最終話 惑いの回廊

 パルム軍警察本部


「その話本当なのか?」

 ダリル・メイ中尉は声をひそめた。

「おそらく本当ですね。我々はまたやぶ蛇をつついたのかも知れません」

 マリス・ローランド少尉は更に声をひそめる。

 余計なことを知りすぎたのかも知れない。

 メル・リーナの人相風体にんそうふうていは分かり易すぎる。

 だからこそ、様々な情報が集まってくる。

 その中に、放置出来ない情報が混じっていた。

 メル・リーナがリーナ家の屋敷たちから遠く離れた南区にあるパルムの貧民街で度々目撃されているという情報だ。

「調べておくべきかと思うか、マリス?」

「判断はつきかねます。ですが中尉が必要だと判断されるならば」

 その地域は危険過ぎた。

 貧民街の中でも最も治安が悪い。

 そもそも住んでいる連中に戸籍がなく、大陸各地から食い詰めた流れ者たちが行き着く先であり、住人達は居るのに居ない存在だった。

 街を仕切っているのはレジスタンスでも武闘集団とされていたし、まともに言葉が通じる連中ではない。

 パルム警視庁も其処そこの地域の住民たちには手を焼いていた。

 皆命が惜しい。

「しかし、そんなところに金持ちの令嬢がのこのこ迷い込んだりしたら身ぐるみをがされて陵辱りょうじょくされた挙げ句に誘拐されるか、殺されるかだろう?」

「“何度も通い詰めている”んです。もともとリーナ家は皇族筋だし、フェルベールは元は男爵家です。つまり、“両親とも関係がない”し、関係者がいる筈がない」

 そして名門大学学生の立ち回り先ではない。

 反政府運動家たちもなかなか寄りつかないような地域だ。

 通常ならダリルもマリスも手を引く。

 だが、パトリック・リーナもメル・リーナも身柄を拘束こうそくできていない。

 このままではノース・ナガレ少佐の責任問題になる。

「慎重に行こう。俺はレアード、お前はクルツと共に一目で軍警察と分かる格好で乗り込む。当然、銃とナイフは携帯しておく」

「わかりました」

 一目で軍警察だと分かる格好なら傷つけたり殺したりすれば問題になると、強面こわもてで教養のない連中でもわからせるためだ。

 危険な夜を避け、昼過ぎという時間帯を狙う。


 パルム南区は南端を占める旧家群、歓楽街、工業区、スラム街とが入り交じった市内では一番広い区画であり、はっきり言えば治安に重大な問題を抱えていて、一方で工場労働者たち低所得層が老朽化ろうきゅうかした安普請やすぶしんのアパルトメントに暮らし、歓楽街は華やかな色町ではあったが雑多で売春宿など風俗施設も多い。

 スラム街はもっとすさんでいて昼間から見るからに物騒な連中が通りのあちこちに立っている。

 ダリルたちは指定された地区に踏み込んだ途端に違和感を感じた。

 南区の他とは変わらない安普請やすぶしんのアパルトメントが立ち並んでいる。

 しかし治安の悪い地域に特有のえた空気がない。

 路上には大小便のあともなく、ほとんどちりひとつ落ちていない。

 物乞ものごいもいなければ孤児たちも居ない。

 あるいは貴族や富豪、官僚たちの住む整然とした東区を思わせるほどに通り自体は綺麗なものだった。

此処ここ何処どこが治安の悪い区域なんだ?」

 マリス・ローランドはクルツ・ファーラー伍長と互いの死角をカバーしあうようにして慎重に歩み続ける。

 同様に少し距離をあけてダリル・メイとレアード・ケッペルス軍曹が慎重に歩みを進めていた。

 人の住んでいる気配がほとんどしない。

 喧騒けんそうもなく、露天商たちも居ない。

 逆に薄気味悪さを感じて四人は体を寄せ合うようにした。

「聞いていた話とはまったく違うな」とダリル。

「おかしいですね、こうも誰も居ないとなると」とマリス。

 聞き込みしようにも誰に話を聞いたら良いというのだ。

 通りを進むと奇妙な石畳が広がる通りに出た。

(なんなんだこのかいなモニュメントは?)

 石畳にはなにかの場面のような奇妙な絵のような色鮮やかな彫刻がなされている。

「なんでしょう?まったく見覚えがありませんが何処どこか懐かしさを感じさせる」

 マリスの指摘にダリルはうなづいた。

「ああ、確かにそうだが『懐かしい悪夢』だな。子供の頃にうなされて見た悪夢」

 せ細った男が十字架にはりつけにされている。

 兵士達の持つ槍が脇腹わきばらえぐっている。

(えっ?)

