第5話 皇都の長き夜

 女皇歴1188年4月24日午後6時


 日がすっかり落ちてからルイスとディーンは隠れ家に戻った。

 今度もまたこれでもかというほどの大荷物を抱えている。

 緊張と脳疲労からスレイはベッド脇のメルの隣でいつの間にか寝入っていた。

 二人が戻った物音で目を覚ますと慌てて握っていたメルの手を離す。

 握り返していたメルの指を申し訳なさそうにほどく。

「それでどうだった?」

「ああ、これさ」

 ディーンが差し出したのは旅行鞄が一つ。

「中身は?」

「これからあけるところだ」

 言うが早いかディーンは重いそのカバンを逆さにして中身を出した。

 封書が一通。

 そしてその他は・・・。

「なんだよこれ」

「こんなに沢山」

 うずたかく積まれた紙幣の山。

 そして、小石か砂粒のようにこぼれ落ちた宝石の山。

「まるで銀行強盗のカバンね」

「自分の銀行を襲った?冗談にしてはタチがわるいよ」

「おそらくは逃走資金ってところだ」

 ディーンにとっては予想の範疇はんちゅうだったらしい。

 すぐに紙幣の束を数え始める。

「おい、今はそんなことしなくても・・・」

「いや、使う前に数えておく。これだけの資金を用意したってことは、かなり長く逃げなくてはならないってことだ。それに見ろ」

 見慣れた紙幣に混じり、見慣れぬ肖像画が描かれた紙幣の束も有価証券の束まである。

「これって?」

「こっちはメルヒン、こっちがフェリオ。海外逃亡も視野に入れろってことだろ。宝石が入っているのも紙幣が通用しないラームラントなんかの辺境地帯へ逃亡した際に使えってことだ。それにヴェローム銀行の株式証券なんて何処でどう使えっていうんだ」

 スレイとルイスは黙って顔を見合わせた。

「正確な額を数えておいて、後でメルに教える。俺たちの誰かが勝手に持ち出して使ったとしてもすぐに分かるようにね。だから、こういう物も用意した」

「ノート?」とルイス。

出納帳すいとうちょう。といってもこれから入金される見込みはゼロ。俺たちの個人資産なんてコレと比べたら雀の涙だもの」

 ディーンは引き続き封書を開けた。

 さっと目を走らせる。

「なにが書いてある?」

「俺に聞くより自分で読んでみろよ」

 ディーンはルイスの手ではなく、スレイに渡した。

 ルイスが少しだけ驚いた顔をする。

 そこには走り書きでこう記されていた。


 不測の事態が起きた。

 予想も備えもしていたが、こうも早いとは思わなかった。

 もし、メルの身柄が連中の手に落ちたとしたら、すぐにあの方にお伝えして措置そちを講じて欲しい。

 だが、君が側にいればその心配は少ないと思っている。

 今回の事はトレドで起きていることと関係がある。

 かの地で起きていることとベルシティ銀行の関係について、今回の事を私はそう予想している。

 しばらく・・・そう、少なく見積もっても半年以上はパルムを離れていて欲しい。

 私は絶対に安全と思われる場所に身を隠す。

 互いに連絡を取ることは出来なくなるが、後のことは君とルイス嬢に任せた。

 メルの身に関して、ルイス・ラファールは最も信頼できる存在だ。

 だが、詮索せんさくはしないで欲しい。

 彼女の身の上に関して、私はなにか言える立場にない。

 それから、スレイくんは出来れば巻き込まないで欲しい。

 彼の立場が微妙なのは同じ境遇の私にはよくわかる。

 無論、フェルディナンド・マーカスに借りを作ることを恐れているわけではない。

 ただもし、今回の事に彼が巻き込まれたのだとしたら、将来は必ずや政治家として成功するであろう彼の将来に暗い陰を落とすことになる。

 そうなれば私にはいかなる方法をもってしても、彼につぐなうすべがない。

 メルは優しいが芯の強いしっかりした子だ。

 そして、それ以上に難しい子でもある。

 守ってやって欲しい。

 これはもしかするとあの子にしてやれる最後のことになるかも知れない・・・。


「どういうことなんだ?」と言ったスレイの手からルイスが手紙をひったくり自分もサッと目を通し始める。

「今のうちに話しておくが、今回の事は、“特務扱い”になった」とディーンは穏やかに告げた。「俺はメルと共にパルムを離れる。上からそのような正式命令を受けた」

「私もね」とルイスが険しい顔で続ける。「細かいことは詮索せんさくしないで、ここに書いてある通り。こればかりは私の一存でもどうにもならないことよ」

 スレイはディーンとルイスの顔を驚いた顔で見回した。

「ディーンとは別系統と考えたらいいのかな?」

「そうね」とルイスはさらりと言いのけた。「そういうことになるのかしら?」

「分かった君を信じる。どうせ、ディーンはとっくに承知してるんだろうけどさ」

「承知してる筈の人間にわざわざ知らせるのか?シェリフィスをマーカスと書き間違う、急いで書いた火急の手紙で」

 フェルディナンド・マーカスは書き間違いではなかった。

 だが、ディーンたちに通じる名でもない。

 なにしろ、スレイさえその頃から旧知だとは知らなかった。

 ディーンの表情に嘘はまったくない。

 それにマーカスは養父の昔の姓だ。

 スレイは渋い顔をする。

「なるほど、一つだけ大事なことが分かった。今考えてもムダだってことがね」

「そういうこと。そして、スレイ。貴方ね」とルイス。

「出来れば巻き込みたくないか・・・もう手遅れだけどね」

 スレイは笑うよりないといった顔でおどけてみせた。

「3ヶ月予定が早まっただけと考えておくよ。まだパルムに未練はあるけれど」

「いったいなんのこと?」とディーンとルイスはスレイに詰め寄った。

「この夏、ベックス師匠に同行してパルムを離れる予定だったんだよ。もう帰れる機会はないとさえ考えていた。その話は流れるけれど、あの教授のこったからおおよそ察しをつけてくれるさ。わざわざ知らせるつもりはない」

 そう言ってから、スレイはベッドに向き直った。

「メル、起きてるんだろ?大事なことだ。ちゃんと話を聞いて欲しい」

「スレイ、ちょっと待て」とディーンは慌て、ルイスも狼狽ろうばいする。

「あんたなにを」

 押し留めようとする二人をスレイは穏やかに制した。

「これから先、長くなるのにだんまりってわけにはいかないさ。ここにも書いてある通り、難しい子が相手なんだから」

 スレイの予想どおり、メルは目を醒ましていた。

 手をほどいたときに、そんな様子だった。

 ただ、二人に本当の事を話させるために、“寝たふり”を続けるメルをそのままにしておいたのだ。

「ん?」

 メルは今起きたという風を装った。

「寝起き早々に悪いけれど、ディーンとルイスについて・・・」

 スレイは二人を振り返ることなく断言した。

「この二人は正真正銘の“騎士”だ。ディーンがフィンツ・スタームだというのは知っての通り。だが、スカートのしもべのお飾りじゃない。正真正銘ホンモノの騎士さ。荒事には慣れているからこういうとき誰より頼りになる。暮れの舞踏会のときよりもね」

 唖然あぜんとなるディーン、ルイスの二人を尻目にスレイは続ける。

「フィンツ・スタームの所属は知っての通り女皇騎士団。つまり国軍や国家騎士団とは直接関係がない。そして、今回君を護衛する事については“特別任務扱い”になったそうだから、安心して頼って欲しい。ただし、なぜ女皇正騎士が銀行屋の娘を護衛するかは詮索せんさくしない方がいい、お互いのためにもね」

 ディーンは軽くうつむき、メルはその内心を透かすような鋭い視線を向けた。

「それから、ルイスは多分似たようなものだ。彼女の身内が国家騎士団にいたとしても、彼女自身は君の味方だ。余計な詮索せんさくはして欲しくないそうだが、彼女についても裏切る心配はないと考えていい」

「スレイ、どうしてそれを?」

 ルイスは表情を一変させた。

(まさか、こんなところでこんな一般人の男に・・・。)

「ああ、さっき考え事をしていて、不意に思い出した。ロモンド教授と飲んでいて、不意に出た話だったから思い出すのにえらく時間がかかった。ロモンド教授が現役騎士時代のまたとないライバルがロムドス・エリオネア。国家騎士団東部方面軍の誇る当代きっての名将だね。今や東征の全権司令官。“軍神”ロムドス中将と“百識”ベックス元大佐。戦術家の端くれなら、誰でも尊敬してやまない二人ときている。その軍神ロムドスの懐刀ふところがたなと呼ばれ、後継者と目されているのが、シモン・ラファール大佐。それはルイス、たぶん君の・・・」

「実の兄よ。ついでに言えば父のエイブも現役の国家騎士。でも私は二人とは関係を絶っているの」

 シモン・ラファールの名を思い出して、スレイははたと納得した。

 初対面のとき、ディーンがルイスの名を聞いて僅かに動揺したのは、「偽名を使われた」からじゃない。

 逆に「本名を名乗られた」ので心底驚いたのだ。

 ルイスは最初から身分を偽るつもりも素性を隠すつもりもなかったのだ。

「・・・ということだそうだ」

「うん、わかった」メルは落ち着いた様子で続けた。「それであなたは?」

「俺かい?俺はただの政治家のせがれではなくて、戦術屋の卵さ」

「戦術屋の卵?」

 ルイスがはっきりと顔色を変えた。

「ああ、稀代きたいの戦術屋である“百識”ベックスの愛弟子。ルイスの兄さんやリチャード・アイゼンにとってはライバルにあたる・・・っていうと聞こえがいいけれど、押しかけ弟子だよ。軍務の経験はないし、これから国軍に入る予定もない」

 スレイは笑いながら続けた。

「《傭兵騎士団エルミタージュ》に正式に加わる予定だったというわけなのさ。大学に辞表を出したベックス・ロモンド師匠に連れられてね。軍隊になんか所属したことなんてないのに今現在も中尉相当官さ。少佐相当官のディーンの後塵こうじんを拝するが、一兵卒いっぺいそつよりは大分マシだ」

 無言で見守る三人に追い打ちをかけるように、スレイは続ける。

「今回の逮捕劇は“東征”と“傭兵騎士団エルミタージュ”にとって最大の出資者であるパトリック・リーナ氏の存在に軍警察が勘づいたという話だと思うよ。嫌疑も資金流用疑惑というとこかな?そして、今年初めからトレドで起きている不可解な出来事と関係している。トレドは多分、既に戦場になってるんじゃないのかな?昨年の暮れあたりからね」

