第4話 車椅子彼女の胸の内

「わあ、すごーい! 集団行動だよ! みんないっせいに動いてる!」


 大水槽の中で渦を巻いて踊る小魚たちに幼稚な反応を見せるなつみ。一匹も群れの雲から遅れることもなく、全面の水槽を縦横無尽に動くさまに、僕も感嘆の声を漏らしてしまう。

 ただ「綺麗だね」と語るのでは恰好つかないので、申し訳程度にググる。


「どれどれ……なるほど。このマイワシって魚、季節に則ったサイクルの回遊をして……な、なんと! 晩秋には油がのって美味しいんだってさ! もう十月だけど間に合うかなー」

「キミぃ、そこじゃないでしょ。お腹減っちゃうからおやめなさい」

「いやー、つい美味しい食べ方の欄見ちゃうんだよね」

「ねえねえ。あそこにいるの、もしかしてエイじゃない?」


 ポンポンとハンドルを握る僕の手を叩いては、イワシの群れではない方向に指をさす。すこし水槽の奥側にゆっくり佇んでいるため、目を凝らしてもひれの大きい何かにしか見えない。


「そう、かな」

「そうだよきっと! こっち来ないかなー。裏側の顔見たみたいな」


 それから僕たちは大水槽を後にして今度は『海中エスカレーター』というものに乗った。

 トンネル状の水槽に360度囲まれているため、エスカレーターで上昇しながら海中生物を眺めることができる。全てが深青色に染まる世界で、わずかな照明を魚たちが反射して煌めく。海の雄大さに囲まれたこの空間はまさに生命を感じるのにふさわしい。


「すごい……海の中ってこんな感じなんだね。……なんだか自由だなぁ」


 前方から聞こえるなつみの感嘆。しかし大水槽の時のはしゃぎ声ではなく、慈しむような深みのある声だ。独り言のように小さく発したようだが、僕はその言葉を無視できなかった。


「今のなつみも同じだよ。足が動かなくても、先が見えなくても、今だけは自由でいられる。だから羨ましがることはない。むしろ彼らに誇ってやればいいさ」

「……そうだね。ありがとう。やっぱりキミは優しいね」


 車椅子を押さなければいけない位置ゆえ、なつみの表情を確認することができない。いつも僕がなつみを押してあげる時、それが焦らしの種になっていたが、今はこの立ち位置に感謝している。


 言葉ではいくらでも強がることができるが、表情はどうしても隠せないから。

 もしも彼女と隣あって歩くことができたら、その感情を見た時、僕が彼女に何かをしてあげられる自信がない。

 僕はただ、本音を隠したジョークでしか彼女に接することができないのだから――


 それからも僕となつみは幻想的な青世界を巡った。

 時間は十時を過ぎたところで、僕たちとは反対側から来た客とすれ違うようになった。男女のカップルや、小さい子どもを肩車して歩く親子、じっと同じ水槽にかじりつくように眺める老夫婦など。


 混雑によって身動きしづらいに越したことはないが、やはりなつみは一瞬でもこちらに対する視線が気になるようだ。

 僕は車いすの運転を止めて、一旦休憩でもしようと提案した。

 最初は僕に気を使われたと思い眉をひそめたが、僕が尿意を伝えると頷いてくれた。


「ここがバリアフリートイレだよ。一人でできる? 手伝おうか? なんなら最後まで見ててあげぶひゅっ⁉」

「お巡りさんコイツでーす。変態がいまーす」

「じょ、冗談だってばぁ!」


 僕はなつみを個室に入れた後、男子トイレへ向かう。しかし用を足すことはなかった。なぜなら現状、なつみを十分に楽しませているかという疑問が浮上しているからだ。


 どうも失速した感じがどうしても否めない。やはり僕以外の一般人がいる環境ではどうしてもなつみはストレスを抱えてしまう。二年経ってもなお好奇の目が気になるのは解消しなかった。それほどなつみにとって足を失うことがショックだったようだ。


 ……ならば仕方がない。最後の手だ。

 あと三十分ほどで始まるイルカショーでは、観客にイルカから直接あるプレゼントを贈られるというサプライズ企画がある。どうにかしてなつみが選ばれるように飼育員に話を通しておきたいところだ。


 スマホを取り出し、事前に登録してあった施設関係者の電話にかける。なんとしてでもなつみには笑顔のままでいてほしい。いつまでも自分の過去に縛られている姿はもう見たくない。


「……は? え、圏外⁉ なんで」


 何度同じ電話にかけようとしても、電波が届かないと電子音が返ってくる。


 ……おかしい。館内ならどこもWi-Fiが通っている。入場してすぐに繋げておいたため、Wi-Fiが繋がらないならまだしろ、圏外はあり得ないはずだ。

 機内モードにしてあるわけではない。その他の設定をいじってみたものの、トイレ内では何も受信できない状態のままだった。


「なにかの不具合か。どちらにしろ、ショーが始まる前に話を通しておかないとな」


 いつまでもなつみを待たせてしまうので、またバリアフリートイレへ戻る。

 僕がそこに戻ると、ちょうどなつみが個室から扉を引いて出てきた。


「ねえキミ、私のスマホが圏外になってるんだけど、これどうしたらいいの?」

「え、なつみも? 実は僕の方も圏外のままなんだ」


 不可思議な状況に互いに見つめ合う。どうやらトイレの壁が厚いということではないようだ。


「まあ今のところ通信サービスを使うことはないから大丈夫か」

「でも圏外だとググれないよねー?」

「だ、大丈夫だよ。もう知ったかぶりしないから。とりあえずもう行こうか。あとちょっとでショーが始まるしね」


 存外館内を回るのに時間がかかったため、全てを見終えたわけではないが、午前の部を逃してしまうと次の開演まで時間を持て余すことになる。

 この提案をすると、なつみはぐっと拳を握り、高く掲げた。


「行きたい会いたいイルカちゃんっ。早く早く!」


 僕は急かされながらもハンドルを握って歩き始めた。少し心配だったが、なつみの調子はさっきより戻ったようだと安心した。

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