第3話 父と子と

 皇暦1188年。


 ゼダ皇国を巡る運命の分岐点ぶんきてんとなったこの年の新年は不気味なほど穏やかに過ぎようとしていた。

 東征は続き、国家騎士団の遠征軍はフェリオ国境をおかした膠着こうちゃく状態のまま、冬を迎えている。

 そして、ベリア半島ではあの日から悲劇の幕が上がっていた。



女皇歴1188年1月17日午後1時

パルム中央区 レストラン「ポンパドゥール」 


 正月の祭り騒ぎが一段落した1月17日のことだ。

 パトリック・リーナは東区にある高級レストラン「ポンパドゥール」の一角で正月以来、久しぶりに一人娘メルと二人だけの食事を楽しんでいた。

 ベルシティ銀行総帥の座にあるパトリックの仕事は年始から多忙をきわめている。

 あいも変わらず本宅に戻れぬ日々が続いており、ただでさえ家の者と顔を合わせる機会はほとんどない。

 加えてメルもこのごろはルイスのアパルトメントに泊まり込むことが多く、すれ違いの生活が続いていた。

 質素しっそを好み必要な行事以外に普段あまり金を使わないパトリックだったが、この日ばかりは奮発ふんぱつした。

 年に数回とはいえ、足かけ15年ばかり利用している「ポンパドゥール」の個室を予約してランチのフルコースを注文し、食材は最高級の物を選ばせている。

 このため店は数日前から仕込みに追われた。

 6人がけのテーブルに差し向かいに座った親娘はナイフとフォークを動かし、せっせと口に運んでいる。

 だが、いつもなら抜けるような笑顔を見せるメルの表情がえなかった。

「どうしたんだい、メル?ひどくかない顔をしているようだが?」

「それがね、お父さん。エリーシャからまったく連絡がないの。最後に手紙が届いたのが去年の暮れ。あのときは家族としばらくぶりに過ごして、少し太ってしまったと書いて寄越よこしたのに、それからはなしつぶて。きっと、年が変われば連絡があると思っていたのだけど、なんにも言って来ないの。私宛の手紙がなくても誰かの所に届いているんじゃないかと思ってみんなにも聞いてみたけれど、誰のところにも連絡がなくて、ウチのみんなもとても心配してる」

「なるほど、そのことだったか・・・」

 パトリックは渋い表情を浮かべた。

 エリーシャ・ハランはリーナ家に仕えるハウスメイドの中でも比較的に古株ふるかぶだった女性だ。

 早くに妻セシリアに先立たれたパトリックにとっては愛娘の家庭内養育を全面的に任せられるほど信頼に足る女性で、本宅に帰る機会が滅多めったにないパトリックにかわり屋敷を守ってきた。

 ほとんど家族同然の間柄であったが、先年9月に良縁があって故郷で結婚することになり、諸々の手続きを済ませるや、10年仕えたリーナ家に暇乞いとまごいを願い出た。

 10月に入り、いよいよ荷物をまとめて旅立つその日には娘と二人、使用人たちを引き連れてわざわざパルム中央駅まで見送りにおもむいたほどだった。

 家を離れた彼女と入れ替わるようにして、二人の新たな友人が出来たことでメルの気持ちはしずみ続けることなく済んだ。

 ルイスのところに泊まり込むことが増えたのもおそらくは家に居ても寂しいからだ。

 エリーシャは今年の6月には晴れて花嫁となる予定だ。

 長年のろうむくいるべく、当日には娘と二人で結婚式に出席するつもりでパトリックは既に予定を空けている。

 しかし、帰省先きせいさきの西部トレドからなんの連絡もなかった。

 正確な日程や故郷の様子を手紙で知らせてくることもしない。

 なにか事情があるにしても、電話の一本でも寄越よこせば済む。

 それだけならばまだいい。

 トレドにもベルシティ銀行の支店が置かれている。

 既に年始業務が再開されている筈だが、そちらからもなんの連絡もないという報告を受けている。

 文字通りの音信不通状態だった。

(なにかあったのだ。それもとてつもない規模の何かが・・・)

 とり急ぎ部下達に情報集めを命じたが、闇に飲まれるようにして実態は分かっていない。

 ただ、西路線で地震により大規模な崖崩れがあり、復旧工事のため年明け頃から鉄道も運行していないという鉄道公社の話だった。

 鉄道公社総裁のラクロア・サンサースもパトリック・“フェルベール”時代からの古くからの友人だったが、その彼ですらお手上げ状態だという。

 線路に併設へいせつされた電話線も落盤らくばん事故の影響で途絶とだえてしまった可能性は十分にある。

 しかし、スレイの義父フェルディナンド・シェリフィスやライゼル・ヴァンフォート伯爵らが名を連ねる元老院議会中央政府の公式発表はまったくない。

「お父さんも色々と手を回して調べているよ。お前は心配しなくていい。ウチの者たちにもそう伝えてやりなさい」

「そうだといいのだけれど」

 メルは不安げな表情を隠さなかった。

 娘が自分の感情を素直に表出することは滅多めったにない。

 それだけに、メルや使用人たちの抱く心配のほどうかがわれた。

 パトリックは心の内にある懸念けねんを押し隠し、精一杯の笑顔を作った。

「大方、結婚式を控えてなにかと忙しいのだろう。久々に故郷で家族たちと楽しい正月を過ごして、パルムでの出来事はすっかり忘れているのかも知れないよ」

「えーっ、それならそれでいいんだけれど、なんかちょっとさびしいなぁ」

 メルはエリーシャから散々怒られて育ったことをすっかり忘れて、彼女の優しい笑顔や柔らかい手を思い出して微笑ほほえんだ。

 その痛々しいほどにいじらしい笑顔に僅かな痛みを覚えつつ、パトリックは乾いた笑みを浮かべた。

「えへへ、エリーシャもお嫁さんになるんだねぇ。スタイルもいいし、顔も綺麗きれいだし、とっても可愛いお嫁さんになるんだろうねぇ」

 パトリックは内心そうだと認めつつ、不安も感じていた。

「ああ、そうだ。きっと良いお嫁さんになるさ」

 去年30をむかえたエリーシャはこの世界のこの時代にあって晩婚ばんこんではあったが、これまでまったく縁談話えんだんばなしがなかったわけではない。

 ただ、エリーシャ以上にパトリックが慎重に相手を選んでいたのだ。

 あまり高貴な相手では身分を軽んじられて苦労する。

 ましてやあまり風采ふうさいの上がらない男のもとなかば娘も同然といって差し支えのないエリーシャを嫁に行かせるのはもっての他だった。

 その意味で鉄道公社に勤め、ラクロアも将来は幹部候補間違いないと太鼓判たいこばんを押す男性が求婚相手を求めていると耳にしたときは、これこそは正に良縁だとパトリックはひざを打ったものだった。

 幸いにして勤務先が西部のアルマスだった。

 それこそ、エリーシャの実家があるトレドとは目と鼻の先にある。

「ねぇ?」

 メルはパトリックの反応をニヤニヤとうかがいながら小声でささやいた。

「お父さんは私がお嫁に行っても大丈夫?」

「おや、そういう相手がいるのかい?」

 パトリックはきょとんとした表情でメルのまだ子供じみた顔を見据みすえた。

 相手が居ないことはなかった。

 ただし、は消えてしまった。

 その事すら忘れてしまったのだろうか?

「うぅん、ただなんとなく聞いてみただけ」

 をパトリックが本音でどう思っているか試したのか?

「そうだな、私はお前にはなるべく好きなようにさせたいから。結婚を無理強いするつもりはない。なにより今は学生生活が楽しいのだろう?」

 やエリーシャから気持ちが切り替わっていてくれていたならば幸いだとパトリック・リーナは考えていた。

「うん、それは勿論だよ」

 事もなげな回答をしたメルにパトリック・リーナは安心

「スレイ・シェリフィスくんと言ったかな。彼はなかなか見所のある青年のようだね。頭も切れるし非常にべんも立つ。お父上は元老院議員とか?」

 スレイの養父であるフェルディナンドのことは知っているどころではない。

 かつて共に青春時代を謳歌した旧友だ。

 その実、スレイが養子でもパトリックは知っている。

「そうみたい。ヘラヘラしてみせてるけど、実はすっごく勉強してるよ」

 その実、メルはスレイのことをかなり気に入っていた。

 誰よりも気配きくばり上手で委細いさいない。

 そして絶世の美男子として女の子たちからあこがれられている割に浮いた噂がないのではなく、そもそも美しく若い女性たちに関心が薄い様子なのだ。

 それはメルやルイスについても例外ではない。

 なにか他の重大な関心事があるらしく、それがスレイをとりこにして離さない様子だ。

 いったい何処のどういう女神がスレイをとりこにしているのだか、メルはきっちりと見極みきわめてやりたいとさえ思っていた。

 それが分かったときには既に引き返せなくなっていたのだが。

「ゆくゆくはお父上と同様に政治の道に進むんだろうが、彼のような若者は周りも放ってはおかないから、すぐに頭角とうかくあらわすだろうね。それとディーン・エクセイルくん。彼も将来有望な学者の卵だというじゃないか。人づてに聞いた話ではエルシニエでは彼の為に助教授の椅子を用意しているとか。ああした頼もしい青年たちがお前の側にいると知って、お父さんは安心しているよ。彼らと知り合ってからは随分成績も良くなったそうじゃないか」