 手紙の文中にあったトレドの地名。

 そして、そこで起きていること。

「ついでに言えば、パトリック氏が安全と言い切る場所についても見当がついている。こういうときの為に、パトリック氏は保険をかけておいた。予想が正しければ間違いなく、今現在パトリック氏はカロリファル公爵邸にかくまわれている」

「カロリファル邸って、あの四大公爵のカロリファル家?」とルイス。

「そんなまさか・・・」とディーン。

 それぞれに動揺するルイスとディーンの反応を満足そうに見届けてスレイは先を続けた。

「誰もがまさかと思うだろう?それが氏の狙いさ。現在、『外征』の資金管理を委託されているのはパトリック・リーナ総帥率いるベルシティ銀行。一部の業務停止って言ってたよね、ディーン?それは多分、パトリック氏が国家騎士団副総帥トゥドゥール・カロリファル公爵に“脅し”をかけたんだ。市中で取り付け騒ぎを起こすような事は絶対にないが、パトリック氏が直接運用責任者になっている東方外征の資金管理業務はとどこおるとね。彼の身にもしものことがあれば業務は一切執り行われない。仮にベルシティを切って他に託すにしても、資金の引き上げや業務の引き継ぎには時間がかかる。その間、外征は停滞し、最前線の戦況は一変するかも知れない。実に巧妙な策だよ」

 実を言えば、スレイが学生運動の幹部に接触しており、パルムに未練があるといいのけたのには二つの訳がある。

 一つはいずれ顕在化けんざいかするパルムでの騒動と学生運動に端を発したパルム市民による反政府運動を結びつけておきたいという思惑。

 幹部連中と顔なじみになっておけば、情報と協力が得やすく、傭兵騎士団エルミタージュがゼダ国内で本格的な活動を始めれば、彼らの情報網を通じて都市部でのプロパガンダに役立つ。

 もう一つは学生運動の直接の動機となっている「東方外征」について、ゼダ国内で分かることをもう少し調べておきたかったことにある。

 騎士も含めた軍人たちはどうしても前線での戦果やら戦況が気になる。

 市民は犠牲の規模や被害の状況。

 だが、スレイ・シェリフィスは戦争当事国たるゼダ国内での金と人とモノの動きに着目した。

 そこで分かっているのは、動員されている前線の騎士および兵員は中央司令部を中心として東と北の二カ所に集中している。

 つまり、南と西は動かしたくても動かせない事情を抱えている。

 西のトレドという地名を聞いて、思い当たったのはかつての《メイヨール内戦》における要衝だったバスラン要塞に近いということ。

 ロモンドから傭兵騎士団の目的と活動内容がなんなのかははっきり聞いてはいないが、行き先がバスランであり、一騒動起こすらしいことだけは聞いていた。

 ただし、バスランでの武装蜂起ぶそうほうきが国軍に発覚した形跡は今のところない。

 つまり、西で大事が起きると国軍や国家騎士団が予想もし、警戒はしているがその具体的な内容と場所までは特定できていない。

 もっと酷い想像をしてしまえば、準備の終わったバスラン要塞が武装蜂起ぶそうほうきするまでの時間稼ぎに旧公都のトレドが利用された可能性さえある。

 南はミロア法皇国にほど近い。

 つまり今回のゼダ「外征」では中立的立場にあるミロア法皇国と事を構える可能性があって、その備えが必要だということ。

 法皇国を内に孕んだ形にあるゼダ皇国にとって、ミロア法皇の存在と彼らが擁する《神殿騎士団》の存在は無視できない。

 反政府軍にとってもミロア法皇国は極めて扱いの難しい相手となる。

 教授の助手として戦略分析をすすめているせいでその可能性にはすぐ思い立った。

 金とモノの流れについては独自に調査と分析を進めた。

 その結論としては、物資と資金の調達はすべてベルシティ銀行の支店が存在する都市部で行われているということ。

 複数の民間銀行でなくベルシティに絞った理由はベルシティが中央銀行を除いて最大級の銀行だからというわけではない。

 口が堅く、信用も置けるパトリック・リーナ総帥がトップとして仕切っている。

 取引銀行を分散させず、資金の流れを一本化することにより、各大中の都市での調達支出を一限化して計上できる。

 そこまで確信していれば、後は簡単だった。

 パトリック・リーナに接近する軍人をチェックしていればいい。

 一銀行総帥の主催するパーティに親族でもない軍人が招かれていれば、それが間違いなく「東方外征」の黒幕の片腕ということになる。

 人目につくカロリファル公爵自らが出向くことは考えられない。

 だが・・・。

 スレイがパーティの列席者に目を光らせていた本当の理由は、紹介されない、または別人として紹介される人物に当たりをつけること。

 そこで、スレイは思わぬ人物と出くわした。

 リチャード・アイゼン中尉。

 国軍参謀部所属の若き将校。

 カロリファル公爵の最側近ともっぱら評判の男だ。

 高等士官学校を優秀な成績で卒業したとはいえ、階級も低く、年若い彼を大抜擢したのは、まさしくトゥドゥール・カロリファル副総帥そのひとだった。

 なにしろスレイはリチャードについては知っているどころではない。

 同じ没落貴族の子弟としてイジメに遭った仲だった。

 個人的にも親しいし、リチャードはスレイの本名も、弟ティベルのことも知っている。

 後はリチャードに接触した人物たちを追えば良かった。

 彼らはほぼ例外なく、戦争利権に絡む商工業を営んでいる。

 モノの調達こと物資の調達は彼らが行っているとみるのが自然だった。

 「外征」の背後には巨大な軍産複合体がある。

 表面的に動いている人間だけでも相当の数で、更に背後にはもっと沢山の大物が潜んでいる。

「国軍も国家騎士団も一枚岩じゃない。カロリファル公がベルシティみたいな民間銀行を頼らざるを得なかったのも、造幣局もあるゼダの中央銀行がまったくもって頼みにならないからさ。連中ときたら、ただ金を刷って国庫から金を出してバラまくだけしか能がない。それに引きかえ、民間のベルシティ銀行は預かった金を巧みに管理運用して、場合によっては増やす術も心得ている。『外征』で一儲けを企む連中からの賄賂わいろはパトリック氏を通じてすべてカロリファル公の懐に入る仕組みだ。脅しなどかけずとも、これほど明白な共犯関係にある両者は容易に互いを切ることは出来ない。『外征』の黒幕に加担している。それでいて、中原一の傭兵騎士団のメインスポンサー。君の父親はどうやら、そういう奸知に長けた人物らしいね。だからこそ、どっちの陣営においてもパトリック・リーナ氏を簡単には始末したり、排除したりは出来やしない。事態が沈静化するのをパトリック氏は半年と読んだ。その半年の間に、カロリファル公は背後で手を回して、軍警察の逮捕状を撤回させるだろうね」

「驚いたわ。どこでそんな情報を?」とルイス。

「女皇騎士団調査室でもそこまで詳細な内容は把握していない」とディーン。

 無論、女皇騎士団は調査室を使って「外征」の実態把握を進めている。

 そして、カロリファル公爵はそれこそ早い段階で名前があがっている。

 だが、ベルシティ銀行やパトリック・リーナという人物についてはどうか?

 おそらくはそこまで細かく把握すらしていないだろう。

 アリョーネ女皇はある一件以来、パトリック・リーナを厚く信頼していた。

 その理由についてディーンはよく知っていた。

 同じ現場にいながら、ディーンはリチャードの存在に気づいていなかった。

 致し方ない話だ。

 地震の直後にリチャードは姿をくらませていたし、ディーンは別の雑事に囚われていた。

 もっとも、背後関係にその実、興味も関心もないディーンにとって、それを知ったところで、その情報をどう利用すべきかなど分かる筈もなかった。

 そもそも東征など茶番であり、本当の目的は別にあった。

「ウチのオヤジが・・・養父の方がね、よく言ってた。『物事の中心にいるのはいつだって金を持った奴と相場が決まっている』とね」スレイは皮肉っぽく笑った。「急に逮捕されることになったのに、絶対安心と言い切れること、そしてなんのかんのと理由をつけて俺が関わらないようにと念押ししたのは、政治経済に関して玄人はだしの俺には絶対に知られたくない“やんどころない秘密”を抱えているからだ」

 走り書きの一文からこの青年がここまで読み取ることはパトリック・リーナも想定外だったことだろう。

 ディーンもルイスもさすがに気まずい表情でいる。

 逆にからりとしているのは、メルだった。

 父親のこととはいえ、こうまであけすけに物を言われてはどう反応して良いか分からない。

 二人の騎士はそう判断していることだろう。

 だが、スレイには確信があった。

 メルは薄々だがに気づいていたんじゃないかと。

 戦争している双方に出資していようとなんら不思議はない。

 『外征ってそんなに悪いことなの?』

 そう彼女はつぶやいた。

 二人が尚も当惑し、思索にとらわれているのを見計らい、スレイはメルの耳元でささやいた。

「これが俺の魔法。君が寝ている間にかけておいた」

「うん、ありがとう。おかげであたしにも色々と見えてきた。ここまで因果関係がはっきりしているなら、父は貴方の言うとおり大丈夫ね。それに」

 メルは不敵とさえ写る目をして続ける。

「この世に人の思惑に汚れてないお金なんかない。それに多かれ少なかれ、銀行家は人の恨みを買う商売だもの。そして、間違いなく、父は危険を冒し、信念をもって行動している。保証された身分と使い切れないほどの財産。今あるものでさえ持て余している父が、それ以上のなにかをなんの考えもなく、望んだりはしないわ」

 メルがパトリックに寄せる信頼はそれほどに重かった。

 少々のことでは揺らぎはしない。

「ついでと言ってはなんだけれど」

 スレイは狡賢ずるがしこい表情を浮かべる。

「俺の話ですっかり混乱しているあの二人を従えちまえ、連中に守らせるんじゃなくて従わせろ。金も主導権もいざというときの決定権もみんな君が持っていればいい。その方がこれからの旅が楽になる」

