第4話 それは突然の春の嵐のように

 いま振り返ってみればあの日が正に運命の分岐点だった。

 ボクらは平和で穏やかな日常から、運命の大渦へとたたき込まれることになる。

 もう決して後戻りなどできない、懐かしく美しい日々・・・。


 皇暦1188年4月24日午後0時

 エルシニエ大学構内


 ひどく疲れた顔をしたディーンはぼんやりと図書室の窓辺にもたれ、見るともなしに中庭の様子を見つめていた。

(ボクはいったいなにをしているんだろう・・・)

 時計はそろそろ正午を指し示そうとしている。

 教室ではそろそろ午前の講義が終わる頃だった。

 午前の講義が終わったら図書室に来るように3人にはあらかじめ伝えてある。

(この様子だとまともに講義を受けている連中なんてアイツら以外にはほとんどいないんだろうな)

 ディーンが史学科目の授業に出ないのはいつもの事だったが、おそらくあの人だかりの連中は自分たちが受ける筈の講義の事などおかまいなしなのだろう。

 ディーンの視線の先にはどこから集まったのだという程の数の学生達がより集まっていた。

 時々、怒号のような声が飛び交う。

 拡声器を手にした学生の一人がにわかづくりの壇上で何事かを叫んでいる。

 その声に唱和するように拍手と歓声があがる。

(まぶしいな、今日はなんだかひどくまぶしい・・・)

 いつもの光景だというのに、ディーンは目を細めて学生たちの背中を見つめた。

 言いたいことを好きなように言える。

 それが若さの持つ特権なのだろう。

 おそらく彼らの知らない事実も自分は沢山知っている。

 まして、そこに関わっている。

 彼らは当事者然として議論を繰り返している。

 なのに当事者たる自分にはなにが出来たろう?

 年相応の若さを持つ彼等がディーンからしたらとてもまぶしく見えてならなかった。

「ディーン?」

「ん?」

 なんの気なしに返事を返してから、それがスレイと二人の女の子たちだと知ってディーンは首をもたげた。

「どうした?珍しくぼんやりしちゃってさ。なにか気になることでもあったか?」

 ディーンは思索というほどでもなかった物思いから我に返った。

「いや、別に。今日も事もなし、まったくもって平穏無事ですな」

(本当にそうだったら良かったんだろうけれどね)

「平穏無事ねぇ」

 そう言ったのはルイス。

 彼女は窓の外で繰り広げられている一団の様子を一瞥いちべつして、呆れたようにつぶやいた。

「あんなことをしてもなんにもならないって、本当に分かっているのかなぁ?」

「なんだ、君は興味ないんだ?」

 ディーンは再び一団に視線を送り、横目にルイスの表情を読み取ろうとした。

 昨日はかなりご立腹の様子だったからだ。

「だってそうでしょう、こんなのが始まったのって昨日今日の話じゃないけど、連中の言っている『外征』が始まったのだって昨日今日の話じゃないもの」

 ゼダ皇国による東方外征が始まったのは2年前の話だ。

 ゼダ国家騎士団の電撃戦により、王都リヤドがあっさりと陥落した後、オラトリエス東部のファルマス要塞を中心に展開中の東征。

 ファルマスを軟包囲して持久戦に持ち込み、オラトリエスの友軍フェリオとの交戦中。

「おやおや、ルイス嬢は彼らの政治的信念がお気に召さないとみえる」

 スレイの皮肉っぽい言い回しにルイスは顔をしかめた。

「あんたなんか、それこそあの一団の中心にいてご高説をぶっていても良さそうなもんだと思ったんだけどね」

 ルイスは皮肉っぽくスレイを見た。

「そいつはご期待に添えなくてとても残念ですね。どうもボクは連中に興が乗らない。まったくもってそれだけの話なんですが」

 スレイはさらりといいのけて思わせぶりに笑った。

「その割には幹部連中とは随分親しくしてる様子なんだけれどね」

 スレイが運動家たちと親しげにしている様子は大学内のみならず、街中のパブでもルイスは見掛けている。

 まさか自分へのオーダーがスレイの調査とと内通していたなら殺せだとは思ってもいないだろう。

「まあ、一般向けの主張はともかく幹部連中が何を話しているかくらい、後学の為に聞いておいて損はないでしょ?」

 それだけではない。

 反政府レジスタンスに知恵をつけているのはこのスレイに他ならない。

「あんたって、知れば知るほど根っからのタヌキなのね、スレイ」

 ルイスの険しい視線をスレイはまたもさらりと受け流した。

「大いに結構。それは政治家にとっては最高のめ言葉ですからね」

 ルイスとスレイのやりとりに耳を傾けていたメルが突然口を開く。

「アタシにはなんだかよく分かんないや。『東方外征』ってそんなにいけないことなんだ」

 真剣に演説に耳を傾けている連中が聞いたら顔色を変えて詰め寄りかねない不穏当な発言。

 メル本人はまったく意に介さないという様子で、無邪気に笑っている。

 残る三人は驚き、呆れ、そして顔を見合わせて笑った。

「メル姫はそれでいいんです。腐心するのは我々、家中の者たちにお任せくだされば」

「まあ、メルに興味を持たれても私が困るだけなんだけれどね」

「しかし、大分、キナくさくなったな、ここも・・・」

「ここ“も”?」

 ほとんど図書室でしか見掛けたことのないディーンが他にどんな世界を知っているのかと言わんばかりに、メルが素朴な疑問をぶつける。

 女皇正騎士としてのフィンツ・スタームにせよ、女皇宮殿と国家騎士団宮殿支部との共有スペースである練兵場以外に立ち回り先があるとは思えない。

「あっいや、それは言葉のアヤってもんでしょう」とディーンにかわってスレイがいいさしたのをさえぎるようにルイスはディーンに詰め寄った。

「それじゃ、まさか・・・」というルイスの言葉にディーンは表情を曇らせた。

「まあ、ご想像の通りさ。あっちはあっちで大変なことになっている。あいつらのせいでにいさんも大変な目にっているよ」

「そうなんだ、それでアンタも疲れた顔して」

 3月末にトワントが正式に退官してからは時間的制約もなくなったせいで、論文執筆もすっかりご無沙汰となり、たまに顔を出す学内では図書室で昼寝ばかりしているディーンが疲弊ひへいしている本当の理由こそ・・・。

 いや、単純に今日に限っては私事による。

「それより、お前から話ってなんだよ、ディーン。お前からわざわざ呼び出すなんて珍しいじゃ・・・」

 スレイの言葉を軽くさえぎり、ディーンは別のなにかを察し、表情を硬くして機敏に立ち上がった。

「どうした?」

 スレイの言葉にディーンは黒縁眼鏡の奥に鋭い視線をみなぎらせた。

「どうやら客のようだ。誰にかは分からないが」

 図書室の入り口で見慣れぬ黒服の男二人が侵入者に反応した司書と押し問答をしている。

 ころころと笑うメルをよそに、ルイスとスレイも明らかな異変を察知した。

「なっ、あれは軍警察?」

 ディーンは二人の男たちの黒服を一目で理解する。

「軍だと?」とスレイ。

「どうして?国軍は学内に干渉できない筈じゃ。そんなことしたらクソ親父が黙っていないわよ」

迂闊うかつだよ、ルイス。スレイとメルの前でソレは言うべきじゃないね)

 それだけでディーンはルイスが冷静ではないと見抜いた。

 そりゃ、そうで、無理も無い話だ。

 エルシニエの学内は伝統的に国家の干渉を受けないという学内自治権を持つ。

 それが大学創設時からの伝統だ。

 現に反体制派の学生たちが中庭で集会を開いていても、警ら達は大学の敷地内に踏み込んで取り締まることは出来ない。

 ディーンはすぐさま文机から立ち上がり、三人を書棚の陰に誘導した。

「関わり合いにはならない方が良さそうだ」

 当惑するメルを慌てて引き寄せたルイス。

 ディーンにうながされて即座に従ったスレイは耳をこらせた。

 だが、その必要もないほど、大きな声が静かな図書室に響き渡る。

「ここにメル・リーナという学生がいる筈だと聞いているっ!」

「いいえ、わたしは学生個人の氏名を知りません」

 嘘だ。

 あの女司書はルイスと共に出入りするメルを散々目にし、談笑もしていて、先程スレイと図書室に入ったことも確認している。

 社交辞令程度の挨拶でも何度もされていれば誰だか分からない筈がない。

 司書と軍警察とみられる男性の交わした会話に三人は一様に驚愕きょうがくの表情を浮かべた。

「メル?聞き間違いじゃないわよね」とルイス。

「おいおい、姫さんなにやらかしたんだよ」とスレイ。

「軍警察が踏み込むなんていったい・・・」とディーン。

 しかし、当のメル・リーナはというと事態をまったく理解していなかった。

「ほぇ、アタシがどうかしたのかなぁ?」

 軍警察とメル・リーナ。

 およそ接点のなさそうな二つ。

 キーマンはただ一人しかいない。

「多分、本当の狙いはメルじゃない。オヤジさんの方じゃないのか?身内の身柄を拘束こうそくして人質扱いにし、容疑者本人の逃亡をさまたげる。軍警察の使う常套じょうとう手段だ」

