第10話 秘密主義
その後、僕たちは他の客より一足早く入場した。なつみが興味を示したイルカショーにはまだ時間があるため、先に館内展示を回ることになった。
この水族館は三階構造なのだが、今いる一階には主に大水槽が展示されている。僕は車椅子をゆっくり押しながら、なつみと深青色の世界を眺めていた。ガラス一枚隔てた先に見えるのは、嵐のような群衆を形成して縦横無尽に動く小魚。僕たちはその揃い切った集団行動に目が離せなかった。
「へ~。これがマイワシなんだね」
「あー、マイワシね。知ってる知ってる。えーっとあれでしょ? イワシの親戚」
「知らないのが秒でわかったよ」
つんつんと僕のお腹を指で突いて煽ってくる。
「マイワシはね、季節に則ったサイクルの回遊をして、なんと! 晩秋には油がのって美味しいんだって」
「食べられるの⁉」
「そこに食い付くあたりキミらしいよね」
いつの間にそのような知識を取得していたのかは知らないが、僕としてはすこし悔しい気がした。懐に忍ばせていたスマホで調べる暇すらなかったため、ググることすらできなかった。
「そういえばあそこにいるのエイだよね。やっぱり遠くて見えないなあ」
「うーん、エイっぽいかなぁ」
なつみの指さす方向には、ひらひらとした黒い生物が佇んでいる。水槽の奥隅に佇んでいるため、岩などに阻まれて見えにくい。必死に目を凝らしていたなつみだが、一向に動かない様に至極残念そうだ。
「動きそうにないしなー。次に行こうか」
「帰る時にまた来るから、その時にもう一回覗いてみようか」
「そうだね」
この水族館の階を跨いで移動するには、基本エスカレーターを使わなければならない。
しかしただのエスカレーターではない。大きな水槽にトンネル状の穴があけられ、そこにエスカレーターを通している。つまり僕たちは水槽の中をステップにゆっくり運ばれながら、水中の様子を全角度から眺めることができる。
通称『海中エスカレーター』。
全てが深青色に染まる世界で、わずかな照明を魚たちが反射して煌めく。海の雄大さに囲まれたこの空間はまさに生命を感じるのにふさわしい。
「綺麗な青色だなあ」
「そうだね。ちょっと変なこと言うかもしれないけど、キミって海みたいだなって思うの」
唐突に意味深なことを言われた気がして、僕は一瞬困惑してしまう。
「なつみさん、解説お願いします」
「キミってさ、基本秘密主義じゃん。趣味はゲームってことくらいしか知らないし、普段何してるとか、何のお仕事してるのかも教えてくれないし、親御さんに挨拶しに行きたいって言った時はとってつけたような理由でパスされたし」
解説を頼んだはずが、なつみの言葉からはチクチクと僕の良心を突く棘しか感じられない。とは言ったものの、彼女の口調は平静を保っている。
「でもそんなキミはいつでも優しいんだって思える。掴みどころがなくて難しいところもすべて海みたいだなって」
前を向いたままこちらに表情を見せない。一方通行のこの閉塞した空間ではそれを確かめる術すらない。
「ご、ごめん。あとお褒めの言葉ありがとう」
「謝ってほしいって意味じゃないからね? でも長い付き合いなのに、いつまでも秘密にされると……っていうのは本音だから」
「……そうだよね」
いつかは決着をつけなければならないと分かっている。むしろ二年も明かさないまま関係を続けられたこと自体、奇跡と呼ぶにふさわしいほどだ。
ふと思った。なつみの僕に対する信頼はどこから来ているのか――。
足の不自由な女性。それから脳腫瘍に侵され、自由すらろくに与えられなかった。そんな人生を灰色と考えてしまう彼女を、僕は可哀想だと思って日々寄り添っているのでは断じてない。
僕は車椅子の君と出会い、恋に落ちた。それだけだ。
だから僕は彼女を幸せにしたい。その一心で、左目だって、命だって懸けられるのだ。
(ならば、僕の義務感も時に捨てることも道理ではないか?)
「……実はさ、」
僕の中で、自分を縛る義務と彼女に対する信頼がせめぎ合い、葛藤してしまう。
なかなか言葉を出せない僕の様子を案じたのか、なつみはこちらを見上げる。
「いいよ。今はまだ。私が死ぬまでには教えてね」
「……うん。わかった」
我ながら情けない彼氏だと、心底思った。
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