「旅?」とメルは身を乗り出していた。

「南もしくは西・・・身の安全を考えれば、南。巡礼者たちに紛れてミロア法皇国に入れば半年ほとぼりをさますのはそれこそいとも簡単に出来る。おやじさんの逮捕状が撤回されたら、悠々とパルムに戻ればいい。その提案なら、二人とも納得して従う」

「その様子だと答えは『西』ね?」

 メルは目を輝かせて先を急かす。

「ああ、今回の騒動。その発端となったトレド。そこでなにが起きているか興味はあるだろう?それに懸念けねんもあるんだろう?」

 トレドという地名が出た途端、メルの顔色がサッと変わったことをスレイは見過ごさなかった。

「敢えて渦中に飛び込んでみるかい?極上の護衛が二人。資金は潤沢じゅんたく。どの道危険なことには変わりがない。それなら、知りたいこと、やりたいことは全部片付けよう。その上で今後の身の振り方を考えるのも決して悪くない選択だ」

 人の悪い笑みを浮かべるスレイにメルは頼もしさを感じていた。

「そうよ、これはピンチなんかじゃない。私に与えられたチャンスなんだわ、銀行屋の娘として私が抱いた疑念や疑問を払拭ふっしょくするまたとない好機・・・」

 メルが抱く疑問や疑念はそんなものだけでは済まされない。

 そして、もう一つの不安と心配。

 それは、トレドで音信不通になっている恩人エリーシャ・ハランのことだった。

 彼女の安否を確かめたいし、出来ることなら助けになりたい。

 幸い今置かれたこの状況ならメルを止め立てする者は少ない。

 ディーンとルイスは説き伏せる。

 そして、スレイはメルが期待していた以上に頼りになる。

「卵じゃないね」

「えっ?」

「貴方はもう立派な策士よ」

 それは例によって純粋な褒め言葉ではなかった。

「そして誰よりも意地悪な魔法使い。私たち3人を利用できると踏んだのね。貴方の参加したゲームに?」

「そうさね、手札は4枚。だけどどれが欠けても、ゲームは敗北に終わるのさ」

 メル、スレイ、ディーン、ルイス。

 これから始まる旅は4人が揃っていないと老獪ろうかいかつ卑劣な相手に勝ち目はない。

 今の当面の相手は大人たちで国家に属する組織だった。

 4枚すべてが切り札でルールもよく分からないカードゲーム。

 ポーカーフェイスでそのテーブルにつくとスレイは決めたのだ。

「わかったよ。今の私に必要だったもの」

「ん?」

「守られる安心じゃない。攻め込める知恵」

 確信したようにそうつぶやいて、メルは目を輝かせた。

「決まりよ、西に行くわっ!」 

「わかった。後は・・・いや、これは今ここで俺なんかが話すべきことじゃない」

 今回の一件の処置が、ディーンに即座に「特別任務」として与えられたこと。

 そして、誰にも話せないルイスの事情。

 にしてやれる最後の事というパトリックの一文。

 その意味するところは・・・。

 メルは女皇家に関わりがある。

 それは間違いのない事実だということ。

 「ああそうか」とスレイはほくそ笑んだ。

 メルは“本物のお姫様”なのかも知れない。

 だったら、意地悪な魔法使いとしては二度とお姫様とは呼ぶまいと心に誓った。

(それこそ、皮肉にも当てつけにもなりゃしないさ)


 女皇暦1188年4月24日 午後11時


 食事と旅支度を終えたスレイとメルはもう寝付いた。

 ルイスと二人きりになったところで、ディーンはようやく重くふさがった口を開いた。

「まったく、あいつにはまいった」

「スレイ・シェリフィスねぇ・・・相当な切れ者だって評判は聞いていたけれど、まさかあそこまでだとは・・・」

「実際そうさ。俺とコイツは実際に“傭兵騎士団エルミタージュ”のベルカ・トラインとして作戦行動を共にしている。なにがタマゴだ。コイツの立てた作戦案で俺は東方外征の妨害作戦を戦っている。それも一度や二度の話じゃない」

 ディーンの目はいつになく真剣だった。

 ルイスにはわかっている。

 命を奪おうとまで考えたことのある男。

 だからこそ、心の底かられ込んでしまった。

 いつだって自分に見えないものを追い求め見ている。

 だから、ルイスにはルイスにしか見えないものをはっきりとらえ続けられる。

 無防備になる背中を預けられる安心感と信頼感。

 まだお子ちゃまで自分たちお互いの想いにも気づいていないメルとスレイにはわからない本当の意味で人を愛するということ。

 守られることで絶対的な安心感と引き換えにみじめな気持ちになると言ったメルの言葉は聞いていない。

 仮に聞いていたとしたらルイスの答えは明確だった。

 おんなじように守ればいい。

 そうすればみじめな気持ちは誇らしい気持ちに変わる。

 まったく違う個性と強さがあるのは、人は誰しも一人で完全無欠になることなど出来ないからだ。

 だから異なる個性や才能持つ他人と共に歩む必要があるのだ。

「女皇騎士団がただのお飾りじゃないことは知ってたわ。なにしろ、ウチの兄貴がエドナ杯の決勝戦を戦い、『負ける。格が違い過ぎる』と確信していたのに、まるでわざとしたみたいに“反則負け”して兄貴に勝ちをゆずったビルビット・ミラー少佐や、準決勝で実際にアタシと戦って負かしたアンタがいるようなとこだもの」

 実はその一員となる話までルイスはから提示された。

 でも断った。

 そんな器用ではない彼女には一途で愚直にしか生きられない。

 だったら、誰かの替わりを演じきることに専念した方がまだマシな選択だった。

 ルイスによく似て才能にあふれ、一途で愚直だったルカ・クレンティエンをうしなったことが、その実決定的動機だったことをは話さなかった。

 わざと難しい役を与え、誰かを頼ろうと思うようにさせる。

 そうすればこの愛すべき自分の分身は呆気なく終わりを迎えることなどない。

 ルイスを取り巻く人間関係の中でどんな物語がつづられているか分からないディーンは、渋面を作って過去の自分を恥じた。

「その話を持ち出されると『若気の至り』に湯気が出る程恥ずかしい」とディーンはらしくないほどにはにかむ。「それにビリーは見た目は優男で軽薄そうだけど、中身は劣等意識の塊で、実力を隠したり、勝ちを譲ったり、他人より目立つのをとことん嫌う。自分なんかが女皇正騎士なんて柄じゃないと常々言ってる人さ。このボクでさえ、あの人の実力の底は知らないよ」

「兄貴は完全に“あの一戦”からおかしくなった。『自分には思うほど実力がない』と言うようになって、『アンタたちに手合いで稽古けいこをつけて貰って、どうにか一人前にやってる』って人が変わったみたいにとても謙虚になった。以前はアタシが鼻持ちならないと思うほどの大層な自信家だったのにね。完全に鼻っ柱を折られたお陰であの若さで“大佐”に昇進したんだわ」

 それも違った。

 シモンは生涯全力をかけても決して勝てない相手を既に二人知っていただけだ。

 それは勝てないまでも負けないフィンツ・スターム少佐ではない。

 ルイスの兄シモン・ラファール大佐とディーンは面識があるどころではない。

 ビリーことビルビット・ミラー少佐を通じて紹介されて以来、妹のルイス以上に親しい間柄だった・・・昨年の11月までは。

 「東方外征」が始まってからは会えていないし、さすがにシモンのいる“ロムドス隊”を相手にディーンたちが作戦行動などしたなら、完全に背後関係がバレてしまう。

 “ロムドス隊”こそ一番厄介だとトリエルがこぼしていた。

 そこに居るシモン大佐も危ない綱渡りを続けている。

「大体さ、ゼダから出たこともないんで、国外はまったく知らないのに。地図だけで読み取ってオラトリエスやフェリオでの作戦行動も平気で立案しちゃう程のヤツだぜ、スレイは。それにコイツは『学生身分で中尉相当官』だときている」とディーンは心底呆れる。「スレイの兄弟子で俺にとっては同僚のイアン・フューリー提督が『戦術行動』なら互角だけど『戦略行動』となるとまるっきり歯が立たないとボヤく始末で、ボクがコイツと知り合ったのは昨年の夏だけど、コイツの作戦計画で戦ってたのはそれ以前からだもの。ウチの大学にトンデモない怪物がいるって話はベックス爺さんから聞いてたけど、それがスレイだとわかったのは完全な。ベックス爺さんと話し込んでいて遅くなりすぎて、未明に図書室前を通りかかったスレイがボクを泥棒だか幽霊だと勘違いしたのが例の事件の真相だもの」

 例の事件というのが第一話で紹介した幽霊騒動だ。

 そして、ディーンはスレイの脳裏になにが隠されているか薄々気づいた。

 逆もまたそうだろう。

「あっきれた。アンタは誰の立てた作戦計画か知らないで戦ってたんだ?」

「そうさ、大学内で見掛けたことはあったけど、そもそも政経学部のコイツがベックス爺さんの弟子だなんて想像つくかよ。後日、ベックス爺さんとコイツが並んで現れたときは腰を抜かすほど驚いた」

 ディーンにも分からないことは分からない。

 だから、人生は面白いのだ。

 驚きと呆れの連続になる。

「まったくやれやれだわね。アタシもアンタとの再会はだから他人をどうこう言えないけど」

 ルイスの口ぶりは感心したとも呆れたとも、あるいはそのどちらの意味合いも含んでいた。

 自分にしてもだった。

「まったくさー、そもそも今日・・・じゃなかった昨日はそういう日になる筈じゃなかった筈なのに、苦労の末の“晴れの日”がすっかり台無しで、いつコイツらにちゃんと話せるんだよ」

 ルイスは苦笑してしまう。

 ゆうべは散々だったし、久々に本気で怒り、翌日も乱れた気持ちを引き摺っていた。

 だから、“天罰”により怒りで沸騰ふっとうしていた頭にいきなり水をぶっかけられたような事態におちいった。

 そして「そうじゃないでしょ」と誰かに言われた気がしていた。

「ああ、もう最悪よ。メルにはバレそうになるし・・・ってか多分バレてるし。スレイはスレイでメルとヨロシクしちゃってるし、もうあの様子だとわたしらが留守にしていた時間ですっかりメルと結託してるんだもの」

