5. 優斗の涙

 優斗の家にお泊りした翌日。


 片付いた部屋を改めて見回していたら昨日は気付かなかったものを発見した。


 それはリビングの棚の上に置かれた額に入れられた小さな写真。


「(綺麗な人)」


 その写真にはリビングのソファーに座った大人の女性が穏やかに微笑んでいる姿が写っていた。

 顔立ちが何処となく優斗に似ているので家族なのかもしれない。


「母さんだよ」

「お母さん?」


 彼方がその写真を見ていることに気付いた優斗が答えを教えてくれた。


「優しそうな人だね」


 何故母親の写真がここに飾られているのか。

 本人はどうしているのか。


 聞きたいけれども嫌な予感がして質問出来ず、当たり障りのない印象だけを口にしてしまった。


「ああ。優しくて、そして厳しい人だった・・・よ」

「…………」


 過去形。


 つまり優斗の母親は性格が激変してしまったか、あるいはもうこの世に居ないかだ。


「厳しかったの?」


 写真の女性は厳しいどころかむしろ徹底的に甘やかしてくれそうな母性を感じさせる雰囲気がある。


「他人には優しくしなさい。困っている人には手を差し伸べなさい。それが母さんの口癖だった。俺が少しでも見て見ぬふりをしようとしたら説教されたよ」

「説教?」

「怒られることは無いんだけれど、まぁそのなんだ、何時間も諭されたな」


 昔を思い出して懐かしむような、あるいは寂しそうな、はたまた白目をむいているような妙な表情だった。

 良くも悪くもある思い出だったのだろう。


「優斗君が優しいのはお母さん譲りなんだね」

「あはは、母さんのお人好し具合は俺なんかとは比べ物にならないよ。ちょっとだけでも似ていたら嬉しいけどね」

「そんなに良い人だったの?」

「それは間違いない」


 道に迷っている人に声を掛ける、重そうな荷物を持っている人に手を貸す、電車で席を譲る。

 このような王道の人助けはもちろん、困ってそうな人を見かけたら誰彼構わず手を差し伸べた。


「母さんの凄いところは、嫌がる人には声を掛けないところなんだ」

「え?」

「世の中にはさ、困っていても見知らぬ人には助けられたくないタイプの人っているんだ。そういう人をちゃんと見極めてお節介を焼いてた」

「凄い。そんなこと分かるんだ」

「ああ。だから母さんに助けられた人はみんな心からの笑顔で感謝する。そのお礼を言われる母さんがめっちゃ格好良くて誇りに思ってた」


 だから自分も少しでも母に近づけるようにと、母の教えを身に着けようとしたのかもしれない。

 そしてそれこそが後輩ズや閃に手を差し伸べた理由だったのだろう。


「でも神様って酷いよな。そんなお人好しの母さんを病気にしちまうんだから」

「え?」


 ふっと、優斗の顔に陰りがさし、声のトーンが低くなる。


「うちって俺が小さい頃に父さんが亡くなって母さんが一人で育ててくれたんだ。やっぱり大変だったんだろうな。中学の時に母さんは仕事場で倒れた」

「…………」


 写真をきっかけに母親の話をしてくれることは分かる。

 だけれどもいきなりここまで込み入った話をしてくれるとは彼方も思っていなかった。


 優斗は抱えているものを話してくれる気になったのだろうか。


「それから母さんは入退院を繰り返してばかり。体はボロボロなのにそれでも仕事をしようとするんだから困っちゃったよ」

「…………」

「なんでそんなに無茶するのって聞いたら、俺に少しでも沢山のお金を残してあげたいからだって。いやぁ、これ聞いた日の晩は泣いたね。号泣したよ」

「…………」


 優斗の表情は変わらないが少しだけ体が震えている。

 そのことに彼方は気付いたが、今は止めるべきではないと思い耳を傾けることに集中する。


「そういえばこんなこともあったな。買い物中に母さんの調子が悪くなって休憩してたんだけどさ、母さんったら近くを歩いていたお婆さんが辛そうな顔をしているのに気付いて声を掛けて病院に連れて行こうとしたんだぜ。自分だって辛いはずなのに、体中が痛いはずなのに、そんな表情を最後まで隠しきってそのままお婆さんと一緒に即日入院。流石にアレは俺も怒ったよ。もっと自分を大事にしてくれってさ」

