第6話 パルム脱出

 皇暦1188年4月25日8時

 パルム国軍軍警察本部


 ノース・ナガレ少佐は渋面を更に険しく歪め、むっつりと報告に耳を傾けていた。

 パトリック・リーナの拘束に失敗。

 更にその娘、メル・リーナまでもが行方をくらませた。

 素人とは思えぬ手際の良さ、事前に逮捕情報が漏れていたのではないかと疑うほど素早い対応。

 そして一昼夜を経て、足取りや目撃情報がほとんど得られていないという現状。

 ノース少佐は相手をたかが民間人風情とみくびり過ぎていたことを素直に認めた。

「まさに大失態だ」

 引き続き怒号が飛ぶことを覚悟していた部下たちは身をすくめた。

 ノースの部下、ダリル・メイ中尉とマリス・ローランド少尉が前に進み出る。

「既に鉄道と港湾は押さえました。潜伏先の候補もあらかた押さえてあります」

 しかし、見当違いだったのはパトリック・リーナの別宅に対して捜査員を張り込ませていたことだ。

 リーナ家はパルム市内に多くの別邸を構えている。

 だが、パトリックもメルも其処には居ない。

「娘の方は交友関係を片っ端から当たります。大学に関してはどうなさいますか?」

「強権を発動するには諸方面の調整が必要だ。まったく、だからあれほど捜査は慎重に行えといったものを・・・」

 やぶ蛇をつついたのだ。

 なにしろ最高学府たるエルシニエ大学にはメル・リーナを庇って軍警察を煙に巻く輩がいておかしくない。

 部下たちの想像力の欠如には失望を禁じ得ない。

「面目ありません、少佐」

 治外法権を持つ学内で強引な捜査を行ったことで、ノース・ナガレは長官から激しく叱責された。

 明らかに学生の側に非があっても、大学側は学生を擁護する態度をとるのが通例だった。

 しかも、今回の場合はそれにすら当てはまらない。

 より高い位置から圧力をかけなければ、大学当局の対応は変わることはない。

 その点でひどくまずい状況に立たされていた。

 ただでさえ、学生運動が盛んになっている不穏な状況だというのにあまりにも不用意に踏み込んだのだ。

 衆人環視の元、つるし上げに遭わなかっただけ幸いとさえ言える。

「それにもう一つ懸念材料がある。どうやら上に別の圧力がかかったらしい」

「どういうことですか?」

 ダリル・メイ中尉は泡を食った。

「国家騎士団から捜査状況を逐一報告するよう長官に申し入れがあった」

「国家騎士団ですか?」

「確かに横領罪の被害者とはいえ、どうもキナくさい」

 ノースは口元を歪め歯ぎしりでもしかねない表情をした。

「本日は私も現場での聞き込み調査に回ります」

「そうしてくれ、ダリル。マリスは本部で捜査員の指揮にあたるように」

「畏まりました」

「これ以上の失敗は一切許されない。日数が経てば探索の手を更に広げざるを得なくなる。その前になんとしても両名の身柄を拘束するぞ」

「はい」


 人々の思惑が交錯する一夜が明けた。

 朝早く一人隠れ家を抜け出したスレイは2時間ほど外出した後に、ディーンたちの待つアパルトメントに戻った。

「さてと、まずはっと」

 早朝の雑貨屋をたたき起こして入手した品々を床に並べる。

「ハサミ?一体なんに使うんだ」

「メルの髪を切る」

「変装か?」

「そうだよ。ルイス頼むわ。適当でいいから」

「あたしが?」と不器用なルイスは当惑した。

「他に誰がいるんだよ。とにかくバッサリやっちゃってくれ、可哀想だけど背に腹はかえられない」

「いいのメル?」

「ルイス、お願いね」

「適当でいいからな。『男の子に見える程度』にばっさり切ってくれ、仕上げは美容師に任せる」

「美容師ってどういうこと?」

「まあいいからいいから」

 そういうスレイは自分だけはマークされていないのを良い事に4人分の休学届を大学事務局に出していた。