 想定外だったが満更想定外でもない。

 察しこそ悪いがルイスの鼻は利く。

 だから、ずっと見てきたメルの意外なもろさが誰を求めているかには勘付いていた。

 誠実さや委細なさや優しさなんかではなく、自分と一緒に泥まみれ、業まみれになって、笑い物にされても逃げずにいてくれるだ。

 一人よがりな者同士の遠き道程のはじまり。

 実際に共に歩んでみて、来た道を振り返るまで分かるまい。

 であれ、自分であれ、そうしたメルを見守ることしか出来ない。

 どうにもならなかったし、二人とも今まで恵まれすぎていたのだ。

 それが愛情であれ、憎悪であれ、自分を自分たらしめる因子たちと共に在れた。

 だが、私たちには“先駆者たち”しか居らず正に“孤独”であり、少ない選択肢の中から共に歩めると思うものをがむしゃらにつかみ取るしかなかった。

 つかみ取ってから初めて得難いなのだと気づけた。

 他人から見たらバカに見えるだろう。

 でもバカなんだから仕方がない。

 したいようにすればいいのに、いろいろ考えすぎてしまうバカなディーン。

 知識はどんどん吸収できるのに、肝心要な部分だけ嗅覚きゅうかくに頼ることになるバカなルイス。

 だから、「この分からず屋」と思うディーンと、「思い上がるのも大概たいがいになさい」と思うルイスの間にはずっと憎悪しかなかった。

 不器用で不似合いなことをしているお互いの滑稽こっけいさが情熱という熱量を裏付けた。

 一番受け止めて欲しい性分由来の不器用さをバカな自分ではないから、受け止めて前を向ける。

 二人揃ったとしても、出来ない事は逆立ちしたって出来ないとあきらめがつけられる。

 その上で出来ることは沢山ある筈なのだ。

「メルが一筋縄じゃいかないお嬢さんだとは前々から知っていたけど、あの子に余計な知恵をつける奴がこんなに身近なところから出て来るとは・・・しかも最悪だぞ、コイツの場合」と寝ているスレイを指してディーンは言う。「もともと一家離散の原因になったっていう事故死した父親が大嫌いで、そのせいもあって騎士っていう人種職業が大嫌いで、国家騎士たちをへこますために偽名で原稿を書いて出版されていて、ソレが国軍と国家騎士団参謀部の戦術教科書になってるんだぞっ。しかもソレってベックス爺さんが書いたのだと国軍や国家騎士たちからはかなり本気で思われている」

 ちなみに第一話でスレイが手にしていた「用兵における人間心理学とその応用」という本はスレイ本人がペンネームである弟ティベルの名前で書いた本の一つだった。

 国家騎士養成学校と皇国高等士官学校で参謀課程はそれぞれ年に数十人しか入れない狭き門だった。

 ゆえにディーン・エクセイルの学術雑紙以上に売れない。

 読み返していたのは翌年春・・・つまりつい1月ほど前に第2版が出るため、推敲すいこうがてらだった。

 更に第4話でスレイが明かした密かに借りているという歓楽街近くの部屋というのは、いわゆる執筆作業のための部屋であり、国家騎士たちの人間心理を探求するため、それが如実に出てしまう・・・つまり酒や女といった快楽により本音が露出する歓楽街において、人間観察のためだとディーンは即座に理解したが、敢えて“連れ込み部屋”だとからかったのだ。

 そもそも真戦騎士の戦術行動や心理学など一般人にはわかる筈がない。

 ベックスとスレイ本人から聞いているのはスレイもまたシェリフィス家の養子になる前は騎士家の生まれだという話とそれが父親の代でつぶれたという話だけだった。

 だが、軍務経験も皆無で騎士修行すらしていないスレイが何処で戦術理論の基礎を学んだかについては、ベックス・ロモンドでさえ知らないし、ディーンは知りたくもない。

 もともと一般教養課程で「歴史学」を学んでいた一年生のスレイが、暇つぶしに答案用紙の裏側にラクガキした絵図面が騎士戦闘の作戦計画なんだとベックスが気づいたことから師弟関係が始まったというのだ。

 お小言ついでに説明を求めたベックスにスレイが理路整然と内容を説明した為、ベックスは放っておく手はないと自分の温めていた騎士戦闘の戦術理論を授けた。

 「押しかけ弟子」だというのも聞いて呆れる。

 そもそもベックス・ロモンド教授の正体が“さる不祥事で引退させられた”多芸多才だった元女皇騎士団副司令だということをスレイは全く知らなかったのだ。

 そうしたあたりも兄弟子のイアン・フューリー少佐ととてもよく似ている。

 イアンがベックスの愛弟子になったのは、女皇騎士教育課程であるシルバニア教導団時代にやらかした「教科書のラクガキ事件」が発端だった。

 戦術課程を教える教官陣が束になってもイアンのラクガキにある作戦計画案には勝利出来ず、遂にはを引っ張り出して臨時講師に招くに到った。

 というのはまたぞろベックス・ロモンドのことだった。

 「教科書に書いたラクガキが翌年度以降の教科書にる」という離れ業をやらかしたイアン・フューリーは女皇騎士団正騎士となるや、騎士団副司令現役当時にはベックスの無二のだったというパベル・ラザフォード少佐に預けられた。

 なにしろ歴とした騎士家の出身なのにイアンは歩かせるのがやっとだというほどに真戦兵操縦の才能はないし、それを苦にしておらず、「俺には船乗りが丁度良い」と言いきっている。

 『なまじ真戦騎士なんかやってるとコイツらみたいなバケモノに出くわすからおっかない』とディーンとビリーを指してボヤいた。

 そういう飄々ひょうひょうとした人だ。

 まだ、テスト用紙の裏側に「詰めエキュイム」を書いてディーンの養祖父アルベオ学院長にこっぴどく怒られたのだというビルビット・ミラーの方が可愛げがあってマシだったが、解けた人間は名手アルベオを含め、「一人もいない」というのだからディーンは呆れる。

 更には女皇騎士としての名声より、「大陸一のエキュイム名手」という趣味の方が有名で、そっちに関しては「勝ちを譲る」などという殊勝しゅしょうな心がけはないビリーにディーンは一度も勝てたことがない。

 なんだかというのはディーン・エクセイルには理解不能だった。

 しかし、ひとたびそれを口にした途端にルイスから「アンタもよ」とツッコまれ、「お前もなぁ」とルイスに切り返すことになるのは「火を見るより明らか」なのでディーンは敢えて口にしないだけだ。

「あらら、仮にも大親友をまるで厄介者か疫病神みたいに言うのね」

 仮の父親が繊細なディーンを案じて、スレイの吟味をルイスにゆだねたことか、一人よがりなこの人には分かっていない。

「だいたい実際のところ厄介極まりないさ。なにしろメルはただでさえ難しい立場でそれを理解させるにはかなり手順を要すると思っていたから。最近流行の推理小説よろしくにああも筋道だてて説明されてしまうと納得した気になる。だけど・・・」

 曇るディーンの表情に受け止めるべきは此処ここだとアタリをつけるルイス。

「だけど?」

「『納得する』のと、『運命として心から受け入れる』というのは全く別物だと思うんだ」

 ディーンは眉根を寄せて、更に表情を険しくした。

 おそらくディーンは過去の過ちと人の業を混同させて、それで深く悩んでいる。

 自分の犯した罪の重さと、人という種の犯した業の重さ。

 どれだけ聡明になろうとその分岐線が引けずに一人苦しんでいるのだ。

 人の正義など信じられなくなったから、ディーンは悩むようになった。

 端っから正義の在処など他人に投げていた自分にはその苦悩がずっと分からなかった。

 今となってはとして苦悩とやらを受け止めてやる。

 どんな暴投がこようとキッチリと受け止める。

 王に相応しき者、神性持つ者の言葉を受け止めてきたルイスにはそれが出来た。

 今は黙って聞き役に回る。

「自分の父親が紛争の金庫番という話。メルは薄々それと気づいていたと思う。これは容易に受け入れられるかも知れないけど、それが実際にどんな意味を持つのか知れば、親娘関係は壊れるかも知れない」

 ディーンの懸念けねんはまさにそこに尽きた。

 ルイスからしたら「やっぱりね」だ。

 他人のことばかり気にかけ、自分など一切顧いっさいかえりみない。

 それこそパトリック・リーナは人の業の象徴だ。

 自分の仕事に私情を挟まない。

 だが、その仕事というのが強欲まみれだ。

 スレイや自分とも相通じている。

 戦闘の作戦計画を練る側も、それで戦う側も“生じた犠牲”に少しも心を動かしたり、感傷的になったりしない。

 そうじゃないとやっていられない。

「メルにしても、スレイにしても頭でっかちなんだよ。平和で何不自由ないところで考えるより、じっさい現実は過酷さ。現実に戦場に立ってみれば、それがどれほど小規模のものであれ衝撃を受ける」

 ディーン・エクセイルの脳裏には女皇正騎士ではなく、傭兵騎士団エルミタージュの“ベルカ・トライン”として非公式参戦したオラトリエス戦の戦場がまざまざと焼き付いていた。

 騎士同士の手合いにおいて200戦無敗を誇る女皇騎士団のトップエースたるフィンツ・スターム。

 それがディーンの正体だったし、二重生活におけるもう一つのかおだった。

 そして、裏稼業における“ベルカ・トライン”の名は相手への警告の意味で使われる公然の秘密の名だ。

 女皇騎士団は生憎にして国家騎士団の外征には反対の立場だったし、それどころか「隣国オラトリエスの為にディーンたちは派遣され、『傭兵騎士団エルミタージュ』と偽ってゼダ国家騎士団を相手に戦った」のだ。

