6. 優斗の親族

「あっ……ぐっ……!」

「彼方」


 呼吸が荒くなり、顔面蒼白で時折顔を歪ませて吐きそうになる。

 目は血走り、全身に力が入り、荒れ狂う感情に必死に耐えているのが目に見えて分かる。


「彼方」


 歯がカチカチと鳴り、瞳には涙が滲み、体が小刻みに震えている。


「彼方」


 優斗が優しく呼びかけるけれども、状態は全く良くならない。

 

「(しまった。まだ早かったか)」


 重ねた手はいつの間にか強く握られ、このままでは爪で手のひらが傷ついてしまう。


「(いや、まだ諦めるな。彼方は戦っているんだ)」


 確かに彼方の症状は酷く、危険な状態ではある。

 今日はもう話を続けない方が良いだろう。


 だが果たして本当にそれで良いのだろうか。

 彼方は苦しみながらも戦っているのだ。

 諦めるかどうかを判断するのは彼方であって優斗では無い。


「彼方」


 優斗は重ねた手をこれまで以上にしっかりと覆ってみる。

 僅かに力が抜けた気がするが大きな変化は無し。


 優しく正面から抱き締めてみる。

 体の震えは止まったが、まだ呼吸が荒い。


「彼方、好きだよ」


 耳元で愛を囁いてみる。

 徐々に呼吸が落ち着いて来る。


 どうやらこれで大丈夫そうだ。

 優斗は彼方が落ち着くまで抱き締めながら愛を囁き続けた。




「あり、がとう。優斗、君。大丈夫、だよ」

「大丈夫には見えないよ」

「あはは、そう、だね」


 彼方は自ら優斗から体を離し、無理矢理に笑顔を作った。


「ちょっと待っててね」


 立ち上がろうとしたが、足に力が入っていないのか倒れそうになる。


「彼方!?」

「あはは、ごめんごめん」


 慌てて優斗が支えて、再度座らせる。


「何処に行くつもりだったの?」

「蒸しタオルを作ろうと思って」

「ああ、なるほど」


 汗と涙で顔が汚れてしまったから、蒸しタオルをあてたら確かに気持ち良いだろう。

 優斗は彼方に指示してもらって代わりに蒸しタオルを作った。


「ああああ、気持ち良い」

「なんか温泉入ってるみたいだな」

「温泉! いいね、いつか行こうよ」

「そうだな。それも良いかもな」


 温泉旅行は心の湯治にうってつけのイベントだ。

 ただそれも、今のイベントを乗り越えた後の話になるだろう。


「さぁ、優斗君。続きを話してよ」

「本当に大丈夫なのか?」

「うん、私にはこの蒸しタオルがあるから」

「蒸しタオル最強だな」


 話を再開するにもどこから続けたら一番被害が少ないだろうか。

 そんなことを考えていたら意外にも話の先手を取ったのは彼方の方だった。


「優斗君も裁判所の人とお話してたんだね」

「まぁな。彼方は大丈夫だったのか?」

「うん、あんなだったけどちゃんと演技してたの」

「演技したのか。すげぇな」


 何故優斗や彼方が裁判所の人と話をする必要があるのか。


 裁判所と言っても悪事を働いたとか犯罪に巻き込まれたという話では無い。

 親を亡くした二人が問題無く生活出来ているかを確認するためである。


 そもそも高校生が親の庇護無しで一人暮らしをすることなど普通はあり得ない。

 税金は? 家のローンは? 保険は?