「えへへ、そうだね」

 メルはニヤけて相好そうごうを崩す。

 ディーンの正体は割れた。

 学生学者で女皇正騎士。

 昼間はパルム市民なら誰でも知る女皇正騎士フィンツ・スターム少佐相当官として女皇宮殿に登城している。

 そして夜は図書館のヌシで将来を嘱望しょくぼうされる青年学者「ディーンせんせ」だった。

 ディーンはあと一つくらい別の名をもっていそうだとメルは感じていた。

 あのに対するメルの率直な感想は油断もすきも無い食えないヤツだ。

 おそらくは目の前に座るパトリックともメルの思いも寄らないところで深くつながっている。

「まあ、なによりお前にはルイスくんがいる。あの娘ときたら、そこいらの軽薄けいはくな男どもよりもずっと頼もしい。こんな言い方は失礼かも知れないが、彼女が男ならばと何度思ったことか」

 年末のパーティの席では浅黄色あさぎいろのドレスを身にまとい、メルが貸した白銀のティアラを頭に輝かせたルイス・ラファールは実に美しかった。

 仕立てに際してメルの見立てたがなにを意味するかはルイスもメルも知らない。

 それこそ女皇陛下アリョーネの若かりし頃とオーバーラップした。

 地震の後、たわむれと余興よきょうを盛り上げるためダンスの相手に誘ったが、軽やかに舞う姿は実に優雅でパトリックは年甲斐としがいもなくその魅力に圧倒されてしまった。

 居並いならぶ上流階級の客人たちからは、「あれはどこのご令嬢れいじょうか?」としきりにたずねられた。

 それこそいずこかの貴族のご令嬢れいじょうと紹介されてもおかしくなかったを「男勝り」と言うことにはいささか抵抗を感じずにはいられない。

 そして、案外見る目があるじゃないかと失笑しかけた。

 厳密に言えばルイスは“貴族のご令嬢れいじょう”で間違ってはいない。

 よもやエイブ・ラファール少将と“彼女”の実の娘で「じゃじゃ馬ルイス」だとは思うまい。

 “そのダンスの前に彼女がやらかした大立ち回りを割り引けば”という勝手な注文がついてしまうのはいなめないが・・・である。

 一方のメルはルイスに対して驚き呆れていた。

 あのはいったいなにをこそこそやっているのだろうと。

 なにかと理由をつけてはメルたちの誘いを断り何処かに通い詰めているらしい。

 ディーンがらみではないかと目星をつけてみたが、フィンツ・スタームの活動時間中もしょっちゅう抜け出すのでメルからしてみたら「なんなんだそれはっ」だった。

 ルイスが夜は不在でろくに自分のアパルトメントに帰っていないことをパトリックは知らない。

 合鍵を持つメルはルイスの不在時も勝手に部屋に出入りしている。

 ルイスと行動を共にしていると思わせておいた方が好都合なのはメルもだ。

「あは、大好きなお友達たちがめられると、私もうれしいな」

 思考と会話を切り離す癖が板についているメルは屈託くったくなく笑ってみせるのが今は最適なのだと判断し、ニパァと笑ってみせる。

 だが、心穏やかではない。

 なにかルイスに出し抜かれている気がしてならないのだった。

「昔からお前の人を見る目は確かだからな。そういうところはお前のお母さんにそっくりだよ」

「お父さんはセシリアお母さんとどこで知り合ったの?」

「ははは、まだ駆け出しの銀行屋だった頃に知人の紹介で知り合った。良家のお嬢様というからどんな高慢こうまんちきな女性が現れるものかと心配していたけれども、母さんは姿形が美しいだけではなく、気持ちの優しい素敵な女性で、正直なところひどく驚かされたのだよ」

 それがパトリック・フェルベールとセシリア・リーナとの出会いだった。

 お互いにとても身構えていた。

 なにせ、という以前にベルシティ銀行の株主達の思惑おもわくで引き合わされたのだ。

 大体があのパトリシア・ベルゴール女侯爵の仲介だというのでパトリックもセシリアも、まるで真剣対局に臨むエキュイムの達人にでもなったかのように、肩に力が入りすぎていた。

 そして拍子抜ひょうしぬけした。

 パトリックは意外や清楚せいそで控え目な女性が現れたことに驚き、セシリアは若くて実直そうでいて変に気取ったところのない青年が現れたことに驚いた。

 逆に二人ともあのド派手で遊びという遊びを知り尽くすやり手の経営者たるパトリシアの交友関係にこうした選択肢があったのかと内心面食らった。

「お父さんの一目惚ひとめぼれだったんだ」

「そうだな。そうだったかも知れないな」

 嘘だ。

 正確にはお互いの一目惚ひとめぼれだったと夫婦になってから振り返った。

 むしろ、セシリアの方が常に積極的にリードしてきた。

 父を亡くしてわらにもすがるつもりでいたところ、つかんだのは下世話な意味でない、鉄の睾丸こうがんだった。

 だいたい、パトリックは常日頃は質素で、それは今も変わらない。

 休みの日にはひたすら読書にふける。

 派手な趣味や道楽は一切ないこざっぱりとした生活を好むし、休みの日に金勘定するのは嫌いで、莫大ばくだいな財産にも関心がない。

 リーナ家に入り婿むこしながら、リーナ家の財産にも不動産にもほとんど関心がなく、自分の愛する家族であるセシリアとメルにしか興味が無かった。

 セシリアは子供の頃からピアノを習っていて、それで食べていけるんじゃないかという程の腕前だったし、メルにも幼い頃から高名な指導者をつけて習わせていた。

 パトリックは母子の奏でるピアノの旋律せんりつを聴きながら、それをBGMのようにしてむさぼるように本を読むのを好んでいた。

 資産の動かし方の上手なコツは知っているだけで、成り上がりに特有の意地汚いじきたなさがまったくない。

 金など少し足りない程度がいい。

 無いのは困るが、ありすぎるとかえって困る。

 ライバル銀行でもあるヴェローム銀行筆頭理事のエルビス・レオハート公王と知遇ちぐうを得たとき、パトリックはうらやましいと思った。

 エルビスは銀行も公国を円滑えんかつに運営するための基幹産業だと割り切っていて、仕事としては完全に公国民のためと考え、これと見込んだ部下達に任せきりだった。

 公王はパトリック以上に株式と資産に関心がなかった。

 そして、多忙だ。

 ゆえに投機とうきの方は任せると言わんばかりにベルシティに多額の出資もしていたが、乗っ取りをはかっているとかではない。

 資本資産を山深いヴェロームに眠らせておくのは惜しいが、運用して投機とうきするとなると専門的な人手が必要になる。

 「もち餅屋もちや」とばかりにベルシティに投機運用とうきうんようゆだね、増えたら増えたでよしとしていた。

 逆にパトリックはいざというときのための銀行資産をヴェロームに預けている。

 また経営危機に陥った際に役立てばいい。

 幸い顧客こきゃくも存在意義も異なるので利害が衝突することなどない。

 ひるがえってパトリックも高級レストランでの食事は慣習としてのもので、むしろメルの手作りしたラザニアやシチューを夜食に読書にふける方が好きだった。

 パトリックの乱読癖らんどくへきはメルがあきれるほどだ。

 大学の教科書が何処を探しても見当たらないと思ったら、なんのことはなく父の書斎しょさいに読みかけで置かれているというのが常だ。

 パトリックは皿から顔を上げ、少しだけ遠い目をした。

 パトリックの脳裏のうりに刻みつけられた若く清楚せいそで美しい淑女しゅくじょと、やつれて青ざめた女の顔がオーバーラップし、肩を落として葬列そうれつを見送ったあの日の記憶とが重なる。

 あのときローレンツとトワント、ワルトマが居てくれなかったなら迷わず後を追っていたかも知れない。

 パトリック・リーナはあのとき間違いなくいちど死んだ。

「もう6年になるね・・・」

 メルの声は僅かにトーンを落とす。

「あぁ」

 パトリックの妻、そしてメルの母、セシリアは6年前の冬の終わりに肺病で他界たかいした。

 元々一族として決して体が丈夫な方ではなかったが、それでも小康しょうこう状態だったセシリアも寒波かんぱの年を乗り切ることは出来ずに墓の下の人となった。

 ほとんど家に戻れない生活をしていたせいで、病床の妻を見舞うことさえ難しかったパトリックだったが、せめていまわのきわを見送れたのがなによりの幸運だった。

 当時、まだ14歳で泣きじゃくることしか出来なかったメルの震える小さな肩に手を置き、いつまでも愛する妻の死に顔を見続けたことは、歳月さいげつても鮮明せんめいに覚えている。