 そもそもスレイの言っていた中原最大の「傭兵騎士団エルミタージュ」は女皇アリョーネが復讐と独自資金獲得の手段として創設した外郭支援部隊だ。

 各国の依頼で紛争解決に一役買いつつ、莫大な報酬を受け取るシステムだ。

 それこそ、正騎士のメンバーの選定については元老院議会の承認を得る必要があったが、推薦者は女皇の自由裁量に任せられた女皇騎士団などでは到底彼女の真意に適わない。

 皇国女皇の意向など端っから無視する元老院や国家騎士団に一泡吹かせるために、自らが自由に扱える警護の為の騎士団を超一流の実戦部隊として鍛え上げる。

 そのためになら各国の紛争にも平気で介入する。

 つまり、ディーンの腕前は「手合い」という訓練で鍛えられたものでなく、投入された「実戦」で鍛えられたものだ。

 戦場を知り、人も殺し、既に業にまみれた職業軍人だ。

 それだけにスレイが肌身には知らない「戦争の負の面」にも通じている。

 焼けただれた町は大火事どころの状態ではない。

 路上を行き交う生き延びた人々にも精気はなく、呆然と燃え落ちた我が家を見上げる人の顔には「絶望」の二文字が読み取れる。

 道路の隅に放置された遺体からは腐臭が漂い、硝煙しょうえんいぶされてすえた臭いを放つ。

 家を焼き出された人たちが雨露もしのげない路上に力無くしゃがみ込んでいる。

 小銃を手にした歩兵たちが不審者を捜してあたりをうろつき、人々は顔色を失って不安げな眼差しを落とす。

 それが戦場の現実だった。

「遊びじゃないし、ましてゲームなんてそんな簡単に割り切って考えられるもんじゃない。大勢の名前を持つ人の命がかかってるんだからな」

 ディーンの嘆きにルイスは共感していた。

「あたしはさ、いつあの男の口から陛下の名前が出るんじゃないかと正直なとこヒヤヒヤしたわ」

「あれだけ材料が揃ってしまうとその先にいるのは陛下だけだからなぁ」

「『外征』『傭兵騎士団』『出資者』、そして『黒幕』・・・こうして単語を並べるだけでも背筋が寒くなるわ」

 女皇国の抱える重大かつ深刻な事情。

 それがこれらの単語に集約されている。

 既に女皇国は女皇のものではなく、門閥貴族たちと元老院議会という既得権者たちの私物化している。

 慢性的に財政が逼迫ひっぱくしていて、ライゼル・ヴァンフォート伯爵が知恵を絞ってどうにか支えている。

 トゥドゥール・カロリファル公爵の「東方外征」の真の狙いも、その半分は戦争特需によるゼダ国内の経済活性化だ。

 アリョーネが独自資金獲得に躍起になったのも、ライゼルが死に体のゼダを財政的に支えてきたのも、トゥドゥールが東方外征の戦争利権を求めたのも、理由ははっきりしていた。

 戦費調達だ。

 東征ではなく、もっと肝心な戦いは数年がかりになる。

「メルの前で口にこそしなかったけれど、おそらくスレイは真実を掴んでいる。それでもボクらの手前自制はしてくれた」

「同感ね。今ここで口にするほど彼は馬鹿じゃない」

 静かに寝息を立てるスレイに視線を送りながら、ルイスは続けた。

「彼は馬鹿じゃないから余計に厄介でタチが悪い。身は綺麗なものだけど、腹の中と手は真っ黒。そして、彼の頭脳と才覚なら偉大なキングメーカーになることだって出来る。いつかそれが彼の身を滅ぼすか、栄光の頂点に立つことになるかもね」

「それでも、これ位でいいのかも知れない。スレイには元々頭脳労働を担当して貰う予定だったし、それでなにかとやりやすくもなる」

「そうね、あたしたちはメルの前に転がる障害を一つずつ消していけばいい」

「おいおい、その障害にボクやスレイを加えないでくれよ」

 ディーンは崩した面持ちで苦笑した。

「それは“今の段階では”ないわ。多分、あなたたち二人はメルにとって最後の最後まで手放す事の出来ない“切り札”になる」

「“切り札”ねぇ」

「どうやら、あの決め台詞はスレイにも当てはまらなかったわね」

「ああ、それは確かに言えている」

 スレイは無力でもない。

 守る力でもない。

 さえぎる物をなぎ倒して進む、「き出しの知力」そのものだった。

「守るより攻めろか・・・よくあたしの師匠が言っていたわ」

 攻めることで守ると説いたルイスの叔父セプテム・ラファール。

 もう何年も会っていないが、ルイスに騎士たる基礎を教え、叩き込んだのがセプテムだった。

「必要がなければ攻めない方がいいこともある。思わぬところに無用なを生まない為にも」

「それが最強騎士の処世術?」

 かつて、ルイス・ラファールはディーンと対峙した際に、本能的な嫌悪感を抱いてエドナ杯という公衆の面前で、ディーンことベルカ・トライン選手を殺害しようと企てた。

 結果的にディーンは「片膝をつかせられ、辛くも勝利した」。

 しかし、その敗戦はそれまで持ち続けたルイスの価値観と運命とを大きく変えた。

 直後にディーンは「しっぺ返し」で再戦して完敗した。

「ボクにだってどうにもならないことはあるさ、一人で百人二百人は相手に出来ない」

「それでも軽くなんとかしてしまいそうだから、貴方は怖いのよ」

 ルイスは寂しそうに笑った。

 この世でたった二人だけ、自分の愛した男たちはそうした男たちだった。

 最大の皮肉が二人はこのあとルイスを差し置いて名コンビと言われるのだ。

「それで女皇陛下の誇る最強の騎士様はどちらへ行かれるおつもりだったのかしら?」

「西へ、南は論外だ」

「法皇ナファド・エルレインと、特記6項条項ね」

 ミロア法皇庁はゼダが行う「外征」について、公式になんの表明も行っていない。

 オラトリエスの王族を匿い、避難民の受け入れを積極的に行っているにもかかわらずだ。

 それだけにいつどのような形で手を打ってくるか想像も出来ない。

 そして、もう一つの懸念が「ナコトの預言の日」だった。

 その日は近いということだけはディーンにせよルイスにせよ騎士たるからこそ分かっている。

 だから、書類上のこととはいえ、急いで手を打った。

 トワントを安心させるためだったし、もしその日が来たらディーンは“史家”として数多の騎士たちに識らせねばならない事実があり、“騎士”として最前線を戦わねばならない。

「法皇が敵だか味方だか分からないのに、すぐ手の届く所にのこのこ出向くのは得策じゃない。ましてや、マルガ、エベロンといった離宮の多い東や、俺達にとって馴染み深い旧都ハルファのある南も避けたい。国家騎士団に厳重にマークされているし、重要施設もある。そんな場所にわざわざ近づくわけにはいかない」

「アイラス要塞のある北は『外征』の真っ直中、『早くあたしたちを捕まえてください』って言ってるようなものだわ」

 正式な手続を経て、整然と進行している「外征」では軍警察もかなり動員されている。

 それは主に暴行や略奪、強姦といった国軍兵士や国家騎士たちの狼藉を止めるための予防措置。

 当然、国軍兵士や国家騎士たちはそうした重犯罪をきつくいましめられているが、発生件数がゼロにはならない。

 パルムから追っ手がかかるとしたら、彼らは現地の軍警察に協力を仰ぐ。

 なにしろ圧倒的に数が多い。

 北や東を避けたいというのはそういうことだ。

「危険だけれど西に行くのが正しい。いや、むしろ危険な方がいい」

「どういう意味?」

「こちらが危険にわざわざ飛び込む馬鹿ではないと思われているとしたら、相手の裏をかける」

「それにトレドのことをメルが気にしてる。多分、エリーシャさんのことね。去年までリーナのお屋敷に仕えていたメルの母代わりだった人よ」

 エリーシャ・ハランのことが心配なのはルイスも一緒だった。

 ルイスがパルムに来た早々、都に不慣れなルイスに的確なアドバイスをして助けてくれたのがエリーシャだった。

 メルやパトリック以上に都市部での生活に精通していたのは、ルイスと同じくトレドという地方出身者ということが大きく作用している。

 裏通りの危険な地域や生活必需品を購入するのに安くて質の良い店にも詳しかった。

 不安だった都での生活を今日まで乗り切って来られたのも彼女の助けと助言とがあったからだ。

 ルイス自身言葉に尽くせないほどの感謝を感じている。

 「大丈夫だ」と思う根拠がある一方で消息が心配なのはルイスも同じだ。

「パトリック氏が敢えてトレドの地名を明かしたのは間違いなくそこに杞憂きゆうがあるからだ。ボクらが軍警の追っ手から確実に逃れられる場所なんて国内のどこを捜しても見つからない。だったらいっそ気がかりなトレドに向かってしまえばいい。紛争の規模がどの程度かは分からないけれど、軍が非公式に展開してる場所なら軍警は動きにくい」

 軍警は実は軍にとって有り難くない存在であり、軍警にとっては軍ほど有り難くない存在はない。

 二つは似て非なるもので、元々は軍内部における不正や軍人を取り締まる役職にあたる軍警察は軍人たちから蛇蝎だかつの如く嫌われている。

 軍警察は軍そのものの協力はまず得られない。

 軍警に下手な証言でもしようものなら、身内を売った密告者として間違いなく軍内部でつまはじきに合い、出世の道を閉ざされる。

 国軍上層部は国家騎士団の息がかかっており、軍警上層部は内務省の息がかかっている。

 軍人と官僚の対立構造の縮図が二つの組織の間に横たわっていた。

「だけど、騎士なんていったって私たちは一般の市民に比べたら、戦闘訓練を積んだだけのただの人間よ。真戦兵があれば国軍なんて問題にならない、けれど数を頼みにされたら」

「不安かい?」

「全くないと言えば嘘になるわね。ただでさえ、真戦兵と引き離されたパルムではメルを守るのだって毎日結構不安だったのよ」

 真戦兵を扱わせればその右に出る者は酷く少ないルイス・ラファール。

 ルイスの真の実力を知るディーンにしてみれば、友達に振り回され、慣れない都暮らしに辟易へきえきしている様子は滑稽こっけいでさえあった。

 その逆に、図書室のヌシとして睡眠不足と書籍の山に埋もれて執筆原稿と格闘しているむさ苦しいディーンはルイスの目には滑稽こっけいに映っただろう。

 その逆で「惚れ直した」のだったが。

「そういう不安はこれからはボクも引き受ける」

「そうね、そうしてくれると助かるわ」ルイスは寂しげな表情を浮かべた。「ただでさえ、私の身ひとつには重すぎるものを抱えてしまっているんだもの」

 ルイスの浮かべた悲しげな横顔を今のディーンには黙って見守ることしか出来なかった。


 4人がパルムの片隅で不安な一夜を過ごしていた同じ夜。

 パトリック・リーナは山の手の邸宅に客人として迎えられていた。

 しかし、屋敷の作りは立派なものだが、調度品の類は年代物のごく一部を除いて、体裁を繕う程度のものばかり。

 装飾品にはほとんど金がかかっておらず、使用人の数もまばらで数えるほどしかいない。

(ローレンツはその晩年、かなり窮乏していたとは聞いてはいたが)

