2. 次のステップ

「うっ……うっ……」

「は~いはいはい。俺君、戻って来たよ。ここにいるよ。ほらほらおいでおいで~」

「う゛う゛う゛う゛!」


 ダイニングテーブルに顔を伏せて泣いていた彼方だが、優斗がやってくると走り寄り胸に顔を押し当てる。

 そうしてしばらく泣いていると徐々に震えが止まり、感情が抜け落ちたいつもの雰囲気へと戻る。


「家に帰る暇すらねーな」


 学校から帰宅して彼方を家に送り届けた後、優斗は大急ぎで自宅に戻り着替えてから再度彼方の家に向かう。

 僅か五分の超特急作業。

 だがどれだけ急いで戻って来ても、彼方は必ず泣いていた。


 一人になるとすぐに泣いてしまうようになってしまったのだ。

 面倒臭い女と言ってはならない。

 悲しみを受け止められるようになるまでの辛抱だ。


「なんか赤ちゃんを相手にしているような気分だな」


 悲しんで泣いているはずだけれど、不思議と慰めているというよりあやしている感覚の方が強かった。


「無表情赤ちゃんプレイとかレベル高すぎんだろ!」


 しかも赤ちゃんが女性側とはなんてマニアックな。

 というかそれってどんなプレイになるのだろうか。

 まさか彼方に胸を吸われるのか!?


 妙なことを考えていると、いつの間にか彼方が落ち着いていた。

 無表情なのにジト目で見られているような気がするのはやましいことがあるからか。


「さ、さて。夕飯にするか。着替えて来て」


 彼方は頷いて自室に向かった。


 彼方は優斗に対してのみ明確に反応するようになった。

 言葉はほとんど発しないが意思疎通に問題はない。

 無口な女性を相手にしているような感覚。


 しかも彼方は優斗のお願いを聞いて動いてくれる。

 家の中ならばこうして離れてもくれる。

 彼方が変化した当初、トイレや風呂までついてきてと言われたらどうしようかと思っていたがその心配はなかった。


 というか、もし風呂に強引に連れ込まれていたら流石の優斗も我慢出来ずに暴走してバッドエンドになっていただろう。

 案外、彼方はそのことを無意識に分かっていたのかもしれない。


「そろそろ次のステップに進む時期なのかな」


 彼方に心が戻り日常生活を送れるようになった。

 優斗のみだけれど受け答えも出来るようになった。

 学校は彼方が彼らのことをどうジャッジするかという問題は残っているけれども、これまでのような醜悪な環境では無くなった。


 当面の問題は彼方が負の感情に怯えて優斗に依存してしまっていることだ。

 そこさえクリアしてしまえば、彼方のメンタルは通常の状態にまで回復するのではないか。

 そうなれば彼方は優斗以外にも普通に接し、一人で生活出来るようになるかもしれない。


 そうなるためには時間が必要だ。

 時間をかけてゆっくりと彼方の心を強くして悲しみを受け入れられるように優斗が傍でサポートし続ける。

 それが真っ当な手段だろう。


 しかしそれでは彼方の強烈なスキンシップを長い間受け続けることになる。

 優斗の男の子が耐えられそうにない。


 それならば次のステップの『楽しくなる』計画を発動し、楽しさで悲しみを和らげることが出来ればメンタルの回復も早まるのではないかと考えた。


「早くなんとかしないと……」


 我慢出来ずに彼方に手を出してしまう前にと、優斗は彼方を楽しませることに決めた。


「目指せ! 彼方の笑顔!」


 それが次のゴールだ。


――――――――


「よし、宿題終わり!」


 優斗はここしばらく彼方にかかりっきりでまともに宿題をやっていなかった。

 少しばかりはお目こぼしして貰っていたけれど、流石に一か月もやらないと教師の視線が厳しくなる。


 ただ彼方を一人には出来ないため、彼方の家で宿題をやることにした。

 ダイニングテーブルに座って宿題をやっていると、彼方もまた隣に座って宿題を始めるのがここ最近の恒例だった。


「彼方も終わってる……みたいだな」


 授業をまともに聞いて無さそうなのに、何故問題が解けるのか優斗は不思議であった。

 しかし聞いてみたところで答えは無さそうであるし、答えてくれたとしても『なんで解けないの?』などと純粋に言われたら勉強が苦手な優斗は大ダメージを喰らってしまうので考えないことにしている。