 更には実家のフェルディナンド宛にメモを送りつけていた。


 3時間後・・・。

 3人はお互いの姿を見比べて思わず声を呑んだ。

「しかし、なんというか・・・」

「ものの見事に化けたわね」

 美容院で仕上げ、髪を短くしたメルはどこからどう見ても10代前半の少年にしか見えない。

 元々幼児体型ではあったが、小振りな胸をサラシで締め付けた。

 長袖の白いシャツに半ズボン。

 長めのソックスに蝶ネクタイ。

 帽子を被れば、すっかり良家のおぼっちゃまに見える。

 ルイスはというとメルと同じ美容院で長いブロンドヘアを高く結い上げ、控えめな色合いのドレスに身を包んだ。

 首からは読書用の眼鏡をぶら下げ、鍔広の帽子を被れば40過ぎの貴婦人に見える。

「なるほど、あたしたちは『親子』って設定なのね?」

「それで俺はこれか」

 ディーンは髪を短くかりあげ、揃いの地味な衣装を着る。

 軍服を着慣れているせいか、ピンと立った背筋と痩身からその姿はどう見ても。

「使用人の運転手ってところかしら?」

「荷物運びに同行してるってカンジね」

「あの野郎・・・」

 ディーンだけが納得していない顔で恨めしげに自分の服装を眺める。

 だが、もともと白い隊服を着慣れていて、そちらがあまりにも知られているディーンが少しでも派手な服装をしていたらそれこそバレバレだ。

 最後に現れたスレイはというと・・・。

「またえらく地味な服装だね」

「お抱えの家庭教師か顧問弁護士ってところかしら?」

 3つ揃えの茶色のスーツに丸眼鏡。

 使い古しのカバンに懐中時計にステッキといった小道具からいかにも知的な職業に従事する壮年の紳士に見える。

「まっ、こんなところでどうかな」

「なんで、俺が運転手でお前が顧問弁護士なんだよ」

「それはまぁ適材適所ということで」

「それより、移動手段はどうするのよ」

「勿論、鉄道を使うよ」

「だけど旅券はどうするのよ」

「これのこと?」

 そう言ってスレイは懐から4枚のチケットを取り出した。

「うっ、素早い」

「ちょっと見せろよ」と言ってディーンはスレイの手から旅券をひったくった。「げっ、一等車のボックスシートか」

「まあ、会話を聞かれてもボロが出ないようにね」

「しかも行き先がアラニスって・・・逆方向な上に近場じゃないか?」

「大丈夫、そこはちゃんと考えてあるから」


 パルム中央駅アラニス行きホーム


「ああ、君ちょっといいかな?」

「はい、どうなさいましたか」

「実は旦那様のお身内に不幸があって急ぎアルマスへと向かうことになったのだが、切符を手配した者が間違えてアラニス行きの旅券を買ってしまったようでな」

「ははぁ、なるほど時折そうした間違いをされる方がいらっしゃるようですね」

「払い戻しと列車の変更をしたいのだが?」

「少々お待ちを・・・おっと、アルマス行きは15分後に発車ですね。これは急がなくては・・・」

 係員は既にホームに入っているアルマス行きの特急列車に走り去った。

 乗車口で車掌と話をしてスレイの所に戻る。

「ちょうど良かった。幸い1等車のボックスシートに空きがありました。“男性3名女性1名”の計4名様で宜しいですか?」

「いやはや助かった。葬儀の席に遅れては旦那様に申し訳が立たぬ所だった」

「料金は車掌にお支払いください。ですが、そちらの旅券の払い戻しは・・・」

 中年紳士は懐中時計を取り出して時間を確認する。

「いや、時間がかかりそうなら仕方がない。こちらの手違いなのだからな」

「それは助かります。では、ご案内を」

「宜しくお願いする」


「お見事でした」

 アルマス行きのコンパーメントの特急車内に落ち着いた3人は揃ってスレイに頭を下げた。

「なるほど、これでパルム中央駅には男女4人組がアラニス行きの列車で東に向かったと記録される」