 もっと恐ろしい光景も、もっと恐ろしい事実も知っている。

 パトリックの胸におりと空白とが生まれ、どす黒く渦巻うずまくようになった。

 セシリアたちとローレンツに続いてこれ以上、誰かをうしなうなら躊躇ためらいもなく悪魔に魂を売るだろう。

 そして、そのときは迫っている。

 トワントが病に倒れ、ライゼルも危ない橋を渡り続けている。

 鉄道公社総裁のラクロアやビリー判事とて、いつ誰に命狙われるかわかったものでない。

 しかしたちが一番案じているのが総裁パトリック・リーナだった。

 財界の大物だけに、いつなにが起きるか分からない。

 あれから、メルはまるで成長を止めてしまったかのように、手足は伸びても心はまだまだ子供だったし、パトリックはいよいよ仕事の鬼となっていった。

 非情で苛酷かこくな現実から目をそむけていたかった。

 あのあとなにがあり、パトリックとメルがそれぞれどう立ち直ったかは長年来の友人たち抜きには語れない。

 一夏の出来事だった。

 あるいは他の誰よりフィンツ・スターム少佐相当官とルイス・ラファールの存在に希望を感じていた。

 あの二人ならやりげ、時代の扉を開くだろうと感じるからこそ、心穏やかに見守れる。

 あのときほど溜飲りゅういんがさがったことはなく、誰かをにくいと考えたことはない。

 心の奥に焼き付いたヒリヒリとするなにか、どす黒く渦巻くなにかを振り払うようにしてパトリックはがむしゃらに駆け続けてきた。

 ダリオ・レンセン、カルロス・アイゼン、ワグナス・ハイドマン、そして、ローレンツ・カロリファル公爵と摂政皇女アラウネ。

 無念を抱えて表舞台を追われた同志達にむくいるために、生き急いでいたことに我ながら気づいたのは、朋友ほうゆうトワント・エクセイルが病に倒れたと耳にしたときだった。

 滅多めった動揺どうようしないパトリックはそのときだけはさすがに動揺どうようした。

「お父さんは再婚しないの?おじさんたちからは随分ずいぶんと言われているみたいだけれど」

 メルの言う叔父おじたちとはパトリックの弟たちだ。

 セシリアは一人娘で親戚も少ない。

 長兄ほどでないにせよ弟たちも優秀でベルシティの支店を任されている。

 だが、パトリックはゆっくりと首を振った。

 メルとセシリアを裏切っているというより、メルとセシリアを裏切らないためにに乗るしかなかった。

 ベルシティの株主たちはそこまでして金の卵を生み出す鉄の睾丸こうがんを手放せなかったようだ。

 光栄でもあるし不愉快極ふゆかいきわまりないといえなくもない。

 名士と称されるパトリックが男やもめでいることを快く思わない者は多かった。

 地位と身分からすれば女性には困らない。

 仕事絡しごとがらみの女性でそうしたことを見込んでアプローチを掛けてくる者もいたしこれを機会とばかりに縁者を後添のちぞえにと申し込む者も多かった。

 愛人の一人や二人いたとて誰も驚かない。

 だが、それ以外の事に関しては周囲の意向いこうを最大限に尊重そんちょうするパトリックもこればかりはゆずらなかった。

 愛人と逢瀬おうせを重ねる時間があるなら私邸していでメルと過ごす。

 そして、セシリアの寄せてくれた信頼と誠実な愛を裏切りたくはない。

 それ以上にもう大切な誰かをうしないたくない。

 セシリアを妻にしたのはその財産や地位が目当てだったわけではない。

 仮に異なる選択をしていても、大都市支店の部長程度には出世していた。

 行内こうないなどと呼ばれても、心の中ではふざけるなとしか思えない。

 そのことを証明するためにも、一人残されたパトリックに出来ることと言えば、セシリアの空席をめず、残したものをうしなわないないことだけだ。

「残念ながら考えたこともないよ。私にはお前という娘がいれば、それで十分だ」

 正しくは散々考えさせられた結果、なるに任せたのだ。

 選択の余地なくそうなった。

「今でもお母さんを愛してるんだね?」

「まあ、少し照れくさくはあるがそういうことだ」

 それだけは事実だ。

「ちょっとだけ安心したよ。今になって、他の誰かをなんて呼びたくないから」

 それはメルの本音なのか?それとも皮肉なのか?

 だが、どうだっていい。

 どの道、もう誰も選ばないし選ぶつもりもない。

 その苦しさを知りすぎてしまった。

「そうか、心にめておくよ」

 パトリックは穏やかな笑みを浮かべつつ、メルが自分の手を離れるその日を想い、寂寥感せきじゃくかんに胸を痛めた。

 いずれ、自分の手を離れるメルを送り出す日は遠からず訪れることだろう。

 ただなるべくその日には晴れやかな笑顔と共に送り出してやりたい。

 それが、一人娘のメルに対するいつわらざるただ一つの感情だった。

(私の手の届くところにいる間は幸せな娘でいさせたい。今となってはそれだけが、私のような果報者かほうものに出来る同志たちへの唯一つの恩返おんがえしだろう)

 それがなんの障害もなく親子水入らずで過ごす最後の昼食になるとも知らず、メルとパトリックはゆったりとした時間の中にいた。


皇暦1187年12月24日

パルム南区旧家群 エクセイル邸


 このセカイにクリスマスはない。

 したがって12月24日もただの年末の一日に過ぎない。

 この日、ディーン・エクセイルにしては珍しくトワントの書斎しょさいで柔らかな冬の日差しを浴びながら、のんびりとした午後の一時を過ごしていた。

 大学は既に冬期休暇期間に入っている。

 年始恒例ねんしこうれい拝謁はいえつ式典とパルム女皇宮殿前のパレードまでは女皇騎士団でもこれという行事や予定もない。

 東征の本格化によりシモンもマイオもアリオンもパルムに来ることはないせいで、手合いの申し込みもウィリー・ヒューズ支部長大尉ぐらいになってしまっていたし、そのヒューズ大尉とはテリーやビリーたちと先日飲み明かした。

 年始パレードに自分の使うダーイン・アルシェイウスも人形番の耀紫苑にも手伝ってもらい、既にしっかり整備してきた。

 例年ならパレード見物のため沿道えんどうにトワントも立つのだが、無理な相談だ。

 かわりにリィ・エッダが見届け報告することになるだろう。

 なんだかせつない話だ。

 女皇アリョーネも「アタシの可愛いフィンツ坊や」ことディーンに構っている時間はないようだ。

 昨年末の不可解ふかかいな出来事により、女皇騎士団内は動揺していた。

 先月戻って以来、ハニバル・トラベイヨ司令もパルムに詰めている。

 更に厳冬期げんとうきに入り、東での作戦展開はめっきり減って、スレイもヒマを持て余している。

 昨日訪ねて来てつまらないとこぼしていた。

 トワント・エクセイルはまだ教壇きょうだんに復帰できる状態ではない。

 微熱は続いており、せきも切れない。

 ほんの少し無理をしただけでも、ひどく体にさわる。

 ただ、暖かい書斎で大人しく読書や書き物をするには十分なほどには回復していた。

 その状態が長く続くものではないことも、親子は重々承知していた。

 トワントは文机ふづくえで長年来の友人で同僚たるベックス・ロモンドへの手紙をしたためていた。

 ひどくおとろえた細い文字をくねらせている。

 一段落書き終えたところで、トワントは顔を上げた。

「なあ、ディーン」

「なんだい父さん?」

 ディーンは年始に発行予定の新刊の学術書を手に窓辺まどべにもたれていた。

 自分の執筆した論文が文法的に間違っていないか確認するために読み返していたのだ。

 推敲すいこうは重ねていたが、改めて読み返せば間違いにも気づく。

 だが、今のところ間違いらしい間違いは発見できなかった。

「お前は後悔していないのか?ひどく難しく険しい道を進んでしまったことを?」

「全然、まったく、これっぽっちも思わないね」

 その言葉が“二重生活”のことを言っているのだとしたら、もう慣れきってしまった。

 手許てもとから視線を動かすことなくディーンはひどくあっさりと言いのける。

「今更わたしや家に義理立てなどしなくてもいいのだぞ。お前にはこれから・・・」と言いさしてトワントは軽くき込んだ。

 ひどく思い詰めた様子のトワントにディーンは複雑なまなざしを向ける。

 やはり、ライゼル伯爵やパトリックたちの忠告を聞いておくべきなのだろうか?

 今なら父のためにだと無理を言っても大丈夫だと思えた。

 4日前の出来事を思い出す。

 あのとき、確かなきずなえにしがあるのだと再確認した。

他人行儀たにんぎょうぎはやめてよ。ボクは後悔なんか少しもしていない、多分一生そういう機会はないよ。後悔することがないように一日一日を積み重ねているし、その上で好きにやらせてもらっているもの」

 嘘だ。

 ディーンは後悔を二つしていて一つはトワントにまつわる。

 もう一つの後悔は表情にも口にも出せない。

 それが誰のためだとしてもだ。

 ディーンはこの若さで自分のために生きようと思うことは欠片かけらも持ち合わせていなかった。

 騎士団のため、皇国こうこくのため、皇家こうけのため、家のため、そしてなにより愛するものたちのため・・・。

「そうか・・・そういえばお前のまとめてくれた新しい論文。先に読ませてもらったが、実に素晴らしい内容じゃないか。文章の整合性せいごうせいも論文の内容も私の名前に恥じないよく出来た内容で正直なところ驚いたよ。なによりうれしかった」

 トワントの本当にうれしそうな様子にディーンはむくわれたと感じ、胸が熱くこみ上げる。

 よく支えてくれたスレイにもトワントは礼を言ってねぎらった。

 そういう養父ちちだ。

 教育者として本当に学生たちになにが必要かちゃんと分かっている。

 しかること以上にめることが成長をうながす。

「ありがとう。でも、骨子こっしはちゃんと父さんの学説に基づいているし、引用したのもほとんどが“じっちゃん”たちの本からさ。要するにエクセイル家の集大成ってもんで、それをめられるとなんだか照れくさいな」

