8. はじめての笑顔

「うっ……ぐっ……っっ……ぷはぁっ!」


 突然の息苦しさに優斗の意識は覚醒した。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ」


 窒息しそうな程に苦しく、肩を大きく上下に揺らしながら空気を吸い込んだ。


「俺……何が……濡れてる?」


 寝起きのようにまだ意識がはっきりせず、何が起こったのか分からない。

 ただ頭部が全体的に濡れている事だけはすぐに分かった。


 下を見ると水が入ったバケツが置かれている。

 もしかしたらそこに顔を突っ込んだのかもしれない。


「あれ、手が、あれ?」


 そして違和感がもう一つあった。

 手が後ろで縛られていて動かせないことだ。


 水滴が目に入りまだ視界がはっきりとしない。

 顔を左右にブンブンと振って少しでも乾かそうとする。


 そうしてようやく自分が置かれている状況が分かった。


「…………」


 そこは小さなスタジオのような場所だった。

 家具の類は極端に少なく、壁に大きな鏡がかけられ、中央に巨大なベッドが不自然に置かれているだけ。


 そしてそのベッドの上には……


「彼方!」


 不安げな瞳の彼方がベッドの上に座り、優斗の方を見ていた。

 優斗は思わず走り出そうとするが思いとどまる。


 二人の間に上半身が裸の筋骨隆々の大男が邪悪な笑みを浮かべて立っていたからだ。

 その裸体の大半に入れ墨が彫られており、目立つ傷跡が多く、どうみても真っ当な人間には見えなかった。

 両腕を封じられた優斗が敵う相手では無い。


「よう、お目覚めかい。王子様」


 男はゴミを見るかのような目つきで優斗を見下ろしながら話しかけて来た。

 全く相手にされていないのに、それでも殺されるのではないかと思える程の威圧感がある。

 だがその威圧感が、逆に優斗の混乱を落ち着かせてくれた。


「(クソ、拉致されたっていうのか!)」


 優斗と彼方が見知らぬ場所にいるということは、そういうことなのだろう。

 冷静になるとこの部屋の中には他にも人がいることに気が付いた。


 自分の傍に一人、彼方が座るベッドの傍に一人、ベッドを映すようにビデオカメラのセッティングをしている人が一人。

 いずれもチンピラと評するのが適切と思われる男達だ。

 ピアスや入れ墨やナイフ。

 三人ともタイプは違えども、真っ当でない異様な雰囲気を漂わせている。


 そして入口と思わしきドア近くの壁に、見たことのある女が一人立っている。


「ぐるっと見たところで、状況は分かったか?」


 分からざるを得なかった。

 最悪な状況であるという事を。


 唯一ほっとしたのは彼方がまだ無事ということ。

 衣服がはだけた様子もないし、乱暴された雰囲気はまだ無かった。


 それが何故かは分からないが、襲われるのは時間の問題だ。


 ベッドとカメラと拉致。


 この先に何があるかなど容易に想像がつく三セット。


「(クソ、このままじゃ彼方が!)」


 焦る優斗だがこの状況で出来ることなど無いに等しい。

 このままでは彼方は男達に乱暴されて心を完全に壊されてしまう。


「(彼方!)」


 いや、そうではない。

 確かに心を壊されるのはダメだ。


 だけれども。

 そんなことよりも。


『心配……した……』


 彼方が見ず知らずの男に汚されるなど、それどころか触れられることすら許しがたい。


「(絶対に助ける!)」


 優斗は彼方の方をもう一度見た。

 そしてある決意をする。


「うおおおおおおお!」


 優斗は後ろ手に縛られたまま、大男に体当たりを仕掛けた。


「ふん」

「ぐっ!」


 だが大男の蹴りによっていとも簡単に弾き返される。


「う、うおおおおおおおお!」

「ふん」

「ぐっ!」


 諦めずに再度特攻するも結果は同じだ。


「馬鹿かこいつは」


 大男がせせら笑うが、そんなことは気にしない。


「彼方ああああああああ!」

「ふん」

「ぐっ!」


 顔を蹴られて血が滲む。


「ふん」

「ぐほっ!がはっ!」


 胸を蹴られて呼吸が苦しくなる。


「ふん」

「っっっっ!」


 顎を蹴られて意識が飛びそうになる。


 だがそれでも優斗は何度も大男に突撃する。


「こりゃあ良い。人間ピンボールだ。ほら、もっと来いよ」

「うわああああああああ!」


 大男は愉快そうに優斗を遠慮なく何度も何度も蹴りつける。

 体当たりしては蹴り飛ばされ、大きく後ろに弾き返される。

 それほどの威力が篭められた蹴りを何度も喰らい優斗はフラフラになる。


 それでも諦めるわけにはいかなかった。