 一緒に歩いていた筈のクルツとレアードの姿がダリルとマリスの視界内から忽然こつぜんと消え失せていた。

「クルツ、レアードっ!?」

 ダリル・メイ中尉の叫びは薄気味悪い通りにかき消された。

何処どこに行ったんだ二人とも!?」

 慌てて居なくなった二人を探すダリルとマリスの二人は石畳を乱暴に踏みしだいていた。

 異なる画の描かれた石畳だが、ダリルとマリスの二人が感じるのはいずれも「得体の知れない醜悪さ」だった。

 様々な場面の様々な画に共通するのは根源的な恐怖となにもかもを飲み込む深淵だった。

 それに対して生理的嫌悪感しか感じられない。

 理由なき恐怖と絶望。

 まるで心を縛られ、束縛されることが快楽へと変わり、完全に心を支配される。

 二人は無意識のうちにファーバ教団の言う御仏みほとけにすがっていた。

 きちんと手順を踏み、敬虔けいけんな心と世の中の摂理せつりわきまえれば誰でも至れるという御仏みほとけの道。

 魂の救済は其処以外にはない。

 人ならば誰もが試され、誰もが惑う。

 だが、惑うこともまた真理へと到る道筋だった。

 神無きファーバの教えと真言マントラとを無意識に唱えながら、ダリルとマリスはそれ以外の何かから必死に心を守ろうとしていた。

 アレは好奇心につけ込んで体の中に入り、這い回る蛇のようにその身を溶かしていくモノ。

 自らをおとしめ、罪人の烙印らくいんを刻みつけ、魂を支配し、あたかも自身が上位種にでもなったと錯覚させるもの。

 優越感のうちに他者をおとしめ、結果的にその魂を真理から遠ざけてしまう。

 必要も根拠もない上下の概念など意味もなく、ダリルはマリスよりも階級が一つ上だからこそ、部下のマリスに対してより多くの責任を感じ、マリスはその逆にダリルが先達だからこそ自分より多くの経験を積み、なにより美徳を持つからこそ尊敬しているのだという自分たちの常識と認識に身をゆだねた。

 わからないものを無理してわかろうとすれば、必然的に想像で補うよりなくなる。

 補正された想像が現実で見てきた光景を否定して、真理と真実から遠ざかってしまう。

 真実とは人は誰もが一人で、変化は常に起き、どれだけ望んでも元の自分では居続けられず、変わり続けるからこそ、やがては死に至り、再び再生されるからこそ、長い道程の果てにセカイの構造とそこに在る真理に到るのだという確信。

 それを垣間見て、自分たちの有り様こそが正しいのだと認知した。

 「悟り」への道程は遠い。

 だが、其処に到る道は確かにあり、セカイに己が居ること、セカイの一部として在ることが正しいのだと二人は認知していた。

 なにも怖れることはない。

 決して惑わされるな。

 やがては人はヒトとしての姿を保ったまま、其処そこに到る。

 何故なぜならば・・・。


 はっとなって目がめたとき、二人は酒場のカウンター席であたかも酔いつぶれていたように錯覚した。

「いよう」

 二人は聞き慣れた声で我に返り、彼の顔を穴があくほど凝視ぎょうししていた。

「やはり、お前達は来られたな」

「ノース少佐・・・」

 このところ苦渋に満ち、焦っているように見えたノース・ナガレ少佐が涼やかな顔でカウンター席の一番奥に陣取り、紙煙草を片手にゆったりと盃を傾けていた。

「やはり『キタさん』の見込んだ部下さんたちですね。“惑いの回廊”を抜けてミセまで来て見せた。大した御仁ごじんたちです」

 次第にはっきりしてきた認識が、ダリルとマリスに二人の部下の消失を認識させた。

「少佐、申し訳ない・・・」

 続けて消え失せた部下達の名を思い出し、二人をうしなったことをびようとしたがどう頑張っても思い出せなかった。

 ダリルはマリスに視線をやったがマリスは戸惑った顔で首を振った。

「気にするな。お前達はある事実を確認するためここに来た。それだけだし、あの情報は俺がわざとリークした」

 こともなげに言うノース・ナガレは微笑ほほえんでさえいた。

「えっ?」

「つまり、俺は最初からパトリック・リーナも、メル・リーナも捕まえる気がなかったし、此処ここは以前からの馴染みだ。そして、此処はとても『治安が悪い』。通りを歩いていた人が忽然こつぜんと姿を消して二度と戻ることはないし、関係のあった人間達の記憶からもその存在が消え失せる。き清められたが如くに街は整然としていて、其処そこに住む住人たちは皆が目的を持って生きている。昼間は誰もいやしない。大人だろうが子供だろうがね。貧しいがその本分にのっとって日々を懸命に生きている。だから、貧民街などと呼ばれたりもするが、皆決して心は貧しくなどない」

