12. 彼方に近寄るな!
「彼方、帰ろうぜ」
「うん」
優斗が彼方の想いに気付いた日から、二人の関係は何も変わっていなかった。
彼方は元から優斗への好意丸出しだったから変わらないのは当然として、優斗が問題を先送りにしたからだ。
ヘタレだからというわけではない。
今は全力でテストに打ち込むと決めたからである。
彼方によって入れられたやる気スイッチが強烈に働いていたのだ。
だがそれも今日までのこと。
テストは無事に終わり手応え的には赤点は余裕で回避出来そうだ。
それどころか『ご褒美』すら貰えるかもしれない。
「(って俺は何を考えてるんだ!)」
隣を歩く彼方はいつものように優斗の服の裾をちょこんとつまんで薄く微笑みながらテストの話題を口にする。
優斗の心の内がいつもと違うことに気付いた様子はまだ無い。
「(ちゃんと考えないとな)」
自分は彼方の事をどう想っているのか。
彼方の今後のメンタルケアの方針。
彼方との夏休みの過ごし方。
病院や警察などへの拒否反応の理由。
不快な落書きを書いた人物。
生きていくためのお金は十分に残されているのか。
彼方をサポートしてくれる大人はいないのか。
考えることは山ほどある。
例え優斗が心を決めて彼方と恋人関係になったとしても、彼方が『生きてて良かった』と心から幸せを感じるにはいくつもの問題を解決しなければならないのだ。
「(気合を入れないと)」
二人の関係がどのように変化しても優斗のやるべきことは変わらない。
上手く行きすぎている現状に甘えることなく、気を引き締め直すのであった。
――――――――
「よお、待ってたぜ」
二人がマンションまで帰ってきた時、入り口付近で見覚えの無い男が話しかけて来た。
小太りでスーツを着た髪の薄い中年男性。
偏見や見た目で差別しているわけではないが、どうにも気持ち悪い雰囲気を纏っている。
よれよれのシャツや清潔感の無い脂ぎった肌のせいだろうか。
「彼方の知り合い?」
「知らない」
優斗も彼方もその男に見覚えが無い。
人違いかと思ったが、その男は続けて馴れ馴れしく話しかけてくる。
「そりゃあ知らねーだろ。会うのはこれが初めてだからな」
「え?」
ただの不審者なのだろうか。
優斗は警戒レベルを最大近くまで上昇させる。
「それにしても実物の方が写真より断然そそるじゃん。いいねぇ」
写真で彼方の事を知っていたのか。
男は舐める様な目つきで彼方の全身を観察している。
たまらず優斗は彼方の前に出て男の視線から守った。
「チッ、うぜぇ。男がいるなんて聞いてねーんだがな」
男は不快な表情を隠そうともしなかったが、その顔はすぐに下卑た笑いに変化した。
「まぁだが同じ男として気持ちは分かるぜ。悲しんでる女なんてちょっと優しくすればコロっと落ちるもんな。上手くやったな、おい」
「てめぇ!」
「篠ヶ瀬君ダメ」
あまりの暴言にカッとなってしまったが、彼方の言葉でどうにか手を出さずに済んだ。
こんなクズごときに停学だのなんだのと騒ぎになったら彼方に申し訳が無い。
「お~怖。そんなカッカすんなよ。暴力的な男は嫌われるぜ」
「…………」
「ふん、まぁいい。本題に入るぞ」
こんな男にまともに取り合う必要は無いとも思ったが、彼方の事を知っていてこのマンションまで押しかけてきているというのがどうにも気になった。
もしここで無視して家に逃げ帰ってもまたやってくるかもしれない。
近所迷惑にもなるし、彼方を一人で外出させることも出来ない。
せめて正体くらいは掴んでおきたかった。
「さっさと金返せ」
「は?」
男の目的はシンプルに金だと言う。
こんな年上の見知らぬ男から彼方が金を借りている。
そんなことがあるのだろうか。
「(待てよ、金ってことはまさかアレか!?)」
一つだけ優斗には思い当たることがあった。
家に届いたあの書類。
「督促状が届いているだろ?」
