2. 荒れ果てた部屋

「ただいまー」


 玄関を開けて元気よく挨拶をする優斗。

 だがそこは彼の家では無い。


「ほら、家に帰ったんだからただいまーって言わないと」

「……」


 全身ビショビショで泥まみれの制服少女。

 彼女が住むと思しきマンションの一室だ。




『ええと、警察を呼ばないと!』


 踏切で少女を助けた優斗はすぐに警察を呼ぼうとした。


『いや!いやああああ!』


 だがそれまで生気が全く感じられなかった少女が突然優斗に掴みかかり叫び出した。


『ちょお!? それは洒落にならないからヤメテ!』


 深夜に少女に悲鳴をあげられている姿なんて見られたら捕まってしまう。

 慌てた優斗だが、少女の叫びはすぐに小さくなり豪雨の中に消え去った。


『警察はダメってこと?』

『…………』


 少女は全く返事をしようとしない。

 少年の胸に額をあて力なく寄りかかる。


 だがほんの僅かに頷いたようにも見えた。


『じゃあ救急車かな』


 警察がダメならせめて病院に連れて行って見て貰う必要があるのではないか。

 命を絶つ程に傷ついた心を癒すために。


『い……や……』


 だが彼女は病院も拒否した。

 声ははっきりと聞こえなかったが、胸に額を当てたまま左右に力なく振った。


『(どうしろって言うんだよ……)』


 警察も病院もダメ。

 無視してこっそり呼ぼうかとも思ったけれど、動揺した彼女に舌でも噛まれたらアウトだ。


 どうして良いか分からず困惑していたら、少女は優斗から体を離してゆっくりと何処かに向けて歩き出した。

 見てないところで自殺なんかされてはたまらないと、ついていった先がこのマンションだった。




「ほら、入った入った」


 ふらふらと力なく玄関に入った少女は崩れ落ちた。


「おいおい、大丈夫かよ」


 見知らぬ少女の家に勝手に入り込む勇気は無かったため、そのまま玄関の外で声をかける。


「ちゃんと風呂入って温かくして寝ろよ」


 果たしてこのまま放置して良いのだろうか。

 この中にいるであろう少女の家族は助けてくれるのだろうか。

 もしこのまま何もせずに帰ったら、彼女は再び命を捨てようとするのではないか。


「(でも俺に何が出来るって言うんだよ)」


 優斗は一介の高校生だ。

 警察も病院も拒否する死にたがりの少女を救う方法なんか分からない。


「じゃあな」


 優斗はピクリとも動かない少女の背に声をかけて扉を閉めた。


 ……

 …………

 ……………………


「あのなぁ。鍵を閉めろよ」


 しばらくの間待っても、鍵がかかる音が全くしなかった。

 そもそも先ほど帰って来た時にも鍵がかかっていなかったのだ。


 年頃の女の子が住んでいるというのに、あまりにも不用心。


 それゆえ忠告をしたのだが、彼女の姿は先程までと全く変わらず聞いているかどうかも怪しい。


「今度こそ俺は行くからな。いいか、ちゃんと鍵を閉めて、風呂入って歯磨いて寝ろよな!」


 見捨てられない心を振り払うかのように、優斗は少し強めに扉を閉めて今度こそその場から離れた。


 嫌な出会いをしてしまったと心が重い。

 このまま放置したらまたあそこに行くのではと不安がある。


 そして何よりも、あの見覚えのある澱んだ目つきが優斗の心を苛立たせる。


「ああもう」


 その不快感は少女が住むマンションのエレベーターで階下に降りる間もまったく消えず。


「ああもう」


 マンションを出てどしゃぶりの中を歩き出しても流れ去ってはくれず。


「ああんもうん」


 道路と反対側にある自分が住むマンションに戻る時にはいつの間にか早足になっていた。


「ああもう!」


 優斗は急いで自分の部屋に戻り、ぐしょぐしょになった全身をパージしてバスタオルでがさつに拭き取った。

 そのまま適当に服を着て、目についたものを適当に鞄にぶち込んで外に飛び出した。


「ああもうああもう!」


 見捨てられるわけが無かった。

 人が死のうとしているのに、放置できるわけが無かった。

 玄関から見えた暗闇の中が荒れ果てている様子にも気付いていた。


『優斗』


 嫌な記憶が思い出され、心臓が早鐘を打つ。

 体は拭いたはずなのに、今度は嫌な汗で濡れているかのように感じられる。


 偶然にも優斗と彼女のアパートは目と鼻の先の位置にある。

 車一つ走らぬ深夜の道路を勢いよく横断し、優斗は少女の部屋に飛び込んだ。