「はい、その通りです。そして誰もが善良で親切だし、助け合うことを当然のこととして生きています。だから今時分は我々の他には誰もいやしません」

 ミセのマスターはせっせとグラスをみがきながらノース・ナガレ少佐の言葉を全面的に肯定こうていし、気付けがわりにとダリルとマリスにスコッチを注いだ。

「私からのお祝いと歓迎の意味でのおごりです。まぁ、まだ勤務時間ですから気付けと思ってグイっとやってください」

 乾ききっていた二人はそれぞれグラスを干し、マスターはかわりに水を注いでやった。

「以前はそうじゃなかった。ご多分にれず、此処ここは臭く汚くて住人達の心も貧しかったし、日々を生きることに汲々きゅうきゅうとしていた。誰かを傷つけあやめることで日々のかてとして生きていた者たちも多かった。受け身でただ流されるままにその場凌ばしのぎで生きていた者も多かったし、なにより誰もが流れ者だった」

 よく品の良い中年男のマスターを確認してみると明らかに軍人だ。

 それも自分たちに極めて近い存在。

 ダリル・メイの脳が急速に活性化していく。

「この俺もそうさ。ノース・ナガレは偽名だ。大陸の北から流れてきたからノース・ナガレ。今でも表向きはそれが役職名だが、その実俺の名はエーベル・クライン。女皇正騎士でサイエス組と呼ばれる分団の一員であり、調査室長グエン・ラシールの監視役であり女皇騎士団副司令トリエル・メイル皇子直属の部下だ」

 女皇正騎士のエーベル・クラインという人物についての情報はまったくない。

 しかし、レオポルト・サイエス公爵がシーナとアンナという二人の娘と共に起居する屋敷にはサイエス分団の詰め所があるという。

「それじゃ、少佐というのも?」

 尋ねたマリス・ローランドも知っているが、女皇正騎士たちは司令、副司令以外は全員が少佐相当官だ。

 総勢で20名。

 その全員が軍なら高官だ。

「ああ、少佐という意味だ。俺は皇子やイアンと同期入隊した女皇騎士団の比較的古株であり、軍警察の一員として同時に軍警察に入る情報と他所からもたらされる情報の吟味役だよ」

「それってつまりは組織のスパイだってことですか?」と不穏当だと認めつつダリルは当惑しながら尋ねる。

「まぁそうだな」

「除名除籍されるまで昇進もしなければ降格もない。元老院議会の認めた『スカートのしもべ』たちの一人?」

 マリスは自分たちの滑稽こっけいさに失笑しかけた。

 ノーズ・ナガレの責任問題などという心配せずとも良いことで、わざわざ危険を冒して乗り込んだ結果がコレだった。

「その通りだ。なにしろ女皇騎士団という組織自体が出自を問わない。実力、実績、忠誠心主義の集団だからな。そして、俺は最初から組織の主流派じゃない。スパイとして軍警察に身を置き、入る情報で聞き捨てならないものを女皇騎士団に流す役であり、ガセネタを広めてお前達を右往左往させる役だよ」

「それじゃ、パトリック・リーナに対する嫌疑やメル・リーナを拘束しろというのも?」

「そうだ。トリエル殿下の指示でお前達を猟犬りょうけん役に仕立てた。あの連中にこのパルムで安逸あんいつな学生生活をさせられなくなってな、それでお前達を使って追い立ててもらったんだよ。なぁに、明日朝には逮捕命令そのものが撤回される。表向きは国家騎士団副総帥トゥドゥール・カロリファル公爵の命令だが、その実、トリエル殿下の置き土産だ」

「貴方っていう人は・・・」

 ダリルは血相を変えてノースあるいはエーベルをにらんでいた。

 マリスはダリルが激昂げっこうしてノースに狼藉を加えないよう止めるために袖口をつかんでいたが、その目はダリルよりも鋭くノースをにらんでいた。

「俺にとって主は女皇陛下と皇弟殿下だけだ。元とはいえ司令だったグエンも、現司令のハニバルも忠誠の対象じゃない。敢えて付け加えるなら、メリエル・メイデン・ゼダ皇女殿下だ。この街の浄化を成した偉大なる女帝さ」

