第3話 青の世界
「こうしてキミと一緒に外出するのって何年ぶりかな。今日は絶好のお出かけ日和だし、なにより秋風が気持ちいいよ」
なつみの担当医師から外出許可を得てから二日後の今日。厳しい条件ではあったが数少ない外出の機会を認めてもらったので、この日のためになつみに新しい服を用意して着させてあげた。やはり清楚めの彼女には、秋に合わせた栗色のスカートと紺色のニットの組み合わせで正解だった。
車椅子ごと僕の車に乗せ、病院から二十分ほどのドライブをしたばかりだが、なつみの興奮は収まらない。それどころか今まで以上に顔色がよくなっている気がする。体に取り付けられている医療機器の重さもすっかり忘れられているようだ。
駐車場から例の水族館までの移動中、人の少ない並木道を歩きながら車椅子を押していた。道沿いに生えている木々は鮮やかな紅葉を着飾っており、足元には脱ぎ捨て
られた装飾の片鱗がちらほらと落ちている。……ここで少し博識晒そうかな。
「もう十月だね。ちなみに十月は
「へー。そういえば十月は醸成って書いて
「ちょっとちょっとなつみさんや。あなたがお酒に強いのを知ってたから触れなかったのに。自分から酒豪晒さないでくれますか」
患者なのだから飲酒はできない、とまでは指摘しないが苦笑交じりにツッコむ。
それから僕は、上機嫌ななつみと他愛のない話を延々と繰り返しながら目的の建物に入場する。
僕が『千里眼』で見た場所は神奈川にあるドーム状の水族館だ。外から見てもその大きさは球場とも思える大きさで、ここでは特殊な水槽とイルカショーに定評があるらしい。大水槽や全面水槽張りの空間も存在し、海洋生物を様々な角度視点から眺めることができる。
平日なので訪れる人は少ないはずだが、念のため僕は施設側に話を通しておいて開館前に入れるようにしてある。当然なつみには言ってないが。
しかし『千里眼』が、足の不自由ななつみでも赴ける場所をチョイスするなんて気が利いている。ただし気がかりなのは、『水族館に行く』だけの未来を提示してくれればいいものの、わざわざ館内での行動も事細かく分けていたのだ。未来観測を利用したうえでのアフターフォローというのであれば実にくだらない。
僕は決められた未来通りになつみを幸せにはしない。この場所が予知通り安全であるなら、それ以上の選択肢は無視して僕のやり方でなつみを笑顔にしてみせる。
『千里眼』は人生の攻略本ではあるが、定められた運命を辿るためのものではない。
そういえばもうひとつ気がかりなことがあった。なぜ残された選択肢が水族館だけなのか。はじめに除外した未来の一部始終を確認してはいないが、外出するという行為だけにそこまで危険が伴うものだろうか。
――とまあ、そんな憂さなことを考えては仕方がない。今はなつみを完璧にエスコートしなければならないのだから。
「どうしようかな。これだけ広いとどこから先に見ようか迷っちゃうよ」
誰もいない館内。薄暗い青い照明がなつみの難解な顔を照らす。
「なつみが見たいって言ってたイルカショーにはまだ時間があるから、先に館内展示回っちゃおうか。ゆっくり見ても一周できるくらい余裕あるから」
「わかった。じゃあ運転よろしくね、キミ」
なつみは背もたれに頭をのせるようにして逆さに僕を見つめて微笑む。
「……前から気になってたんだけど、どうして僕のことを名前で呼んでくれないのさ。遠くから呼ぶときだっていつもキミキミって」
「えー。そんなに名前呼びがいいの?」
「仮にも付き合って二年と一か月三日も経ってるんだよ⁉ いつまでもキミ呼びは勘弁してほしいんだけどなっ!」
僕の必死な弁明に対してうーんと唸るなつみ。
そこまで考えることだろうか。僕としては今のいままで一度も名前で呼ばれたことがないことに不満なのだ。ここらで一度検討してくれなければ、一生名前で呼ばれることがなく生涯を終えてしまう。
祈るようになつみに哀願の視線を送っていると、なつみはそれに見かねたのか、仕方ないと呟いて正面を向く。
「じゃあ私が今一番幸せだなって思えたら、キミのこと名前で呼ぶよ。それまではずっとキミのままだから」
「ほーう。言ってくれるじゃないですか。なら飛ばしますぜ!」
僕は車椅子のハンドルを強く握り、すこし前進速度を上げた。黄色い悲鳴を上げるなつみは、やはり最期に怯えている様子ではなかった。
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