「車掌があの係員から事情を聞いたのであればアラニス行きのボックスシートに家族連れが乗車せず、払い戻しもしなかったことを不審に思う者はいない」

「手の込んだ細工だな、さすがは」

 「軍師」という最大限の褒め言葉を使おうとしたディーンをスレイが片手で制した。

「いや、褒められると恐縮なんだが実は・・・」

「ん?」

「以前、その間違いで大変な目に遭ったことが」

「・・・前言撤回だ」


 旅の二日目。

「そろそろパルムじゃもう一つの煙幕が破裂してる頃さ」

「どういうこと?」

「軍警はとんでもない藪蛇つついて大慌てしている頃さ」

 スレイはニヤリと人の悪い笑みを浮かべた。

 察しの悪いルイスはなんのことだろうかと首を捻った。


 軍警察本部


「それは本当なのか?」

「はい、確かな情報です。メル・リーナと共に一昨日から大学に姿を見せない学生の一人がルイス・ラファールだと」

「別の筋からの情報ではメル・リーナとは日頃から親しくしているとか・・・」

「まずいことになった・・・」

 ノース・ナガレ少佐は頭を抱えてうなだれた。

「どうしましたか?」

「その娘の父親はエイブ・ラファール卿だ」

「いったい、誰ですそのエイブ・ラファールというのは?」

 ダリルの不用意な一言にノースの堪忍袋は限界に達した。

 憤然と席を立ち上がり、当惑するダリルの襟首を掴む。

「バカ野郎っ!国家騎士団監査部所属で国軍中央司令部の上級顧問だ。俺たち全員のお目付役だぞ。上にのし上がる政治的野心がなくてもその位は覚えておけっ!」

 ノースの言葉にダリルは真っ青になった。

「おまけに娘の兄貴はあのシモン・ラファール大佐だというじゃないか・・・いよいよ弱ったぞこれは」


「あはははは、確かに傑作だわそれは。あのオヤジのことだから、神妙な顔つきで尋ねてきた軍警の長官あたりを怒鳴りつけてるわよ」

 ルイスは腹を抱えて大笑いした。

 幸いにして数日前に慶事があったこともあって、エイブ・ラファール少将はルイスの想像ほどには激昂しなかった。

「オヤジさんが監査部付きだったとはねぇ」

 ディーンは呆れた顔で天を仰いだフリをした。

 この件に関してディーンのついた嘘はまたの機会に。

「それってどういうこと?」

 メルは当然の質問をぶつけた。

 すかさずスレイが手短に説明する。

「国家騎士団監査部っていうのは要するに国軍内部に不穏な動きがないか逐一監視するのが職務なんだよ」

 内務省管轄の軍警とはいえ表向きの所属は国軍内にある。

 つまりは軍全体の監視機構として、逆に国家騎士団からの監視も受けているのだ。

 ルイスの父、エイブ・ラファール少将は正にそのトップにあたる人物だ。

「そう、つまり藪蛇もいいところさ。監査部の人間に正面きって『お宅の娘さんが重要参考人と共に行方をくらませた。行き先に心当たりがあるか?』なーんて尋ねようものなら」

「あいたたたたた」

「まさか、兄貴のとこにまで行ってないわよねぇ、兄貴は今頃フェリオの国境あたりよ」

「外征部隊だもんな」

「東部方面軍は出張っているわよ」

 軍事機密に属すること故、ルイスも詳細については知らないし、ディーンも残念ながら最新情報は把握していない。

 あるいは東征妨害作戦立案担当のスレイが一番詳しいかも知れない。

 東征軍は戦場をオラトリエス中央からフェリオ国境に展開してウェルリ攻略の決戦の準備に余念がない。

 実際のところ、シモン・ラファールはそこに居たし、誰かさんからの電報を受け取ってからはしばらくご機嫌だった。

「そっちに人手を割いてるようならしばらくは安心だ」

「オヤジの性格からして、協力するどころか密かに捜査してることが分かったら上の連中の首が飛ぶわよ。なにしろメル本人にはなんの嫌疑もかけられていないし、その親友がどうしたなんて罪に問われるようなことではないもの」