「はい、左様にございます。我らのメリエルさま」

 ミセのマスターは穏やかに相槌あいづちを打った。

「ある時期まで此処ここは本当のめだった。俺もやさぐれていたし、スパイとしてお前達をだますことにも辟易へきえきしていた。それにトリエルを憎んでさえいた。だが、此処ここの治安の悪さはその意味を変えた。ある思想に取りかれたヤツらにだけ、此処ここは相変わらず治安が悪いよ。それこそ、踏み込んだ途端に存在そのものを消されてしまうおっかない場所さ」

「はい、そうですなキタさん。はじめ人捜しに来たあの方は此処ここにはそれなりの“結界”が必要だとお考えになられた。それが我々が『惑いの回廊』と呼ぶあの装置ですな」

「いったいどういう意味なんです、少佐?」

 「惑いの回廊」の内容は分かっている。

 心を試される迷路であり、認知を乱される。

「お前達が見てきたもの。アレはここではない東洋世界で実際に用いられた『踏み絵』というカラクリだ。つまり、あの石畳に描かれていたモノはかつて俺たち“ヨーロッパ人”を洗脳支配していたそのものの概念たちだ。だが、お前達二人は“本物のエウロペア”の民だった。だから、本能的に拒絶して子供の頃にみた悪夢のような違和感を感じた筈だ。アレこそが始祖メロウが望まなかった『魂の束縛』だ。アレがすべての歪みの元凶だとさえ、始祖女皇メロウは思っていたんだよ」

 始祖女皇メロウの憎しみの象徴?

「“神様にしばられている連中は神様にはなれない”つまりは俺たちの魂の正しき成長を阻害する悪しき概念。人に上下の概念や、差別意識を植え付ける『呪い』そのもの。人はそれが為に道を誤り、それがためにありもしない『天国』とその対局たる『地獄』の存在を信じてしまった。その結果、人が人に値札をつけて売り買いし、上位種と下位種を隔てる格差やいわれない差別による『ほんとうの地獄』が地上世界を支配してしまった。メロウの絶望の根源たる縮図が惑いの回廊だ。あそこに描かれた全てが人の犯した罪の形だし、それとの決別こそが俺たち一人一人が俺たちである意味なんだ」

 つまり、メロウの中で人の正しい在りようとはファーバの教えそのものだった。

 誰でも道を誤りさえしなければ、真理に至れる。

 生きていく上で犯す罪もまた、生きていくが故に避けて通れない「業」。

 しかし、「業」と「原罪」とは異なる。

 人の良心とは「業」を「業」として認知し、置かれた立場や役目により重ねられていく過程で生じた同じ立場に置かれた他者への寛容だった。

「そうですとも。人は皆等価値であり、差別されおとしめられる理由などは何処にもない。人が至高の存在に到る道は用意されていて、誰もがそれぞれの足取りで其処そこに到る可能性を秘めている。だからこそ、メリエル様はそれを試す場として此処ここを利用されたのです」

 ある日、フラリと現れたメリエルは汚らしかったこの貧民街に試しの場をもうけると言い、惑いの回廊を作り出した。

 どんな方法を使ったかも分からない。

 当然の如く、この小さな闖入者ちんにゅうしゃに対してからんだり突っかかった者たちがいたのだが、彼等は惑いの回廊に裁かれた。

 往来の中央にあるあの「惑いの回廊」を避けられた者は居ない。

 だが、回廊を無事に抜けられた者は昨日までとは異なる自分に目覚めていた。

「まず、自分の置かれた環境をあらため、自主的に浄化する。そうでもしないとこの呪われた都パルムドールは血にまみれた荒廃地こうはいちであり続ける。だが、その住人達が自主的に変革を望めば、かつて《アリアドネの狂気》にゆがめられたこの地も『オリンピアの加護』により再生し、其処に住む者たちの魂も本来の輝きを取り戻す。そして、清貧せいひんに耐えて自分自身の道を歩むことをする。俺たちは流れ者たちだったからこそ、この地の本当の価値や輝きを素直に信じられた。そして、自由に出入りしてファーバの教えを唯一無二の魂の安息へと導く道程だと確信し得た。お前達とてそうだ。人の可能性を信じた。だから此処ここに来られたんだよ」

