3. 我慢できるわけないじゃん!
「……ん」
「……ん」
静かな室内に僅かな吐息の音だけが漏れている。
しばらくすると優しく甘い二つの声が重なった。
「優斗君好きだよ」
「俺も彼方が好きだ」
「……ん」
「……ん」
何度繰り返しただろうか。
二人は他に何をすることも無くひたすらに甘い時を過ごしている。
親友達への報告会議の翌日の事である。
どうせ喘ぎ声だと思ったらマッサージだった的なタイプのオチだと思われているだろう。
しかしこの二人、ガチでキスをしている。
きっかけと言ったものは特には無かった。
やはりというかなんというか、お互い普通に我慢が出来なかったのである。
もちろん恋人同士なので我慢する必要も無いのだが。
「おはよう彼方」
「おはよう優斗君」
その日、二人が目覚めた時はいつも通りであった。
朝起きて、顔を洗い、彼方が作った朝食を一緒に食べる。
昨晩優斗がお願いしたように隣に座ってだ。
「彼方どうした?」
「う、ううん、何でも無い」
朝食のメニューは白ご飯、焼き鮭、ソーセージ、サラダ、味噌汁と和風のメニュー。
優斗が美味しく食べていたら、彼方がソーセージを箸でつまんで固まっていることに気が付いた。
しかし優斗が声を掛けると彼方は慌ててそれを口にする。
それが何を意味しているのか分かったのは昼食の時である。
朝食後は彼方の楽しい楽しい家事タイム。
洗濯をして掃除をして優斗の家をピカピカに磨き上げる。
天気が良いからお布団も干してしまおう。
今ではもう最初に優斗の家に来た時のようなゴミ塗れの汚らしい雰囲気の気配は欠片もない。
その間に優斗は花に水をやってから夏休みの宿題をやる。
本当は一緒に宿題をやりたいのだが、彼方はいつもの癖で一学期最後の方の自習時間にかなり進めてしまっていたので追いつこうとしているのだ。
追いついたらテスト勉強の時と同じで夜になったらイチャイチャ勉強タイムが開催されるのである。
「あぁ優斗君の香りがする」
尤も、彼方が時々気になる独り言をつぶやくのでそれが気になってあまり進んではいないのだが。
そんなこんなで午前中は特に甘い時間もなく過ぎ去り、昼食の時間がやってきた。
昼食のメニューはミートボールスパゲッティ。
単なるミートソーススパゲティではなくミートボールを加えてるところが彼方のおしゃれ度の高さを感じられる、と思いきや狙いはそれではなかった。
「彼方?」
朝食の時と同様に、彼方はミートボールをフォークで刺したまま硬直していたのだ。
だが今回は朝とは違った。
優斗に声をかけられた彼方は少し赤くなった顔を優斗の方に向ける。
「あ~ん」
「!?」
どうやら定番のネタをやりたかったらしい。
朝のソーセージも昼のミートボールも、あ~んをしやすいメニューという事で用意したのだ。
以前にも衆人環視の元お弁当のおかずで同じことをやったことがあるが、正常な状態でやるのはこれが初めてだった。
「(こっちの方が良いな)」
照れずに差し出して来たあの時も動揺したが、優斗的には彼方がちゃんと照れながらやってくれる方がよりぐっと来た。
「はむ、うん、美味しい」
「えへへ」
「(可愛い)」
喜んでくれる彼方を衝動的に抱き締めそうになってしまったが、昼食中にそれはお行儀が悪いのでぐっと我慢だ。
その代わりに優斗からもお返しをする。
「じゃあ俺からも、あ~ん」
「!?」
彼方は少しだけ迷っていたけれど、小さな口をぱくりとあけてミートボールを口に入れた。
「んふ、おいひ」
そして幸せそうな笑顔を浮かべたのである。
「(やべぇ、超幸せだわ)」
ちょっと待って欲しい。
その幸せ、彼方が狙って用意したものだと気付いているのだろうか。
彼方は敢えて自分のお皿には大き目のミートボールを、優斗の皿には小さめのミートボールをよそってあ~んしやすいようにセッティングしてあったのだ。
完全に彼方の手のひらの上でコロコロである。
幸せなら良いのかな。
「次は私ね」
「じゃあまた返さないとな」
「えへへ」
「ははは」
結局二人はミートボールだけではなくスパゲッティも含めて全て食べさせ合いっこしながら完食した。
そしてこれで二人のスイッチが入ってしまった。
午後は暑く外出などする気が起きないし家事も洗濯物を取り込むくらいしかやることがない。
つまりは完全にフリーな時間なのだが、昼食で盛りかけた二人は止まらない。
陽射しが入らないようにカーテンを閉めて薄暗くなったリビングのソファーに並んで座り、じっと見つめ合う。
優斗は彼方の少し潤んだ瞳から目を離せず、力づくで滅茶苦茶に愛したい気持ちと壊れ物を扱うように丁寧に触れたい気持ちが混在して幸せな混乱に浸っている。
「(ダメだ。我慢出来ない。最初はムードのあるところでって思ってたけれどもう無理だ!)」
