4.前日

越えられた一線

(1)

 翌日。


 前日から引き続き、灰を詰めたような彼方の熱源真夏の太陽を隔てる空。それでも押し通る光が薄く蔓延はびこり、皮肉にも室内灯程度には世界を照らしている。一方で、同じく薄く垂れていた霧雨は午前中の早々には退散していた。


 ただ、だからといって不快指数が低いわけではない。上空の積雲どもはそれこそ水気を吸った綿布団のように君臨し、地上から上へと逃げるはずだった蒸気を片端から押し返している。空気が入れ替わらない。酸素が薄い。熱気が還流して籠もる。


 いや、それは室内だから、か。


 午後1時からの定時会議に向けて、続々と会議室へと踏み込んで来ている、捜査員たちの熱気。ある者は黙々と、ある者は動揺しながら。

 しかし、それは約24時間前とは逆の様相を示していた。黙々と入室するのはであり、心持ち所在なさげなのはである。

 なお、熱気のほとんどを担うのは黙々と進む方だ。熱気と言うよりは、もはや怒気と呼ぶべきものが各員から噴き出し、充満したは部屋の中で特大の錦蛇ニシキヘビのごとく蜷局とぐろを巻いていた。


 密林のように、苦しい。


 叶署員側の席の眼が、視線が一点へと集約している。その眼は多くを語ることはなく、ただひたすらに注がれるのみだった。逃す気はない、と言わんばかりに。


 晒される境管理官が会議の開催を宣言する。


「それでは本日の定時会議を始めます。まず始めに……柴塚巡査部長、について報告してください」


 境にしては珍しく一瞬言葉が泳いでから柴塚を指名する。

 周囲の、正確には叶署員側の席からの熱量がさらに割増になる。それらの眼が境だけでなく柴塚をも舐めるように捕らえてくるが、柴塚は微塵も動揺しなかった。が柴塚への敵意ではないことは百も承知だということもあるが――


 ――何より、最大の熱源は柴塚自身なのだから。


「本日8月12日金曜日早朝○○区△△通、海岸沿いで第2と第3突堤の間の倉庫街で喫茶店を営む夫婦が発見。被害者は――」


 刹那、が途切れる。

 渦巻く熱気が、ぞろりと這った。


「――、24才」


 無形の圧が鎌首をもたげる。その無数の眼が無言で注がれる。

 一身に受ける境は、少し眉をひそめた。


「胃の内容物の状態から死亡推定時刻は本日午前0時から2時、何らかの薬物中毒と思われますが、詳しくは解剖の結果待ちです。榊の足取りは昨日午後8時に定食屋で食事を取った以降から途絶えています」


 淡々と言葉を続ける一方で、自身の内圧がチリチリと上昇してくるのを柴塚は感じていた。


「検視では首筋に注射痕が確認されており、何らかの薬物で意識を鈍らされた後で、さらに別種の薬物を注入されたと推定しています。本人に自殺の動機も予兆もありませんので、他殺で間違いないかと。なお――」


 柴塚の眼が険しくなる。


「――榊は昨日から配備されたS&W M37エアウエイトを携行していたはずですが、見当たりません。犯人が持ち去った可能性が高いと思われます」


 以上、と言わんばかりに言葉を切る柴塚。

 ただし席には着かない。そのまま、境を凝視したままの姿勢から微動だにしない。同様に、境に無数の眼を固定したままの熱流も動かない。

 いや、正確には、今は柴塚を通り越して前へ、境管理官の目前へと迫っていた。


 答えを、待っている。

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