 ディーンは相好そうごうを崩して手にしている冊子さっしぺーじでた。

 そこには長年にわたりつちかわれたエクセイル家の、トワント自身の研究成果といえる内容が記されている。

 いずれはメルやルイスが教科書として使うかも知れない。

 とてもよく出来ている。

 その内容なら鬼籍きせきに入ったあのギルバートからも、廃嫡はいちゃくなどという不穏当な言葉は出て来まい。

 実際、二度も使われた廃嫡はいちゃくという言葉にディーンはそうした言葉の刃を振り回したギルバートに対する腹立ちと苛立いらだちを抱えていた。

 この父に対してだけは一度も使われなかったことだけが安心出来ることだったが、よもやあんなことになるとはとディーンは数年前を振り返った。

 ディーンがフィンツになった日。

 そして、義母ははウルザが身罷みまかり、トワントが病を発し、二度と後戻りが許されなくなったあの日。

「エクセイル家の跡取あととりとしては十分過ぎるほどに出来過ぎているよ、お前は」

 トワントはみしめるように言葉を絞り出した。

 ディーンが「フィンツ・スターム少佐」と呼ばれるようになり、事をくようになってしまっていた。

「父さんにそういってもらえると背伸びして頑張った甲斐かいはあるなぁ」

 ディーンは苦笑した。

 元々、トワントは息子たち家族にはかなり甘い父親であったが、当代一流の学者としては、弟子や学生達には厳しいことで知られている。

「ところで、最近は睡眠時間はとれているのか?」

「まったく問題ないよ。なにしろなんにもない。それにスレイが助手になってくれてから、健康をそこねるほど時間をけずったりしていないしね」

 今は本当に英気えいきやしなうときなのだろう。

 しかし、いつ招集しょうしゅう出征しゅっせいがあってもおかしくはない。

「そうか、スレイくんがいてくれて本当に良かったよ。フェルディナンドにも礼の手紙をしたためたが、逆に感謝されてしまった」

 スレイの義父ちちフェルディナンド・シェリフィスはマーカス姓だった頃からトワントの学友で盟友めいゆうだった。

 シェリフィス家への養子入りやブリギットの一件など、友情にみぞは生じたが、フェルディナンドの養父であるヴェルナール元議長の死後一番変わったのはフェルディナンドだ。

 財政再建のため、身を切る改革を切り出さざるを得ないライゼルにとっても頼りになる盟友だと聞いている。

 それでもワグナス・ハイドマンが居たらもう少し二人とも楽が出来たかと思うと実にやりきれない。

「それより、ベックスのじいさんが色々とうるさくてね。もう少し好きにやらせて欲しいんだけどねぇ」

 まさかトワントがそのベックスあての手紙を書いているとも知らずにディーンはボヤいたので、トワントはクスクス笑い出した。

「あいつはあいつなりにお前の将来を考えているのさ」

「でも、そういう心配やら気遣いやらが鬱陶うっとうしいよ。あの人こそ才能に任せて散々好きなように生き、好きなように振る舞ってきたのに、ボクの生き方を自分の人生と無理に重ねようとするがたまらないんだ」

 恩師にして恩人であるベックス・ロモンドに対し、ディーンがこれほどまでに痛烈な言葉を吐くことがトワントには信じられなかった。

 しかし、それを真っ向から否定することも今のトワントには出来なかった。

「ディーン?」

「多分、みんなが考えているのとは逆だよ。正直、あっちはもうやめたいんだ。それが出来ること、許されることならね。でも今はそういう時期じゃないから、言わないし言えない」

 あっちとは騎士稼業きしかぎょうのことだろう。

 ディーンの性格と傾向をよく知るトワントからしたら、残酷ざんこくかも知れなかったと感じる。

 だが、トワントの父親で先代のギルバートはディーンをゆるさなかっただろう。

 隔世遺伝かくせいいでんで少しは似たところがあっても良さそうだったが、ディーンはギルバートとは少しも似ていない。

 素直で謙虚けんきょで、皮肉っぽく、むしろ別の誰かを彷彿ほうふつとさせる。

「・・・・・・」

「わかってるだろう父さん、僕が幼い頃からどれだけ辛くてみじめだったかを、今日まで散々ひどいことを言われながらイヤイヤ続けてきたことを。あんな才能なんて初めからなければ良かったんだ。そうすれば誰からもなにも言われることなんかなくて、本当に好きな道を迷わずに進めたんだよ。なんてどうでもいいし、名前と期待なんて重たいだけさ」

 口で言う以上のプレッシャーに幼い頃からさらされ続けてきたのだろう。

 師匠達に恵まれ、当世一とうせいいちと言われる騎士に育った。

 だが、本質的に学者肌だ。

 トワントは幾度となく自分と比較し、あるいは歴代エクセイル家でもかなり非凡なのかも知れないと考えてしまう。

 その意味においてだけはギルバートに似ていた。

 エクセイル家中興の祖たるギルバート・エクセイル一世と同じ名を冠した父は超一流の学者であり、ディーンの才能はあるいはそれ以上だ。

 だいたいロクに英才教育もされてもいないのに僅か数年の独学で祖父や父と肩を並べる域に到達した。

 驚きと嫉妬しっとを感じつつも、一つの道にひいでるコツは他でも通用するのだろうと思うことしか出来ない。

 本当に分析や説明が難しい子だ。

「お前そんなに・・・」

 かなしい過去の出来事がディーンのさだめを変えた。

 それでも強い。

 騎士として学者としてというより人として。

「正直な所、父さんがこんなことになって心配したり苦しんだりしてる一方で、なによりほっとしてるんだ。やむにやまれぬ事情って奴が皮肉にもボクを望み通りに後押ししてくれている。無茶をしてるってみんなから思われているけれど、今なら多少無理してでもやれるからさ」

 多少どころではない。

 なにもかもあざやかに埋め合わせた。

 それこそ、トワントの絶望さえもだ。

「そうか、そうだったのか」

 トワントは常日頃息子に感じてきた“心配”が的中したことに、僅かに胸を痛めた。

 「そうではないか」と思ってきた。

 しかし、「それではあまりに辛い」と痛切に感じずにはいられなかった。

 親たちと大人たちの身勝手な期待がディーンに苛酷かこくすぎる運命を背負わせてしまった。

 無論、トワントになんのとがもない息子を責める気持ちはこれっぽっちもない。

「いつか話そうと思ってたんだ。でも多分、こんな風にゆっくり話せる時間もないと思うし、父さんがみんなと同じように誤解したままじゃ、とてもじゃないけれどやりきれないって思って」

「・・・わかった・・・」

 トワントは決意を秘めたまなざしでディーンを見据みすえた。

「ならばもうお前の書いた論文に私の名前を使うな。そして、本日より正式にお前を私の後継者と処遇しょぐうする」

「・・・・・・」

 ディーンは絶句して黒縁眼鏡の奥に光る目をいた。

「まだ誰にも話していなかったが、私は来春にも教授を退官する。引退した在野ざいやの一学者としてなら、自分の名で発表する論文くらいは時間が多少かかっても自分の手で書くことが出来る。もう多忙なお前の手をわずらわせずに済む」

「父さん?」

「春まではすべて今までどおりになるよう手配はしておく、お前は私の名前でも経歴でもなんでも利用して好きにやるといい。だがなにを書いても決してお前以外の名を記すんじゃない。それは私が許さない。それにな・・・」

「それに?」

「そろそろ道が分かれるときだ。私が長年あたためてきた仮説とお前がこれから作ろうとしている仮説。それが決定的に別れる時期にさしかかっている。それがお前の書いた論文の行間からつぶさに読み取れた。だから、私は私としてく、お前はお前としてその道を進め。これからは息子でも共同研究者でもなく、一人前の学者としてお前に接し、エクセイル家新当主として接する。リィにもハンナにもそう伝える。わかったな、ディーン」

 有無うむを言わせないトワントの迫力に、ディーンは正騎士認証されたときよりも緊張した。

 実際、少佐相当官の女皇正騎士より家名を継ぐことの方が意味がはるかに大きい。

「はい、父さん」

「立派な息子に育ってくれてありがとう。きっとお前の母さんもお前を誇りにしているよ」

 おそらくディーンはまだなにも知らない。

 しかし、知って苦しむようなやわな息子ではない。

 むしろ・・・。

「ありがとう、父さん」

 突き放すような厳格な言葉とは裏腹に静かに落涙する小さくなった父の背中に手を置き、ディーンもまた静かに涙を落としていた。

 2年と少し後、彼らの間には本当の別れが訪れることになる。

 だが、この日から親子ははっきりと永遠の別れを意識しながら生きていくことになる。

 そのための欠けたるピースも程なく埋まるのだった。


皇暦1188年1月4日午前2時

パルム東区 シェリフィス邸


 元老院議員フェルディナンド・シェリフィスは今夜も午前様だった。したたかに酩酊めいていしたあかしにほおが真っ赤に染まっている。

 御者ぎょしゃに肩を抱かれながら、豪奢ごうしゃ白亜はくあの屋敷に千鳥足ちどりあしで進む。

「今帰ったぞぉ」

 玄関先で大声を張り上げる。

 出迎える者などほとんどいない深夜だ。

 妻のアリシャ・シェリフィスはすでに休んでいる。

「お帰りなさい、父さん」

 居間で読書をしていたスレイ・シェリフィスは寝間着姿で父を出迎えた。

「おお、スレイ。まだ起きていたのか?」

「そろそろ切り上げて休もうかと思っていたんだけれどね」

 スレイは好きで実家に居るのではない。

 誰にも相手にしてもらえないからやむなく実家に居た。

 元日のパレードでメルたちとディーンの・・・いやフィンツ・スタームたち女皇正騎士の勇姿を見物し、一仕事終えたディーンと飲み明かした。

 女皇正騎士の白い軍服姿のディーンは見慣れていたが、礼装を見る機会は初めてで、改めて知遇ちぐうを得たことが奇跡のように思えた。

 礼装姿のディーンからトリエル・シェンバッハ副司令大佐やアルゴ・スレイマン次期司令、ビルビット・ミラー少佐、マグワイア・デュラン少佐、パベル・ラザフォード提督、ティリンス・オーガスタ少佐、一番若い耀紫苑少佐といった女皇騎士団の主要メンバーたちも改めて紹介された。