 ゆっくりとさとすように語りかけるエーベルにダリルは憤然ふんぜんと拳を握った。

 腕っ節ではかなわないのはわかりきっている。

 エーベルは騎士だ。

「少佐が裏切り者だと確信した上で、確かにそうだと認識しても?」

 ダリルはやるせない想いをそのまま言葉にした。

「少しも構わないよ。お前達は自分が信じた通りに行動しろ。ヒントは既に与えていて、誰が俺を排除出来るかも示した。その上でお前達がなにを選び取るかはお前達次第さ」

 ノースのあるいはエーベルの言葉は「落とし前」とその形とはダリルとマリスが選んでいいという意味だった。

「そうさせて頂きます。勇気をもって踏み込んだ仲間が消えたのに俺たち二人だけが『選ばれた』だとか思いたくはありません」

 ダリルの決別宣言に対し、エーベル・クラインは相変わらず涼しい顔をしている。

「そのうち有無を言わさないことになる。何故なぜえて此処ここに呼んだかもそのときが来れば分かるさ。嫁さんや子供たちも惑いの回廊を抜けられると信じることだな」

 エーベルの言葉を背中越しに聞きながら、ダリルは迷うことなくミセを出ていった。

 その後に続きながらマリスはエーベルの真意と言わんとすることを少しでも理解しようとした。

 ミセの外はまだ明るかった。

 かなり時間が経過してはいたが時計を確認したらまだ夕刻だ。

「中尉、どうするんです?」

 ダリルはミセの前でマリスを見据みすえた。

「まだこの時間なら国軍本部にラファール少将が居られる。俺はやはりスパイの存在を無視出来ない。取り次いでもらえるかは分からないが逮捕令状が撤回される前に少佐を告発する」

「それが中尉の正義なら、私も同感です。軍警察の一員としてやはり聞き捨てならない」

 ダリル・メイはあらためて問い直すことはせず、街区の入り口で周囲を確認した後に背後から続くマリス・ローランドの足音を聞きながら国軍本部へと向かった。


 受付で面会申請するとエイブ・ラファール少将は意外にもすぐに会ってくれるという。

 退勤時刻も近いであろうに軍警察の末端まったん捜査官に時間を作ってくれたことにダリルは内心で感謝していた。

 通されたエイブの執務室では秘書官のウェルナ・ルセップ中尉とエイブ・ラファール少将とがいかめしい顔を並べていた。

「軍警察所属ノース・ナガレ少佐の部下でダリル・メイ中尉とマリス・ローランド少尉です」

「緊急の案件だと聞いている。手短に報告したまえ」

 事務的な態度のエイブ・ラファール少将にダリルはにじり寄った。

「はいっ、ノース・ナガレ少佐の正体は女皇正騎士エーベル・クラインであり、我々の組織に潜入中のスパイです」

「うむ、そうだな」

 ダリルとマリスは我が耳を疑った。

 既にラファール少将は承知していたのだ。

「少将、既にご存じでしたか?」

「配属当時からそうだ。それに軍警察の現場指揮官が女皇正騎士でなんの不都合がある。むしろ頼もしい限りではないか。正騎士たるエーベルには職務に対する重い守秘義務が課せられていて、その気になれば元老院議会にも出入りできる。だいたい我々は互いに敵ではないのだぞ」

 言われてみればその通りだ。

「スパイだというのも正確ではないな。正式には連絡員だ。つまり所属組織が異なるのでつなぎ役ということになる」

「ですが、現在捜査中のパトリック・リーナ横領容疑での逮捕令状が出ているのに少佐は捜査妨害を・・・」とマリスが捕捉ほそくしたが、エイブは言葉をさえぎった。

「しろとヤツに命じたのはわしだ。もともとその件は誤報だ。中尉、今現在、捜査対象となっている者たちの名をすべて挙げてみろ」

「はいっ、パトリック・リーナ、メル・リーナ、ディーン・エクセイル、スレイ・シェリフィス、そして貴方のお嬢さんルイス・ラファール」

 言いながらダリルは真っ青になっていた。

「お前たちはその顔触れになんの疑いも抱いていないのか?軍警察捜査員も質が落ちたものだな。パトリック・リーナを除く4名は国家騎士団と国軍の西部方面軍と合流予定の派遣はけん将校たちと皇女殿下だ」