 ディーンの指摘にスレイとルイスは血相を変えた。

「オヤジさんってパトリックさんかよ」とスレイ。

「失礼ね。パトリックおじさまは軍警察なんかにいきなり踏み込まれるような後ろ暗いことは・・・」

 言い差したルイスをスレイが鋭くにらんだ。

「本当にしていないと言い切れるのか?君がそれほど裏の事情に通じているとでも?」

 なにか思うところがあるらしいスレイの言葉がルイスの耳朶じだを打つ。

「まさか、でもそれは・・・」と口ごもるルイス。

「いいから、今はなんとかしてここを切り抜けよう」

 ディーンはそう言うとスレイに耳打ちした。

「わかった。ルイス、メルを連れて逃げろ。この場は俺たちに任せろ」

 スレイの言葉にルイスは目を見張った。

「どうする気?」

 スレイとディーンは打ち合わせを確認するように目配せを交わし、スレイが説明した。

「俺とディーンが別の方向から出ていく。そうしたら、お前は何喰わぬ顔でメルを連れてここを出ろ。絶対に走るなよ。図書室を出たら表で騒いでいる例の一団にまぎれ込むんだ。捜している相手の名をわざわざ確かめるような連中がメルの特徴をそれほど知り抜いていると思えない。だから、大勢の学生たちにまぎれていればやり過ごせると思う」

 そう言ってからスレイはしまったとばかりにうつむいた。

 小柄で童顔、特徴のある独特の声。

 それだけでも捜索情報として十分だ。

 自分があちらの立場でもそれで捜す。

「わかったそうする」

 ルイスは青ざめた顔で必要以上に大きくうなずいた。

 緊張に顔がこわばっている。

「そのうち俺たちのうちのどちらかが行く。そうしたらなんとかして構内を出る」

「ええ、分かったわ」とルイス。

「じゃ、行くぞディーン」とスレイ。

「ああ」とディーン。

 ディーンとスレイはそれぞれまったく異なる書棚の影から入り口方向に歩き出した。

 突然の闖入者ちんにゅうしゃに注意をとられて、手を止めたり本から顔を上げて不安げに見守る学生達が多い中、なに喰わぬ様子の二人が、軍警察の二人組にそれぞれ近づいていく。

 二手に分かれたその隙をついてメルの手を引いたルイスが小走りに駆け抜ける。

 事情を察した司書がルイスたち二人が通ったのを見計らい、開け放たれていた図書室の扉を閉めた。

「ねっねっ、なんだろう」

 あどけない瞳で事態の急転に取り残されたメルが、険しい形相を浮かべたルイスに子供のような表情でたずねる。

「いいから、早くして、あの二人だっていつまで保つか」

 ルイスは中庭に出るなりはやる心を抑えて演説会にもぐりこんだ。

『・・・時代は今、転換期を迎えようとしています。今こそ、パルム市民たる我々エルシニエの学生は・・・』

 何喰わぬ顔をするのがこんなにも難しいことなのかとルイスは冷や汗をしたたらせつつ思わずにはいられなかった。

 メルの小さな体はわざと大柄な学生の後ろ手に隠すことで、人混みの外から視認が出来ないようにした。

 ルイスの心臓が早鐘のように鼓動を早めていく。

『・・・形骸化けいがいかした悪しき風習と、老害とさえいえる旧態然とした元老院による政治を是正ぜせいし、この国の未来を、エウロペアの未来を真にうれいなければなりません・・・』

 すぐ近くで熱弁を揮う政経学部の学生たちの演説に聴き入った風を装って、ルイスは辺りを伺いながら両腕でしっかとメルの肩をつかんでいた。

 自然、指先に力が入ってしまう。

『・・・なにより、国軍と国家騎士団の暴虐を今すぐに阻止し、悲劇の舞台となっているオラトリエス国のごとき戦争の犠牲者をこれ以上に増やさぬよう、直ちに行動しなければなりません・・・』

 フェリオ寄りのアジテーションだがそんなものはルイスの耳に入らない。

「あっ」

 突然、メルがなにかに気づいたように声をあげる。

「なにっ、どうしたの?」

 ルイスは緊張して顔を強ばらせた。

「その指輪。昨日まではしてなかったよね?」

 メルの指摘はまとを射ていた。

 だが、場違いにも程があった。

「えっ、あっ、これっ?」

 一連の出来事ですっかり気が動転していたルイスは左手の薬指にはめていた指輪のことをすっかり失念していた。

「どうしたの?」

 畳みかけるようなメルの言葉にルイスは戸惑っていた。

「あっ、それは・・・また後でね」

 明らかに誤魔化ごまかそうというルイスの下手な芝居に、メルの目が光る。

「ふうん」

「あはは、キレイでしょう。気に入ってるんだぁ」

 ルイスは尚も詮索せんさくの視線を向けるメルから引きはがすように指輪を外してポケットに仕舞い込んだ。

「あれっ、しまっちゃうんだ」

「あはは、いや、こんなときに似合わないし」

(そうこんなときに似合わない・・・)

 ルイスは我に返ったように居住まいを正した。

(あたしが導かなくてはならないのは、この何も知らない子供のように純粋なこの子の手だけ・・・)

「しっかりしなきゃ」

 先刻とは別人のように毅然きぜんとした表情を見せたルイスに、さすがのメルも事態が容易ならないことを理解した。

「お父さん、大丈夫かなぁ?」

 その言葉でメルがとぼけたと気づく者はいない。

「パトリック様のことです。きっと・・・」

(そう、きっと。キレ者呼ばわりされてるあのクソ親父なんかよりもずっと知恵の回るパトリック様はどこかで事態の行く末を見ながら、軍警察の追跡を見事にかわしてみせている)

 しかしながら、確かな事は何一つ言えないもどかしさにルイスはしっかりとつかんだメルの左手に力を込めた。

「痛いよ、ルイス」

「ごめん、でも今ははなせない」

 ある種の凄味さえ感じさせるルイスの険しい横顔にメルは悄然しょうぜんとうなだれた。

「ここか、待たせたね」

 息を切らせて現れたスレイの姿を見て、ルイスはようやく安堵あんどの表情を浮かべた。

「スレイ、よく無事で」

「いや、まんざら無事とも言えないけれどね」

 襟元えりもとが乱れ、端正な顔に真新しいあざが浮かび、裾は跳ね上げた泥に汚れている。

 確かに一悶着ひともんちゃくあったらしい。

 スレイは少し昔の悪タレに戻り、持ち前の反骨精神から軍警をからかった風を装い、「俺の彼女になんの用だ。心がけ次第じゃ教えなくもない」と言った後、「ふざけるな若造」と一発殴られ、泣き面で“父親”の名を出して軍警を退かせた。