「やだやだ、怖いねぇまったく」

 4人はしばし笑い転げた。

 ただ一人を除いてはの話だった。


 エルシニエ大学大会議場


 当事者たちが追っ手を煙に巻いて高笑いを浮かべていたその頃、彼らの母校では極めて厄介な問題に大人たちが苦渋に満ちた表情を並べていた。

 広い会議室に8人の老人たちと事務局の中年が2人集っていた。

「状況を少し整理してはくれまいかね?」

 学長のシドレ・ドルニエは長い髭をせわしなく撫で付けながら事務局長に説明を求めた。

「はい、確認しましたところ、史学部の女子学生の一人に逮捕命令が出たことは事実のようです。本日、軍警察より正式な捜査協力要請がありました」

「メル・リーナ・・・過去の犯罪歴はなし、政治結社との繋がりもなし、ただ父親が銀行家のパトリック・リーナ氏か・・・」

「実は、彼女を含め4人の学生から25日付で事務局に休学届けが出されています」

「つまり彼女を守ろうとした3人のナイトが揃って休学を申し入れてきたということかね?」

「大方、そのようなことではなかろうかと」

「あるいは、幸いでしょうな。彼らは自ら本校との繋がりを否定し、我々に累が及ばぬように配慮してくれたということかと」

「しかし、3人のうち二人には問題が・・・」

「というと?」

「一人はディーン・エクセイルです。そしてもう一人がスレイ・シェリフィス」

「なんと、ディーン坊やがこの件に関わっていたとは・・・」

 会議の様子に注意深く耳を傾けていたシドレは皺深い顔を歪ませて更に皺を刻みつけた。

「それでトワントはなんと言ってきたのだ?」

「いえ、それが・・・」

「どうした?今はそれほど病状が悪いとは聞いておらぬが?」

「そういうことでは、ただ『学生とはいえ立派な成人男子がそれと決めて行動したことを男親が誹るのはあってはならぬ』と申されまして」

「つまり、ディーンの関与を認めたということか?」

「はい、責めは負うが協力は出来ないという回答です」

 シドレは渋面を深くした。

「厄介なことになりましたな。説得はするなと言ってきたのも同然だ」

「既に教授を退官していますし、その機会が得られる保証もありませぬし・・・なにより」

「ディーン贔屓で軍人嫌いの教授会は全力で庇う方向に動いているということか?」

「ええ、秀才のスレイ・シェリフィスも加わっていると聞きつけ、彼らが義憤で行動したならば大学当局は彼らがどのような態度を取ろうが全力で保護するべきだと・・・」

 シドレは立場上、教授会とは距離をおいていた。

 大学運営のトップにあたる学長は教務に関する全権を持つ教授会に対して干渉しないという暗黙のルールが敷かれている。

 だが、過去に両者が全面的に対立したことはない。

「・・・なるほど、道理だ。私個人としてもその女子学生が運動家の類であったり、陰謀に加担しているとは考えておらぬ。大方、父親を巡る政治的な駆け引きに巻き込まれたのであろう?だとすれば、聡明な彼らが陰謀に無関係な娘を庇うのもまた道理といえる」

「しかし、このままでは本校は軍警察と・・・」

「事を構えるか・・・非常に厄介ではある。だが、昨今の政治情勢は本校の正常かつ円滑な運営の妨げになっておる。学生達の多くが政治運動に熱を入れることも無理からぬことだ」