「…………」

「俺が高校に入る頃には入院続きでもうそんなことは出来なくなってたけどな」

「…………」

「それでも母さんったら入院してても変わらないんだぜ。俺がお見舞いに行ったらさ、『優斗、あの人が困ってそうだから行って頂戴』なんて窓の外を歩いている人を助けて来いって言うんだぜ。もう笑っちゃったよ」

「…………」


 どうにか笑顔を浮かべようとする優斗だが、上手く行ってないことに気付いていない。

 母との想い出を口にするにつれて悲しみが徐々に表に溢れ出てくる。


「でもそれよりも困ったのが俺の事をいつも気にしてずっと心配してることなんだよ。高校を楽しんでるかとか、勉強はちゃんとやってるかとか、ご飯をちゃんと食べてるかとか。口うるさいったらありゃしない」

「…………」

「極めつけは高校に入ったら優斗のお弁当を……………作り…………たかったって…………治ったら…………腕によりを…………かけて…………頑張るって…………料理…………苦手…………なのにっ…………」

「もういい。もういいよ、優斗君」


 いつのまにか優斗は涙を流していた。

 頬から顎に向けて流れる涙が床に小さな染みを作る。


 そんな優斗の頭を彼方は優しく胸に抱いた。


「母さんは…………死ぬまで…………俺のことをっ…………母さん…………お母さん…………ううっ…………」


 そのまま優斗は彼方の胸の中で静かに泣き続けた。




「恥ずかしいところを見せちまったな」

「そんなことないよ。いや、おあいこって言った方が良いかな?」

「はは、確かに」


 彼方も両親の死を思い出してこうして涙した。

 その時は優斗が彼方の肩を抱いて傍に居てくれたので、立場が逆になっただけとも言える。


「でも驚いたよ。ここまで教えてくれるなんて」


 母の死の話など普通はしたくないだろう。

 しかも優斗の口ぶりからすると母が死んだのは優斗が高校生になってからのこと。

 具体的な日時は分からないが、まだそう日は経っておらず悲しみが癒えているとは思い難い。

 実際にこうして泣いてしまったのだからそれは正しいのだろう。


 彼方が優斗のことを知りたいと願ったとはいえ、その辛い気持ちを押してまで教えてくれたことに彼方は少なからず驚いた。


「まぁ、その、なんだ。前からずっと言おうかどうか悩んでたんだよ」

「え?」

「でもズルいかなぁって思ってさ。必要だったらズルくてもやるべきとは思ってたけれど、そうじゃなかったから」

「ズルい?」


 母の話をすることが何故ズルいことになるのだろうか。

 全く意味が分からない。


「だってさ。共感しちゃうだろ」

「…………あ」


 共感。

 それは心を繋ぐにはとても強力な手法である。

 相手との距離がぐっと近づき仲間だと強く感じてしまう。


 両親を亡くした彼方に自分も両親がいないことを伝えたら共感して心を許してもらいやすくなるのではないか。


 だがそれは優斗の境遇に惹かれただけであって優斗自身を受け入れてもらったわけではない。

 偶然を利用して興味を惹くのは卑怯だと感じていたのだ。


 もちろんそうでもしなければ彼方が優斗の事を拒絶し続けるというのならば遠慮なくこの切り札を使っただろう。

 だが実際は強引に共感してもらわなくても彼方を癒すのに上手く行きそうな状況だった。


 その上で自分の話をすれば更に心の距離が近づくかもしれないがそこまでする必要があるのだろうか判断がつかなかった。


 それゆえ優斗は言うべきか言わざるべきか悩んでいたのだろう。


「でも今なら良いかなって」


 つまり結局は彼方のために話をしたのだ。

 彼方との心の距離は十分に近づき、その上で優斗に興味を持ってくれたから答えたのだ。

 共感狙いではなく、自分の事を知りたいという彼方の要望に答えるために。


「本当にあなたって人は……」


 優斗の問題を解決しようと意気込んでいたのに、結局は彼方のために悲しみを曝け出してくれたという優しさに触れる結果になってしまった。


 これではいつもと同じである。


「(でもだとすると優斗君の問題って?)」


 優斗は心に抱える悲しみを見せたが、その姿はあの教室での姿とは全くの別物だった。

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