「なんですって」

 ダリルとマリスは愕然がくぜんとなった。

「ディーン・エクセイルの手配写真を確認して少しも不可解に思わなかったのか?誰かに似ているとは少しも思わなかったのか?」

 軍警察内で出回っていた手配写真は史学生ディーン・エクセイルを隠し撮りした近影写真だった。

 用意したのはノース少佐だ。

 黒縁眼鏡でもっさりとした学生であり、ダリルは派遣はけん将校と聞いても全くピンとこなかった。

「もう一度よく確認してみろ。眼鏡を外して白軍服を着ていたら誰に見える?」

「マサカっ、フィンツ・スターム少佐・・・」とマリスが泡を食う。

 捜査員達の噂話で何処どこかで目にした人物だなという意見があった。

 だが、新聞報道でよく目にしているスターム少佐に少し似ているなという感想はすぐに笑い飛ばされた。

 同一人物であるはずがあるまい。

 聞き込みでは名門史学家エクセイル家の嫡男ちゃくなんだという。

 居宅のある南区旧家の界隈かいわいではこのところ姿を見ていないという証言があった。

 そういえば新聞報道にフィンツ・スタームがらなくなって数日経っていた。

「まっ、一応は合格だな。わしも言われてみるまで分からなかったクチだ。お前達をとやかくは言えんよ。わしの自慢の娘婿むすめむこだ」

「えっ?」

 フィンツ・スタームが娘婿むすめむこだと聞き、少将の実娘であるルイスがその妻だとなるといよいよ嫌疑がかかるいわれがなくなる。

 公費横領罪への連座容疑者にベルシティ銀行の関係者でなく、パトリック・リーナの親族でもない現職将校の家族たちがいると考える方がどうかしている。

「エーベルからの連絡を受けている。『お前達が此処ここに来て自分を告発しに来たら二人とも合格だ』とな。だが、配置転換はしない。今まで通り、表向きはエーベルことノース・ナガレ少佐の部下だという体裁にするが、今後の“本当の配属”はわしの直属とする。どの道、エーベルは事実上ではあるがわし直轄ちょっかつだ。ただし、ここには来たことがない。軍警察を組織統括するわしと、現場指揮官のエーベルが直接につながっていると知られたらなにかと面倒だからな」

「なんですって?」

「エーベルに信用のおける部下を用意するよう依頼したのはなにを隠そうこのわしだ。今後の情勢はますます逼迫ひっぱくする。だが、わし此処ここを表立って動けぬし、エーベルも同様だ。替わりにお前達が目となり手足となって動け。働き次第ではエーベルよりも昇進するだろうな。今後はわしに直接でなくとも、此処ここに居るウェルナ・ルセップ中尉に命じられた案件の捜査報告を上げろ。エーベルと密談の必要が生じたら例のミセに行け。あのマスターもまた国軍諜報こくぐんちょうほう部のヘンリー・バロウズ大尉だ。忙しいエーベルに渡りはつけてくれるだろうさ。それ以外は家族だろうが親族だろうが同僚達だろうが誰も信用するな。連れて行って消えた部下達こそが正真正銘の密偵みっていたちだ」

 ダリルとマリスの顔から血の気が引いた。

 名前も顔も思い出せないが、極秘捜査に信用出来るから部下達を代表して連れて行ったのだ。

 「踏み絵」と呼ばれたあのトラップにかかると“人としての存在そのものが消滅する”。

 あの回廊を自由に出入り出来るとは敬虔けいけんなファーバ教徒かそうでないかを試されているのだ。

 迂闊うかつに踏み込んで消えた者たちがいるせいで「治安が悪い」のだと思われている。

 では実際にあの街区に住む人間達はと考え、エーベルの言葉通り元は流れ者だろうがなんだろうがキチンと定職につき、昼間は住処すみかを空けていて、少ない収入でも日々労働している人々なのだろう。

 そうした街に変えたメル・リーナこそ本当は何者なのだ?

 いったいなんの目的でどのようにしてトラップを仕掛け、街の住人たちの意識をまとめて変化させたというのだ。

 あらためてエーベルの言葉を思い返してみると二人ともゾっとさせられる内容ばかりだった。

「女皇国を取り巻く闇は深い。かつてアイラス要塞を任されていたわしの部下たちは出払わされていた黒騎士隊を除いて全員が殺された。まさに突然発生した悲劇だがおおやけには出来なかった。何故なぜなら襲撃の方法もそれが誰の仕業だったかもいまだ全く分かっていない。要塞にいた騎士級のほぼ全員が改修型のベルグ・ダーインで交戦した形跡があったから、真戦兵かそれに近い何かによる襲撃だと推察されているが、拠点防衛が目的の改修型ベルグ・ダーインでさえ、装甲を引き裂かれて搭乗者がそれぞれ惨殺ざんさつされていた。それほどの高性能機が何故正体不明なのだ?それほどの戦力があるならどうして今まで全く表に出てきていない?そもそもアイラスのような強固な軍事要塞を襲撃した目的はなんだ?その後、わしは引責人事で此処ここに来た体になっているが、そうではない。わしの居場所は此処ここにしかなかった。この執務室にもそう簡単に出入りできない仕掛けが存在している。わしなど狙われる理由に心当たりがありすぎて誰だのどれだの特定出来ない。そして、ルセップ中尉も『提督』とのつなぎ役だ。表向きは女皇騎士団と国家騎士団は組織として対立している形にしてある。だが、その実はつながっていなくてどうする?儂等わしらに出来ることと、彼等に出来ることとは性質が全く異なる。だが、元は禁門きんもん守護騎士団という一つの組織だった。そして、女皇陛下の忠臣という意識をわしも家族たちも一切捨ててなどおらん。所属が異なるからと縦割りにしてあったなら、本当にの思うつぼになってしまうわ」