「(優斗君優斗君優斗君優斗君優斗君優斗君優斗君優斗君)」
特に彼方の方が完全に色ボケモードになっているが、優斗の懸念は的外れかもしれない。
この二人はこれまで日常生活の中で絆を深めて来たのだ。
敢えて特別な何かをするよりも、その流れの延長線上で先に進んだ方が自然なのである。
だから今は思考を巡らせるのではなく、彼方のように相手を想う気持ちに全てを委ねる方が正しいのだろう。
優斗もまたそのことに気付き、彼方を好きな気持ち以外を追い出した。
「彼方……」
「優斗君……」
いつの間にか距離はさらに近く、額がくっついてしまいそうな程だ。
手は彼方の膝上で優しく重ねられ、それ以外はほとんど触れていないのに不思議と相手の体温が全身に伝わって来る気がする。
鳥のさえずり、通りをトラックが通る音、子供のはしゃぎ声。
耳を澄ませば聞こえてくるそれらの音も二人の耳には届かない。
相手の存在以外をこの世から消し去っている。
そうして何分、何十分と見つめ合っただろうか。
二人の距離は自然とゼロになった。
恋人になるのが遅すぎる程にすでに想いあっている二人だ。
一旦壁を乗り越えたらもう止まらない。
「優斗君好きだよ」
「俺も彼方が好きだ」
「……ん」
「……ん」
何度も、何十回も、日が暮れても同じことを繰り返す。
彼方のくぅという可愛らしいお腹の音が鳴るまで延々と二人は想いを伝え合った。
そして夕食後。
「なぁ彼方、次の土曜のお祭りに行こうぜ」
「お祭りってあの神社の?」
「ああ」
「うん、いいね。行こう。ちゅっ」
優斗は彼方に膝枕をされながらお祭りデートについて相談する。
会話の途中でも彼方は我慢が出来なくなると遠慮なく唇を合わせに来る。
ちなみにこの膝枕、交代制にしようと優斗が提案したのだが、彼方は断固として枕役を譲らなかった。
「彼方は浴衣持ってる?」
「…………」
「彼方?」
優斗の質問に、彼方が少しだけ沈んだ表情に変わった。
もしかしたら浴衣に関する両親との思い出があったのかもしれない。
「彼方、ちゅっ」
「ん、大丈夫だよ」
優斗は体を起こし、彼方に軽くキスをする。
それだけで彼方は笑顔を取り戻す。
「小さい頃はお母さんが用意してくれた浴衣を着てたんだけれど、もう着れないかな」
「もしかして手作り?」
「ふふ、まさか。お母さんは裁縫得意だったけれど、流石に浴衣は買ったものだよ。調整はお母さんがやってくれたけど」
「おお、うちと同じだな」
話しながら彼方は優しく優斗の頭を撫でている。
図らずも彼方が両親の事を受け入れる大事な時間となったのだ。
こうして優斗との甘い時間を過ごす中で、徐々に彼方の傷は癒えて行く。
そしてそれは優斗もまた同じだった。
「彼方のお母さんか、どんな人だったんだ?」
「優しくて料理が上手で頭が良くて家事が好きで綺麗な人だよ」
「彼方じゃん」
「ふふ、ありがとう」
写真で見た彼方の母親は彼方とそっくりとまでは行かなくてもかなり雰囲気が似ていた。
中も外も母の血を色濃く受け継いでいるのかもしれない。
「でも私と違う所もあったんだよ」
「どんなところ?」
「お母さんは音大に通ってたんだよ。私はブラバンとかやってなかったからそこはかなり違うかな」
「音大! 音楽やってたんだ」
それは確かに彼方とは全く違うかもしれない。
「(歌も上手かったのかな)」
思わず優斗は彼方のデスバラードを思い出してしまった。
「優斗君、何考えてるのかな?」
「え、いや、その、何の楽器を演奏してたのかなって」
ジト目で見下ろされて焦った優斗は、歌とは関係ない方向に話を持って行こうとした。
だがそれが彼方に大きな変化をもたらした。
「楽器…………っ!」
「彼方? 彼方!」
これまで何度も見て来たトラウマに苦しむ表情。
彼方が胸を抑えて苦しみ出したのだ。
「…………負け…………ないっ!」
だが彼方はそのまま発狂することは無かった。
優斗をしっかりと見つめ、歯を食いしばり、湧き上がる辛い気持ちに真っ向から立ち向かっていた。
「はぁっはぁっはぁっはぁっ、やった、勝った、えへへ」
「彼方……」
ほんの短時間の出来事だったのに彼方は疲れ切った表情でVサインをする。
優斗はそんな彼方を優しく抱き締めた。
「もう少しで……言えそうだから……待ってて……ね」
「ああ、待ってる。ゆっくり待ってるよ」
彼方は優斗に恋しながらも戦っていたのだ。
少なくとも優斗や親友達に相談出来る程に強くなろうとしていた。
全てを解決させて本当の意味で幸せになるために。
これまであまりにも辛い目にあわされ続けていた彼方という女の子は、失った幸せを取り戻すかのように
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