その送り主がこの男だったのだ。
「その子の父親が借りた二千万を会社を代表して俺が受け取りに来たんだ」
「会社を代表してだと?」
「ああ、俺はその子の父親の上司だからな」
「な!?」
その男の正体は彼方の父親、三日月行人の上司だった。
調べれば簡単に分かる内容だ、真実である可能性は高いだろう。
「ヒェッヒェッヒェッ、死亡保険がおりて金はあるんだろう。早く出せよ」
つまり気持ち悪い笑い方をするこの男は保険金狙いで金を奪いに来たのだろうか。
「まぁ払えないだろうがな!」
「?」
どういうことだろうか。
彼方に金があると分かっているから受け取りに来たと言っていたのに、彼方がそれを払えないことを知っているという。
何故彼方はお金を払えないのか。
何故男はそのことを知っているのか。
何故男はお金を回収出来ないことを知ってここに来たのか。
その答えの一つがすぐに明らかになった。
それも最低な答えが。
「払えないなら代わりに俺が立て替えておいてやってもよいぜ」
「?」
「その代わりちょ~っとばかしお願いがあるんだ」
男はペロリと舌で唇を舐め、厭らしい目つきで優斗の体に隠れた彼方を覗き見ようとする。
何を考えているのかをわざと分かるようにして煽っているのだろう。
つまり払えないのなら体で払ってもらおうか、というやつだ。
「ふざけるな!」
当然優斗がそんなことを許すはずが無い。
「借金なんか嘘だ! あの督促状がありえないことは確認してあるんだ!」
「へぇ。馬鹿じゃねーんだ」
「分かったらさっさと帰れ!」
借金が存在しないのならば男の目的は達成されないはずだ。
事前に閃に確認しておいて良かったと優斗は安堵する。
しかし安堵するにはまだ早かった。
「ヒェッヒェッヒェッ、そんなの関係ないんだよ!」
「は?」
男にとって借金が存在するかどうかはどうでも良い事だった。
重要なのは彼方の父親が借金したという形だけ。
そのために督促状を送付した。
「その子は金を返すか俺のオモチャになるしか選択肢が無いのさ」
「何言ってやがる! 借金は無いのに何でそんな!」
「なら警察にでも行くか? それとも弁護士にでも相談するか? 出来ねぇよなぁ! ヒェッヒェッヒェッヒェッ!」
「な!?」
彼方が警察や弁護士に相談できない事をこの見知らぬ男は何故か知っていた。
だからこそ嘘の借金をでっちあげてもそれが嘘だと彼方には証明出来ないと考えたのだ。
しかも心が弱っている彼方であれば簡単に言う事を聞いてしまうだろうと。
男の唯一の誤算は、優斗が彼方の支えとなっている事だった。
「彼方、大丈夫だ」
男から警察や弁護士といった単語が出て来たので優斗は彼方が怯えているかもしれないと思い優しく声をかける。
錯乱している雰囲気が無いのでまだ大丈夫そうだ。
「ただのクソガキのお前に何が出来る。さっさとそこを退け!」
自分の優位は揺るがないと確信しているのか、男は二人に向かって歩き出す。
そんなくそったれな男から彼方を守るため、優斗は堂々と立ちはだかる。
「彼方に近づくな!」
「!?」
大声をあげて男を制止させたのだ。
そのあまりの迫力に男が少したじろいだ。
「は……ははっ、若いって良いねぇ。威勢があれば何でも出来ると思ってる。だがそんなもん何の意味もねーんだよ! そいつは父親の借金を返す代わりに俺に奉仕することが決まってるんだ! さっさとそこを退け!」
少しだけ焦り気味になった男が再度二人に向かって歩こうとする。
だが当然優斗はそれを許さない。
「近づくなって言っただろ!」
「!?」
再度大声で男の動きを押し留めたのだ。
「こっのクソガキがああああああああ!」
ただの大声で子供に気圧されてしまったことにプライドが傷つけられたのか、男は激昂して優斗を睨みつける。
とるに足らない子供だと思っていたが、敵であると認識を改めた。
