第二章 復調編

1. え、あの、ちょっと近すぎませんか?

「ちょっ、近い近い! 近いって!」

「…………」


 ぬいぐるみ事件の翌日から彼方の様子が大きく変化した。

 変化した内容は多く、優斗はその一つに悩まされていた。


「歩きにくいよ!」

「…………」


 登校時、彼方は優斗の右腕を抱きながら歩くようになったのだ。

 まるでバカップルが人目を憚らずイチャイチャしているかのように。


「(どうしてこうなった)」


 これが彼方が正気に戻り恋心が爆発しての行動なら素直に受け入れられる。

 だが彼方にそのような浮かれた雰囲気は一切ない。

 視線が安定してきてはいるがまだしっかりと定まっているとは言い難く、心ここに非ずといった感じだ。


「せーんぱい、おはようございます。大丈夫ですか?」

「センパイ、おはようッス。大丈夫ッスか?」


 この状況をどうしたものかと悩んでいたら、秋梨アンド春臣の後輩コンビがやってきた。


「おう、お前らか。おはよう。これが大丈夫に見えるか?」

「朝から堂々とイチャついてますねぇ」

「イチャついてねぇ! って言えねーか……」


 傍から見たら間違いなくバカップルなのは分かっている。

 分かっているから困っているのだ。

 自分と彼方がラブラブカップルだなんて周囲に認識されたら、彼方が正気を取り戻した時に困ってしまうから。


「実際のところどうなんスか?」

「見りゃ分かんだろ。この目が『優斗君好き好きだ~い好き!』な目に見えるか?」

「キモいッス」

「うっせ、お前だって牧之原に『春臣君好き好きだ~い好き!』って言われてんだろ」

「まぁ言われてるッスけど」

「言われてんのかよ!」


 突っ込んでみたものの、天真爛漫なタイプの秋梨ならば言いかねないとも思った。

 少し前まではおこちゃまがじゃれ合っている的な印象しか無かったのだが、大人の階段を登りまくっていることを春臣から知らされてしまったがゆえにイメージが一致せず変な気分だった。