「そうですな、彼らの主張することには一理も二理もあります。それに自由な議論を交わしてこその大学」

「はい、それゆえに集会を禁じたり活動を妨げることは一切してきませんでした。授業や研究の妨げにならぬ範囲ではの話ですが」

「だが、被疑者を匿い立てたとあれば世間の目も厳しくなる。彼ら4人のために集会をしている学生たちの運動も取り締まりの対象になるやも知れぬな」

「我が校の自治権を脅かす事態ではありますが、この程度の事で屈しては軍警察のみならず、国軍、国家騎士団に足許をみられるは必定」

 一つ屈することがあれば、次も、またその次も、膝を屈することを要求される。

 そうして自治権は有名無実化していく。

 いずれは軍のいいなりとなって、不穏分子を差し出す手先となりかねない。

 そのようなことはここにいる誰もが望んでいなかった。

「今こそ名誉最高顧問たるあの方のお力添えを戴く時ではないでしょうか?」

 圧力にはより大きな圧力で対抗する。

 その当然すぎる言葉に、シドレはかぶりを振った。

「そのカードを切るべき時期は私が見計らおう。名誉最高顧問たる女皇陛下のお力を必要とする事態ではあるが、あの御方を危険に晒さない為にも我らは我が校を巡りあの御方と軍警とが正面きって向かい合う事態だけは避ける努力をしたいものだ」

 会議室の壁にかけられた現女皇アリョーネ・メイダスの肖像画を一瞥してシドレは重苦しく唇を結んだ。

 知らないというのは怖い。

 そもそも、一連の出来事の発端とはそのアリョーネが弟のトリエルに泣きついたからだったからだ。


 バルム シェリフィス家


 シェリフィス家ではスレイが出奔宣言をメモにしたためてフェルディナンド宛に送っていた。

 それに一番慌てたのは女当主のアリシャのようだった。

 朝からずっと泣き続けている。 

 フェルディナンド、アリシャの目からも名門大学生でいるうちはスレイは嫡男としての責務をまっとうするように見えていた。

 もし出奔するとしたら大学を出たあとだと危惧していた。

 動揺して泣くアリシャよりむしろ、フェルディナンドの方が冷静に対処している。

 そして、出奔したスレイことアリアスは自分に代理を立てるようわざわざ忠告までしている。

(ティベル・ハルトを新たな「スレイ・シェリフィス」としてそのまま当家で嫡男に迎えろ・・・か。公表しなくてもそれなら小細工でどうとでもなるねぇ・・・。)

 フェルディナンドは酩酊していたとはいえ、正月の出来事は忘れてなどいない。

 むしろ、その夜こそスレイことアリアスとは「本当の親子」になれたと感じていたし、だからこそスレイは父を頼みにしたのだ。

 フェルディナンドはこの提案が悪くないと感じた。

 もしヴェルナールが生きていたら猛反対したろうが、とっくに逝っている。

 あと3月もすれば大学は夏期休暇に入る。

 元老院議会も6月末に休会する。

 なにしろ、ブリギットは生前ティベルを上手く使っていた。

 兄弟ゆえにアリアスとティベルはよく似ていて、それこそ身近にアリアスことスレイに接するフェルディナンドやアリシャ以外に見分けなどつかない。

 フェルディナンドの執務室を訪れる際、ティベルは「ご子息」で通っていた。

夏の間に「視察旅行」と称して“親子”でパルムを留守にし、戻ったときにはフェルディナンドが旅先での体調不良に不安を感じて跡取りたるスレイの大学卒業を待たずに、自身の事実上の後継として政治秘書に迎えたと公言すれば誰も怪しまないし、多少容貌が違っていても夏の間に色々あったと言い訳すればそのまま通ってしまう。

 スレイ自身により大学事務局に休学届は提出されているので、中途退学扱いにする必要も無い。

 スレイの学籍は認定休学期間を過ぎれば自然消滅するだけだ。

 あとは・・・シェリフィス家女当主のアリシャがそれで納得するかどうかだったがそれも問題なさそうだった。

 もともと跳ねっ返りのアリアスには散々手を焼かされていたので、性格的に大人しく根っからの優等生たるティベルの方がアリシャは結局のところ安心し、ひょっとすると気に入るだろう。