「……やっぱり鍵かけてねぇのか」


 少女は先程別れた時と全く同じ体勢だった。

 まるで死んでいるようにも見えるが、かすかに背中が上下に動いているからそうではないのだろう。


「わりぃな。入るぞ」


 優斗は部屋の中に入り玄関を閉め、内鍵をかけた。


「(見知らぬ女子の家の中に入っちまった。捕まっても文句は言えねぇな)」


 手探りで電源を探り当て、部屋の中に明かりを灯す。

 そして少女の手を取り肩を支えて強引に立ち上がらせた。


 間取り的には玄関から先に通路があり、その両側にいくつかの部屋の扉。

 通路の先にも扉があるが、そこは開いていてリビングらしき部屋が見えていた。


 ひとまず優斗は彼女をリビングまで連れて行く。

 そこで一旦手を離して再度電気のスイッチを探した。


「おいおい……」


 リビングのあまりの惨状に開いた口が塞がらなかった。


 床が様々な雑貨や書類や衣服などで散乱している上に、数々の棚が中身をぶちまけほとんど倒れている。

 テレビを始めとする電化製品も倒されていて、ソファーは刃物で切り付けられたかのように破かれ、テーブルにもヒビが入っている。


 強盗が入った、というよりも誰かが錯乱したかのような有様だった。


「(もしかしてこの女の子が? いや、それよりも……)」


 誰がこれをやったのか、何故こうなってしまったのか。

 その当然の疑問を考えられなくなる程の異質な場所があった。


 リビングの一角。

 真っ白な壁にスプレーで巨大な落書きが為されていたのだ。




『祝死』




 街中の落書きのようなそれは、決して部屋の中にあって良い物では無い。

 そしてその文字もまた、決して組み合わせて良い単語では無い。


「…………」


 優斗はしばらくの間、厳しい目でその文字を睨みつけた。

 そしてふっと力強く息を吐いた。


「よし、とりあえず風呂だ。それかシャワー」


 今はこの部屋の状況を考えるよりも先に、少女を休ませることが先決だと判断した。

 雨に濡れたままでは風邪をひいてしまう。

 風呂場らしき場所を探し、そこに少女を放り込んだ。


「さて、とりあえず場所を作るか」


 ここに彼女の家族はいない。

 ある物を見た優斗はそのことに気が付いていた。


 だからひとまず自分がこの状況をなんとかしなければならない。


 まずリビングに倒れている大きな棚を起こして、目障りな文字の前に移動させる。

 上半分くらいがまだ見えているが、多少はマシになった。


 リビングにつながっているダイニングの方のテーブルは無事だったため上を綺麗に片付ける。

 足元も掃除をしたいけれど、細かい物が多すぎて時間がかかりそうだ。


「時間がかかるといえば、遅いな。まさか」


 風呂場にぶち込んだはずの少女が妙に静かなことに気が付いた。

 慌てて優斗は脱衣所への扉を開けた。


「やっぱり……」


 少女は崩れ落ちたまま、何もしようとはしなかった。

 このままでは本当に風邪をひいてしまう。

 かといって自分が脱がして入れるわけにもいかない。


 仕方なく優斗は非常手段をとった。


「このままだと風邪ひいて病院に行くことになるぞ」


 ぴくり、と病院という言葉に反応した。

 少女が嫌がる言葉を使って動かすのは気分が悪かったが、こればかりは仕方ないと思うことにした。


「わわ、急に脱ぐなって!」


 のっそりと立ち上がった少女が脱ぎ出したため、慌てて脱衣所から出た。

 しばらくするとシャワーの音が微かに聞こえて来たので、今度は大丈夫だろう。


「しゃ、シャワー……」


 優斗の男心は大丈夫では無かったが。


 女の子が住む部屋に二人きりという状況を意識しないようにしていたのに、思い出してしまった。


「いかんいかん、今は片づけだ」


 少女が風呂から出たら、ご飯を食べさせて寝てもらう。

 だからキッチン周りを中心に片付ける。


 先程色ボケしかけた優斗だが、改めて部屋の惨状を目にする事で一気に気持ちが萎んで行く。

 今はただ、何も考えずに出来ることをやろうと心に誓った。


 そしてダイニングにひとまず寛げるスペースを作り終えたタイミングで、風呂場の扉がガチャリと開いた。


「お、出た……か…………」


 音に反応して反射的に目を向けた優斗は驚いた。




 彼女は何一つ身に着けていなかったのだ。

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