「俺の中ではお前らはピュアな関係だったんだがなぁ」

「ハル君はセンパイみたいにやらしくないから、私からアピールしてるんですよーだ」

「おま、俺はジェントルなマンだぞ」

「ふ~ん、それじゃあ右腕の感触についてのご感想は?」

「最高」

「ヘンタイ」


 仕方ないではないか。

 彼方の体は膨らみを取り戻し、健康体に戻っていた。


 しかも彼方は遠慮なく右腕を強く抱いている。

 右腕は豊満な部分に埋もれる形になり、歩くと右腕が動いて意に反してまさぐってしまう。

 その柔らかさと温もりだけでも理性がぶっ壊れそうになるのに、近すぎるがゆえに女の子の香りまでもが漂ってくる。


 男として至福の一時であることは間違いないのだ。


「自分では出来ないからって怒るなよ」

「死ね!」

「いで! てめぇ少し本気で蹴ったな!」


 秋梨は子供体型であるため彼方程の柔らかさを提供するのは難しいかもしれないが、それは女の子相手に絶対に言ってはならぬこと。

 当然の報いである。


「春臣だってこっちの方が良いだろ」

「その質問は止めて欲しいッス!」

「ハル君。なんで即答しないのかな」

「ひいっ!」

「ケンカするなら山奥か道場でやれよ。お前らが暴れたら街が消滅する」

「誰のせいッスか!」


 秋梨にしか興味が無いと即答できなかった春臣のせいである。


「ハル君、ちょっと向こうでお話しよっか」

「だって三日月センパイッスよ!? 仕方ないッス!」

「言い訳禁止。それじゃあセンパイ、私達は先に行きますね」

「お、おう」

「たすけてッス!」


 首根っこを掴まれてズルズルと引き摺られる春臣を眺めながら優斗は思った。


「(まぁ確かに仕方ないな。俺には分かるぞ)」


 体型の差もあるが、それ以上に彼方が美少女であったということが大きな理由だ。


 初めて出会った時は全身ボロボロで可愛いかどうかなど思う余裕が無かった。

 全裸で迫られた時も、傷ついた異性相手に手を出すのはマズいという感覚しかなかった。

 顔が整っているなぁくらいは思っていたけれど、その顔が死人のようだったから異性として意識することは無かった。


 だが優斗の奮闘もあって人間らしい生活を取り戻し、良く食べ、良く寝て、体はすっかり健康体。

 心のケアも順調に進んでいるのか、表情からは死相が消えて感情表現が乏しいだけの女の子に見える。


 女の子、つまり異性として見えてしまっているのだ。


「(まさか彼方がこんなに可愛かったなんて……)」


 無表情でありながらも可愛く美しいと分かってしまう程の整った顔立ち。

 手入れを怠っているにも関わらずサラサラと風に靡く滑らかで絹のように美しい黒髪。

 女性特有の膨らみは下品に感じさせないレベルで存分に主張し、ハリのある肌はどの部分も程良く柔らかそうだ。


 清楚で可憐で儚げな美少女。 

 それが今の彼方の姿であり、そんな彼方に体を密着されている優斗の理性は崩壊寸前だった。


 もしも感情が戻ったら、もしも髪を手入れしたら、もしもおめかししたら。

 一体どれほどの美少女へと進化するのだろうか。 


「(早く彼方を元に戻さないと。俺の心がもたない)」


 だからと言って離れろと体を無理やり引きはがすことはしない。

 決してしてはならない。


 右腕に伝わってくるのは、柔らかさや温もりだけではないからだ。


 彼方のメンタルは復調している。

 死んだ心が蘇ろうとしている。


 そうなると心を殺すことで逃げていた感情と向き合わなければならない。

 両親を亡くした悲しみや非道な者達への恐れなどと戦わなければならない。


「はぁ、しゃーない。ゆっくり歩くか」


 震える心と体を安心させるため、優斗は牛歩のペースで歩きながら彼方にたっぷりと話しかけた。


――――――――


「ちーっす」


 残念なことに優斗と彼方のクラスは別であるため、教室に着いたら別れざるを得ない。

 彼方は無理に優斗を引き留めようとはしないけれど、不安そうな表情を浮かべて手を離すから優斗は自分のクラスへと向かい辛い。


 というのは彼方がべったりになった直後のお話。

 しばらく日が経ってからは、教室に着いてもそんなシリアスなムードにはならなくなった。


「おはようございます! 軍曹!」

「だからそれ止めろって!」


 二人が教室に入ると、クラス中の生徒が敬礼して彼らを出迎えた。

 そして彼らの元に殺到する。


「今日も仲がよろしいですね」

「お子さんはまだでしょうか」

「カンパしますよ」

「保健室行ってきたら?」

「マジ止めろ! 洒落にならねーから! 特に最後のやつ生々しいから止めろ!」


 彼方の大きな変化。

 その一つが優斗に体を差し出さなくなったこと。


 だからこのように揶揄われても、以前のようにOKを出したりはしない。

 体を密着させた状態で抱いて良いよと言われたら我慢出来なかったかもしれないが、ダメと言われたら我慢するしかない。

 優斗の理性が試される毎日だった。


「おはよう三日月さん。今日もラブラブだね」

「篠ヶ瀬君のこと本当に好きなんだね」

「いいなぁ。私も彼氏欲しいー」


 クラスの女子達は優斗のことを放って彼方に話しかけ始めた。

 彼方は反応しないけれど、気にせずにひたすら話をする。

 それは優斗の行いを真似したものだった。


 彼方のクラスの雰囲気は様変わりし、誰もが彼方に積極的に接するようになっていた。

 それは過去の贖罪のつもりなのかもしれないが、具体的なことを知らない優斗は特に責めるつもりも止めるつもりもなかった。

 彼方が不快に感じているのならまだしも、彼方が何も悪い反応を示していない以上、優斗が何かを言うのは筋違いと思っているからだ。


 むしろ彼らが彼方に構っている間は震えが止まっているので悪い気はしていないのだろう。

 その間に優斗は自分のクラスに戻れるし、離れている間も彼方が怯えていないと分かっているから安心出来る。

 まさに願ったり叶ったりだった。


「それじゃあ彼方、また後でな」

「ええ~、篠ヶ瀬君もう行っちゃうの」

「三日月さんが寂しそうだよ。ギリギリまで居なよ~」

「待て待て待て、行かせてくれよ」


 優斗を引き留めたのは、事件の日にぬいぐるみを返して謝りに来た二人の女子。


「三日月さんがもっと一緒に居たいってさ」

「私達は三日月さんの味方だもん」

「「ねー」」


 まだ脅されている状況で黒幕に唯一反旗を翻した彼女達は、自然とクラス内カーストのトップとなっていた。

 尤も、本人達はそんなことはどうでも良く彼方の事を純粋に心配しているだけ。


 そんな二人だからこそ、優斗は安心して任せられていた。

 彼女達が『友達』として彼方を支えてくれるのだと信じて。

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