 だがそんなボロボロになる優斗を見て彼方が我慢できるわけが無い。


「止めて!」


 ベッドから立ち上がって優斗の方へと向かおうとした。


「おっと余計な真似はするなよ」


 だがそれは大男の言葉によって止められた。


「言っただろ。お前が俺達の言う事を聞いていればこいつの命は助けてやるって。大丈夫だ、死なねーように手加減してるからな」


 彼方は歯を食いしばりながら、またベッドの上に座る。

 またしても負の感情に心が傷つけられようとしていた。


 だから優斗は彼方に声をかけた。


「安心しろ彼方! 俺は絶対に死なない!」


 心配するなと。

 以前と同じ悲しみを決して与えはしないのだと。


「絶対に助けてやる! 俺を信じろ!」


 そしてこの状況すらも乗り越えて見せるのだと吠えた。


 この状況で助かる術などありはしない。

 誰もが優斗の言葉を虚勢だと思った。

 彼方ですらもそう思いかけた。


 でも彼方はその言葉を信じた。


「…………うん」


 男達はそんな二人のやりとりをニヤニヤしながら眺めていた。


 絆が深ければ深い程、引き裂かれた時の姿が最高にそそるのだと知っていたから。

 二人の想いが強ければ強い程、この先の行為が愉悦に満ちたものになるから。


 いわば食前酒のような感覚で、この茶番劇を楽しんでいた。


 だが楽しめない人物が一人だけいた。


「ああもうウザイ! さっさとやっちゃってよ!」


 入り口付近に立っていた女だった。


「おお怖。なんだよ、こいつをボコして欲しいって言ったのお前だろ」

「そうだけどなんか違うのよ。なんかムカつく」

「ふ~ん、まぁいいけどよ」


 優斗は全身ボロボロでもう大男に突撃するのも難しい。

 このまま彼らが彼方に手を出したら止められない。


「よし、お前はそいつをそこの椅子に座らせて固定させろ」

「うす」


 優斗の傍にいた男が、優斗を近くの椅子に座らせた。

 ここでこれからの様子を見ろという事なのだろう。


「おい、カメラの準備は出来たのか?」


 そして大男は最後にビデオカメラを準備していた男に声をかけた。

 準備完了の合図があれば地獄のはじまりだ。


「ふふ、ついにこの時が……」


 女が恍惚の表情を浮かべ、憎しみに満ちた目でベッド上の彼方を睨む。

 その女こそが玲緒奈だった。


 辛いと思える心や悲しいと思える心が残っている状態でぶち壊すために、心を壊さずにこの場に連れて来る。

 そして彼方の目の前で大切なものを壊し、その壊された大切なものに見られながら自分も壊される。


 それが玲緒奈の望んだ復讐だった。

 その復讐を遂げる時が来た。


「おい、どうした」


 しかし合図が一向に来ない。

 カメラの男が何も言わない。


 不審に思った皆がカメラの男に目をやると、その男はドサリとその場に崩れ落ちた。


「!?」


 驚きで男達の動きが固まった。

 その直後の事。


「ぐうっ!」


 今度はベッド脇に居た男がうめき声をあげて崩れ落ちた。


「誰だお前は!」


 そこには小さな男が居た。

 怪しいその男を掴まようと大男が歩き出す。

 その直後の事。


 ドガンと爆音が響く。


 入口の扉が派手に蹴破られたのだ。


「今度は何だ!?」


 入って来たのは小さな女。

 優斗と彼方が良く知る人物だった。


「せんぱ~い。大丈夫ですか~?」


 牧之原秋梨。


 優斗の後輩女子がそこにいた。




「何がどうなってやがる!」


 突然の事態に混乱する大男。

 それとは対照的に闖入者は冷静だった。


「あちゃ~、凄いやられちゃってますね。痛そう~」


 秋梨はボロボロとなった優斗を見ておどけた表情を浮かべる。

 いつも揶揄からかい合っている時のように。


「おいガキ、どうやってここに入った」

「どうって、皆さんが連れて来てくれたんじゃないですか」

「ああ?」


 嘘ではない。

 確かに秋梨は彼方と共に男達に拉致されたのだ。


 そして彼方とは別の部屋に連れていかれた。


「いやぁ、人生最大のミスですよ。こうならないようにずっと準備してたのになぁ。はぁ、ホント情けな」

「何言ってやがる!」

「なぁに、とても簡単なことですよ」


 秋梨はまるで自分の家にでも入るかのように、重苦しい空気を全く気にせずに軽やかな足取りで大男の近くまで歩いた。


 そして告げる。


「てめぇ、覚悟は出来てんだろうな!」


 鬼が居た。


 いつもの天真爛漫で朗らかな秋梨の姿からは想像出来ない程の憤怒の表情。

 お調子者にしか聞こえない軽い声とは打って変わってドスの聞いた深くて重い怒声。


 その豹変に味方の筈の優斗や彼方ですらも恐れを抱いた。