 彼等「スカートのしもべ」たちは表と裏のかおを使い分けるのが板についている。

 そしてスレイ自身には表のかおの方が新鮮だった。

 パレードを終えた礼装のディーンたちとメルやルイスたちと写真を撮ってもらい、終わったあとはリーナ邸の一つに雪崩なだれ込んで年始パーティとしゃれ込んだ。

 パトリックは年始早々だというのに諸方面への挨拶あいさつ回りで家を開けていたが、メルが女主人として使用人たちともてなしてくれたので遠慮無く飲み食いし、酔いつぶれて泊まった。

 そして翌2日はベックス・ロモンド邸に年始の挨拶あいさつに出向いた。

 同じ東区に住むせいもあり、しょっちゅう出入りしてはいる。

 兄弟子のイアン・フューリー提督とも前日と同様に対面し、長時間話し込んだ。

 内容は相当深刻だ。

 当然ある筈のものがなく、終わる筈のものが片付かない。

 理由はわからない。

 三人寄れば文殊もんじゅの知恵というが、こればかりは誰がどのように考え、分析しても分からなかった。

 イアン師兄しけいからは覚悟だけはしておけと別れ際に忠告された。

 ついでに英気をやしない、せいぜい今のうちに勉強しておけと言われ、今日一日はそうして過ごし、さきほど日付が変わった。

 そして義父が帰宅したというわけだった。

「そうか、それはすまなかったな」

 御者ぎょしゃにかわって肩を抱きながら、スレイは目配せで御者ぎょしゃに合図を送る。

 当惑とうわく気味の御者ぎょしゃがここまで手を焼いていたことは、その表情からすっかり読み取れる。

 きびすを返し掛けた御者ぎょしゃの手に心ばかりの金銭を握らせてやる。

 その半分は口止めのためだ。

「大分おしになられたようですね?」

振舞酒ふるまいざけというのは断るのが実に難しい。つき合いとはいえこう毎晩続くと流石さすがに疲れは出るものだ」

「お年をされたということですか?」

「なにを言うか、まだまだわしは現役だよ。少なくともお前が跡取あととりとして立派に我が家を継いでくれるまではな」

 最近、小さくなった背中を抱えながらスレイは複雑な表情を浮かべた。

 幼い兄弟を無情に引き裂いた張本人。

 子供心にあれほど憎んだ男の背中が今宵こよいはやけに小さく見える。

 父を居間のソファーに横たえて、スレイは水差しを手にした。

 グラスになみなみと水を注ぎ、フェルディナンドの手にそっと渡す。

「ゆっくり飲んでください」

「おお、すまんな」

 フェルディナンドはゴクゴクと音を立てながらグラスの水をゆっくりと飲み干す。

 昔はよく考えたものだ、この水差しに毒を盛っておけば簡単に亡き者にしてやれるのにと、そうすればこの家からも解放されて本当の意味で自由になれるのにと。

「あまり無理はしないでくださいね、母さんも心配しています」

 今は心にもないいたわりの言葉をかけている。

 もっとも、多分に言葉の内に毒をはらんではいるが。

「なにを今更、大体アリシャがそんなに可愛げのある女ならば、わしの苦労もないわ」

「やめてください、使用人たちが何処かで聞き耳を立てて聞いているかも知れませんよ」

「なんのなんの、あいつらが一番わかっている話じゃないか。あの連中ときたらアリシャの顔色はしきりとうかがう癖に、当主の私や跡取あととりのお前などいようがいまいがお構いなしだときている。所詮しょせんわたしは・・・」

 フェルディナンドは後の言葉を飲み込んだ。

 かわりに不機嫌そうに鼻を鳴らす。

「ふん。結局、わしの立場を一番理解しているのは、わしを一番嫌っていたお前じゃないのか、“アリアス”」

「やめてください、僕は“スレイ”です」

「はは、すっかり『優等生のいい子ちゃん』ぶりが板についたな。手のつけられない不良少年だったお前が」

 世の中のすべてを憎み、背を向けた過去。

 ひそかに横たわる暗くよどんだ河。

 き物が落ちたような好青年となったスレイは年を重ねるごとに熟成じゅくせいされる己の強い負の感情を、心の奥底に沈めておく知恵と処世術しょせいじゅつを身につけていった。

 その意味でベックスやイアンに感謝しなければならない。

 ポーカーフェイス。

 は表情から少しでもなにか読み取られたら確実に負ける。

 別に不良少年でなくなったわけじゃない。

 もっとたちの悪いなにかに変わっただけの話だ。

 好々爺こうこうや昼行灯ひるあんどんを装う師匠筋と同様にスレイは陽気で軽口を叩くことを覚えた。

 他人の命を背負い、心に刃を抱く者はそうするべきなのだ。

 今の自分を肯定こうていされれば肯定こうていされるほど、「それは違う」と叫ぶ誰かがスレイの心にいた。

 笑顔に下に抱えた憂鬱ゆううつかてに身にむ魔物ははけ口を求めて空っぽに近い心の中をい回り続けている。

 ただ、その怪物もなにか満足できる物を見つけたらしくこのところは大人しくしている。

 ああ、多分それは去年の夏・・・。

「もういいでしょう、父さん。なにか嫌なことでもありましたか?」

「嫌なことか・・・全部、なにもかも、この世の、この人生の、なにもかもすべてが嫌なことさ」

「父さん、よしてください」

「今にお前もわかるさ、この家を継ぐというのはつまりはそういうことなのだ。富と名声を引き替えにして、他のありとあらゆる人生の喜びをドブに投げ込むような馬鹿げた行為だ。わしなんぞ自らの努力で勝ち得た前半生に、自らの手で泥をりたくったようなものだ」

 エルシニエ大学の大先輩。

 そして国家公務員上級試験合格者。

 フェルディナンドはその意味で息子の尊敬に値したが、それだけだった。

 醜悪しゅうあく俗物ぞくぶつそのものだったヴェルナール・シェリフィスに買われたときから、スレイ自身と同様の奴隷どれいと化した。

「そうですね」

 唱和しょうわしたのは本心からではない。

 スレイは露骨ろこつに不快なこの会話を打ち切ろうとしていた。

「ティベルのことがなければお前もこの家を飛び出していたのだろう?」

「・・・・・・」

 スレイにはなにも答えなかった。

 いや、不意をつかれてなにも答えられなかった。

 一体全体、今夜のフェルディナンドはどうかしている。

 酩酊めいていしているからではなかろう。

 普段なら決して口にしない母アリシャへの本音や、スレイが捨てさせられたアリアスの名、更には弟ティベルの名まで持ち出すなど到底考えられなかった。

 心の奥底にわき上がる動揺を隠せないスレイをじっと見据えるフェルディナンドの瞳がいつの間にか正気の色を取り戻している。

「元気そうだったよ、またあの子になけなしの金を与えてきた。あの施設もしばらくは生活に困ることもあるまい」

 スレイの目がはっと見開かれる。

 怜悧れいりに研ぎ澄まされたスレイの瞳がフェルディナンドの疲れた横顔に突き刺さる。

 これほど裕福な家であるにもかかわらず、当主のフェルディナンドの自由になる金はほとんどない。

 それでも日々の生活に困ることはなく、使用人たちが用意したもので十分すぎるほどまかなえる。

 それはいかにも余計な金を持てば浮気や放蕩ほうとうに使うのが「成り上がり者」の習性だと言外にしないばかりにだ。

 行動を束縛そくばくされないかわりに財布を束縛そくばくする。

 これが代々続く、女系一族シェリフィス家の伝統だ。

 跡取あととり息子のスレイにも同じ事が言える。

 授業料や書籍代、弁当などはすべて与えられる。

 勿論、食事代などは与えられるが小遣い銭程度であり、まとまった金など自由には出来ない。

 スレイはそうしたなけなしの小遣い銭やディーンの世話係をして得られる報酬、書籍しょせき印税いんぜいのほとんどを実弟のティベルに送金していた。

 そして、スレイは知らされていなかった。

 フェルディナンドもまた議員報酬のすべてをティベルの預けられた孤児院に寄付していることを。

 それでも足りないので、賄賂わいろなどの臨時収入はティベルに直接与えていることを。

「あそこは確かに貧しいがとてもいいところさ。長いテーブルに子供たちが並んで座って食事するんだ。にぎやかでとても明るい。今になってドライデンには感謝するばかりさ、末席に座っているだけで心がなごむよ。ああ、わしもまだまだ人間の心を失っていないのだとね。暮らしぶりが悪いことは不幸ではないとしみじみ気づかされる。あそこは優しさに満ちている。こことはえらい違いだ。元気な子供たちがいてブリ・・・」

 議員らしく能弁のうべんにまくし立てていたフェルディナンドは触れてはならない物に触れてしまったかのように、かっと目を見開いたまま再び言葉を飲み込んだ。

「・・・・・・」

 スレイは黙って唇をんだ。

「あのとき、お前たち兄弟を引き離さなければ良かったと何度も思った。だが、今はティベルをあそこに預けたことに安堵あんどしている。ティベル、あの子には余計な苦労は似合わない。とても優しい子だよ」

「父さん?」

「あれも小さい子供たちの世話係で大変だろうに、お前のことをとても案じていた。なあに、兄貴は兄貴でちゃんとやっているから心配するなと伝えてきた。それでいいのだろう?」