 なにしろもう逃げられる心配もなくなるのだ。


 統一暦1513年7月18日


「思い出したぞっ!」とケヴィン・レイノルズ教授は突然大声をあげた。「スレイ・シェリフィスの名前は何処かで目にしたと思ってはいたが、6月革命直前のギロチン刑未遂事件だっ!」

「ええ、そうです」

 ティルト・リムストンは事もなげに言い放つ。

「リチャード・アイゼン大尉らによる国軍のクーデター事件と前後しているのでお忘れになったのも無理もありません」

 昨晩、結局ティルトは教授の執務室でエクセイル親娘と雑魚寝した。

 エリザベートはワイン瓶を抱えてまだ寝息を立てている。

「しかし、入れ替わったという証拠は・・・」

「それもあるんですよ、教授」と言ってティルトは古い新聞紙面のコピーを見せる。

「そうか、未遂事件の報道写真と昨晩の写真を見比べれば」と言うが早いか舞踏会の集合写真に写る元スレイ・シェリフィスことアリアス・レンセンと、報道写真を突き合わせる。

「似てはいるが明らかに別人じゃないかっ!当時の人たちは気づかなかったのかね?」

「いや、人の目なんてアテにならないですって」とティルトは言い切る。

「確かに、それこそ家族や友人ならともかく二人を並べる機会がないし、並べてみないとわからんか」と呟いて腕組みする。

 別の重要人物たちも正にそうだった。

 二人や三人並べてみたら明らかに血縁者だったり、そうでなかったりする。

「大事なのは結果的に“皇統派”の公開ギロチン刑からフェルディナンド・シェリフィスもスレイ・シェリフィスも『逃れた』という事実です。それを手引きしたのがリチャード・アイゼン大尉。東方外征もあらかた店仕舞いし、ギロチン未遂事件のすぐ後に国家騎士団パルム防衛隊の参謀少佐に昇進しています」

「なるほど、その直後にリチャード・アイゼン少佐主導の国家騎士団と国軍によるクーデター勃発か?」

「ええ、“皇統派”とはいえ、このときの“皇統派”にはアリョーネ女皇の関係者はまったくの不在。カロリファル公も不在だし、メリエル皇女も不在。ハニバル司令も不在で、シーナ・サイエスは『例の事件』の後で不在。ディーン・スターム、シャナム・ヴェロームも不在です。残っていたのは女皇騎士団ではグエン・ラシール調査室長とサイエス組と呼ばれていた調査室所属の分派だけです」

「なるほど、ワルトマ・ドライデン枢機卿の謀略によるアリョーネ女皇のミロア公会堂での異端審問があった時期で、新女皇容認派だった副司令のトリエル・シェンバッハも証人出廷していて不在か?」

 ケヴィン・レイノルズは眉根を寄せて腕組みする。

 それに対してティルトの答えは簡単明瞭だった。

「まぁ、実際のところ『そんな事実はない』ですがね」

「ないだと?何を根拠に言い切る?」

 血相を変えたケヴィンにティルトはまあまあとばかりに落ち着かせる。

「現在のファイサル・オクシオン法皇猊下から直接伺いました。当時のミロア法皇国内での出来事は全部出鱈目です。そうした青写真を描いたのは『本物』の方のスレイ・シェリフィスことアリアス・レンセン。なにしろゼダ国外なので、主要新聞記者たちも取材を断られていて、公式発表を鵜呑みにさせられていたのです。正に高貴なるカーテンの奥での出来事ですから」

