け取ろうとする。
刹那、左側から漂う異様な気配を感じた。咄嗟に右手が動き、父から箱を奪い取る。
同時に、気配のする方向からプラスチックの衝突に似た機械音が鳴り響き、僕の右手に何かが掠める。
「――‼」
通り過ぎた銃弾は背後の窓を貫通する。寸前のところで手を引っ込めたことで、直撃を避けられたようだ。それにしても大胆な手段だな。第二射が親子に流れないように、僕は彼らの前に立つ。
「撃つな! お前の狙いはこれなんだろ?」
ラウンジ入り口にいる、拳銃を持った男にそう告げる。目の前に箱を突き出し、人質のように見せる。僕と男の間合いはおよそ十メートル。発砲してもなんとか躱せる距離感であるが、弾道上にブツを置くことで、撃たせないための一手として有効になる。
「――貴様、国家の犬か」
深い闇に生きているような重みのあるバリトンボイス。男の瞳は、刃の鈍い反射光に似た眼光を放っていた。
一歩も譲ることもない彼の様子に、つい僕は顔を強張らす。
「犬らしく俺たちを嗅ぎつけてきたのか」
「そういうアンタは、狂犬に叫ばれてもおかしくないモノを持ってるじゃないか」
男は右手に持っている拳銃を一瞥する。
「貴様らはこんなものでわんわん騒ぐのか。平和だな……」
いよいよ本題から大きく脱線してきたな。なんとかしてこの背水の陣から脱却しなければいけないというのに雰囲気に呑まれてしまう。
後ろで蹲っている親子は状況が追い付いていないのだろう。父親は母と娘を庇うように覆いかぶさっている。時折聞こえる小さな悲鳴と泣き声が、僕の焦燥をさらに揺さぶってくる。
(もう少しだけ耐えてください……)
祈るように念じるが、ついにちさと少女は大声をあげて泣き出してしまった。必死に両親が子をあやすが、拳銃男の表情は硬くなり、肩を使って銃口を突き出す。
「無駄話はおしまいだ。そろそろ渡してもらおうか。犬」
「……渡したらこの家族全員を逃がすのか?」
「俺の右手は弾を制御するのには長けているが、人を撃ちたい欲求には弱いんでな」
平然と言う様子に、僕は軽く舌打ちしてしまう。
要はブツを回収したとしても、関わった人間を生きて返す保証はない、ということだ。任務より殺しの私情を優先してしまうのは馬鹿のやることに変わりないが、今の状況ならこの空間にいる人間を皆殺しになっても逃げきられる可能性が高い。まるで勝ち逃げじゃないか。
それに敵が男一人のはずがない。ここに駆けつけられればいよいよ僕に勝機はない。
逡巡する策、失敗へと追い込まれる敗北感に苛まれる。
しかしふと、脳裏によぎるものがあった。
「……ちさとちゃん。ごめんね」
後ろで泣き喚く少女に一言詫び、僕は次の言葉に全てを賭ける。
「アンタは、このキーホルダーが目当てなのか?」
「そうだ。それを要求しているのだ。早く中身をよこせ」
よし。引っかかったな。
「わかった。渡すよ。ほら……よっ‼」
次の瞬間、僕は小さいモーションで箱を男の銃口に向かって全力投球した。
男は直線に飛んでくるブツに対して迂闊には撃てない。そして箱をキャッチするまでのわずかな時間、こちらは自由に行動できる。
そこで僕は近くに置いてある椅子を窓ガラスに思いっきりぶつけ、同時に先程まで使用していた横長のテーブルを、親子の目の前に倒す。椅子の角が丁度ガラスに衝撃を与え、激しい破砕音と同時に割れる。
「小癪な!」
男は飛んでくる箱を何とかキャッチしたのか、僕に向けて数発発砲する。
――タシュッ、タシュッ
サイレンサーのつけられた破裂音のない発砲音とともに、弾丸が唯一無防備な僕に向かって飛来する。
「いっ……」
一発は右肩に直撃、二発目は少し外れて右頬を掠めた。
とくに肩は貫通しなかったため、当たった衝撃と骨を砕く痛みに意識が明滅する。体勢を大きく崩したが、テーブルに隠れていた父親が、床に倒れ込む僕を引っ張ってくれた。
「貴様。よくもまあ姑息な真似をしてくれたな……」
「僕たちを深追いする間に、今の騒動を聞いて人が駆けつけてくるぞ」
こちらに近寄る男は僕の言葉に足を止めた。
男の拳銃に取り付けられたサイレンサーは、通常の発砲のような破裂音をなくす役割がある。つまり人数の限られた閉塞した空間で撃つか、牽制として使用するために所持していたと考えられる。