「はい」

「養子の苦労は辛いな、能力以前に全人格を試されているような気になる。針のむしろとはよくいったものだ」

「この僕を養子に選んだあなたご本人とそんな話をする機会があるとは思っていませんでしたよ」

「そうだなわしもだ。お前にはずっと憎まれたまま、さげすまれたままでいようと思っていたからな。ほんとうの心は墓の下まで持って行こうと心に決めていた」

「そうなんですか?」

 スレイは言葉尻ことばじりに皮肉を込め、冷ややかに応じる。

「なあ、スレイ。これだけは聞いて欲しい」

 フェルディナンドは一点を凝視ぎょうししたまま、ささやくような声で語り始めた。

「若いうちは絶対に小さくまとまった小利口こりこうな男にはなるなよ。目一杯馬鹿をやれ、器と才能に任せて思い切り暴れてやれ。その方がずっと楽しいぞ。そして若いうちならば幾らでも取り返しがきく。でもな、決して馬鹿な男になるんじゃないぞ」

「どういう意味ですか、それは?」

「馬鹿な男ほど始末に負えないものはないさ。最愛の恋人を裏切って地位と栄誉を選んだ馬鹿な男。名ばかりの家に固執こしつして遂にはその身と共に家を食いつぶした馬鹿な男。家族や愛さえも金で買えると信じた馬鹿な男。お前のまわりはそんな馬鹿な男たちばかりだったろう」

「そうでしたね、ええそうでした」

 スレイ・シェリフィスがはっきりと憎悪を向け続ける男が三人いた。

「見習うなよ絶対になっ。でないと一生かけて後悔することになる、わし義父上ちちうえ、お前の本当のオヤジのようにな」

 スレイが心の底から憎悪する三人の男・・・実の父、ダリオ・レンセンはスレイとティベルとが幼い頃に亡くなり、没落ぼつらくを重ねたレンセン男爵家は彼の代でついえた。

 将来を嘱望しょくぼうされていた将校しょうこうだった本当の父はその手腕を発揮はっきする前に不慮ふりょの事故で亡くなった。

 その死を非業ひごうのものとして惜しむ人が多く居ただけマシだった。

 金権主義の俗物を画にしたような醜悪な養祖父ヴェルナールもまた先年故人となった。

 呆気あっけないほどの老衰死ろうすいしだった。

 今やこの世に生きているのは一流の政治家にして三流の父親である養父のフェルディナンド・シェリフィス唯一人である。

 だが、なぜかこの晩はそんな憎悪の心が揺らいだ。

 父の口から初めてティベルの名前が出たせいだろうか?

 それともなにかフェルディナンドに共感を覚えたからだろうか?

きもめいじておきます。おそらくは終生忘れないでしょう」

 仇敵きゅうてきの見せた意外なもろさと、傲岸不遜ごうがんふそんな普段の姿からは想像しがたい心弱き言葉。

 忘れようとして忘れられるものではない。

「今夜はこのままここに寝かせてくれ、到底あれの所に行く気にはなれない」

「わかりました。毛布をご用意します」

「助かる」

 毛布を手に戻ったとき、スレイはフェルディナンドの背中が小刻みに揺れているのに気づいた。

 いったい、なにがあったのだろう?

 いったい、なにをおもったのだろう?

 いったい、なにがこの鋼の意志を持つと言われるこの男をこうももろくしたというのだろう?

「お風邪を召しませぬように、父さん」

 スレイはフェルディナンドを一瞥いちべつして自室に引き上げた。

 まとわりつくようななにかに頭が混乱してしまい、そう簡単には眠れそうにはないと感じながら・・・。


 一昨日の晩に、フェルディナンドはかつて彼が心から愛した婚約者のブリギット・ハルゼイをうしなっていた。

 彼にその死を知らせてきたのはヴェルナールの猛反対で遂に養子に迎えることが出来なかったスレイの実弟、ティベル・ハルトだった。

 スレイとは年子で20歳の青年になったティベルは陳情ちんじょうと相談、金の無心のためにフェルディナンドの執務室を定期的に訪れている。

 その際にブリギットの死も伝えることになった。

 兄を養子に迎えるにあたりシェリフィス家が幼い兄弟に課したのは、二度と会ってはならないという過酷なものだった。

 スレイは度々禁を破り弟に会いに行ったがティベルは決して取り合わなかった。

 弟を心配する兄を体よく追い返す役目を担っていたのが厳格で生真面目な一人の尼僧にそう

 まだ幼なかったスレイは壁のように立ちふさがる彼女にどれだけ悪態をつき、数々の暴言をぶつけたことか分からないほどだった。

 幼年期を脱したスレイはそんな彼女にすまないと思う気持ちが強くなっていった。

 そして、家と養祖父、養父母を激しく憎み、ありとあらゆる悪態をその全身であらわした。

 廃嫡はいちゃくという不穏当ふおんとうな言葉が使われかけたことさえある。

 だが、スレイは文字通りにある日突然にして所行しょぎょうを改めた。

 それには滅多に動揺しないアリシャでさえ驚いたほどだ。

 将来を誓い合ったフェルディナンドに捨てられたブリギットはたもとを分かつまでは、年齢の離れた恋人の無二の友人の一人であったワルトマ・ドライデン枢機卿すうきけいすすめもあり、両親の残した財産を処分してファーバ教団にその身を捧げた。

 尼僧にそうとなったブリギットは孤児院の世話役として文字通り残りの生涯を捧げた。

 財務官僚から名門政治家一族に迎えられ、その一員となった者には容易に会ってはならないという覚悟と決意は、幼い兄弟たちだけに向けたものではない。

 誰より自分自身に向けたものだった。

 愛する男に裏切られたブリギットが貧困と窮乏きゅうぼう、献身と過労とに命をすり減らしていくのを知りながら彼女を捨てた男に出来たことといえば、財政難を理由に助成金を削る案ばかり検討する元老院議会において貧困対策の重要性を辛抱強く訴え続けることだった。

 妥協や懐柔かいじゅうを許さず、賄賂わいろは受け取っても魂は売らない鋼の男と評されたフェルディナンド・シェリフィスの評判はそうした彼独特の姿勢を表すものだった。

 だが、鋼の男をしても無理は通らない。

 フェルディナンドの知る限り、元老院は一度として福祉施設への助成金を上乗せしたことはない。

 国家騎士団に回す莫大な年次予算のほんの一部で事足りるというというのに、軍閥ぐんばつ貴族を中心に削減さくげんはばむ者は多かった。

 その癖、「年次予算が足りない」と言っては自分たちが更迭こうてつしたフェルディナンドのたった一人となった盟友ライゼル・ヴァンフォート伯爵を再登板させた。

 結局、フェルディナンド・シェリフィスに出来たことと言えば、多くの身寄りのない子供たちを抱える孤児院に彼自身の懐から申し訳程度の資金援助をすることだけだった。

 女当主アリシャ・シェリフィスも夫が自ら稼ぎ出した金の使い道をとやかく言わなかった。

 スレイ・シェリフィスことアリアス・レンセンの弟、ティベル・ハルトが一家離散後に預けられたのはその孤児院であり、密かに手配したのがフェルディナンド自身であったことをスレイが知るのはずっと後のことである。

 そして、そのときになってはじめて、スレイはフェルディナンドの言葉にめられていた本当の意味を噛み締めることになる。

 フェルディナンドこそは非業ひごうに散った「同志たち」の「墓守」だったのだ。


皇暦1187年12月26日

パルム南区旧家群 エクセイル邸


「なんかメルのとことは違った意味ですんごいお屋敷だわ」

 ルイス・ラファールが正直な感想を漏らしたのも無理はなかった。

 エクセイル家の屋敷は広くもなければ豪華な作りでもない。

 ただ、控え目でもおもむきのあるたたずまいを見せている。

 それは史家の家だからというわけでも、歴史あるパルムの旧家だからというわけでもなかろう。

 歴代の当主たちが命を賭けて刻んできた歴史の一つ一つが古びた家を大きく見せている。

「なんだかこちらはこちらで手強そうだけれど」

 そうひとりごちて、ルイスはおもむろに屋敷に入った。

「ごめんください」

 玄関先で声をあげる。

 ややあって、遠くから足音が近づいてくる。

「はい、どちらさまで?」

「ディーンくんの友人でルイスと言います。お取り次ぎを」

「まあ、それはそれは。少々お待ち下さいませ」

 足早に立ち去った初老のハンナを見送り、ルイスはふうと息をついた。

(やっぱり早すぎたかな)