 かつてこの家の客人として招かれた頃はそれは華やかなものだった。

 贅をこらした調度品が並べられ、主の名に恥じぬようそこかしこに美しい花々が飾られ、洗練された多くの使用人たちが機敏に客をもてなす。

 そうした当主ローレンツの華やかな時代と比べてしまうのは些か酷な話ではあったが、現在の当主の気骨と意志を現すかのようにひどく質素でうそ寒くさえある邸内にパトリックはトゥドゥール・カロリファルの一端を見た気がした。

 一言で言い表せば、「華がない」。

 華やかな履歴と経歴を持つというのに、当人の印象をひどく地味にしているのはおそらくはそうした気質なのだろう。

 トゥドゥールの父で先代公爵たるローレンツ・カロリファルは社交界の花形として知られ、同世代の女性達を虜にした絶世の美男子だった。

 少なくとも容姿の点で、トゥドゥール・カロリファルはその父に劣っているということはない。

 ローレンツのもう一つの貌が、ゼダ女皇家の生み出した天才政治家。

 なにしろ先代公爵はローレンツとその妹ウルザの非凡さに、あっさりと屋敷を明け渡して田舎に引っ込んだ程だった。

 比較的、政治に長けた人材を輩出してきたカロリファル家にあって、ローレンツほど才能に溢れ、また同時に同業者たちから恐れられた人物もいまい。

 パトリックにとっては決して忘れることの出来ない人物であり、盟友。

 いや、それ以上の関係にあった。

「お待たせ致しました。執務が長引きまして」

 帰宅してすぐに着替えることなく金刺繍の黒軍服そのままにパトリックを出迎えたトゥドゥールは屈託なく右手を差し出した。

 口許を覆う髭が特徴的でヒゲ公爵と言えば彼を指す。

 若い彼が貫禄をつけるためにしていると皆理解していた。

「留守中、勝手にお邪魔いたしたことを心苦しく思います」

 パトリックは息子ほど年の離れた若き公爵の手を取り深々と頭を下げる。

「いえいえ、今度の事はこちらの手落ちでもあります。無論、あなたとの関係をあまり公に出来るものではありませんが、それにしてももう少し軍警察の関係者にはクギを刺しておくべきだったと後悔しております」

「お手を煩わせてしまい、申し訳ありません」

 挨拶を終えるやトゥドゥールは席をすすめた。

 差し向かいにソファーに腰を下ろすとすぐに用件を切り出す。

 交渉事においては百戦錬磨のパトリックは内心、「若いな」と苦笑した。

「単刀直入に申し上げますが、あなたへの嫌疑については詮索する意志など毛頭ありません。貴方は銀行家としてどこへ出しても恥ずかしくない立派な方だ。そして、気骨のある方でもある。父が貴方を高く評価し、頼みにしていたことは重々承知致しております。それだけに家が傾いても貴方にだけは頼れなかった」

 トゥドゥールはそこで言葉を切り、パトリックを穏やかに見据えた。

「それだけに容易に懐柔できるとは考えていません。今度の事で貴方を匿ったところで、貴方がそれに恩義を感じて、信頼する別の誰かを裏切るようなことは想像することすら難しい」

「その逆もまたありません。私はなによりそうして信頼を勝ち得てきたのですから」

 取引相手は誰だろうとビジネスライクな関係でいい。

 腹を割り本音で語るのは家族と親友たちだけでいい。

 ビジネスライクな取引相手であるトゥドゥールも例外でなく、頑なな表情を崩すことなくパトリックは応じる。

「だが、私も難しい立場にある事はご理解頂きたい。なにしろ、若い私を快く思わぬ人物は枚挙に暇がない。現在、私が推し進めている外征にしても同じ事です」

「そうでしょうな」

 一切の感情を差し挟まぬ素っ気ない返答だった。

 パトリック・リーナは職務柄こうした慎重な言い回しと対応とを好んだ。

「まあ、追求をかわすのは造作もない。そして、一番肝心な連中の首根っこさえおさえておきさえすれば、そうそう抜き差しならぬ事態にはなりますまい」

 トゥドゥールは穏やかに笑って手にしたカップに口をつけた。

「そうあることを願っています。今も現場で汗を流す私の部下たちの為にも」

「なるほど、我が身を厭わず部下を思う。軍人にしてみてもそうはいない。つくづく貴方は仕事の鬼のようですな。それだけに信頼に足るし、なによりそんな貴方から仕事を取り上げてしまう事態なのですから、なにより心苦しい」

「身から出た錆なのですから、私はどうこう言える立場にはありません」

「この屋敷を我が家の一つと思い、遠慮無く逗留なさってください。使用人たちには貴方への便宜を最優先に図るよう命じておきます」

「いや、そのようなご厚意は」

「貴方のことだ。軟禁状態になるのを覚悟の上で、文字通りの身一つでここにやってきた。そういう覚悟をお持ちの方に期待通りの振る舞いをするというのはあまりに芸がない。なにより、父の遺志に反します」

「かたじけない」

 パトリックは心から頭を下げた。

「いえいえ、実を申し上げれば私がこの屋敷に戻るのはせいぜい週に一度か二度でしてね。それも寝に帰るのが関の山」

「本当にご多忙なのですね」

 トゥドゥールは年は若いが頬からはげっそりと肉が落ちている。

 抱える心労も大きいことであろう。

「もっとも貴方にしてみたところで本宅に戻られるのは月に2、3度程度だったと伺っております。深夜まで人に会ったり、執務をされていたりと」

「別邸に戻っても休みの日はせいぜい読書を嗜む程度です」

「この機会に心身ともにおくつろぎ頂ければ幸いです」

「お心遣いに感謝いたします」

「さて、堅苦しい話はここまでに致しましょう。こういう状況でこんなことを申し上げるのは些か不謹慎かと思いますが、私は是非あなたとは一度、仕事の事を離れて話がしたかったのですよ」

「それは光栄ですな」

 パトリックは僅かに表情を崩した。

 華はないが、この男にはローレンツにも通じる独特の愛嬌がある。

「我が父のこと、そしてあなたのお子さんのことなど」

「トゥドゥール公?」

「公爵だ、副総帥だなんだとは言ったところで私も所詮は弱卒に過ぎません。人生の師たる父を早くに亡くしたものですから、礼を失することも多いし、人の心の機微にも疎い。そして、なにより私は風流を介さない根っから軍人肌の男です。当家に長く仕えている使用人たちからはひどく嘆かれることが多くて」

「あなたが国家騎士団に入隊されることを知ったローレンツ公は大層お嘆きになられたと聞いております。仮にも女皇家の連枝たる公爵家の人間がなにもそのようなことをと」

「ええ、しかし私には私なりの考えがありました。父の反対を押し切ってでも、私は軍人になっておきたいと考えました。この国を根本から建て直すには、なにより軍事に通じる必要がある。どうも、政治家というのは軍人をエキュイムの駒のようにしか考えない悪い癖がある。そして、軍人は虚勢を張って相手を恫喝するより他に交渉する術を持たない。故に私のような者が重宝されるという訳です」

 トゥドゥールはなまなかな若者ではない。

 少し急ぎすぎるきらいはあるものの、同世代の者とは比較にならないほどの落ち着きと威厳を持ち、慎重に事を進める。

 騎士団という巨大組織を背景として、その全体利益のために行動しているという点では、今のフィンツ・スターム少佐さえ及ばない。

「自らが最も光り輝く政治の世界で抹殺され、他に行き場のなかったお父上の轍を踏むまいとされたのですね?」

「ええ、そして私の周囲にはその事をはっきり指摘する人間さえいない。父を慕う人間は父を慕うあまりに、政敵だった者たちは亡くなった後も父を恐れるあまりに。あれほど聡明な父でさえ、私が無言のうちに父に示したかったことについては、長らく認めることが出来なかった。それこそ父なりの矜持と自尊心だとは思うのですが」

「今の貴方の姿をご覧になれば、ローレンツも認めざる得ないでしょうな。意地と信念の塊のような男でしたがね」

 ついパトリックの本音が出てしまった。

 それほどローレンツは特別な相手で、彼を相手に一生涯取引などしたくなかった。

「それです。私が貴方から聞きたかったのは正にその言葉」

 無意識に友を呼び捨てにしたパトリックの言葉尻をとらえ、トゥドゥールは相好を崩した。

「公爵だなんだと持ち上げて、父の名や業績を飾り立てる者が多い中、身分にとらわれずに父が友と信頼したのは貴方と・・・」

「トワント、オーギュスト、ライゼルだけでした。他にも同志や仲間たちは大勢いたがローレンツをファーストネームで呼ぶことを許されていたのは私たち4人だけです。まっ、パトリシア嬢だけは別ですがね」

 当時のパトリシア・ベルゴール女侯爵はあけすけなほどローレンツにベタ惚れしていた。

 身分も釣り合いもとれた彼女はローレンツの心を射止めることを狙って接近していた。

 そのパトリシアがカロリファル家を財政支援していたら、こんなことになどなっていない。

 断固拒否したのはローレンツ自身だ。

 侯爵位を返上した今現在もパトリシアはベルシティ銀行の大株主だ。

 そして、名前のよく似たパトリックとパトリシアはそれだけの関係でもない。

「トワント・エクセイル氏は病床と伺っていますが?」

「ええ、肺病で深刻な状態にあります。もうそれほど長くはないでしょう。あいつもまた自分の意地とプライドと立場に一生を捧げた男ですからね。最後の瞬間を迎えるまで、ヤツはヤツの研究を完成させ、立場をまっとうしようとしている。昔からそういう頑なな男です」

「そして、オーギュスト卿ですか」

「もう公の舞台に姿を現すことはないでしょう。あの男は一身にその責めを負った・・・」

 ローレンツ・カロリファルの政治生命を奪った《アラウネ事件》。

 当時、司令として女皇騎士団を束ねており、事件当夜不在だったオーギュストがどれほど自分を責めたか想像に難くない。

「オーギュスト・スターム。かつて人々をして《太陽の騎士》と呼ばしめた男。国家騎士団でもウワサになっていますが、かの天才フィンツ・スタームこそは彼の実子と聞いています。公には養子扱いとなっているようですが」