彼方を連れ去る事しか考えていなかったが、その障害となる煩わしい相手だと意識した。
そう強く意識したがゆえに、優斗がふと左を向いた時に、釣られて同じ方を見た。
「あれは!?」
話始めた時には居なかった何人もの通行人がこちらを見ていた。
マンションの方を見るとベランダから覗き込んでいる人が何人もいる。
優斗はわざと必要以上に大声を出すことで注目を浴びようとしたのだ。
「さぁ、どうする?」
見るからに不審者風な中年男性が若い二人に迫っている。
そんな姿を見かけたら何が起きるだろうか。
「困るのはお前だって同じだよな」
確かに優斗は警察に助けを求められない。
だが警察を呼ばれて困るのはこの男だって同じはずなのだ。
嘘をついて彼方に手を出そうとしたことがバレたら間違いなく逮捕されるのだから。
このままでは彼らを見ている人達の手で警察を呼ばれて両者がダメージを受けるだろう。
だが男が去れば両方とも助かる。
男が無茶を通そうとしている理由は警察に通報されないことを確信しているからだった。
それならば通報されそうな状況を作れば諦めるのではと優斗は思ったのだ。
そして諦めるのならば通報されずに優斗達も助かると。
「~~~~っ! また来る!」
優斗の狙い通り、男は顔を真っ赤にして憤慨しながら足早にその場を去った。
突然の障害をどうにか切り抜けたのである。
――――――――
「彼方、大丈夫?」
気持ち悪い男に狙われて怖かっただろう。
警察に通報されそうになって怖かっただろう。
間違いなく辛い思いをしているだろうと思い、振り向いて優しい声をかけてあげた。
「…………」
しかし彼方は怖がっている様子も泣きそうな様子も全く無かった。
優斗の方を見て、ただ茫然としていた。
「(これってどういうことだ?)」
ショックでまた壊れてしまったのか。
それにしては視線がしっかりと定まっている。
今の彼方の感情が優斗には良く分からない。
「おお~い。彼方。大丈夫か?」
もう一度呼びかけてみるが、やはり反応なく固まっている。
「彼方、彼方。ほら、こんなところで立ってないで家に入ろう」
「…………え…………あ、う、うん」
三度目の声掛けでようやく反応があった。
安心したのも束の間、彼方の表情に大きな変化が起こる。
「彼方、顔が真っ赤だけど大丈夫か?」
「ふぇ!? あ、だ、大丈夫、かな、うん」
「?」
いつもと様子が違うことが不思議だったけれど、ネガティブな雰囲気では無いので良しとした。
「(あいつがまた来ないようにしないとな。閃に相談してみるか)」
そんなことを考えながら二人は家に入った。
リビングに鞄を置き洗面所に手洗いとうがいをしに行こうと思った直前、彼方が優斗に声をかける。
「あの…………篠ヶ瀬君」
「ん、なんだ?」
彼方は姿勢良く真っすぐと優斗を見つめる。
「(どうしてこうなった!?)」
顔は相変わらず真っ赤であり、視線をそらさず小さな唇が僅かに震えている。
まるで恋する乙女のような表情だ。
これまでに無い彼方の行動に優斗の心は驚きでフリーズする。
「…………」
「…………」
お互い何も口にせずにひたすら見つめ合う。
そうしてしばらく硬直していると、彼方が口を開いた。
「あの、篠ヶ瀬君、私……っ!?」
途中まで言いかけて彼方は突然何かに驚いたかのように大きく目を見開いた。
「あ……ああ……」
全身が大きく震え出し、一歩、二歩とよろめくように後ろに下がる。
「お、おい彼方?」
尋常ではない雰囲気に優斗は思わず声をかけるが、彼方はその声に反応して大きく後ずさる。
そして両手で頭を抱えてその場にしゃがみこんだ。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
彼方の絶叫が響き渡った。
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