夜が醒める

橘 永佳

前夜

――祭事の支度――

 潮騒が聞こえる――


 違う、潮騒の他には何も聞こえない――


 いや、それも違う。

 潮騒の他には何も


 当然のことだ。時間で言えば未明、つまり真夜中。さらに、分厚い雲が空を隙間なく覆い尽くして、月どころか星の一つさえ覗けない。


 その上、目の前に広がるのは茫洋たる海。


 月明かりも星明かりも無く、灯りもともらないのであれば、人の目がとらえられるものは何もない。やや季節外れな感のある台風が向かってきているため波は荒れ気味で、8月らしい熱気と湿気が籠もった不愉快な潮風も、時折肌を締め付けるかのような印象がある。まるで、肌の感覚が、蒸されてぼやけてしまったみたいだ。


 分かるのは、海の放つ潮の匂い。

 それから、気ぜわしく耳をさわる波の音。

 その夜に有るのは、ただそれだけ。


 もっとも、実際には、私が居たのは海のど真ん中というわけではい。海を前にした砂浜に居たのであり、後ろには松明が焚かれていたはずだ。だから見えないというのは事実とは異なる――


 ――ああ、また違った。夜闇ではなくてから見えないんだった。


 記憶というものは克明のようであってもいい加減なもので、気がつけばいつの間にか改変されていたりする。

 見えないのは、闇ではなく押さえつけられているから。

 肌を締め付けるのは、潮風ではなく誰かの手のひら。

 耳の奥までも震わせるのは、潮騒ではなくくぐもった悲鳴。

 その証拠にほら、顔を上げれば、夜の黒の中に猫の目のように浮かぶたくさんの――


 ――ああ、また違う。

 そうじゃない。どちらか片方ではない。なのだ。

 見えないのはで、肌を締め付けるのはで、耳障みみざわりなのは。それが事実だったはずだ。


 ただ、闇夜に浮かぶ目は事実ではない。

 それは、あの夜の事実ではなく、あの夜の事実だ。私にとっての。


 つまり、は、このごちゃ混ぜの情景は夢なのだ。


 気付けばどうということはない。

 いつものように、私は目をつむって、指先に意識を集中する。まずは右手の人差し指から。ただ指先の感覚だけを拾うように集中して、そして指を曲げるよう全身に命令する。

 ただ一点。それだけに。

 指先が、くくっと曲がってしまえばこちらのもの。そのまま中指、薬指と広げていき、さらには左手へと広げ、そして今度は両手を前へと突き出す。


 そして、目を開ける。


 視界に広がるのは海でも夜闇でもなく、天井だった。

 薄く点けてあるフットライトの反射光で弱々しく浮かび上がるビニールクロスは、いっそ清々しい程に歴史を感じない。今先ほど自分を包んでいた、命をき出しにしたような圧迫感とは無縁だという顔をしている。

 夜だということには何も変わりがないというのに、随分と違うものだ。


 そう、違う。

 決して大げさな表現ではない。私にとっては、誇張なく、正真正銘、夜と夜とでは全くの別物だ。

 夜。数え切れない目が浮かび、まとわりつき、突き放してくる日々。いつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつも。


 それが夜には無い。


 ベッドから降り、窓を開ける。

 月明かりだけに止まらず、街灯、コンビニ等々深夜でも営業している店から漏れる光と、光を生み出す源が溢れている。

 繁華街などではないから真夜中の夜闇に光を提供する店も少なく、車が行き交う主要幹線からも外れているので、まあたかが知れてはいる。だが、それでも、光が余り過ぎて、かつては数えられた星明かりが分からないぐらいだ。


 無い。

 何も、無い。

 ああ、なんと素晴らしいのだろう。


 夜中であっても風は真夏らしく、肺を圧し、むせるような重さの湿気た熱をたっぷりと抱え込んでいる。それはいつの夜も変わらない。も、も、夜も。

 

 しかし、私を押し潰す熱も、檻に詰め殺す熱も、夜には無い。夜にある熱は、私に厚く滴る鉛を溶かすものだ。鉛は気化する際に重力をも奪い取っていくようで、肺が広がり、四肢が軽く、頭が軽く、まとわりつく霧が晴れる。


 世界の透明度が増している。

 世界と自分と私との一体感が増している。

 私は全てを視、全てを知り、全てを操る。

 かつての夜は全て消え去り、今や夜は私そのものなのだ。


 何という解放感、高揚感、全能感。


 自然と笑みがこぼれた。

 満天のみならず視界全てに広がる、私を讃える煌めきを喰らうように、大きく息を吸う。

 気付かないうちに、軽く目を閉じていた。

 満たされる――




 ――さあ、始めようか。

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