「だとしたらあまりにも皮肉だ。彼は貴方と戦うために用意されたのですから」

「ご冗談を」

 トゥドゥールは軽く微笑んだがパトリックは更に表情を険しくした。

「セスタスターム家というのは一筋縄ではいかない難しい家系です。トワントから色々と聞かされていましたが、かの一族ほどこの国の裏側に通じ、歴史の裏側で暗躍してきた者たちは他にありません。彼らの真意は彼らにしか分からない。女皇家に深く密接に関わりながら、セスタを領有するスターム家は独自の道を歩んできた。爵位を持たぬのに所領セスタを有し、歴代の騎士たちは他に例をみないほどに優秀。にも関わらず、彼らが軍事の中枢たる国家騎士団に関わったことは一度たりともない。ある意味、オーギュストは例外中の例外です。それまでスターム家の者が壮年期や老いてから名誉職として女皇騎士団司令を拝命したことはありましたが、最年少で抜擢を受けたのは彼だけです」

 実際のところ、アルベオとハニバルは30を過ぎてから司令昇格したが、オーギュストだけは20代の若さで騎士団を束ねていた。

「私のように高位の爵位を持たずとも、女皇正騎士ならその特権として議事堂への出入りが許されている。無論、発言権はありませんがね。干渉されることもないので議員たちは誰一人警戒すらしていない。政治と軍事の両面に通じるといった意味では、セスタスターム家の騎士たちは今の私と非常に似た立場にあると言えますね」

「いえ、敢えて責任ある立場に立たないことで、彼らは裏側で暗躍する自由と機会を得ている。厳重な監視の目に晒され身動き一つ慎重な対応を求められる貴方とは違ってね」

 トゥドゥールは自然に頬がこわばり引きつっていることに気づいていた。

 かつてこの国を「改革」によって建て直そうとした若者たち。

 その列にこの男、パトリック・リーナの姿もあった。

 彼だけが知る真実、そして彼だけが「同志」たちに託されたものも多い。

 親友であったトワント・エクセイルやオーギュスト・スターム、そしてローレンツに対して、「意地」「矜持」「信念」の男と評した正にこの男こそが、現在もっともそれらを強く持ち続けているのだった。

 そして、トゥドゥール・カロリファル公爵が敢えて無視したライゼル・ヴァンフォート伯爵とも深く繋がっている。

 裏切り者の代名詞で国家のイヌ。

 親友ローレンツを売った男。

 あのニヤけた小太りの中年男が脳裏をかすめ、その不快さからトゥドゥールは相好を崩し話題を変えることにした。

「いやはや、失礼しました。また話がひどく堅苦しくなってしまった。それより貴方の娘さんのことを詳しくお聞かせください。なんでも愛らしいお嬢さんと伺っています」

「いや、まあ。ええ、そうですね」

 しばらくは一人娘のメルについての雑談をさせられることになり、パトリックは自慢の一人娘について当たり障りのない範囲での話をする羽目に陥った。

 トゥドゥールは満面の笑みをたたえてメルを賞賛し、メルについてあらん限りの情報を引き出そうとしていた。

 社交ダンスが苦手で気に病んでいたが、それを克服させたのがスレイ・シェリフィスなのだとも話した。

(まさかメルの本当の素性を知らずに自分の婚約者にするつもりなのか?だが、それはどうあっても出来ない相談だ)

 パトリックが慎重な言い回しを続け、露骨なまでに警戒している様子を見て取ったトゥドールは思わぬ事を口にした。

「貴方の娘“メリエル”は私の双子の妹ですよね?」

 その刹那、パトリックは雷に打たれたような衝撃を受けて絶句していた。

 婚約者にする気など全く無い。

 血を分けた実の妹だ。

 知りたいのは当然だ。

 嬰児の際に離ればなれにさせられた実の妹の消息をトゥドゥールは何より欲していたのだ。

 か細い絆を求めている。

 実の兄妹だったローレンツとウルザに今のトゥドゥールとメルとが重なる。

「なぜそれを?・・・まさかあのローレンツが打ち明けていたのですか?」

「ええ、亡くなる少し前にです。私がアリョーネ陛下の私生児であること。双子の妹がいて貴方に預けられていること。表向き皇位継承権はありませんが、メリエルは異母妹のシーナやアンナよりも上の皇位継承権第一位であること。ドライデン枢機卿は巧妙に立ち回って密かに皇位継承第一位をメリエルにしていたこと。しかし、元老院はどうあっても我が父、ローレンツ・カロリファルを新女皇アリョーネのパートナーとさせないため、留学中で国内に不在。かつ、学者肌で内向的なレオポルト・サイエスにしようと謀った。それが養父の寿命を縮める結果となった。ただでさえ、サーティーンズは分裂状態にあった。その上で養父の再起の機会は永遠に喪われた。養父の目論んだ計画は貴方に預けたメリエルを再度、自分の子として戸籍に戻し、皇位継承権一位の座に公に帰り咲かせ、その後見役として兄たる私を表舞台に返り咲かせるという遠大な計画は白紙同然になった。せめてアリョーネ陛下の実の子たる私がカロリファル公爵家を相続し、自分の後釜に座らせる計画と配慮。それもまた潰されると察した私は国家騎士団という最高の圧力を得るために年齢を詐称して国家騎士となり、養父を失望させることになったのですよ」

「そこまで打ち明けられていたのですか・・・」

「更には私たちの実の父親のことと、セスタスターム家の連枝たること。すなわち私が《アークスの騎士》で、妹のメリエルも《アークスの巫女》であること・・・」

 パトリックは顔面蒼白になって言葉に詰まった。

「我が養父、トワント氏、元老院左派の首魁フェルディナンド議員、そして貴方もその名を連ねていたサーティーンズ・・・《13人委員会》についてもです」

 トゥドールは敢えてその名を口にした。

 さすがにこればかりはパトリックにはトゥドゥールの真意がまったく読めなくなった。

「そこまでご存じの上で・・・」

「『東方外征』は養父の悲願です。もとはといえば、オラトリエス前国王アンドラスの謀ったゼダ分裂工作。それがもとで堅い結束を誇っていた《13人委員会》は内部分裂した。私は養父への餞としてオラトリエス侵略戦争を行った。が、しかし」

「しかし、なんだというのです?」

「目的が摂政皇女だったアラウネ伯母様への意趣返しなどというのは見当違いも甚だしい。恨むべき相手はとうに墓の下。そして、私はもっと重大な役目を負っています。無論、劣勢のオラトリエスに女皇騎士団が加勢するともわかっていた。結果的に多くの血は流れるが、それは私に課せられた至高の目的とも合致した。そして、貴方にとって青天の霹靂だった今回の一件の黒幕が誰なのかそれで見当がついてしまった」

「誰だというのですか?」

「女皇騎士団副司令トリエル・シェンバッハ大佐。あるいは皇弟トリエル・メイル皇子。私の叔父であり、ベックス・ロモンドの事実上の後任です。アラウネ事件当時は近衛の騎士見習いに過ぎなかった彼ですが、今や女皇騎士団の中枢といっていい」

 アラウネ毒殺事件当夜の苦い記憶がパトリックの脳裏にまざまざと蘇った。

 オラトリエスのアンドラス国王の在位30年を祝う祝賀会場。

 その場にはローレンツ公も、トワントも、フェルディナンドも列席していた。

 ライゼルが挨拶だけ済ませてそそくさ帰るのは毎度のこと。

 事件当夜、其処にいるべき人間で不在だったのはオーギュストだけだ。

 アラウネの最側近で婚約者だったオーギュストの不在に違和感を感じていた。

 なにより事件当夜のアラウネはサーティーンズ関係者を避けていた。

 しかし、当時はオラトリエス王太子シャルル殿下に配慮してのことだと思って取りあわなかった。

 オーギュストにかわり、彼の師にして右腕のベックス・ロモンド、そしてトゥドゥールとメリエルの“本当の父”サンドラ・スタームが居た。

 確かにそのとき近衛騎士見習いの愛らしい少年もいた。

「あの少年が?しかし、どうしてまた」

「サーティーンズの残党で今も健在なワルトマ・ドライデン枢機卿をご存じですよね?」

「ええ、勿論」

 忘れるはずがない。

 ドライデンはファーバ教団の国内監督役。

 そして、ゼダとミロアの連絡役として委員会に名を連ねていた。

 元外務官僚であり、恐ろしく頭が切れる男で、宗教を政治利用する術に長けていた。

 ゼダ国内ではその辣腕をもってファーバ教団と信徒たちが有名無実化させられていた女皇家を支持するように仕向け、更には前法皇サマリア6世の在任中に既に次の法皇候補と事実上法皇の補佐役となる神殿騎士団最高幹部として、当時は学生身分のナファド・エルレインとミシェル・ファンフリートの二人に目をつけて、前法皇に進言していた。

 「ナコトの預言の日」に備えるのにこの二人ほどの適任者はいなかった。

「そのドライデン枢機卿とトリエル副司令がパルム大聖堂で秘密裏に接触したという情報をリチャードから得ました。事態が急転したのはその直後です」

「まさか・・・」

 青天の霹靂で軍警がいきなり自分に逮捕令状を突きつけた。

 嫌疑は横領罪。

 「東方外征」の莫大な軍資金を私的に運用して私腹を肥やした。

 いかにもパトリックに課せられそうな嫌疑だった。

 その前に身の安全を図れと注進したのも、勅命を受けた女皇騎士団の連絡員だった。

 ナダル・ラシール。

 忍びの一族たるラシール家の嫡子だ。

「おそらくはそのまさかです。『特記6号条項』の存在は、今や便宜上は私の部下たる旧委員会メンバーのエイブ・ラファール少将やオーギュスト卿から貴方も聞かされていた筈です。その日が近いということまで含めて」

「なんということだ・・・。私と妻の間にメル以外の子供が成せなかったこと。妻の肺病死。トワントも妻君や父上の後を追うように肺病に罹患した・・・それが特記6号と関連していたというのですか?」

「現在、元老院が内密にして国民に周知していないこと。それは出生率の著しい低下と肺病罹患者の増大です。そして、ナコトの『預言の日』は外れたことがない。いずれはこうなると私も承知していました」

「それじゃ、ウチの娘・・・いえ、メリエル皇女もディーンくんもルイス嬢までそのために招聘された?私に嫌疑をかけることで?」

「軍警が盛んに活動している北や東を避けて西か南に向かったとしたら教団関係者か国軍関係者に接触され、特記6号条項に該当し抵触するディーンとエイブの娘は、そしてシェリフィス議員の養子だという青年も」