あの抑えられた発砲音では、ラウンジ外にいる人間はこちらに気付かない。ならばそれ以上の音量と危機感を抱かせる音をたてればいい。ラウンジは周囲がほとんど窓ガラスで仕切られている。一瞬の隙さえできれば、その場にある椅子でガラスを割る。それが、僕が思いついた窮余の一策だった。
するとラウンジの入り口から、ドンドンと扉を叩く音がする。
「なんだ、開かないぞ? 今のたしかにガラスが割れた音だろ」
「おーい。誰かいませんかー。返事してくださーい。今鍵を持ってきますからねー」
おそらく一階にいた従業員だろう。閉められた扉を執拗に叩く。
さらには窓の外からも人がぞろぞろと集まってくるのがわかる。
つまりこの空間は、一瞬でほぼ大衆に包囲されている状態になったのだ。ついでに人質となりうる僕たちは横倒しにしたテーブルに身を隠れているため、距離を置いていれば撃たれることはない。
時間が経てば人が来る。それは敵としては避けなければならない状況。
「目標のブツは手に入ったんだろ? だったらその窓の穴からさっさと帰れよ。そのうち警察もくるぜ」
「ちっ……まあいい。任務は達成した。貴様と付き合っている暇はな……ない⁉」
「ああ、それね。実は空箱だから」
「⁉」
ちらりと父親の腕の中で息をひそめるちさとに目を向ける。僕も最初は気が付かなかったが、ちさとが渡したのは中身のキーホルダーを抜き取った後の箱だけだったのだ。おそらくどうしても他人に譲渡したくなかったのだろう。今となっては相手を足止めする武器になったため、彼女に力強く親指を立ててみせる。
「おとなしく捕まっとけ。でなきゃ本物はこっちで処理しちまってもいいんだぞ」
「くそっ‼」
撤退するにもブツを回収できない。
回収するにも僕がブツを壊してしまう可能性がある。
機を窺ってもいずれ応援や警察は来る。
相手にとっては悪循環のスパイラルだ。もう降参して手にお縄を付けるしかない。そう思っていた。
すると男は拳銃を床に落とす。僕はテーブルから顔を出して彼の様子を窺ったが、諦めの表情ではなく、不敵な笑みを浮かべていた。
「……犬。貴様は〝エイ〟を見たか」
「一階の水槽にいる動かないエイだろ。それがどうか――――まさか」
男はポケットから小型の通信機らしきものを取り出し、口元で何かを呟く。
すると数秒後、ラウンジ入り口の扉の向こうから、何やら悲鳴らしい声が聞こえた。やがてそれは危機感を煽る悲鳴へと変わっていき、勝機を確信した僕に途轍もなく嫌な予感が襲い掛かる。
「皆さん、今のうちに逃げましょう!」
一刻も早くこの場から離れなければならない、と僕の警告音が鳴りやまない。今いる位置から約五メートルほどの距離にある窓穴を見据えて、三人の親子を引き連れて脱出しようとする。
「させるか!」
床に落としたはずの銃をまた拾い、こちらに対して銃口を向ける。
(しまった、逃げ道が塞がれたか……)
しかしこうなれば最後の手段。ブツを壊すしかない。
ちさとから本物のブツを渡すように要求するが、今度こそ首を振って拒否する。父親は強引にでも奪い取ろうとするが、意地でも盗らせんとばかりに両手で握りしめる。
「ちさと! 渡すんだ!」
首を振るちさと。ここで頑是ない行動が出てしまったようだ。
ゆっくりこちらに近づく男の存在に、ちさとを除く全員が緊迫した状態になる。
「いいから早く……」
すると握られていたブツはするんと手から飛んでしまい、僕たちの三メートル手前に落ちてしまった。
「しまった!」
僕はブツに飛びつくようにテーブルから背中を離す。しかしそこから先は銃の射角に入り、行く手を阻むように数弾放たれる。手を伸ばした先の床に弾がめり込み、撤退を余儀なくされた。そうなると迂闊に飛び出せない。しかしあれさえ壊してしまえば男の殺戮を止め、公安の任務を果たすことができる。
意を決し、命をかけてでも飛びつこうとした、その時――
大量の水が、扉を破って勢いよく流れ込んできた。
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