 さすがに元老院議員フェルディナンド・シェリフィスの名を出されたら顔を覚えられる前に退散するしかない。

 仮に父親の耳に入っても「昔の悪い癖がまた出た」としか思われない。

 昔は何度となくパルム警視庁のご厄介になったこともある“かなり本格的な”スレイからしたら安っぽいインテリチンピラを演じるなど造作もない。

「それでなにかわかったの?」

「いや、わかったのはせいぜい連中が追いかけているのが間違いなくメルちゃんだってことぐらいで」

 もう少しだけ引っ張ろうとしたが、相手の頭が“良さそうでなかった”ので早々に情報収集を切り上げた。

 先に手が出るところが頭が悪い。

 尋問のために締め上げてくるなら逆に色々聞き出せた。

「そう」とルイスはうなだれる。

「適当に誤魔化ごまかして逃げてきた。ディーンはまだか?」

 なおも続く演説と演者に目線だけを向けながら、厳しい顔をしたスレイが虚空こくうにらんでいるのをメルは不安げに見上げた。

「すまん、少々手間取った」

 遅れて到着したディーンは息も乱さずにすっと現れると、心配そうに顔を並べた三人の顔をそれぞれ確認すると、人混みをかきわけるようにして歩き出した。

 ディーンの場合は顔をよく見られる方がマズいので逃げに徹して振り切ったのだ。

 本格的に締め上げるつもりならトリエル副司令仕込みの尋問術や天技である《鏡像残影》が使えたが、こっちは後でバレたら色々と面倒だ。

「これからどうする?」

 すぐ背後で尋ねたスレイを振り返ることもなく、ディーンは足早に学生たちの合間を抜けていく。

「どこか落ち着ける場所が必要だ。それからすぐに、俺は連絡をとる」

「わかった。行くあてはあるのか?」

「あそこなら、まず大丈夫」と言いながら、ディーンは昨日の今日で有効利用することになる運命を呪って苦り切った。

「ルイスだけでも家に帰すか?」

 ディーンはやや間を置いてから、首を横に振った。

「いや、それは無理だ。時間が経てば軍警察は探索の手を広げる。そうなればリーナ家と浅からぬ関わりのあるルイスだって無事では済まなくなる」

 二人の後を追いながらやり取りを聞いていたルイスも血相を変える。

「あたしだって離れるわけにいかないわ」

「ああ、だから、取り敢えず安全に二人をかくまえる場所までは案内する。詳しい話はそれからにしよう」

 中庭の集会を抜けると、講義を終えて校舎から出てきて、昼食に向かおうとする学生たちの集団に身を隠す。

 それぞれが抱える緊張を悟られぬように注意深く振る舞い、構内を出て往来を進む。

 幸いにして一目で軍関係者とわかる不審な人物はいなかった。

 世間一般には「大学通り」と呼ばれるこの通りを藍色学帽の学生、それとすぐ分かる学者たちと一般職員、商店員以外が歩いているとそれだけでも目立った。

「しばらく歩いたところに知り合いの所有物件がある。ともかくそこに行く」

「知り合いって、まさか・・・」

 女皇騎士団関係者という意味でスレイは想像し、ディーンは少し考えてから答えた。

 まぁ、間違いではない。

「多分、そのまさかだ」

 それだけ言うとディーンは大通りを避け、狭い脇道をどんどん歩いていく。

 昼食の時間帯で活気に満ちる商店の合間をすりぬけて、裏通りのアパルトメントに入る。

 ルイスの借りているそれとさほど変わらない5階建てのアパルトメントだ。

 管理室で短く事情を話すとディーンは鍵を手に3人のもとにもどった。

 すぐにスレイの手に鍵を預ける。

「3階の左手にある角部屋だ。先にいってくれ」とディーン。

「おい、お前はどうするんだ?」とスレイ。

「取り敢えず中で待っていてくれ、俺は小一時間ほどしたら戻る」

 ディーンは有無を言わせない迫力でスレイに迫った。

「ああ、わかった」とスレイ。

「それと俺が戻るまでは絶対に外に出るなよっ!」

 ディーンのダメ押しにスレイは観念していた。

「ああ」

 スレイは足早に往来へと歩み去るディーンの背を見送ると、残る二人を促して階段を昇った。

「あとはアイツに任せよう」とスレイは先を行った。

「ええ」とルイスも応じる。

 3人はディーンの指示した部屋へと急いだ。


「それで、どうなんだろう」

 ルイスは気分を落ち着かせつつ、スレイに問いかける。

 備え付けの家具と寝具の他にはなにもない部屋で、3人は思い思いの場所に腰を落ち着けていた。

「わからない。今はなによりディーンが戻るのを待つよりないだろう」

 スレイはディーンが情報収集と事実確認に向かったとは気づいていた。

 まずは今現在どうなっているか確認しなければ始まらない。

「ねえ、ディーンくんってこういうことに慣れてるの?」

 いやに手際の良いディーンの様子を残る二人とも確認しておきたいと、メルは当然とも思える質問をぶつけた。

 スレイとルイスはそれぞれにお互いの顔を見合わせた。

「どうだろう、慣れているといえばそうなのかな?」とスレイ。

「前にもこういうことがあったんじゃない?」とルイス。

「そうなんだ。なんか図書室のヌシとか百戦錬磨ひゃくせんれんまの女皇騎士っていうのと印象がだいぶ違うよね」

 とげのあるメルの言葉には不信感がにじみ出ていたが、二人はそれとは気づかなかった。

「それは・・・」とスレイ。

「いえてるかもね」とルイス。

 スレイは先程から窓際で注意深く窓の外を警戒していたが、誰かが踏み込んでくるような様子はまったく見えなかった。

「これからどうしたもんかねぇ」

 スレイは二人の女子を安心させるためにわざととぼけた事を言う。

「出来ればあたしの部屋から荷物を運んでおきたいかも、着替えとか色々」とルイス。

「確かに。だけどルイスの部屋か・・・近いのか?」

 スレイはルイスの自宅を知らない。

「ええ、1ブロック先だけど、ここからなら5分もかからないと思う」

 もともとこの部屋もルイスの部屋も不動産所有者は一緒だとは三人とも知らなかった。

「ああ、でも今はやめておこう。ディーンにしっかりとクギを刺されているし」とスレイ。

「そうそう、『戻るまで部屋を出るな』だって、ちょっと格好よかったよねぇ」

 メルはひどく無邪気に笑った。

「そうよね、あたし一人じゃなにかあったとき不安だし、メルを連れて歩くわけにはいかない。かといって、ここにメル一人残していくわけにも・・・」

 ルイスがそんな話をしていたそのとき、扉をノックする音が響いた。

「しっ、静かに」

 二人を黙らせるとスレイは慎重に扉に近寄った。

「俺だ」

 聞き覚えのあるその声にスレイは安堵あんどの表情を浮かべた。

 ディーンの一人称が「ボク」から「俺」に変わるのは騎士モードのときだ。

「わかった、すぐあける」

 両手に荷物を抱えていたディーンがひどく疲れた様子で部屋に入る。

「お疲れ」

「ああ、少し疲れたかな」

 お互いの無事を確認して、スレイとディーンは笑みをかわした。

「それでどうなんだ?なにかわかったか?」とスレイは確認する。

「そのことなんだが・・・」

 ディーンは抱えていた荷物をルイスに手渡す。

 中には食料品がぎっしりと詰め込まれていた。

「あっ、適当に広げてくれよ。多めに買ってきた。食べながら話そう」

「わかった、メルも手伝って」

「はーい」

 女の子二人が食事の支度をするのを見ながらディーンは切り出した。

「詳しい容疑は分からないが、パトリック・リーナ氏に軍警察から逮捕状が出たのは間違いなさそうだ」とディーン。

「やはり・・・」とスレイ。

「それでパトリック様は?」

 すかさずルイスが尋ねる。

「正確な確認はしていないが、まだ軍警察が身柄を押さえた様子はないようだ。ベルシティ銀行の本店に軍警察らしき連中が出入りしているのを確認してきた。今は騒ぎになっている」とディーン。 

「だろうな、予告も前触れもなくパトリック・リーナほどの大物を逮捕に向かったともなれば当然騒ぎになる」とスレイ。

 しかし、ディーンはスレイの言葉を否定した。

「ところが実際はそうでもないらしいな。どうやら、リーナ氏はなにか勘づいていたらしい。銀行の取引業務を事前に一部だが停止していたようだ。一般の顧客相手の取引には影響が出ていないので騒ぎは大きくなっていないようだがね」

「えっ、それならどうしてメルには・・・?」とルイスは表情を曇らせた。

「大方、事前にメルになにか知らせたりすれば間違いなく騒ぎになるからさ。そして、メルの近くにいて『信頼できる友人たち』に任せたってところなんだろう。もしそうなら、俺たちは今のところはその期待に十分応えている」

 ディーンの一言にルイスとスレイはうなずき交わす。

「まあ結果的にみればそうね」とルイス。

「やれやれ、俺たちも信頼されたもんだねぇ」とスレイ。

「一心地ついたら、俺はタクシー拾って家に戻ってみる。こんな事態だし騎士団本部にも報告に行かないとならないし、時間は有効に使わないとね」

 ディーンの言葉にルイスは意外だと思わず目を見た。

「えっ?」

 こんなときになにを、というようにルイスとスレイはディーンを見つめた。

「いや、多分なんだが、もし事前にパトリック氏がこのことを察知していたとしたら、必ずウチに“なにか”が届いている筈なんだ。ルイスやスレイのとこじゃなく、ウチにね」とディーン。

「あっ!」

 ルイスとスレイはそれぞれ声をあげた。

「一人暮らしのルイスんとこや、体面を重んじるウチではなく、お前の家にか」とスレイ。

「そっか、トワント先生とパトリックおじさまって昔からの知り合いだっていうしね」

 いかに信頼していようとも一人暮らしのルイスのところでは他人づてにならざるを得ない。

 ましてや、軍警のような警察組織に身柄を狙われていて現職の政治家の自宅になにか届けようものなら間違いなく背後関係を疑われ、スレイだけでなくその父フェルディナンドにまでるいを及ぼす。

 その点、エクセイル家ならば在宅の元学者という身分からしても不自然なやり取りとはみられず、トワント元教授がかねてより病床の身であるのは公然の事実であり、そんな身でなにかに荷担していると考えるのは難しい。

 軍警察がたとえ愚鈍であったとしても、身動きもままならない重病人まで疑うほど愚かではあるまい。

「えっ、ああ。そうかあのとき・・・」

 ディーンは年末のパーティでルイスにパトリックとの会話を聞かれたことを思い出した。

「ねぇルイス?なんでそんなこと知ってるの?」とメル

「なんか、アヤシイぞ」とスレイ

 3人は顔を見合わせた後にルイスを伺った。

「まあ、そんなことどうでもいいじゃない」

 ルイスは慌てて誤魔化ごまかした。

「そんなことより、これからどうすればいい?」

「それなんだよ・・・」

 ディーンはそこで頭を抱えた。

「ここに連れてきておいてなんなんだけれど、一晩や二晩ならともかく、ここに女の子二人を長くかくまうのは非常にマズい。あの人にバレたらまた面倒なことになる」

「ん?あの人?」

 今度はディーンを除く3人が顔を見合わせた。

「もしかして」とルイス。

「ここってディーンの女関係・・・」とスレイ。

「うわぁ、あのベッドってそういう」とメル。

「ちがうって」

 ディーンは何故だか慌てた様子で三人の下世話な想像を打ち消した。

 ついでに何故だかルイスをにらむ。

 この不動産物件がディーンの女性関係に関与しているのもまた事実だからだ。

 ここ数日、面倒事に振り回されっぱなしだったのは、外征でフェリオに出征中のルイスの兄シモンを除いたルイスの実の家族たちのせいだった。

 ついでにとはディーンの師匠でもある。

「あまりこの場所に出入りしているところを誰かに見られたくないんだよ。いちお、まだ登記上は他人の所有物件だろうから。好きに使って良いとは許可貰っているけどね」

 むしろ、ディーンがこの部屋の所有権を与えられた本当の事情を打ち明けたら三人とも仰天するだろう。

 なにしろ「埋め合わせ」かつ「お祝い」だとかだ。

 それはそれで後腐あとぐされ無い話だったが、それこそディーンの立つ瀬がないし、ルイスが気の毒だった。

「ああ、なるほど。高貴の家の事情ですな」

(そうといえばそうなんだけど、間違いなくお前の想像の遙か斜め上を行くぞ)