 時間がではなく、時期が。

 少しだけ後悔しながら、ルイスは庭先をながめた。

 手入れの行き届いた庭はそれだけで人を安心させる。

 季節が冬ということもあっていろどりにはとぼしいが、剪定せんていされた庭木や冬芝が抜けるような青空を支えている。

 そういえば、一週間前のパーティ遅参ちさんの言い訳にとルイスが思い出したその時、

「お待たせっ」

 普段着姿のディーンが現れる。

 相変わらず不健康な痩身そうしんだが、こざっぱりとして図書室のヌシと呼ばれる面影は微塵みじんも感じさせない。

「おじゃましてもいいかしら?」

「ええ、喜んで」

 来訪の理由も目的も聞かずに通されて、拍子抜けしながら案内されるままに玄関を奥へと進む。

「来た早々で悪いのだけれど、もし良かったら父に会ってくれないか?」

「トワント・エクセイル教授に?是非ご挨拶したいわ」

「ありがとう。実は父がね、君が来るのをとても楽しみにしていたみたいなんだ」

「アタシなんかで良かったのかな?メルを連れてきた方が・・・」

「病人の我がままだから気にすることなんてないよ。さ、階段を上がってすぐだから」

「わかったわ」

 ルイスはディーンに案内されるままに階段を昇った。

 吹き抜けの天井が冬の日差しを招き入れる。

 しんと静まった屋敷は無言のうちにルイスの来訪を歓迎しているようだった。

 ディーンは二階に上がってすぐにある一室の前で足を止め、小さくノックした。

「父さん、入るよ」

「おじゃまします」

「やあ、これはベックスの話に聞いていた通りの本当に美しいお嬢さんだ」

 トワントはベッドに体を横たえていた。

 病状は回復に向かっているとはいえ、医師からは無理を禁じられている。

 膝元ひざもとに本をせ、相好そうごうを崩すその姿からはルイスが他のどの教授からも感じたことのない独特のオーラがただよっていた。

 そして、一番驚いたのはトワントの全体的な雰囲気がどことなく実父エイブに似ていた。

 実際に「本当の事情」を後に夫から聞いたルイスはそういうことだったのかと身をすくませた。

恐縮きょうしゅくです」

 本当に恐縮きょうしゅくしながら、ルイスは小さく会釈えしゃくしてトワントの書斎しょさいに入った。

 雰囲気が似てはいるがエイブとトワントは別人だった。

「息子から聞いているかと思うがこの通りでね。残念ながら大学の方で君たちを教えるにはまだ時間がかかりそうなんだ。ただ是非とも話に聞いている君に会いたいと思ってね」

 ベッドに体を横たえながらも顔色は割と良い様子にルイスは安堵あんどしていた。

「思っていたよりもお加減が良さそうで安心いたしました」

「ディーン、すまないが下にお茶の支度を。それから少しばかりお嬢さんと二人きりで話をさせてくれないか?小一時間ほど彼女を借りたい」

「はい、父さん」

 後ろに控えていたディーンは静かに戸を閉めた。

 小さな足音が階下に消えるのを待つようにしてトワントは口を開いた。

「ところでエイブは元気ですか?」

 ルイスの顔色がさっと変わる。

 控えめな態度と表情はそのままに口元には緊張がただよう。

「私の父をご存じでしたか?」

 メイスの父、エイブ・ラファール少将は国家騎士団の重鎮じゅうちんだ。

 ただし、により降格もし、出世コースからは外れていた。

 中央勤務ではあるものの、国軍司令部勤務。

 現状、出世に近い連中はパルム国家騎士団中央司令部かフェリオ国境付近に居た。

 先年、准将じゅんしょうから少将に昇進したのは跡取り息子に階級で追い抜かれそうになったのを“誰か”が気の毒に思って昇進させたのだ。

 ルイスの兄シモン・ラファールは大佐で、東方外征の武功で准将じゅんしょうになる可能性が高かった。

 「ラファール准将」が二人いるというのは組織としてはなにかとやりにくいのであろう。

「はは、なるほど。ただの学者と国家騎士の重鎮じゅうちんとでは接点がなさそうだがね。実は彼には若い頃に世話になったよ。あの頃はお互いまだ30過ぎだったかな」

「そうでしたか、残念ながら父とはもう何年も会っていません」

「そうか、人の噂には聞いていたのだがね、寂しいことだ」

 トワントは僅かにまなじりを下げた。

 エイブが実の娘であるルイスを勘当かんどうしたことは人の噂に聞き知っていた。

 その呆れ果てた理由についてもだ。

「しかし、どうして先生は私を?」

「少し前に見た入学名簿に見知った名があった。ラファールといえば名門の騎士家だし、『じゃじゃ馬ルイス』の話はエイブたちからよく聞かされていたからね。一応、人を使って 調べてもみたよ」

「そうでしたか、お恥ずかしいことです」

 ルイスは僅かに身を小さくした。

 彼女がエクセイル家を了解なしに訪問した理由は自分の身の上やら「任務」とはまったく関係がない。

 そんなときに意外な口から意外な話が出たことで当惑とうわくしたのだった。

「実を言えば、あの子に近づくためではと案じたりもした。だが、それならそれで偽名を使うだろうし、本名で堂々と入学してきたから、騎士を廃業して別の道に進もうとしたのだろうかとも考えたよ。あれからもう随分時間が経つというのに、ディーンの口から一向に君の名前が出てこないので不思議に思ったほどだった。11月の半ばに『再会した』のだと聞いたよ」

「ご子息とお会いしたのはまったくの偶然でしたから、たとえ何か仕組まれていたとしても少なくとも私の預かり知らないことです」

「そうだろうね。見たところ君は私のような偏屈へんくつな頑固者を納得させる言い訳をすらすら並べられるほど、要領よく器用な人間ではなさそうだ。それこそあのスレイくんとは比べるのもはばかられる」

 ディーンの相棒なのだから、スレイは大学に出て来ないトワントとも接する機会があったのだ。

「不器用ですよ。騎士であろうとなかろうと、騎士家に生まれついた人間は皆といっても愚直ぐちょくで不器用なものです」

 ルイスの言葉には小さなとげがあった。

 ルイスとエイブ親娘の確執かくしつ愚直ぐちょくで不器用な頑固者同士のせめぎあいだった。

 間で苦しむ者がいると分かっていても、お互いに一歩もゆずらぬが故に、数年を経てもなんの解決も見いだせずいたずらに時間を要した。

「そうだね。エイブも表裏のない男だった。愚直ぐちょくで真っ直ぐで、言い訳一つしない自分に嘘のつけない男だった。大方、それで君を傷つけたんじゃないのかい?」

 あの出来事についてもエイブ・ラファールは一切弁明しなかった。

 要職にありながら、事件当日に不在だったのはエイブの落ち度でなどない。

 むしろカミソリ不在の隙を突かれたのだ。

「なにもかもお見通しなんですね。父が男として正直であることを正しいと信じている限り、娘の私とは生涯かかろうと相容あいいれません」

「そうか。同じ子を持つ父親としては辛い言葉だな。それでも人間長く生きると自然に理解できることもある。ただ今はそのときでない。たったそれだけのことだよ」

 そう言うと、トワントは穏やかに笑った。

「君はあの子を見てすぐに気づいたかい?」

「はい、勿論です」

「今日、こうしてわざわざ訪問した理由もそれかな?」

「はい、是非確かめておきたかったのです。これから彼と、彼の望んだ形で普通に接していくためにも・・・」

 ルイスは自然に直立不動の姿勢をとっていた。

 パルム市内のどこにでもいる女学生にしか見えない服装とは裏腹に、ルイスの姿は別のなにかに見えた。

「あの子は筋は必ず通す子だ。そしてその筋目すじめも五年前に通していた。誤解したのは君とエイブだ。確認などする必要はなかった。それでいいね?」

「はい、もう十分にお答えは頂けたものと思います。そして、隔てていた壁と誤解がなくなった以上は謹んで申し出を受け入れたいと、それが私の本心です」

 ルイスは直立不動で頭を下げる。

 遠回りしてしまったのはルイスらしい理由に他ならない。

「なるほど、後でせがれに伝えておくよ。それと年始は大方一人なのだろう?こんな家で良かったら好きに出入りなさい。リィとハンナにはルイス嬢が来たら上がって貰って構わないと伝えておく。まぁ、せがれはあれで忙しい身だ。不在のことも多いだろうががっかりしないでやってくれ。それにどうやら君にも人には容易に話せない事情がありそうだ。それはあの子も同じとだけ言っておくよ」

「はい、わかりました」

「もう一人の彼女・・・パトリックも大変なものだ」

「メルのお父様もご存じなのですか?」

 パトリック・リーナとトワント・エクセイルはつながっていた。

「お互いに立場がとてもよく似ている。あいつも今でこそ銀行屋の『総帥』だとかいう肩書きだが、学生時代には貧乏しているアイツらに食事やら寝床やら生活費やらを世話してやったもんだ。それこそしょっちゅうここに通い詰めていた。もっとも今となってはそんなアイツから、貸し与えた何十倍もの研究資金を大学を通じて出してもらっている身さ。それに私たちには共通の友人たちがいてね、そいつらが色々と面白い話を聞かせてくれたものさ」

「そうでしたか」

「私にとっては君のお父上以上に古い友人たちで、もう随分と長く会っていない気がする。それでも離れて暮らす彼らの事を身近なものとして信じられるのはどういうわけだろうと思うことがあるよ。いざというときに自分の大事な子供をたくすことが出来るのはそうした人間なのだろうね」

「そんなまさか・・・」

 ルイスの血相が変わる。

「そういうことだ。口に出さなくても分かっている。そして、君の目的と使命とがウチの子じゃないのなら、あの子なんだろう?」

「・・・・・・」

「沈黙は雄弁だね。沈黙とそのかたくなな表情がすべてを物語っている。私は役目柄そういう顔を沢山みてきたよ」

「わっ、わたしは・・・」

「再会したとき正直なところ驚いただろう?あの子は君に手酷てひどくフラれたあの夏から急に背が伸びた」

「・・・・・・」

「いいんだ。君と話をしたかったのは君を責めるためでも、脅して口を割らせるためでもない。ただ、力になりたいと思ったからなんだ。後見人のアンドリオン女子爵から聞いているだろう?“君に命令を与えるもう一人の存在”について、そしてそれが世間から隠されている事情もね。つまりそれが私であり、私的には2日前にせがれに譲られた。つまりはそういうことだ。だが、まだ立場を息子にゆずってはいない。君に命令する権利はまだ私にある。君への最初のオーダーは私の要求に応えることだ。それが『受け入れる』という本当の意味さ」