「センパイに手を出しやがって、ただで済むと思うなよ!」


 その迫力に、大男が思わず一歩後ずさる。

 どうみても自分よりも非力でか弱そうな小さな女の子に対してビビってしまった。


「な、なんなんだよてめぇ!」

「うるせえ!」

「ぐふぅ!」


 秋梨に殴りかかろうとした大男だったが、逆に腹部を殴られて悶絶する。

 シンプルな右ストレートが、分厚い腹筋など無かったかのように貫通した。


「何度殴りやがった!」

「ぐはぁ!」


 体がくの字になったところで下がった顔に下から拳を振り上げる。

 そのまま軽くジャンプしたため、とある格闘ゲームの必殺技を想起させた。


「ま、まて。やめ」

「それとも蹴ったのか!?」

「ぎゃあああ!」


 今度はローキックが男の足を強打する。

 鈍い音がしたから折れたか、少なくともヒビが入ったかもしれない。


 たまらず男はその場に尻もちをついた。


「ぜってぇ許さねぇ。生きて帰れると思うなよ」

「ひいいいいいいいい!」


 そこから始まるのはただの虐殺だった。

 大の男が小さな女の子にボコボコにされている姿はどうにも現実感が無い。


 そんなショータイムを優斗は最前列の席で眺めていた。


「センパイ、お待たせしましたッス」


 すると背後から声がかけられた。

 チラりと横を見ると、優斗の傍にいた男もおねんねしている。


「おせーよ、馬鹿」

「マジサーセンッス」


 春臣もまた助けに来てくれたのだった。


 優斗が大男に体当たりをする直前、彼方の方を見たらその背後にある鏡に春臣の姿が映っていた。

 どうやったのかは知らないが、春臣がこの部屋の中に潜んでいる。

 そして優斗は春臣と秋梨が異様なまでに強い事を知っていた。


 だから自分が無謀な特攻をして注意を引き付けている間に、春臣に彼方を助けて貰おうと考えた。


「俺より先に彼方を助けて来いよ」

「それだけは聞けないッス。僕達はセンパイが最優先ッスから」


 優斗が彼方を最優先に守ろうとするのと同じように、彼らもまた優斗を最優先に案じていた。

 だから優斗を先に助けるのは当然のことだった。


「はい、とれたッス」

「サンキュ」

「大丈夫ッスか?」

「大丈夫じゃねぇから、さっさと彼方を助けて来てくれ」

「了解ッス」


 本当ならば自分が駆け寄り抱き締めて安心させてあげたかった。

 だが情けないことに体が痛みでまともに動かせない。


「このクソ野郎がああああああああ!」


 丁度虐殺もフィナーレを迎えたタイミングだった。

 秋梨が渾身の右ストレートを大男の顔面にぶち込み、大男は意識を失った。


「(あれやべぇな。折れてんじゃね? 強いとは思ってたけどここまでとは。絶対に怒らせちゃダメだ)」


 そんなことを思っていたら彼方が駆け寄って来た。

 春臣が助けに行くまでもなく、敵が全員沈黙したから自由に動けるようになったのだ。


「篠ヶ瀬君!」


 彼方はそのまま全力で飛び込んで来て、力が入らない優斗は受け止め切れず椅子ごと後ろに倒れてしまう。


「いててて」


 椅子が邪魔なのでそのまま横にゴロゴロと回転し、優斗は彼方に押し倒される形になった。


「篠ヶ瀬君、大丈夫!?」


 彼方は心配そうに優斗の体をペチペチと触った。


「お、おい、くすぐったいよ」

「だって、だって!」


 彼方を心配させてしまったことに心が痛む。

 でもそれ以上に、こうして彼方と普通に・・・会話が出来ていることが嬉しかった。


 今の彼方は感情豊かな普通の女の子にしか見えなかった。


「どうしてこんなになってまで……」


 ポツリ、ポツりと優斗の顔に温かな液体が零れる。


 決して悲しませないと、決して泣かせないと誓ったのに。

 喜ばせて、楽しませて、心を癒してあげたいと誓ったのに。


 結局こうして泣かせてしまった。


 でも後悔はしない。

 後悔する暇なんて無い。


 彼方に『生きてて良かった』と思わせるには、まだまだたくさんの幸せを与えなければならないのだから。

 先は長いのだから立ち止まってなどいられないのだ。


 優斗は痛む右腕をあげて、彼方の涙をぬぐった。

 そうしていつものように明るい笑みを浮かべて彼方の『どうして』に答えた。


「俺は彼方を守る騎士だからさ」


 その言葉の意味がすぐには分からなかったのだろう。

 彼方は泣くのも忘れてきょとんとしていた。


 そしてあの四人で遊んだ日の事を思い出す。


「ふふ、もう、馬鹿みたい」


 彼方が見せたはじめての笑顔に優斗は心を奪われた。

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