「それじゃあ今日は彼方について……え、なに、どうしたの?」


 宿題が終わったら彼方とお話をするまったりタイム。

 優斗がひたすら話しかけるだけの時間なのだが、意味があると信じて続けていた。


 しかし今日は彼方の様子がいつもと少し違う。

 『彼方について』のところで彼方を指差したら、優斗が指した人差し指をガン見して気にしているのだ。


「この指が気になるの?」


 彼方は小さく頷いた。

 優斗の左手の人差し指には包帯が巻かれていた。


 心が傷ついても優斗のことを思いやれる彼方の事だ、怪我について心配してくれたのだろう。

 優斗が彼方を幸せにすると誓ったのも、彼女のこの優しさを思い出したことがきっかけだった。

 その時のことを思い出すと優斗は幸せな気持ちになり、再度彼方を幸せにしてやりたいと心に誓った。


「いやぁ、実は家で料理してたら切っちゃってさ。せっかく特製料理を振舞おうと思ったのに……って怒らないでよ!」


 トラウマになっているのか、彼方は優斗が料理について話をするとすぐに不機嫌オーラを発してしまう。

 この流れはマズイと思った優斗は指を隠し、強引に話題転換をした。


「指は平気だから気にしないで。それよりも今日は彼方のことを教えて欲しいんだ」


 彼方を楽しませるためには、彼方が何が好きで何が楽しいのかを知らなければならない。

 思い切って率直に聞いてみた。


「彼方って何が好き?」


 優斗の質問に彼方は反応しない。

 最初の頃のように聞いていないようにも見えるけれども、ただ考えているだけだという事を優斗はもう知っていた。


「…………」


 しばらくして、彼方はキッチンを指差した。


「料理? 確かに彼方のメシ超うめぇもんな!」


 次に彼方は充電中の自動お掃除ロボ君を指差した。


「掃除? 確かに彼方の部屋って凄い整頓されてるもんな!」


 今はもう衣服が脱ぎ散らかされていた部屋の面影は全く無い。

 次に彼方は脱衣所とベランダの方を指差した。


「洗濯? 確かに彼方が洗濯するとシワにならないし良い匂いがするんだよな!」


 料理、掃除、洗濯。

 これらが好きということはつまり。


「家事が好きってことなのか! やべぇな。嫁力五十三万越えてるだろ」


 優しくて可愛くて家事が得意とか、間違いなく男が放って置かない。

 優斗の意味不明な言葉に小さく首をかしげる姿なんか、あざとくて男心を撃ち抜きそうだ。


「ま、まぁそうか。家事か……」


 しかしこの答えは彼方の魅力をより深く知る事にはつながったが、楽しくさせるという目的には役立ちそうになかった。


 すでに彼方は家事を一人でこなしているのだ。

 これ以上に楽しみを与えると言っても思いつかない。


「いや、そうだゲーミ……」


 ドンッ!


「ひいっ!?」


 唯一思いついたのが創作料理だったのだが、優斗はどうしてもゲーミング料理から離れることが出来ない。

 そのため彼方の不興を買い、テーブルを思いっきり叩かれて黙り込むしか無かった。

 これまで静かな怒りを滲ませることしかしなかったのに、ついに手が出るようになった。


 ずっと傍にいて温かみを与えることでメンタルを癒そうとしているのに、怒らせる方が効果が高いというのは悲しい話である。


「ほ、他に好きな事ってないの?」


 仕方なく追加で確認してみたが、今度はどれだけ時間が経っても答えはこなかった。


「そうか思いつかないか……」


 女の子が好きなことが何かなんて、優斗には分からない。

 悩んだ優斗は知り合いの女の子に聞いてみることにした。


「牧之原なら何か分かるかも知れねーな」


 優斗にとって仲の良い女性の知り合いは秋梨と委員長の二人だけ。

 委員長は生真面目な感じがして遊びには詳しくなさそうなので、遊んでそうな牧之原を選んだ。


 そう決めた時、彼方が時計を指差した。


「あれ、もうそんな時間か」


 二十三時を過ぎ、そろそろ就寝の時間。

 彼方は眠くなるとこうして寝ようと催促する。

 この眠くなって寝たいと思えることもまた、彼方の復調の証であった。


「さぁ~って、今日も頑張るぞ」


 ベッドに引き摺り込みたい彼方と、それを阻止する優斗の攻防の時間である。


 この不安定な睡眠体勢を終わらせるためにも、彼方に楽しい毎日を送ってもらい一人で寝られるようになって欲しいのであった。


「俺ってヘタレじゃないよな」


 優斗の悶々とする日々はもうしばらく続きそうだ。

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