姫は俺の全てだ

「チッ、逃したか」


 ゼオの舌打ちを聞きながら、エオライトは目の前に広がる光景をじっと見つめていた。

 冒険者ギルドライカ支部の庭では、大勢の冒険者たちがすやすやと気持ち良さそうに眠っている。


「どーも。ちょっと遅かったみたいですぜ」


 切り株に座って、呑気にタバコを蒸しているのは、ギルドマスターのスタインだ。


「どーもじゃねぇ! 姫はどうした?」


「見ればわかるだろ? 行っちゃいましたよ」


 スタインは肩をすくめる。

 エオライトは絶望でふらふらになりながらも、スタインに尋ねる。


「どこへいくつもりか、聞いたか?」


「さあ。ただ、飛竜を借りたがっていましたよ。どこか遠くへ行くつもりなんでしょう」


 エオライトは、ぐ、と拳を握った。


(姫……そんなに俺のことが、嫌いになったのか)


 ゼオとスタインが何やら話しているが、何も頭に入ってこない。

 エオライトはぼーっと、ミュリエルと出会った時のことを思い出していた。


     *


 生まれた時から、ずっと何かを探しているような気がしていた。

 それだけが、自分の生まれてきた意味なのだと。

 それがないなら、自分に生きている価値などない。

 だからエオライトは、何にも真剣になれずに、空虚な人生を送っていたのだろう。

 その子に出会うまでは。



 その頃のエオライトは、どんな悪人の護衛も請け負う傭兵として、適当に日銭を稼いで生きていた。

 その日も護衛の最中で、敵には勝ったものの、結局自分もボコボコにされて、治療も受けられずに路地裏に捨てられた。まあ、いつも大体そんな感じだ。

 

「あらまあ」


 澄み切ったソプラノの呟き声。

 誰かに軽く肩を揺すられて、エオライトは目を覚ました。

 ぼやける視界に、ずいっとアメジストのような瞳が映る。


「お兄さん」


「……」


「こんなところで眠っていたら、風邪を引きますよ?」


 幼い少女は、そう言ってにっこりと微笑んだ。

 持っていたハンカチで、エオライトの切れた唇の端を拭う。

 思わずエオライトは、その手を止めた。


「触る、な。君が、汚れる」


「構いません。汚れても、あなたの血を拭って差し上げたいのです」


 綺麗な身なりをした少女だ。

 服装だけではない。

 その存在自体が、何か尊いような。

 自分のような汚いものに触れさせたくないと、そう思った。


「君、は……」


 少女はエオライトの血を拭う手を止めない。

 柔らかくて、優しい手だった。


「あなたの怪我を治してあげたいけれど、ミュリは治癒術を持っていません」


「……」


「ミュリは、傷つけることしか脳がありません。多くのマナを有していても、人の怪我を直すことはできない……」


 悲しそうな声に、エオライトの胸は締め付けられた。


「泣かなくて、いい」


 どうにかして、笑顔になって欲しかった。


「君が伸ばしたその手に、救われる人もいるだろう」


「!」


「俺が、そうだ」


 自分の怪我は、当然の報いだ。

 それにエオライトは、化け物じみた体を持っている。

 怪我をしてもすぐに治るし、人よりもずっと、肉体は強い。


 だけど。

 今まで誰も、その怪我や傷に触れて、治療してくれる人はいなかった。

 心配してくれる人も。


 この見知らぬ少女が、初めてだ。

 エオライトは、その優しい心遣いが、嬉しかった。凍えた手を温めてもらったような……そんなふわふわとした、優しい気持ちになる。

 

「……気持ちだけで、嬉しいんですか? 何もしてあげられることはないのに? 私は……人を傷つけてばかりなのに?」


「少なくとも、俺はそうだ」


 心地よい手だ。

 誰の愛も与えられなかったエオライトは、その手の温もりを、離したくないと思ってしまった。


「この手はお母様を傷つけたのに……あなたのように、救われたと言ってくださる人もいるのですね」


 少女は嬉しそうに笑った。


「……あんたの手では、俺は傷つかない」


「本当に?」


「……俺は強いから」


「ボロボロじゃないですか」


「でも、死なない」


 そう言うと、少女は不安そうな顔をした。


「傷ついて欲しくありません」


「じゃあ……傷つかないくらい強くなる」


 そう言うと、少女はぱあっと笑顔になった。

 その顔を見ていると、エオライトの胸にもあたたかい感情が広がっていく。


「約束ですよ? 今よりももっと強くなってください。そんなボロボロの体にならないように」


「ああ」


「私も、自分の力をコントロールできるようになります。傷付ける力ではなく、人を助けられる力になるように」


 少女は笑った。


「そうしたら、いつかもう一度会い見えましょう」


「……ああ、必ず。君に、会いに行く」


 少女の差し出す小指に、自らの小指を絡めた。

 あまりにも細くて折れてしまいそうな小指。


 その日、孤児の青年は、幼い少女に一目惚れした。


 どんな形でも良い。

 自分はあの子のそばにいなければいけないのだと、強く強くそう思った。


     *


「……い! おい、エオライト!」


「!」


 肩を揺すられて、エオライトははっとした。


「ぼうっとしてないで行くぞ! とにかく姫の足取りを追うんだ」


「あ、ああ」


「幸いなことに、冒険者の一人が姫に張り付いてるみたいだ。そこから情報を流してもらおう」


「!」


 スタインを見れば、彼は肩をすくめた。


「……分かった。行こう」


 エオライトたちがすぐ出発しようとすれば、スタインがその背中に声をかける。


「あ、そうだ領主様。姫様がマナの測定水晶を割ったんで、新しいのを買ってくれません?」


「……」


「ちなみに一番最新式のやつ。あの水晶玉を割るってことは、一人で大陸を滅ぼせるほど強力な魔術も使えるってことですぜ」


 エオライトはため息を吐いた。


「請求書を回しておけ。ちなみに姫は、それを連続で十個割ったことがある」


「……」


 エオライトはそう言って、ゼオの後についていった。

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