 親が必要なことなど山ほどある。


 そのため未成年が親を亡くした場合は『未成年後見人』が選ばれてその人が親代わりの事をやってくれる。

 その『未成年後見人』が正しく仕事をしているか確認するために裁判所の人が二人の現在の状況をこまめに確認しているのだ。


 優斗に先ほど来たメールは、現状確認の面談がしたいという内容のものだった。

 優斗も彼方もこれまで何度か電話でのヒアリングや面談を経験済である。

 彼方はその時に異常を察せられないように演技していたらしい。


「面談自体は別に何でも無いんだけどな。つい奴らのことを思い出して嫌な気分になっちまったんだよ」

「…………」


 彼方はまた蒸しタオルで顔を覆った。

 優斗はそのまま待っていたが、彼方がジェスチャーで先に進めて欲しいと促す。


「俺の『後見人』は遠い遠い親戚のおじさんなんだ」


 それこそ過去に一度会っただけの接点がほとんど無い人物だ。


「裁判所の人に誰を後見人にしたいかって聞かれた時に唯一思い浮かんだのがその人だったんだ。その人以外からはうちの家族は嫌われているって思ってたからさ」


 優斗は両親以外の親族に会ったことがほとんどない。

 祖父や祖母の顔すらほとんど覚えていないくらいだ。


 そんな関係の薄い親族の事を優斗は心底嫌っている。

 それは幼い頃にたった一度だけ参加した親族会での彼らの態度によるものだ。


 彼らは幼い優斗の前で母をこき下ろした。


「酷いもんだったよ。当時は小さかったから言葉の意味は分からなかったけれど、奴らが母さんをひたすら侮辱して言葉の暴力で延々と殴り続けたってことだけは分かった。いや、母さんだけじゃないな。俺にも『こんなクズの子供なんてまともに育つはずが無い』みたいなことを全員から言われて腫れもの扱い。まさに地獄だった」


 優斗がそこで憎しみに囚われてしまわなかったのは、母がその後に涙ながらに必死で優斗に謝ったからだ。

 その姿があまりにも悲痛だったから、彼らへの負の感情よりも母を悲しませたくない心の方が上回って狂わずに済んだのだ。


「奴らがなんで父さんと母さんを見下していたのか。その理由がマジで狂ってるんだぜ」


 母はその理由を教えてくれなかったけれど、幼い優斗は彼らの侮辱の言葉をしっかりと覚えていて、成長するにつれてその意味を理解してしまったのだ。


「どうもあいつら、一定以上のレベルの大学を卒業してない奴は人間のクズだと思ってるらしい」


 学歴至上主義。

 自分達が認めた者以外は例え親族であっても否定する。

 そんな人間が存在している事すら苦痛と感じ、『処分』するのが当然だとすら思っている。


 優斗の父と母はそんな狂った親族が嫌になり飛び出し、その似通った境遇に共感したのか結ばれた。

 だが不運にも父は早くに亡くなり、母は親族の力を借りることなく優斗を一人で育てるしか無かった。

 それが優斗の親族にまつわる話だ。


「その胸糞悪い集まりの時に唯一俺を庇ってくれたおじさんを後見人に指名したんだ。尤も、その人も本心では奴らと同じで、久しぶりに会った俺をゴミのような目で見て来たけどな。どうも親族の中で大学のランクが一番低いから雑用を押し付けられる感じで、しぶしぶ俺の代理人を引き受けたらしい。そんなこと言わなくても良いのに、苛立ちを隠そうともせずに堂々と不満をぶちまけてたよ」


 その代理人を引き受けたおじさんはそこそこの大学を卒業したにも関わらずブラック気味の中小企業で苦しい毎日を送っている。

 その人だけでは無い。

 高ランクの大学を卒業したはずの親族は、そのほとんどが幸せな社会生活を送れていない。


 当然だ。


 そんな人格破綻者がコミュニケーション重視の社会でやっていけるはずがないのだから。


 だからこそ彼らは誇れるものが大学のランクしか無くて、それでマウントを取るしか無いのかもしれない。

 他人を見下しているようで、ただ単に見下されるのが怖いだけなのかもしれない。

 良い大学を卒業していないにも関わらず笑顔に囲まれている優斗母が憎かったのかもしれない。


「葬式だってまともにやってないんだぜ。でも母さんを慕っている人達がわざわざ家まで来てくれたからそれで十分だったけどな」

「優斗君!」

「彼方?」


 自嘲気味に優斗が独白していたら、彼方が突然抱き着いて来た。


「いや、今回はマジで大丈夫だよ」

「…………だよね。でも思わず体が動いちゃった」

「はは、何だよそれ。でもサンキュな」


 話の内容が暗かったからか、優斗が苛立ちを交えて話をしていたからか、彼方は優斗を癒したくなってしまったのだろう。


「それより彼方は大丈夫なのか?」

「実は最初の頃は危なかったの。でも優斗君が怒ってるなって思ったらそれどころじゃなくて」


 優斗が後見人の話をした時、彼方は酷い頭痛に襲われて蒸しタオルを顔に当てたまま倒れそうだった。

 しかし優斗の口調があまりにも怒りに満ちており、それを心配する気持ちで負の感情を振り払ったのだ。

 優斗のことを想って強くなれるのが彼方らしい。


「でもちょっと疲れたかな」

「少し横になるか?」

「うん。今日は優斗君の事が知れて嬉しかったよ」


 そう言いながら彼方は優斗の太ももに頭を乗せて、ソファーの上に横になる。


「優斗君は……私と……逆……だね」


 最後にか細く呟いて彼方は眠りに落ちた。


 どうやら夕飯を出前にする選択は正しかったようだ。

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