 犠牲者の中には要人もいたし、護衛役の女皇正騎士もいた。

わしがエーベルを信頼する理由こそ、エーベルもまた《アイラスの悲劇》の間接的被害者の一人だからだ。皇女でドールマイスターだった多里亜(たりあ)殿下を警護していたのが、エーベルの愛妻ルカ・クレンティエン少佐だ。ルカ少佐は戦死遺体となって発見されたわ」

 そして、実況見分において、エイブ・ラファール准将じゅんしょう(当時)は敵性勢力を手引きして現場から逃れた者が「一人もいなかった」ことを確認した。

 それこそ配属間もない末端まったんの兵士から食事係などに到るまで、ほぼ全員が要塞敷地内の何処どこかで遺体となって発見された。

 現在は黒騎士隊の隊長となっているイシュタル・タリスマン中佐(現准将)は中隊長の一人として陽動に引っ掛かってアイラスを留守にしていてアイラスの悲劇にわなかった。

 そのイシュタルも重傷を負わされ、生きていたのが不思議だという程の有様だった。

 今もイシュタルは当時負った古傷の数々が痛々しい。

 現在の黒騎士隊の実質的な隊長であり、現場指揮官はマイオドール・ウルベイン中佐だ。

 ウルベイン中佐が隊のまとめ役や国家騎士団上層部との折衝せっしょう役として、老獪ろうかいで交渉事の上手いイシュタルの力を欲するがゆえに、昇格しての隊長職を要請し、更迭こうてつと降格が確定していたエイブ・ラファール准将じゅんしょうもその人事だけはゆずらなかった。

 現在のイシュタル・タリスマン准将の肩書きは「アイラス要塞最高司令官」であり、黒騎士隊隊長だ。

 生き残った黒騎士隊では最も階級が高かったからだ。

 なにより《アイラスの悲劇》の生き証人たるがゆえに、のちに配属されたマイオドール中佐以下、黒騎士隊と要塞守備隊の所属騎士全員から「イシュタルのたぬき親父」としたわれている。

 当時の隊長は二人の中隊長と共に陽動作戦で戦死していた。

 もう現隊長のイシュタルには真戦兵を操縦出来ない。

 その戦闘中に喪失そうしつした左腕が義手だからだ。

 緊急無線連絡を受け、飛空戦艦で東部方面軍からせ参じた医務官たちが、イシュタルの負傷し、壊疽えそで毒の回る左腕を切断しなければ命はないと判断したせいだ。

 イシュタルたち黒騎士隊はほぼ同規模の傭兵騎士団エルミタージュと交戦していて、多くの死傷者を出したものの部隊の全滅だけは辛うじてまぬがれた。

 それも戦死した隊長から部隊指揮を引き継いだタリスマン中佐の撤退判断の賜物たまものだった。

 その後、殿軍しんがりとして多くの敵を引き受けてイシュタル中佐のファング・ダーインは擱座かくざするまで既に損壊していた味方の多くを逃がした。

 当時の黒騎士隊もほぼ全滅した。

 「騎士として生き残って」も除隊や異動を望んだ者たちは多かった。

 現西部方面軍の統括とうかつであるレウニッツ・セダン大佐もその一人だ。

 エイブとイシュタルに遺留いりゅうされてアイラスに残った者はごくわずかだ。

 イシュタル中佐同様に四肢ししうしない騎士を廃業させられ、要塞の閑職かんしょくに回って居残った者も数多く居た。

 彼等でさえ要塞本体に残存していた守備隊に比べたら、その後について選択の余地が残されていただけマシな方だった。

 そうして、出撃、交戦、戦術的退却まで時間としては約3時間半であり、その僅か3時間半で国家騎士団の最大拠点は壊滅かいめつした。

「いっそ殺して欲しかった。隊長たちの後を追わせて欲しかった。それでも、隊長から指揮を受け継ぎ、生き残った部下たちを預かる身としてそれだけは出来なかった」とエイブの事情聴取に病床についていたイシュタルは人目もはばからず泣きわめいた。

 皮肉っぽく、本心をたくみに悟らせない食えない性格のイシュタルがエイブの前で「本音」を語ってみせたのはそれっきりだ。

 事件後、イシュタルが病床から部隊再編を指示し、東部方面軍から異動して着任したマイオドール・ウルベイン大尉(当時、現中佐)が黒騎士隊を再建し、腕のたつ部下達をそろえ、きたえ上げたモノノフの集団へと変えた。