「なんてこった・・・ああ、頭がクラクラしてきた。だとすると当時のナファド・エルレイン法皇猊下は?」

「それこそ、忙しくてメリエル皇女ともども大陸各地を飛び回っていました」

「冗談だろっ!というよりこの時期、叛乱軍は旧メイヨール領内を覆い尽くすほどの大勢力だぞっ」

「それに関してはおいおいお話しします。なにしろその『叛乱軍』というのも全部出鱈目ですから。事実なのはスレイ・シェリフィスことアリアス・レンセンというのが超天才で政治も軍事も自由自在かつプロパガンダ能力と情報操作能力はかつて居たことがないほどの傑物です。彼をサポートしていた人物も桁外れの大物。パルムにあってゼダ東方外征部隊の作戦妨害計画を立案し、その逆にパルムを離れてからは皇都パルムを嘘で包み込んで、あることないことを吹聴していた。三文芝居みたいな“皇統派”の暴走劇と国軍と国家騎士団のクーデターは正にアリアスの描いたシナリオ通りに進行しました」

「おいおい、まるでおとぎ話じゃないか」

「だから、おとぎ話なんですっ!。こんなの公表したらエライ騒ぎになりますし、裏でなにが起きてたのか知ったら誰もがひっくり返ります」と言ってから、スレイはある書籍から引用した文章と別の文章とを持ち出した。

「教授、その二つの文章を比較検討してみてください」

「どれどれ」とケヴィンは二つの文章を読み比べた。「これは書いた人物が同じだな。文法の使い方と言い回しが酷似している。細かい言い回し表現もほぼ共通だな」

「教授もそう思われるのですね?」といってからティルトはカバンに入っていた引用元の書籍を引っ張り出した。


 「用兵における人間心理学とその応用」著者ティベル・ハルト。

 「ゼダ共和国歴代首相演説原稿集第一巻 アリアス・レンセン」


「なんだと!?」

「動かぬ証拠という程のものでもないですが、教授が客観的に判断して二つは同一人物が書いたものだと断定されましたが、この二冊にある文章を同じ人物が書いたのだなんてあり得ないでしょう?」

「いや、しかし・・・『用兵における人間心理学とその応用』なんて何処から見つけてきたんだね?」

 そんな書籍は膨大な蔵書量を誇るエルシニエ大学の図書館を幾ら探しても見つかりはしない。

 ティルトは苦笑した。

「それって実はボクが士官学校に在籍中の教科書でした。今でも士官学校でそのまま使われています。やけに新しい装丁なのはそういうことです」

 版数は二桁を超えている。

 だが、書いた当人のアリアスからしたら、年に100冊も売れないお金にならない書籍であり、200年経ってもまだ2万冊にも満たない。

 まだディーン・エクセイル教授の「シャナム王回顧録」や「中原史」の方が学生の数が圧倒的に多いだけ売れていた。

「つまり、本の中身は200年以上前に書かれたのか?」

 そうなのだ。

 結局、政治家としてゼダ共和国初代首相のアリアス・レンセンを超える人物は同時代に既に二人いた。

 だが、文才も備えた用兵家は200年経ても一人として出ていない。

 元帥まで上り詰めたリチャード・アイゼンも、同様だったマイオドール・ウルベインも文才となるとからっきしだった。

 まだ晩年はパルム士官学校の学長だったマイオの方がマシだったろう。

 なにしろティルトの大先輩だ。

「現代でも通用しちゃうところが、ことその分野に関しては人類は大して進歩していないということです。それにまさか自分の弟の実名をペンネームにするなんてアリアス・レンセンも人が悪いにも程があります。そりゃ研究重ねても見つからないわけですよ」

 むしろ、文才でアリアスを上回ったのはディーンだ。

 「中原史」執筆のかたわらで執筆したディーンがペンネームで書いた時代小説の方はついこの間またドラマ化されて大好評だった。

 エリザベートもアンナマリーも涙ながらに視聴したというのでティルトは呆れ果てた。

 二人揃って真実と創作物は別腹だとか言っていた。

 旅の友としてティルトは原作本を読んで「大爆笑した」。

 デタラメもその域まで達すると正に達人級だ。

 そして、ディーン・エクセイルはとことんフィクションの才能に長けていたのだと確信して複雑な気持ちにさせられた。


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