 ディーンはスレイに恨みがましい視線を向け、スレイだけが納得した様子で引き下がる。

 ただ、スレイは別の人物と完全に誤解していた。

「まあ、俺も密かな隠れ家はなるべくなら他人には知られたくはないしって・・・」

 スレイは言いさして、他の3人がじっと見ているのに気づく。

「どうやらこっちが本命のようだな」とディーン。

「やっぱり女の子連れ込む部屋があったんだ」とルイス。

「うんうん、納得」とメル。

「だーから、違うって!」

 スレイが慌てて打ち消す。

 ディーンは笑みを消すと真顔でスレイを見た。

「まあ、冗談は冗談として、そっちは使えないのか?」

「場所が悪い。なにしろ南区の歓楽街のすぐ近くだし、ここより手狭だからな。日中人が出入りしていると、かなり怪しまれる」

「やっぱり夜専用の連れ込み部屋なんじゃない」とルイス。

「まあ、いかにもそういうお楽しみしてそうだし」とメル。

「なにより親友の俺でさえ知らないっていうのが」とディーン。

「だー、だからなんで俺のときだけそうやって引っ張るんだよっ!」

 必死に抗議するスレイの様子に3人は声を立てて笑った。

「さてと、腹もふくれたし、日が高くて身動きがとりやすいうちにさっさと行動しておきますか」

「じゃあ、ディーン。あたしんち寄って」とルイスも立ち上がる。

「軍警の手が回らないうちに部屋から色々とってくる」

「それがいいね。どっちにしろしばらく戻れそうにないから」

「それじゃ、行動開始と言いたいところなんだけど」

「スレイ、留守番とメルをよろしく・・・って言いたいところなんだけど」

 ふと気づくとディーンとルイスの2人はスレイの顔を凝視している。

「なんだよ、二人して」

 スレイは真剣な表情で唾を呑んだ。

「手ぇ出すなよ」とディーン。

「あんまりよろしくしちゃダメ」とルイス。

「いやーん、手込めにされるぅ」とメル。

「だー、だからなんでそうなるっ!」


 ディーンとルイスは隠れ家から二人並んで往来に出た。

 外は春の日差しがあふれるように降り注いでいる。

 背格好もそれなりに釣り合う二人が並んでいると誰もが微笑ましく見送るお似合いの二人に見える。

「でも本当に良かったよ。アンタたちがいてくれて」とルイス。

「ん、まあね。少しは頼りになるだろ?」とディーン。

「うん、あたしとメルだけじゃ、多分心細くなってた」とルイス。

「そっか」と言ったディーンの腕に、突然ルイスが腕をからませた。

「おいっ、ルイスなにすんだよっ」

 慌てて抗議するディーンを尻目にルイスは悪戯いたずらっぽく笑った。

「恋人同士のフリっ」

「えっ?」

「こうしていれば、誰もあたしたちを怪しまない」

「納得・・・」と言ったディーンはすぐにその言葉を後悔した。

 納得できないことに気づかされたからだ。

 小脇にあるルイスの腕が体が小刻みに震えていた。

「ルイス?」

 慌てて視線を向けたルイスの顔が唇が色を失っていた。

「・・・馬鹿だよね、今になって急に不安になってきちゃった。メルの前では絶対に見せられなかった。色々と覚悟なんかもあった筈なのにね・・・」

 言葉や態度からおくびもそれを感じさせなかったルイスの不安と緊張。

 ずっと押し留めて我慢していたのだった。

「・・・・・・」

「今日もなんでもない一日で、アタシにとってはすっごく幸せな日になる筈で、こういう毎日がこれからも続いてくれればって思ってたのに、急になにもかもおかしくなっちゃって・・・」

「・・・・・・」

「おじさまやあの子がなにしたっていうのよ。それになんであたしまで・・・」

「・・・・・・」

「ほんとは怖いし不安だけど、多分なんにも気にしてない顔してメルはもっと不安なんだ。あの子は本当に不安が募ると心を閉ざすから」

「ルイス、もういいっ!」

 ディーンに怒鳴られてもルイスはやめなかった。

「あの子は昔からそう。本当の感情と表情とを切り離す術を心得ている。まるでそういう技術を持って生まれてこなければならなかったみたいに。子供のような顔して、無邪気なフリして、でも絶対に心は私たちの誰よりも大人」

「ルイス、わかったからもうやめろ!」

「あの子は誰よりも純粋よ。純粋な悪意に満ちあふれている。アタシなんかと違って勘もいいし、察しもいい。カマトトなフリしてるけれどちゃんとなにもかも承知してる。あたしに甘えたり頼ったりするのだって、周りを困らせるような一言にしたって、ちゃんとあの子にしか分からない理由と目的がある。だから、いつもドキッとさせられる。ときどき一緒にいて辛くなる・・・」

 言葉をさえぎり、ディーンはルイスを真っ正面に見据えた。

「俺が守るっ!」

「えっ?」

「これからなにがあっても俺がお前達を守ってみせる」

「ディーン・・・」

「要領がいいだけの男かも知れないけど、なんの力もないかも知れないけど、それでもお前達は俺が守るっ!」

 真剣な表情のディーンはルイスを抱きすくめるようにして言い放つ。

 それに対するルイスの反応は・・・。

「あははははははは」

 苦笑ではなく、心底おかしいといった風に笑い転げた。

「ルイス、俺は真剣なんだけど?」

 折角の決め台詞を笑われてディーンはすっかり当惑していた。

「もしかして、からかったのか?」

「あー、おかしい。おかげで緊張が解けたわ」

 ひとしきり笑い転げてルイスはディーンをすっとまっすぐに見据えた。

「そんなわけないでしょ。だけど、その台詞ってスレイみたいな優男の為にあるようなものよ。それこそ、そっくりそのまんまスレイが言ったのなら、それこそ殺し文句よ。だけど、アンタにはこれっぽっちも似合わないよ」

 ディーンは黙って頭をいた。

 柄にもないことを言ってしまったと少し後悔する。

「確かに普通の女の子だったら、今頃目をウルウルさせて熱ぅいキスしてるかもね。でも、それには事実そうだとしてもお前“達”じゃダメ。嘘でもいいから、お前だけって言ってくれないとね」

 的確なダメ出しにディーンはショックを隠せなかった。

 もっともこの先、ディーンがルイスを守る場面はほぼ一切ない。

 その逆だったら、今後沢山ありそうだ。

「やっぱり、俺じゃ役者不足かい?」

「冗談よ」とルイスはディーンの腕に抱きついた。

 耳元に唇を寄せ、小声でささやく。

 その声はディーンがゾッとするほどに冷静だった。

「本当にヤバくなったらあんたが頼みよ、ディーン。守るって言ったからにはなんとしても守って貰うわよ。本当になにがあろうとね」

 「軍警察との命の取りあいになっても」という意味と察し、ディーンの表情が硬くなる。

 そのときは間違いなくルイスも返り血に染まる覚悟だろう。

「分かってるさ、そんなこと」

 内心どっちらけのディーンはルイスの腕をふりほどき、プイと横を向いた。

「だいたい、守るのはあんたたちの専売特許じゃない。それに、人もうらやむアンタがなんの力も持ってないわけないじゃないでしょ。物凄く要領がいいだけの人を史上最強、中原最強だなんて言う人はいないわよ」

 最後の一言は物売りの声にかき消された。


 ディーンとルイス。

 二人が出ていった部屋はまるで明かりが消えたように寂しく暗かった。

 メルは力なく床にぺたんと座り込んだ。

「メルちゃん?」

 壁際に立ち、抜け目なく外の様子を伺っていたスレイはメルの異変に驚いた。

「ちょっと力ぬけちゃった。横になってもいいかな?」

「ああ、襲っちゃっても構わないなら」

 スレイは先程の続きのつもりで軽口を叩いたが、メルの目は笑っていなかった。

「もういいよ、そういう浮ついた冗談。痛々しいほど似合わないから。それにホントはわたしにも興味ないクセに」

 突き放すように吐き捨てる。

 猛烈な程の毒舌でだ。

「おいおい姫さん、どうしたよ?」

 スレイは笑顔で取りつくろおうとしたが、メルの険しい表情がそれをはばむ。

「わかってる。みんなあたしを安心させようとしてる。お父さんのことや、これからのことであたしを不安にさせないようにって気を使ってる。そんなの無駄なのに」

「なんだちゃんと気づいてたんだね?」

 部屋に来てすぐに、ディーンはスレイにだけ分かるようにサインを送ってきた。

 あれは調子を合わせろという意味だった。

 ルイスもすぐに空気を読んで2人の意図を察した。

「馬鹿にしてるんだね。あなたも。いえ、馬鹿にしてるんじゃなくて“みくびっている”。『お前みたいな世間知らずのお嬢ちゃんになんか、自分の置かれてる立場なんてなんにも分からないだろう』ってね」

「そんなことは・・・」

 口では否定してみたものの、そういう雰囲気は多分にあった。

 心のどこかに3人で力を合わせて自分を守るすべを持たないメルを守ってやろうという意識があり、それが行動や言動に強く表れていた。

 そうせねばならないと思わずにはいられないほど、切迫した事態がまるで理解出来ていないのではないかと呆れるほどに、メルの言動や態度は無邪気そのものだった。

 しかし、それがすべて分かった上での“演技”だとしたら、スレイの心はやりきれない気持ちに包まれた。

「でも、ルイスがいたからいつものあたしらしく振る舞ってた。あたしって前からルイスにだけはみんな見透かされちゃう。本当に思ってることや、感じていること。察しが悪くて勘がニブい癖にルイスの鼻はよく利くんだもの。だから、ルイスの前では言ってることと、別のことを考えるようにしてる。話してることと、考えてること、二つあれば本当の心も気持ちも隠せるから」

「そうなんだ」

「ディーンくんはこれっぽっちも不安なんか感じさせないよね。冷静で計算高くて、ほんと、スゴイよね。彼は」

 スレイが見たこともないメルのギラギラした目は本当は誰に向けられるべきだったのだろう?

