1.四日前(1)‐ i

 蝉の声が圧を増して襲いかかってきた。


 署内の空調は控えめ、いや、はっきり言って利いていないとしか思えないが、外に出ると桁違いの不快感に思わずため息がこぼれる。

 随分と離れているはずのくせに、地球を加熱する太陽光の火力はガスコンロに並ぶのではないだろうか。正直、服を着てサウナか風呂に入っているのと変わらない気がしてくる。毎年毎年「記録的な暑さ」とニュースで聞くが、こうなると記録的でない暑さとやらがどの程度だったかがもう思い出せない。


 この状況下で意気軒昂いきけんこうなのは蝉ぐらいだ。

 室内でも十分にうるさかったというのに、外だと、これが本気だと言わんばかりに鼓膜を強震させてくる。警察署の周囲の街路樹からも聞こえてくるが、蝉の凶声の概ねは署の真向かいにある寺の庭から響き渡っていた。

 県内でも有名なその古刹は、県の政治経済的な中心地にそこそこの敷地を所有している。そこにちょっとした林まで造成されており、やたらと存在感のある木々が、真っ直ぐ、あるいは奇妙にうねりながら伸び盛り、青々と葉を茂らせている。


 熱気と湿気とを圧し固めた大気は、動いても泥のようで質量さえ感じられる。樹の群れが無類の存在感と生々しい躍動感をみなぎらせ、人工物つくりもののように完全無欠な葉を誇る。


 そんな、8月


 H県かのう警察署刑事第一課強行犯係主任、第2班長の柴塚しばづかかおる巡査部長は、ほんのわずかだけ、首をすくめるように一瞬仰け反ってから眉をしかめた。精悍な顔つきの目つきが更に鋭くなる。


 同じく叶警察署警務課装備係長の小野寺おのでらまこと巡査長も顔を歪めたが、こちらは元々が見るからに丸っこいため、単にダメージを受けたとしか思えなかった。


「暑っ、あっつ! 何なん最近の夏は? 人類に恨みでもあるんか?」


 小野寺が思わず口走り、併せて軽くひるんでみせる。

 ややお笑い芸人のようにも感じられるが、狙ってやっているわけではなく、あくまでこれが彼の素なのだ。第一印象はインドアで趣味に生きる人で、実際その通りでもあるが、一方で人当たりが非常に良いのはこのあたりが原因なのだろう。

 その意味では真逆となる柴塚は、ただ一言返しただけだった。


「かもな」


 こちらは軍服でも着せればばっちり決まりそうな風貌で、遠くの積乱雲を軽くにらんでいる。


 この二人、柴塚と小野寺はかのう警察署内では数少ない同期であり、プライベートでも交流がある間柄で、柴塚にしてみれば気のおけない友人だ。

 端から一瞥いちべつするとミスマッチの見本のようではあるが。


 そのまま少し足を進めて、柴塚が灰皿の前で煙草を取り出す。ボックスから一本取り出し、オイルライターで火を点ける。並んで立つ小野寺は加熱式煙草をセットし始めた。

 柴塚が軽く一服していると、間もなく小野寺も吸い始める。登場したての頃は加熱に少し時間がかかっていたものだが、新機種となる度に短縮されているようだ。


 2020年の改正健康増進法施行で警察署内も屋内禁煙となり、喫煙は屋外の喫煙所のみとなって、喫煙者にとっては中々に肩身の狭い世の中になった。署内でも有数のヘビースモーカーである柴塚の上司、刑事第一課課長の赤井あかい伸之介しんのすけ警部などは、眉間のしわが明らかに増えて深くなっている。

 同じ立場としては痛いほど気持ちは分かる、と言いたいところだが――いや、気持ちは間違いなく理解しているのだが――もう既に1mgを一日1~3本にまで減らしている柴塚にしてみれば、やや他人事の感があった。吸いたくて吸う回数はほとんど無くなり、今や付き合いやきっかけ作り、口実に煙草が使われている。


 今のように。


「んで、どうなんよ、薫ちゃん?」


 実はこちらも喫煙本数は激減している小野寺が声をかける。

 洒落や冗談が通じるようには微塵も見えない柴塚の、ともすれば女性と間違われるその名前を軽々と呼べるのは小野寺ぐらいのものだ。

 実際、柴塚自身、自分の名前に昔はコンプレックスを持っていたわけで、条件反射で、つまり無意識で目つきが険しくなる。


目撃者見たヤツが出てこない」

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