 鉄の掟と鉄の結束を誇る最精鋭部隊である黒騎士隊。

 その歴史は《アイラスの悲劇》から始まった。

 事のあらましをエイブ・ラファール少将から聞いたダリルとマリスは顔面蒼白がんめんそうはくとなって、言葉に詰まりながらも尋ねた。

 事件にオラトリエスが関与しているならそうと話す。

 だが、それすら不明だから憶測おくそくを交えていない。

「それはつまりもうすでに未知のとの交戦状態だということですか?」

 余計な憶測おくそくで物を言わないダリル・メイ大尉にエイブ・ラファール少将は好感を持った。

 マリス・ローランドも表情から事件の背後関係を様々に類推しているように見える。

 エーベル・クライン・・・C.C.の慧眼けいがんは確かだった。

 この二人なら容易ならない事態を理解し、自分たちの手足となることを喜んでやる。

 正義感と義侠心ぎきょうしんは極めて強いし、どれだけ罵倒叱責ばとうしっせきされようとも自分たちの仕事はし遂げようとする。

 なにより組織や自己の栄達のためでなく、守る術のない無辜むこの市民たちの為にその身をいとわない。

「その通りだ。そしてだと簡単になど分からん。見た目などで判別などつかんさ。履歴りれきが確か、身元が確かであれ、心の内までは確認出来ん。現に信頼して連れて行った部下たちが消えたのを目の当たりにしていて、尚も同僚たち全員を信じられるか?そうであって欲しいが、そうではないことがよく分かった筈だ。だからこそ『浄化』が必要になり、信用に足るか試す必要があるのだ」

 ダリルもマリスも直立不動になっていた。

 疑いだしたらキリがない。

 あの街区を危険地帯と称して近付きたがらないパルム警視庁の職員すら簡単に信用などできない。

 本当に信用出来るのは、既に遺恨を抱えているエイブ・ラファール少将とエーベル・クライン少佐だった。

 エーベルがやさぐれていたと打ち明けたのは、任務に忠実だった愛妻が無残むざんに殺されていたからに他ならない。

 だから、ノース・ナガレは男やもめをずっと続け、一人娘の成長を影で見守ってきた。

「捜査には材料が必要になる筈だ。ウェルナが管理しているファイルにこの数年来起きた不可解な事件の捜査資料が整理されている。なにか理由を見つけて此処ここに来ることがあったら目を通しておけ。それが次に起きるなにかの際に役に立つこともあろう。そして、の侵攻は既に始まっている。ベリアは既に蹂躙じゅうりんを許し、トレドでは防衛戦争が始まっている。それがわかっていながら国家騎士団副総帥のカロリファル公すら表立って動けぬ。現在、セダン統括とうかつの西部方面軍だけでなく、神殿騎士団やメルヒン西風騎士団と協力して対処している。戦況の詳細は分かっていない。そのために回りくどいやり方で義息のスターム少佐や娘のルイスがばれたし、トリエル皇子も西に向かった。その情報は諸君も知る『特記第6号条項』事案だ。絶対に口外してはならん。先日、わしが陛下から直々の呼び出しで聞かされた話だ。そして、彼等が抜けただけ、このパルムの守りが弱くなったということだ。お前達は騎士ではないが、お前達が戦うべきはこのパルムに多く入り込んでいる。我らの役目は少しでもの数と脅威とを減らすことにある。いずれ此処ここパルムがガラ空きになることも覚悟の上で、女皇陛下は見えないとの戦いに身を投じられるおつもりだ」

 直属の部下という意味は正にそれだった。

 軍警察捜査員の立場では絶対に知ることの出来ない機密情報も少将は明かした。

 エーベル・クライン少佐はとうに知っている。

 それでも涼しい顔をしていたのは余裕ではなく、とっくに覚悟と身構えは出来ているのだと、信頼に値する部下たちに無言で示していたのだ。

(俺たちは俺たちに出来ることをするしかない)

此処ここに暮らす顔も知らない誰かの為でもあるし、俺たち自身のため、愛する家族たちのためにもパルムをの手から守らなければならないということなんだ)

 ダリルとマリスはエイブ・ラファール少将の執務室を出るとそのままミセに戻り、おそらくは部下達が戻るのを待って一人でグラスをあおっていたノース・ナガレ少佐と前後策を講じるため、ほろ苦く酔えない酒に朝まで付き合った。

 その際に更に多くの機密情報を知った。

 その内容に絶句した。

 その翌日の朝刊紙面にて、パトリック・リーナへの横領罪嫌疑が誤報だったと公式発表された。

 ダリル・メイ中尉とマリス・ローランド少尉の「女皇戦争」はそうして始まった。

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