「ああ、あいつは誰よりスゴい奴だよ」

 スレイは正直なところ感心さえしていた。

 今日のアイツはいつにも増してスゴい。

 きれっきれと言って差し支えない。

 突発的に起きた軍警察の捜査という出来事に対し、見事なまでに対処してみせた。

 自分やルイスへの指示も見事かつ的確。

 そして、短時間で必要な情報を集め、みんなに前を向かせた。

 冗談まじりに食事をとらせてこれからの事を話し合い、雰囲気が暗くならないように気配りも欠かさない。

 一刻も早く善後策を講じるために、自宅に向かった。

 ディーンの予想が正しければディーンもしくはトワント宛てに、パトリック・リーナからのメッセージが届いている。

 おそらくは別の物もだ。

「でもだからって、彼の側にいても多分安らいだ気持ちになんかならない。絶対的な安心と引き替えに、ひどくみじめな気持ちにさせられるだけ」

 抑揚よくようのないゾッとするほど冷たい一言だった。

 その行間からはメルの抱えるディーンへの不審と嫌悪感がにじみ出ている。

「えっ、あっ、いやそうなんだ。いやまた、僕はてっきり・・・」

 スレイは思っていた。

 「あれなら年頃の女の子なら誰でも憧れる」と、男の自分さえ頼もしいと思わずにいられなかった。

 まして、女の子のルイスやメルならばと。

「パトリック父様の側でいろんな人たちを見てきたけれど、彼ほど傲慢ごうまんな人を私は見たことないもの、彼は誰のことも目に入っていない。負ける人や弱い人の気持ちなんかまったく考えない。弱い人の心なんてないのと一緒。だから、“強い人”でとても頼りになる。多分、これから先もずっと・・・」

 聡明で揺るぎない精神力を持つディーンに守られていながら、「傲慢ごうまんだ」と言い切る。

 同じように守られていてもルイスや自分に対してメルはそんな言葉は使わない。

 そういえば、ディーンが現れるまでにメルは言っていた。

『ねぇ、ディーンくんってこういうことに慣れているの?』

 あのときは率直な感想と疑問にしか思わなかった。

 だけど、もしメルがディーンの女皇正騎士フィンツ・スターム以外の正体を知っているのだとしたら・・・それは痛烈な皮肉だと受け取れる。

 それこそ正にビンゴだ。

 コードネームの“ベルカ・トライン”でディーンが従事しているのはいわゆる“汚れた仕事”だ。

 探索、強行偵察、変装、尋問、拷問ごうもんに暗殺。

 お互いの良好な関係のため詳しくは聞かないが、スレイの前でもディーンが血の臭いを振りまいているときがある。

 それに市民も元老院も知らないだけで女皇騎士団は本格的な実戦部隊だ。

 国家騎士団所属ならディーンもビルビットもとうに隊を代表するエース格になっている。

 つまり、すでに両手の指より多くの命を奪っている。

 それらがすべて騎士だとは限らない。

「あたしたち4人はみんな仮面を被ってる。仲良しごっこを演じてるだけで、誰も素顔は見せてない。みんな素性や本心を隠してる」

 スレイは言葉を返すことが出来なかった。

 考えてみればそうだ。

 物騒ぶっそうすぎるディーンのことはさておき、ルイスも“ただの友達”ではない。

 ルイスが会話の中で無意識に使った“パトリック様”という呼び方。

 そして、ディーンの父トワント・エクセイルとメルの父パトリック・リーナが旧知の間柄だったという事実も彼女の口かられた。

 時折見せる思い詰めたようでいて冷徹な表情。

 ただの親友でただの友達であれば、もう少し取り乱してもおかしくない状況に置かれながら、ルイスはメルの前で泣き言一つ言わない。

 ただの一度も弱音や涙を見せていない。

 普段から、彼女はごく当たり前のような顔で文字通りの“お目付役”としてメルの側にいる。

 夜の図書館に忍び込もうとしたとき、他の級友たちを送り返しても彼女だけはメルに付き従った。

 パーティの席でも、ぞくの排除という大立ち回りで真っ先にパトリックとメルの安全を確保した。

 その後、客に紛れ込ませていれば安全と判断し、ディーンの救援に向かった。

 ディーンからお姫様抱っこされて会場に戻り、地震の後にディーンからダンスの誘いを受けた時も含めて、ルイスはメルの側から片時も離れなかった。

 パトリックに伴われたメルが他の客人たちと談笑している間も、ディーンが老貴婦人を誘い見事なダンスの腕前を披露していたときも、ルイスはメルを見守れる位置に控えていた。

 地震のあとのディーンとルイスなど露骨なまでに見せつけるように、スレイとメルとを見守れる位置で踊っていた。

 それはまるで忠実な“番犬”のように・・・。

「あたしたちの『仮面舞踏会』は図書室で出会ったあの夜から始まった。ねぇ、気づいてた?あのとき初めて会ったフリをしてるけど、ルイスもディーンくんもお互いに前から知ってたって?」

 メルの言葉に触発しょくはつされ、スレイは目まぐるしく頭脳を回転させる。

 ディーンを初めて見たとき、ルイスは即座に「誰?」と尋ねた。

 ディーンはバツが悪そうに「別にいいけどね」とふてくされた。

 ルイスが自己紹介をしたとき、ディーンは一瞬だけ驚いた様子をした。

 もし、二人が申し合わせたようにお互いのことを知らぬフリをしていたとしたら?

 そういう芸当は社交界ではごく当たり前に起きる。

 リーナ家のパーティの席で列席していた父の関係者たちにそれをやられて、ひどく気分を害した。

 だが、自分にとっても都合が悪かったとしたら、スレイは間違いなく初対面を装った。

 を見たときが正にそうだ。

 それから、二人は別段変わった様子を見せなかった。

 ルイスは自分に興味や関心を示しても、ディーンに特別興味を示したことはない。

 ルイスやメルが自分に興味を示すのはある意味当たり前だとスレイは思っていた。

 大抵の女の子達は容姿端麗ようしたんれいな色男である自分に興味を示す。

 色恋のことやらディーンとの関係やら知りたがる。

 メルはごく自然にディーンに興味を示した。

 あの野暮ったい学者先生にどうしてまたと思うほど。

 だからてっきり・・・。

 だが、今はっきりしたのは、メルは“学者先生であるディーンせんせ”に興味を示していたのではなく、“実戦慣れした騎士たるディーンが学生学者先生を装っている”ことに興味を示していたのだ。

(そうか、だからメルはなんでもござれのディーンを“傲慢ごうまん”だと感じるんだ)

 だが、スレイも妙だと感じていたこと。

 それは、ディーンもルイスも突発的な出来事が起きたときに、お互いの事を全面的に信頼している。

 もしルイスがパトリックから娘を守るよう密かに命じられたボディガードであるのなら、部外者であるディーンの指示がいかに的確でも、なんの躊躇ちゅうちょも見せずに従うのは極めて不自然だ。

 これは友情とか愛情だとか、そんなレベルの話ではない。

 ルイスはディーンに心の底から信頼を寄せている。

 一体なにを根拠に?

 教授級の頭脳を持っていても、手合いで不戦神話を打ち立てる女皇正騎士だとしても、ディーンはパルムにおいてはただのディーンだ。

 それこそ真戦兵の一体でもあれば絶対無敵ときている。

 だが、ここは大都会の片隅。

 真戦兵なんてものは練兵場以外で使えない。

(学生学者のディーン・エクセイルまたは女皇正騎士フィンツ・スタームとルイス・ラファールには共通目的がある。だが、ルイスが正騎士?いやそれはない。もし承認されていれば元老院議事録に載るはずだし、議決内容はどんな些細な内容も新聞報道もされる。それにオヤジから聞いたこともないし、俺の知る限り最後の承認はラシール家のナダル。女皇家に連なるのだとしたら考えられるのは“唯一人”の筈だ)

 「ここもキナくさくなった」というディーンのなにげない言葉にルイスはすぐに食いついた。

 すると「あっちはあっちで・・・」、「だから、アンタは疲れた顔をして・・・」と切り返した。

(えっ、そうか間違いない。ルイスはディーンの裏稼業を知っている。ディーンもルイスの正体を知っている。それなら容易に説明がつく。メルに事情を話さないことも別の意味を持つ。ディーンが自分のことをすべてルイスに密かに話した?そんな可能性はそれこそ皆無だ。自分でもあれほど嫌っているのに・・・)

 ディーンが自らの正体を完全に明かすとしたら、“余程相手を信用している”か、もしくは“信用させる必要に駆られた”かのどちらかだ。

 たとえ相手が自分の伴侶はんりょだろうが黙っておくべきだと思ったことは一生黙っている。

 だが、そんな時間的余裕も機会も少なくとも今日これまではなかった。

 そして、短時間とはいえルイスがこの非常時にメルを自分に任せて側を離れた理由は間違いない。

(ルイスはディーンを通じて、自分を信用している?あるいはルイス自身が徹底的に俺の過去や人間関係を調べ上げた?)

 我が身可愛さから、メルを国軍に売り渡すような真似をしないことも、狼藉ろうぜきを働く可能性がないことも。

 非常時だから気が動転している?

 そんな筈はない。

 ルイスはあの図書室からこの部屋に入るまで、一度もメルの側を離れなかった。

 更に言えば、つかんだその手を離そうとはしなかった。

 それこそ、メルの右手が痛々しくれ上がり、彼女が悲鳴を上げても尚・・・。

(しかし、さっき窓の外を歩いていた二人が腕を組んで歩いていたのはどういうことなんだ?)

 スレイは偶然目にしたその光景をメルに話すような野暮は犯さなかった。

 一体全体、二人の間になにがある?