「スレイくんまで?巻き込むまいとしたのに・・・」

「貴方がご存じなのはサーティーンズで一番初めに抹殺されたダリオ・レンセンの遺児がスレイくんだということだけの筈」

「よくご存じで」

 まるで尋問を受けているかのようにパトリックは萎縮した。

「国家騎士団内でも頭脳明晰でエイブと並ぶ逸材だった彼を死に追いやったのは皮肉にもヴェルナール・シェリフィス元老院議長でした。委員会発足当時は財務官僚として名を連ねたフェルディナンド・マーカスを強引な手段で娘婿にし、あなた方のマドンナだったブリギット・ハルゼイとの婚約を破棄させた」

「・・・・・・」

 その通りだった。

 もともとアラウネの学生時代の親友だった彼女の相談役のブリギット・ハルゼイはエルシニエ大学で机を並べていたパトリック・フェルベール、フェルディナンド・マーカス、トワント・エクセイル、ラクロア・サンサース、ビリー・ローナンたちにとって正にマドンナだった。

 最上級生として卒業後の大学院進学が決定していたトワント以外は進路の模索段階にあった。

 下級生として入学した16歳のアラウネと18歳のブリギットが5人の野心に火をつけた。

 彼女の心を誰が射止めるかについて、それぞれがそれぞれの分野で台頭し、名を成すことでブリギットの両親以上に厄介な吟味役である皇女アラウネに認められなければならなかった。

 しかし、そうして鎬を削ったことが《13人委員会》という組織発足の足がかりとなった。

 そうした出世レースをさておいてブリギットの心を射止めたのはフェルディナンド・マーカスで、平民身分ながら難関たる上級国家公務員試験を突破し、財務官僚となった。

 もっとも上は門閥貴族が占める官僚社会で出世はままならなくとも、安定した将来が見込めるとアラウネは二人の婚約を祝福した。

 青春時代のほろ苦い記憶と総括として残る者たちもブリギットの人を見る目に疑いを持たず、僥倖にあやかったマーカスをパルムに居た連中は手荒く祝福した。

 女皇家の復権と社会の停滞感打破。

 なにより「ナコトの預言」とが摂政皇女アラウネという生贄を必要としていた。

 成人したアラウネにメロウィン女皇から言い渡されたのは、若き女皇正騎士司令オーギュスト・スタームとの婚約だった。

 幸いにして社交的で明るく人懐っこい性格のオーギュストはパトリックたちとの輪にすぐに溶け込み、オーギュストを通じて異彩の公子で社交界の華だったローレンツ・カロリファル、放蕩貴族を地で行く父親の尻拭い役でローレンツとは対称的な苦労人のライゼル・ヴァンフォート伯爵、社交界の花形パトリシア・ベルゴール女侯爵ら門閥貴族組も合流した。

 貧乏学生でトワントの実家であるエクセイル邸をたまり場にしていた5人はローレンツと知り合ったことで、パトリックが今居る公爵邸をたまり場として盛んに議論を戦わせた。

 その際に、ローレンツはパトリックとトワントが「無私の人間」なのだと高く評価してオーギュスト、ライゼルと同様に自分のファーストネームを呼び捨てにしていいという栄誉を与えた。

 確かに残りの連中には己の野心や人間性が見え隠れしていたが、パトリック、トワント、ライゼル、オーギュストは個人の持つ能力と才覚とは、公共の利益と未来の人材育成のために生かしてこそ価値がある・・・つまり、自分の生には思うほどの価値はないと考える人間だった。

 そうしてローレンツとパトリシアはベルシティ銀行でのパトリック・フェルベールの身分を確かなものと固めるため、セシリア・リーナを紹介した。

 理事会を固める出資一族と銀行員とは通常分けられ、交わらないものだが、パトリックは資金運用と出資者理事会の双方を切り盛りする能力があり、その身を削っても双方の利益を確実にすると判断されたのだ。

 ベルシティ銀行はそうして「パトリック・リーナ」を誕生させ、現在の隆盛を確実なものとした。

 外野に陰口をたたく者はいたが、内部には皆無だ。

 門閥貴族が中心の出資者たちには謙虚で慎重で聡明な筆頭理事だし、銀行家としての能力を疑う者はいない。

 「鉄の睾丸」と称された背景は正にそれだった。

 《13人委員会》はアラウネ成人後の政界進出を契機として彼女の意志に賛同したローレンツ・カロリファル公爵、ライゼル・ヴァンフォート伯爵、パトリシア・ベルゴール女侯爵、ベルシティ銀行本店営業部係長パトリック・フェルベール、女皇騎士団司令オーギュスト・スターム、エルシニエ大学助教授トワント・エクセイル、財務官僚フェルディナンド・マーカス、国家騎士団参謀本部ダリオ・レンセン中尉、ワルトマ・ドライデン枢機卿、エイブ・ラファール国家騎士団少佐、ラクロア・サンサース鉄道公社西パルム駅長、ビリー・ローナンパルム地裁判事、国軍参謀部カルロス・アイゼン大尉に加えて、元老院議員のワグナス・ハイドマンという13人で発足した。

 門閥貴族、国家騎士団、国軍、女皇騎士団、ファーバ教団、財務省、民間銀行、鉄道公社、法曹界、元老院、学界とゼダの中核を成す各組織に身を置く若手連中が摂政皇女のアラウネを神輿に担ぎ上げ、大胆な発想の改革を断行しようと結集したのだ。

 それがそもそものはじまりだったが、顔触れは随時変わっていった。

 また《13人委員会》と言っても発足時の人数だけで最盛期はそれ以上いたし、パトリックやラクロア、ビリー、エイブは栄転という形でパルムを離れることになり、代行役を置く形になった。

 アラウネ改革のはじまりは鉄道網の整備にあり、パトリック、ビリー、ライゼルは鉄道網敷設のため現地に赴くことになった。

 パルムを中心とした路線は既にあったが、鉄道公社への予算配分により旧メイヨール領西部地域は路線網敷設から漏れていた。

 この計画と目的とは色々な意味で合致していた。

 国軍と国家騎士団にとっても鉄道網の整備は兵站と物資・人員の移動手段として重要事項であり、財界にとっては投機対象として魅力的だった。

 切れ者のエイブとダリオは国家騎士団上層部に騎士団への年次予算と人員を回してでもテコ入れすべきだと上に進言した。

 じっさい今現在の東征において大陸横断鉄道は正に補給線だ。

 摂政皇女アラウネの口から大規模な公共事業が公表され、投機熱と雇用を創出するとすべての歯車が噛み合い一気に回り始めた。

 停滞していた地方都市経済も一気に活性化し、メルヒン、ナカリア、フェリオ連邦のフェリオン侯爵家のように事実上国家レベルでの大陸横断鉄道建設事業に協力を申し出たケースもあった。

 地方都市の急激な人口増加が多くのトラブルを産むや、すかさずビリー・ローナンが出向いて法的措置で片付けた。

 なにより、ゼダ国内の鉄道路線整備が「大陸横断鉄道敷設」という中原規模の大規模事業となり、生じた莫大な税収が元老院議会をも沈黙させた。

 しかし、これを面白く思わない人物たちも当然居た。

 海洋国家オラトリエスがその典型例だ。

 鉄道網が整備されることで海運という手段が斜陽化する。

 自国内にしっかり通しておいてソレだった。

 また留学生として若い人材が国外流出することは人口の少ない小国にとっては危機的な事態だ。

 オラトリエス国王アンドラスはヴェルナール・シェリフィス元老院議長と内通していた。

 そしてアラウネの改革を潰すという共通目的で《13人委員会》の分断を図った。

「ヴェルナール議長はダリオ・レンセンとカルロス・アイゼンにスパイ容疑を掛けました。オラトリエスのアンドラス王に密かに国軍と国家騎士団の情報を流しているという『濡れ衣を着せた』のです。実際二人はアンドラス国王らオラトリエス王家と接触していましたが、それはゼダ国内の内情や宮廷雀の噂話の類いまでアンドラス王に触れ回ることで信頼を勝ち得ようとしてのこと。だが、機密に関してはなにも語る筈がありません。なにより誰より、アンドラス王を警戒していたのは聡明な二人でしたからね」

「ええ、その通りです。結果的に二人は嫌疑不十分で釈放されましたが、苛酷な拷問で心神を喪失し、ダリオ・レンセンはサーティーンズとして失脚するばかりか、妻と幼子を遺して『不慮の事故死』を遂げ、カルロス・アイゼンも自殺した。落魄したレンセン男爵家では心労と負債から未亡人となったミストリア夫人も夫の後を追うように亡くなり、遺児に身寄りがなくなった。するとすかさずヴェルナールは長子のアリアスをフェルディナンドの養子にした。“スレイ・シェリフィス”として孫に迎えた」

「ええ、それはアラウネ殿下の死後の話でしたが・・・。私は同様に落魄し、人間不信から埋没したアイゼン子爵家の遺児がリチャードだと知りました。彼は家計の助けとなるならばと幼い頃から『男妾』をしていた。そして、人事権を獲得した私はようやく身が立つようになったリチャードを国家騎士団で拾い上げた。片腕として抜擢したのは同情心からだけではないです。彼は鬼謀を持つ実に有能な部下です」

「それも承知しております」

 トゥドゥールは自らの代理人としてリチャード・アイゼン中尉を上手く使い、「東方外征」の作戦立案から、軍事関連企業との折衝役として使いこなしている。

 ベルシティ銀行との直接交渉などもほとんどリチャードの担当となっている。

 むしろパトリックが不気味に感じたのはスレイ・シェリフィスとリチャード・アイゼンが旧知の仲でありながら、舞踏会という公の場で視線さえ合わせなかったことだった。

 その点に関しては、ディーン・エクセイルことフィンツ・スタームはトゥドゥール・カロリファルとは互いに従兄弟だと知っていながら、敢えて無関係を装うことを当然としていることでも顕れていた。

 この両者はまるで宿敵のような関係である。

 実際に永遠のライバルであり、「東征」において二組の両者は既に刃を交えているとまではパトリックが知るよしも無かっただけだ。

 リチャード・アイゼン中尉とスレイ・シェリフィス中尉相当官。

 その実、スタートラインに立った二人は軍を扱う人間としても同じ階級から事実上は出発していた。

 

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