 問いつめてみたところで、冷静なディーンはなんのことかとはぐらかす。

 ルイスなら思わせぶりに笑って誤魔化す。

「ディーンくんが本当は今日なんの話をしたかったのか、是非聞いてみたかったわ。多分、その機会はしばらく来ないだろうけど」

 スレイは気づいていた。

 そろそろ頃合いだろうとディーンが話したがっていたのは多分、自分の裏稼業について。

 必然的にそれはスレイとの本当の繋がりをも示し、メルとルイスの見てきた世界がまったくの偽りだったことを裏付けてしまう。

 でも、メルの指摘通り必要に駆られない限り、ディーンは自分自身の正体について触れないだろう。

 学生学者と正騎士の二重生活者だと思わせておけばいい。

「ねぇ、スレイ」

 メルはぞっとするほどうつろな目をしてつぶやいた。

「おとぎ話に出てくる“お姫様”は格好良くて強い“騎士様”に憧れて結婚したいって考えている。でも現実の“お姫様”は違う。“お姫様”はいつも守られてるって思って幸せになんかならない。“騎士様”が“お姫様”を守るのはそれが自分の仕事だから。好きだから、愛しているから守るんじゃない。“役目”だからよ」

「・・・・・・」

「“騎士様”がね、本当に愛する“お姫様”を守ろうと思うとき、まず真っ先になにをすると思う?自分の身分も役目もかなぐり捨てるのよ。そして、文字通りに身一つになる。そうした“騎士様”はね、オーダーにしばられる騎士でなくなったが故に無敵の存在になる。騎士は守るべきだと思うもののため、その命を捨ててでも戦おうとするの。そして、自分自身の運命について悟るのよ。もう後戻りなんて出来ないのだとね」

「・・・・・・」

 なんのことなのか、誰のことを言っているのだか判らないが、メルの言葉にはまるで現実に見てきたような迫力があった。

 そのことだけは心に留めておいた。

「一方で現実の“お姫様”はいつもニコニコ笑いながら、心の底では周りの人たちを品定めしている。誰かに守られるのは当たり前のこと。相手が利用できるかそうでないか?どの程度利用出来るか?本心を隠して本物そっくりの作り笑顔で微笑むのが“お姫様”の仕事。どれだけ可憐に振る舞っても、どれだけ綺麗に着飾っても、よこしまな心の中までは飾れない。自分の姿を鏡に写せばカエルの姿をしている。醜くて、取り澄ましていて、ペロリと舌を出す機会をじっと伺っている」

「・・・・・・」

「自分を偽っていることを知っている“お姫様”に本当に必要なのは、真実の姿もよこしまな心もちゃんと受け止めてくれる意地悪な“魔法使い”なのよ。“魔法使い”は自分が汚れてくたびれた心を持ってるせいで素直になれない。いつも意地悪なことをしたり、呪いをかけたり、“色男”に化けたりする。でもどんな姿をしていても本質は一緒。だから本当にお似合いなのは“カエルのお姫様”と“意地悪な魔法使い”」

 メルの語るお伽噺調とぎばなしちょうの痛烈なる“皮肉”に、スレイは大きなため息をらした。

「驚いた、君は本当はなにもかも分かってるんだね?」

 そこには驚くよりも呆れたという思いが込められていた。

 ディーンやルイスだけじゃない。

 自分も初対面以来、ずっと値踏みされていたのだ。

 おそらくはスレイ自身さえ自覚すらしていない“本来の価値”までも。

 他に選択肢がなかったからではなく、自分の利用価値と能力を認められたのだ。

 だから、敢えて本心を話したのだ。

 味方につけておく・・・というより、協力関係や契約関係を築くためのこと・・・

 切迫した状況の中で、誰が一番頼りになるのか見定めたのだ。

 その上で彼女はしがらみある騎士たちでなく、自由な心持つ“底意地の悪い魔法使い”との契約を望んだ。

 周囲から“お姫様”と呼ばれていることにメルは内心ひどく傷ついていたのだ。

 だから、敢えてそういうたとえ話にして聞かせる。

 自らを“カエルのお姫様”と揶揄やゆする。

 童話の中の少女?

 とんでもない。

 この子は他の誰よりも人の心と世の中のについて詳しいじゃないか。

 ルイスのように“じゃじゃ馬”ならまだ可愛げがある。

 本当にカエルのようにつぶらな瞳でその癖したり顔して悪意に満ちあふれたお姫様。

 リーナ家に押しかけるパーティの客たちはみんな融資やら、金銭援助やら金のことが目当てのしたたかな連中なのだ。

 名士然と振る舞ってはいても、その実、成り上がり者と陰口を叩かれる元パトリック・フェルベールの隣にいて、笑顔の仮面を被って取りつくろう。

 それこそ“本物のお姫様”さながらに。

 そうして作られた彼女の王国は間違いなく今日崩壊した。

 パトリックが失脚したとなれば、利に群がっていた連中は蜘蛛くもの子を散らすようにして離れていく。

 あのパーティに集った面々など、受けた恩など知らぬ顔で、アッサリと敵に回る。

 そう考えてみて、不意にスレイは自分の事に思い当たった。

(俺だって似たようなもんじゃないか)

 政治家の父のもとを訪れるのは利権や出世、野心や打算がからんだときばかり、パーティでもそういった顔が並ぶ。

 あの人ひとりだけが父フェルディナンドの本当の理解者であり、盟友だった。

 だからこそ、父を憎んでいても、あの人を心から尊敬してやまない。

 ああ、そういえば、メルの所に招かれた年末のパーティで“知らん顔”をした連中に散々お目にかかったじゃないか。

 元老院議会においては孤立気味の非主流派にある父フェルディナンドに接近している政財界の連中は旧知の事実を隠すために、スレイに対しても初対面のフリをしてみせた。

 分かってはいてもその厚顔ぶりに顔を引きつらせずにはいられなかった。

 改めて考えてみれば、似たような環境に一人っ子として育っている。

(でも、この子は正真正銘しょうしんしょうめいのご令嬢。それに引き替え、俺は毛並みはいいけど、“買われた”身じゃないか)

 スレイはメルよりもむしろパトリックと立場が酷似こくじしていた。

 釣り合い?そんなことは今の今まで考えてみたことはなかった。

 実を言えば、スレイは今回の事になんの痛痒つうようも感じていない。

 メルの身に起きた不幸も他人事ひとごとだ。

 人並みの不安は多少はないでもない。

 ただ、それで自分と仲間たちがどうなるのかと不安に感じたりはしていない。

 失ったところで惜しいとも感じない家と生活。

 わずかな心残りは弟ティベルのことだけ。

 なりゆきでそれさえ捨てねばならないのだとしたら、それも悪くない。

 もう完全にあの業に呪われた“家”から解き放たれる。

 運命はダイスを振るばかり、行き着くところは風任せ。

 ゲームは楽しんだモノが勝ちだ。

 結果として、破滅してもそれはがなかっただけの話。

 ディーン・エクセイルという男に出会ったことで、スレイはなにより面白くなったと感じた。

 鬱積うっせきのはけ口を見出しながら、尚も退屈だった日常が間違いなく大きな変化を遂げていた。

 ルイスとメルに会ったことで、更に変化は加速した。

 二人とも自分にとって特別な女の子とは思えなかったが、男二人の楽しいがうるおいのない生活は色めき立った。

 出会ってからの半年間はめまぐるしい季節の変化を楽しんだ。

 そして、今ここが終局なのか?

 それとも新たな変化の始まりなのか?

(仮面舞踏会はあの夜から始まった・・・)

 あっそっか、まだまだワルツは続いている。

 お開きの声はまだどこからもかかっていない。

 その逆で、これは始まりのサインだ。

 間抜けなお巡りたちは4人が踊りながら輪を外れ、手に手をとって逃げたことにさえ気づいていない。

 だいたい彼等は本当に間抜けなお巡りたちなのか?

「余計なこと話しすぎたみたい。なんか疲れちゃった。二人が戻ったら起こして」

「わかった」

 スレイは横になったメルの隣にどっかりと体を投げ出して座った。

 考えておきたいことがたくさんある。

 これからどうすればいいか?

 岐路きろに立たされた自分に出来ることはなんなのか?

 “魔法使い”として期待されたことにどう応えるのか?

 なにより、このゲームを楽しむにはどうすればいい?

 そして、なによりこの“お姫様”とこれからどう向き合っていく?

「その仮面を・・・」

「えっ?」

 意識の外から声をかけられ、スレイはひどく面食らった。

「その仮面を外してくれたら・・・いいよ。私の身分でも立場でもちからでも、なんでも好きなように利用して。どのみちアタシは人形だもの」

 スレイはその言葉の意味をしっかりと噛み締めた。

「魔法使いとしては“魔法”を使うのが先さ・・・」

 メルの小さな手がピクリと動く。

「今は手を握っててあげる。それと・・・」

 スレイはメルの小さな手をそっと握った。

「泣いてもいいよ、二人には絶対に黙ってるから」

 スレイに片手を握られながら、ベッドの中のメルは低く嗚咽おえつを漏らし始めていた。

 不安だったのだ。

 他の誰よりも。

 心細かったのだ。

 得体の知れない“魔法使い”との不利な契約を結ばねばならないほどに。

(いいだろう、ご期待にお応えして“魔法”を使ってみせるさ。でも俺が仮面をとる日なんて来るのかな?)

 さぞや醜く憎悪に歪んだ素顔が隠れるその仮面。

 じっさいイカサマ師であり、諸悪の権化ごんげで当代随一の刺客に狙われている。

 外さずに人生を演じきるつもりでいた“厚顔な魔法使い”に、“カエルのお姫様”が心から微笑む日が来るのだろうか?

 仮にこの日々の先にそうした結末が待っていたとしても、微笑むことなどあり得ない。

 少なくとも俺は心から笑えない。

 他愛のない想像にスレイは冷笑を浮かべていた。

(馬鹿馬鹿しい。俺はこの崩壊寸前のくだらないセカイと其処に在るおぞましい未来になにを期待してるんだか)

 握った手のひらだけが、妙に汗ばんでいた。

 そんな二人に4月の柔らかい日差しだけが降り注ぐ。


 通暦1512年7月17日 午後11時


「いよいよ其処に来たか」とケヴィン・レイノルズは腕組みをする。「この国を変えた四人のおごそかなる旅立ち・・・」

「いいえ、教授。先回りになりますが彼等ははかられたのです。それにおごそかな旅立ちなんてことはなく、実態は『夜逃げ』です」とティルト。

「なんだとっ!」とケヴィンは目をく。

「つまり、“トレドの虐殺”があったという日から数えて約半年。西部ではいよいよ反攻作戦の準備が整い。他の誰より才ある彼等を欲していた」とティルト。

「それは幾ら何でも買い被りすぎなのでは?」とケヴィン。

「いいえ、4月の末から事態が一気に動き出します。まるで歯車が噛み合ったようにね」

 ティルトの指摘にケヴィンは感心した。

 念のためレポートを確認し、異常なまでに時期的に符合すると確認した。

「ほぅ?」とケヴィンは先を急いた。

「それになにより、教授。我々はつい失念しがちなのですが、とても肝心なことを忘れていますよ」

「なんだねそれは?」とケヴィン。

「ボクや教授が世間からどう見られているか?名門にして最高学府エルシニエ大学の前途有望な学生と中原一の頭脳たる教授たちですよ。実態は世間一般からそこまで期待されると、とてもやりづらいですけどね」

 ケヴィンはピタっと動きを止めてしまった。

 ニコチン中毒で「狂犬」と呼ばれる偏屈で頑固な学者嫌いの教授。

「同様にこの四人もそうです。二十歳前後の若者たちですが、女皇国ゼダで一番狭き門であり、貴族皇族だからと抜け道など許されない。それこそ、天才皇女アラウネが16歳で入学したという伝説がありますが、それ自体が彼女にしか出来なかった偉業です。今は飛び級進学も認められているので条件的には一緒なのですが、事実として大学の四百年の歴史上男女問わず他に誰も居ませんよね?」

「確かにそうだ」とケヴィンはうなずく。

 そんなに甘いものではない。

 制度的に出来るのと、実際に成し遂げるのでは意味とハードルとがまったく違う。

 そもそも物語ではメル・リーナの父親である“パトリック・フェルベール”はエルシニエ大学卒の秀才で入社即本店勤務になる逸材だったから出資一族たるリーナ家の婿養子となり“パトリック・リーナ”になったのだ。

 革命前から革命後も活躍したという金融界ではほぼ立志伝上の人物だ。

 ベル・シティ銀行は今現在も続いており、実はケヴィンも預金口座を持っている。

 エリザベートの給与も大学から振り込まれる。

 おそらくはティルトも口座を持っている。

「この中の誰か一人がそのアラウネ皇女の関係者だとすると、少しだけ説明しやすくなるとは思いませんか?」

「なにを馬鹿なっ、アラウネ皇女はこの物語の20年前にアラウネ事件で・・・」

 なにかに気づいた様子のケヴィンがまたしても動作を止める。

「そうか、そういうことか・・・」

「『正史』とされている内容の中で、ディーン・フェイルズ・スタームがアラウネ皇女の遺児であり、通算で『四人目の剣皇』です。その彼とディーン・エクセイルとが『あからさまなほど似ているのに人物像がまったく違っている』。それに若き助教授たるディーン・エクセイル自身が『シャナム王回顧録』の口述筆記担当として『正史』の編纂へんさんに深く密接に関わった。そしてその中で、『剣皇ディーン』の非業ひごうの死をも書き残している」

「そうか・・・」

「そうです教授。『どちらかが本当でどちらかが嘘』あるいは『どちらも嘘』です。『剣皇ディーン』の運命とディーン・エクセイル元学長の『正史』。現時点でどちらがより真実に近いと思いますか?」

 片方だけでも嘘をついているなら、「嘘つき」なのだという前提でディーン・エクセイルを理解した方がいい。

 ケヴィンが長年研究してきたディーン・エクセイルには説明しづらい部分が確実にあった。

 だが、ティルトの言うように「嘘つき」なのだとしたらそれで説明しづらさが解消されるのだ。

 だが、ケヴィンはただの一度もそのように考えなかった。

「これではどちらが教授でどちらが教え子かわからないな。だが、現時点ではどちらとも判断がつきかねる。決定的証拠が不足しているせいだろうな。しかし、決定的な証拠など何処に・・・」と苦笑しつつケヴィンは少しも気持ち悪くならなかった。

 学者肌の人間から頭ごなし、上から目線で自論を真っ向から否定されているのとは明らかに違う。

 確かにティルトが論破してきた通りだった。

 ティルト・リムストンは生粋きっすいの理屈屋だがちっともケヴィンの思い描く学者っぽくはない。

 むしろ、たまに自宅で気分転換に視聴するテレビドラマの探偵役だ。

 証拠となる資料を並べ、一つ一つの出来事と人物とを丁寧に検証し、誰のなにが本当かを慎重に確かめていく。

 それは“よりもっともらしい真実”とは随所に巧妙に嘘を散りばめることだったからだ。

 そしてティルトの言葉の端々から聞こえてくるのはたった一つ。

『教授、ダマされちゃダメです。このミスターXは私たち全員の思い込みと常識とを巧みに利用して真実を巧妙に隠しています。それに対抗するのは動かぬ証拠だけ』

 しかし200年前の出来事の動かぬ証拠などそうそう出てくるものではない。

 いや、違うぞ、あった。

 あの場所になら間違いなくある。

「国立国会図書館かっ!」とケヴィンは思わず叫んだ。

「そうです、教授。ボクがこの一年間で一番足繁く通ったのは国立国会図書館に秘蔵されている過去の住民台帳。その閲覧に一番沢山時間を割いたのです」とティルト。

「そうか、どんな理由があってどんな事実を隠したとしてもパルムで産まれた者と、パルムで死んだ者とは役所の記録として残っているな。革命期の混乱で流民ゆえに住民台帳に名も載らず、人知れず亡くなった者以外は・・・」

 ケヴィンの指摘にティルトは深くうなづいた。

「はい、そして確実にその革命期を抜けて生きていたことがはっきりしているのがこの四人です。そして、パルムから出て行ったときと帰ってきたときとで名前も立場も明らかに異なっていた二人と、出発時点で既に名前が変わっていた一人。誰より不可解なのが行きも帰りも名前は一緒なのがこの人だけという事実です。それが一番おかしい」

「名前も立場も明らかに異なるというのはスレイ・シェリフィスとメル・リーナだな」とケヴィン。

「はい」とティルトは即答する。

 スレイ・シェリフィスは“アリアス・レンセン”と名を変えて、メル・リーナは退任後に“メリエル・リーナ”と名を変え、すぐ後にメリエル・レンセンと変わっている。

 レンセン首相と最初のファーストレディであるメリエル夫人。

「すると出発時点で名前が変わっていた一人が残りのいずれかか?」

 ディーン・エクセイルとルイス・ラファール。

「そのことを考える前にボクは黙っているので一服しながら聞いてください。正直見ていられない」

「ありがたい。さっきから吸いたくてそわそわしていた」

 ティルトの前ではもう今後はそうした細かいところでの妙な格好つけはいらないと思っていた。

 ただ、しっかりと換気して明日以降はバレないようにした方がいい。

「絶対にありえない話なのでそのつもりで少し黙って聞いてください。もしケヴィン教授が肺病を患って病床の身であり、お嬢さんがエリザベートひとりだとします。もしもエリザベートがやんどころない事情でパルムを離れると知っていたらそのとき彼女にどうして貰いたいと思いますか?」

 ティルトの問いかけにケヴィンは想いを巡らせた。

「父親として一人娘になにを望むかか?」と言いさしてケヴィンはそうではないと気づいた。

「一人の父親として『跡取り』になにを望むかか?」

 そもそもルイスの父エイブ・ラファールは当時は国家騎士団少将で厳然たる要職者であり、病床の身ではないし、長子のシモンが健在のうちは「大事な跡取り」はいる。

 病床で明日をも知れない身なのは偉大なる大先輩教授トワント・エクセイルだ。

 ケヴィンには息子が居ないので想像力で補う。

「わかったぞ、『将来の伴侶を連れてきて後のことは任せてください』と言わせる」

 実際そうやって、世間一般の話としてエリザベートがティルトを連れてきたら、父親として「聞いてないぞ。まずは一発殴らせろ」になる。

 現にあの男とケヴィンとはそうなった。

 むしろ、実際にティルトがエリザベートと結婚して自分の跡を継ぐため婿養子を受け入れると言ったら二人の関係など先刻承知なので「そうか、ただ大変だぞ」となり、「いいのか本当に?お前は一人息子だろうに。それに、あの通り父親も手を焼くじゃじゃ馬だぞ、本当に大丈夫か?」となる。

 実のところそんな未来はお見通しだったし、むしろティルトほど聡明で謙虚で、自分自身も魅力的だと思う男を他に探す方が難しい。

 しかし、例え話であってご先祖ならどうしたかという話だ。

「そうです。その結果がこれです」

 ティルトが差し出したのはディーン・エクセイルの戸籍だった。

 ディーンはそもそも養子だ。

 養子縁組により入籍と書かれている。

 その下の欄に答えが載っていた。

「ルイス・エクセイル婚姻により入籍だと?いやそれは問題じゃない。事実そうだとも。しかし日付がおかしい。1188年4月23日婚姻届受理だと?」

 ルイスはディーンの妻だ。

 革命後は史学者であるディーン・エクセイルの共同研究者であるルイス・エクセイル夫人となる。

「そうなんです。どうしたわけなのかパルムから出発する前にはルイス・ラファールの方がルイス・ラファールではなくなっていた。けれども“女皇戦争”で獅子奮迅ししふんじんの活躍をした筈の剣聖ルイス・ラファールがルイス・エクセイルになっていたとなるとどういうことになります?」

 考えられることはたった一つしかない。

 ディーン・エクセイルとルイス・ラファールはパルム出立前に入籍だけしていた。

 誰にこのことを報告したかったか?

 二人にとっての親友たちなど二の次。

 本当の相手はトワント・エクセイルただ一人。

 何故か?

 トワントの死で断絶するかも知れない史家の名門エクセイル家に存続の可能性を示唆し、遠からず冥府に旅立つ養父を安心させるため。

 トワント・エクセイルはなにを怖れていたのか?

 愛息がパルムを出たきり永久に帰らないことと、それに続く自分自身の死によって終焉しゅうえんする一族の末路。

 それがディーンとルイスの結婚でなにがどう変わるか?

 仮にもしディーンが亡くなってもルイスが残っていればエクセイル家の名跡は絶えない。

 そして、史学部学生のルイスは大学復学後に研鑽けんさんを積んで亡き夫の果たせなかった家業の継承を果たせる。

 逆にルイスが亡くなっても若く才有るディーンは後添のちぞえを迎え入れればいい。

 また二人に子供がいれば夫婦ともに帰れなかったとしてもエクセイル家の名跡は残せる。

 そこまで考えたときにケヴィン・レイノルズは一番ありえない事実を前提にしていることに気づいた。

 1190年に他界するトワント・エクセイルは自分の死から2年後に完結する《女皇戦争》に義息ディーンと義娘ルイスとが揃って参戦するのだと前もって知っていた?

 それは無理がありすぎる。

 実際に叛乱はんらん戦争のシナリオを描いたベックス・ロモンドとトワントとが無二の知己だとしても、パトリック・リーナへの嫌疑と逮捕状が4月24日のあと僅か1週間で撤回される「大誤報」だとは知らない。

 逃亡先で新聞報道を確認した四人は、ただパルムにとって返して大学休学を取り下げて元の生活に戻ればいい。

 逃亡先がトレドになり、叛乱はんらん騒動にわざわざ巻き込まれると、この時点で確定する要素は何処にもない。

「おかしい・・・。どう考えてもおかしい・・・」

 ケヴィン・レイノルズ教授は半生を捧げて研究してきた内容が破綻しかけていると考えず、事実の羅列られつのもつ意味に驚愕きょうがくしていた。

「論理的に説明できないのはキーワードが決定的に欠落しているからなのです。まず、ディーン・エクセイルとディーン・フェイルズ・スタームとを繋ぐキーワード“女皇正騎士フィンツ・スターム”」

「ちょっとまて、ティルトっ!フィンツ・スタームなんて創作上の人物だろう?」

 ケヴィン・レイノルズ教授の指摘はまだオブラートに包んでいる。

 もっと極端な言い方をすると“子供騙こどもだましのTVアニメのキャラクター”だ。

 6月革命の混乱期にいたという伝説の騎士フィンツ・スターム。

 手合い200戦無敗にして中原最強の男。

 それがよりによってマイオドール・ウルベイン元帥やアリオン・フェレメイフ少佐、シモン・ラファール大将といった当時の国家騎士団における実在人物たちを相手に戦いを繰り広げ、彼等を退けては「革命軍」に勝利をもたらす。

 フィンツ・スタームの最強のライバルがトゥドゥール・カロリファル公爵あるいは国家騎士団総帥。

 フィンツの最期は最愛のシーナ・サイエス皇女を救うため国家騎士団包囲下のパルムに潜入して捕らえられ、ギロチンにかけられて死亡という悲劇的な結末だ。

 シーナ皇女はフィンツのために純潔を守って生涯未婚を貫く。

 日本人としてとてもわかりやすく言うと、「ベルサイユのばら」のオスカル、アンドレ。

 あるいは「るろうに剣心」の緋村抜刀斎や「銀魂」の坂田銀時が歴史上の人物だったという話だ。

 周囲の登場人物こそマリーアントワネット王妃やら斉藤一やら桂小五郎といった実在人物だろうが、実在人物の存在感を遙かに凌駕する主人公がいたとなるとさすがにありえない。

 荒唐無稽こうとうむけい

 馬鹿も休み休み言えという話になる。

 史家ならその名を出しただけで・・・。

「やられたっ!ティルト、お前がその名を出すということは実在についての決定的な証拠があるんだな」

「ええ、だって女皇“正”騎士です。つまり元老院議会で承認された女皇騎士団の正式メンバー・・・ということは」

 それ以上の証拠などない。

 つまりは当時の元老院議会の議事録の写し。

 ティルトの指し示した元老院議会の当時の議事録に要約すると「主推薦人ハニバル・トラベイヨ女皇騎士団司令、連名推薦人トリエル・メイル・ゼダ副司令の推薦により准騎士フィンツ・スタームの正騎士昇格を認める決議について満場一致で採決す」と書かれていた。

 日付はこの物語よりも遙か前になる。

「それにしても満場一致?元老院議会で?」

 出席者が僅か100人足らずの元老院議会で意見が割れることの方が自然で、「満場一致」という事案など聞いたことがない。

「たぶん当時は有名だったんですよ。なんてったって騎士たちの訓練模擬戦こと『手合い』見物と『エドナ杯』は革命前のパルムでは貴族庶民共通の一大娯楽でしたから」

 そうなのだ。

 革命前の新聞記事の大半が「手合い」の結果だった。

 革命後はそれがスポーツ欄にとってかわる。

 現在までそうだ。

 有名貴族たちにも手合い見物が最高の娯楽だという人物たちがいて、新聞記者たちは見物する有名人物からコメントを引き出しては記事にしていた。

 中でも一番有名だったのがライゼル・ヴァンフォート伯爵。

 通称“不肖ふしょうの親の尻拭しりぬぐい”で“貴族殺しのライゼル”こと元老院議会のヌシ。

 摂政皇女アラウネの改革時に共闘していたローレンツ・カロリファル公爵の失脚後、一時的に職を追われていたのに国が財政難に陥るとその都度引っ張り出される皇国の金庫番で、財務大臣、副議長、造幣局ぞうへいきょく長官と要職を歴任した。

 その人物像もドケチ。

 放蕩ほうとう貴族だった父親の負債で由緒あるヴァンフォート伯爵家が存続の危機に陥るのをあの手この手で乗り切る才覚者で、「左前になったらヤツを呼べ」というのが当時の古参議員たちの合い言葉だったという。

 生前・・・というより、ライゼル伯爵は「大方の予想通り最後は家族を引き連れてパルムから夜逃げし、革命後も二度と帰ってこなかった」のだが、彼の名言はよく知られている。

『貴族の娯楽など手合い見物だけで十分。なにしろ、観戦し感想を言うだけで懐がうるおう。貧乏神にかれた私にこんなありがたい娯楽は他にない』

 それを実践していたこの筋金入りの「手合い評論解説者」はそれで記者達からコメント料を受け取り、生活費や父親の借金返済にてていた。

 そして、元老院議会に朝一番で乗り込むと議会運営費用で購入された新聞各紙をくまなくチェックし、コメント料を払わずに感想を記事にした不届きな新聞社がないかを精査するのだ。

 ティルトは過去の有象無象の新聞記事からヴァンフォート伯の観戦記を抜き出し、伯爵のお気に入りがフィンツ・スタームだったことを突き止めた。

 そのコメントは徹底していた。

 「紫電一閃」「豪快無双」「一刀両断」・・・。

 手合い観戦の興奮を短い字数にまとめてしまうのだ。

 それが翌日の新聞紙面に大きく掲載される。

 そして、遂にはコメントをせずにただ落涙し、ただ一言「至福」「僥倖ぎょうこう」「眼福」と言い残して立ち去った。

 それが伯爵の最高評価だった。

 ケヴィン・レイノルズはティルトが集めた新聞記事のコピーを並べて確かに「フィンツ・スターム」はいたのだと理解し、200戦無敗も満更デタラメではないと判断した。

 同じ相手と続けて数戦相手することもあったからだ。

 驚いたことに対戦相手には本当に当時のシモン・ラファール大佐やマイオドール・ウルベイン中佐、アリオン・フェレメイフ大尉らが並んでいた。

 東部方面軍である《ロムドス隊》のシモン、北部方面軍である《黒騎士隊》のマイオドール、アリオンはわざわざ休暇のたびに任地を離れてはパルムに居るフィンツ・スタームに“負けに来ていた”?

 そして「なんだこりゃ?」とケヴィンは首を傾げる。

 「不可解」「マグワイア女史ご乱心か!?」。

 フィンツ・スターム少佐の対戦相手は同僚の女皇正騎士たるマグワイア・デュラン少佐。

「ああ、やはり気になりますよね。けれどそれは最後のお楽しみということでお願いします」

 そう言われると余計に気になる。

 ケヴィン教授は老眼鏡をかけて夢中で観戦記を読む。

『・・・ヴァンフォート伯は首をひねりながら何度もおかしいなとつぶやき続けた。パルム日報のリサ・マイヤー記者が伯爵に問いかけると以前に見たのと明らかに動きが違うとの感想。私が以前に見たときはデュラン女史の駆る次期主力真戦兵スカーレット・ダーインは正に深紅の薔薇ばらが如き流麗りゅうれいな動きですっかり見惚れてしまった。技を重ねて動きを併せるはさながらに舞踏ながら随所にトゲをみせる。女皇正騎士任命は我々元老院議会に一任されているとはいえ実に粒揃い。両横綱というべきがフィンツ・スターム少佐とビルビット・ミラー少佐。しかし、なんのハニバル司令、トリエル副司令、マグワイア女史、オーガスタ卿も恐ろしいほどの使い手ながらも単に役職者故に多忙で手合い訓練の機会が限られている。それだけにわからないのが今日見物したスカーレット・ダーインのあの重苦しい動き。重苦しいのにそれでいて隙なく、《騎士喰らい》フィンツ・スタームが遂に負けると感じた。圧倒的な速度と破壊力とで訓練場の端から端に叩き飛ばしてしまうかと思った。結果はそれをかわしてのレジスタの足払い一閃。しかしアレはあんまりだ。ちっとも美しくないとヴァンフォート伯は更に何度も首を傾げながら議事堂の方角に歩み去った・・・』

 ヴァンフォート伯の言うアレとは写真に残っていた。

 丸太?じゃないぞ、その辺りに生えていたのをただ引っこ抜いた樹だと。

 誰かそのマギーさんじゃない人に教えてあげてください。

 樹木は鈍器じゃないです。

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