「いったい、教授は私になにが出来ると?」

 興奮しくようなルイスに、如何いかに才長けていようとも、“この素直な子”を選んでしまった“彼女”をトワントは少しだけ恨みたくなる。

 大事な家族をうしなったあの事件以来、“彼女たち”は明らかに焦っていた。

 おそらく、ハニバルやベックスはそれで不安を感じずにいられなかったのだ。

 焦る理由が手に取るほど分かるだけに。

「君が抱える本当の事情について、ベックスはなにも知らない。私も色々な偶然やえんが重なってようやく気づいたくらいだからね。君は君の本当の主のために誠を尽くせばいい。経験から言わせて貰えば、与えられた使命に裏読みや邪推じゃすいは禁物だ。考えれば考え抜くほどにしばられて、結局は何事も成し得なくなる。難しい課題や目的を与えられたときほど単純明快に考えた方が答えは出しやすい。大抵の場合、難題を与えた方もむしろそうした単純明快な『答え』を期待しているのでね。当然それは私のオーダーにも通じる」

「わかりました。ご忠告は終生このきもめいじておきます」

 トワントは遠くを見るようにして、自身の読み解いたこれから起きるシナリオとその結果とに思いをせた。

「これから大変なことになる。パトリックとライゼルはとっくに腹をくくっているし、なりを潜めていたベックスもいよいよ動くと聞いている。我々のような大人の事情に君たちのような若者が翻弄ほんろうされるのは見るに忍びないが、覚悟を決めて信念で行動する大人たちがいる一方で、多くを語らず支えることをよしとした私のような大人もいることを忘れないで欲しい。この病身では力になれるなどおこがましいにも程があるが、厄介な事情のすべては全て私たち世代の力不足に端を発したのだ」

「はい」

「そして、出来ればあの子を支えてやって欲しい。あの子の心は5年前から少しも変わっていない。子供の頃から大人の事情に翻弄ほんろうされ続け、周囲からプレッシャーを受けてきたあの子こそが、誰よりも難しい立場にある君の支えになるし、君こそが本当の意味であの子の抱える孤独と責任とを理解して、生きる支えになれるのだと信じている」

「はいっ」

「いつの日か、あの子は自分の精一杯の力で夢を叶えてくれると信じている。残念だが、そこまでの長い道のりを私は最期まで見届けることが出来そうにない。出来る限り養生ようじょうは欠かさぬつもりだが、この体はあと一年保つかどうかというところなんだ」

 ルイスはそこまで悪いと信じられずにトワントを無言で凝視ぎょうしした。

「だが、私は最期の瞬間まで父親としてあの子を信じることに決めたよ。結局、父親は子の行く末を信じて見守ることしか出来ない。もう手を差し伸べてやる必要もない。あの子はもう十分に立派な大人なんだ。そして、いつの日にか君がエイブと和解できたならば、今の私の言葉をそっくり伝えて欲しい。旧友からの遺言として・・・」

「うっうっうっ」

 ルイスは低く嗚咽おえつらし泣き崩れていた。

 男勝りと言われるその身をよじらせて、こらえきれぬ激情に身をゆだねたルイスは無力だった。

「うら若きその身に抱えた孤独と重責。それが苦しいと感じたらのなら、いつでもここに来て泣いていくといい。私が君にしてあげられるのはそれと、あの子の伴侶はんりょたるにどうしても避けられない運命と真実とを教えることだけだ。それにそんなに機会は多くないと考えているよ」

「うっうっうっ」

 床にうつむき、許しを請うように折り曲げたルイスの細い顔は病床のトワントの膝元で小さく揺れ続けた。

 トワントはルイスの髪を穏やかな笑みを浮かべ、労るようにで続けた。

「美しい髪だ。君の母上も美しい女性だった。あるいはその伴侶はんりょたるはエイブでなく、私だったかも知れないがそれはさだめが許さなかったし、そうしなくて良かった。結果的に君は私の娘になるのだからね」

 トワント・エクセイルはルイスの母親のことも、彼女が幼い頃からよく知っていた。

 ルイスのことだって幼い時分からよく知っていた。

「はい、ありがとう、ございます」

「思い返せば伏せりがちだったウルザのため、一晩中髪を撫でてやったこともあった。このところずっとせがれからいたわられるばかりで、心苦しい思いばかり重ねてきたから、こんな身でも誰かをいたわれることを光栄に思うよ」

「ありがとう、せんせい」

 顔を上げたルイスは意を決したように心の底にある思いを言葉にしてみた。

「ありがとう、

 トワント・エクセイルは万感の思いを感じて目を細めた。

「ああ、とてもいい響きだ。わたしとあの世で待つウルザへの最高の贈り物だ。わたしたちの選択が正しかったことは君たち以外に証明してくれる者はいない。ルイス、せがれと共に未来をつむげ。実父との和解とそれ以外に私から君に願うことは・・・あるいはこちらの方が残酷かも知れないが、今は告げずにいよう」

 今日、ここに来て良かったと天の配剤に感謝しながら、ルイスはいま力なく泣いた。

 冬の木漏こもれ日がルイスの揺れる長い髪とそれを撫で続けるトワントのか細くなった右手を照らし出していた。


統一暦1512年9月24日

パルム西区 ファードランド邸


辛気しんきくさいってリザは嫌う場面なのですが、ボクはそれぞれにその後の物語に密接に関わる重要でおごそかな場面だと理解しています」

 ティルト・リムストンはアンナマリー夫人が煎れてくれた紅茶を口に含む。

 もう何度目になるだろうか。

「父と子の愛憎劇か。今も昔も変わらぬテーマだな」とセオドリック・ファードランド教授は苦笑した。

 ファードランド自身が義理の父親との根深い確執かくしつを抱えている。

 実際に勘当中なのはアンナマリー夫人の方だがある意味、ファードランドもセットで“絶縁中”といっていい。

「ティルト、君の父上はどんな方だったんだい?」

「ははは、それこそ一人息子に夢を託すしか無かったしがない骨董屋こっとうやでしたよ」

「でも、君は愛してたんだね?」

 言外に伝わるティルトの亡父への愛情はファードランドにはよく理解出来たし、そうした肉親への素直な愛情こそティルトから嫌味ったらしさを消していた。

 しかし、なぜだかティルトは父親について必要以上に語りたがらない。

 ティルトは自分を誇ったり、才能や知性に鼻をかけたり、必要以上に背伸びしたりしない。

 だからこそ、皆が協力的になれるのだろう。

「教授のお父様とはどのような方なのです?」

 他意などない。

 自分の父親について聞かれたのでセオドリックの父親についても聞くのが礼儀だというティルトらしい配慮はいりょだ。

「やれやれ、やはりそう切り返されたか。実を言えば、私は実の親にもなかば勘当中の身さ。なにせウチは法律屋の家系で、父は引退前は最高裁書記官。兄はリベルタの地裁判事。弟はこのパルムにて辣腕らつわん弁護士ときている。つまり、端っから実務法律家になろうとしなかった『道楽息子』の私は実家じゃ肩身が狭い」

 この年齢で世間的には高名なエルシニエ大学の教授だというのに自身を「道楽息子」と称する。

 セオドリックもティルトと同様にあまり自己評価が高くはない。

「意外ですし、そう意外でもないかも知れません。法史学者たる教授の論文ってそのほとんどが過去の法律に関する成立史と改正史でしたよね?そうした意味ではご実家の家業と全く無縁ではないのでは?」

 ティルトの鋭い指摘にファードランドはハッとさせられた。

 その口ぶりではおそらくセオドリックの論文をすべて読んでいる。

 調査のために膨大ぼうだい文献ぶんけんに接し、読み進めて完全に理解した上でないと「仮説」も立てられない。

 そして、既に多くの「仮説」をファードランド教授に提示してきた。

 だからこそ、ティルトの一言一句も容易に笑い飛ばせたりは出来ない。

「言われてみると確かに。そもそも私が研究している元の法律の成立や改正がなければ、今の法律だって機能しないのだものな。法律改定に際し、背景となる事情があったことを法史学者として研究している私も広い意味では法律家なのか?」

 最初の出発点のせいで自分自身でも其処そことらわれていたことに改めて気づかされる。

 それはセオドリック・ファードランドの肩書きが「史学部法律史学教授」だったからだ。

 実際、セオドリックは大学在籍中に司法国家試験には合格している。

 だが、判事、検事、弁護士のいずれにもならず、そのまま大学に残って院生を経て研究者となった。

 エルシニエ進学時の父親との約束が「司法試験の合格」だったのでそれだけ達成を報告すると後は好きにさせてくれと家を出てしまった。

 それが家族達全員を落胆らくたんさせた。

 兄弟でも一番出来が良いと思われていたからだ。

 しかし、ティルトの指摘した通りだとすると話は全く別だった。

 家族たちの前でセオドリックは自分の仕事や研究について全く話したことがない。

 けれども論文の一つでも見せれば兄や弟たちは「そうだったのか」と納得するだろう。

 そして司法試験合格が全く無駄だと思ったことは法律史学研究者として一度もなく、必須最低条件だとさえ思っていた。

 だが、普通はそう上手く行かない。

 そもそもエルシニエ大学内でも「法律史学を法学部に置くべきだとの意見」は根強かったが、史学部の方が圧倒的に長い歴史と格式、伝統とを誇る。

 なにしろ大学創設時から存在した。

 それでセオドリックは史学部史学科のケヴィン・レイノルズ教授に弟子入りし、ゼミ生を経て史学部内に研究基盤となる人脈を作りつつ、法学部でも並行して学んでいた。

 ケヴィンの逆鱗げきりんに触れたのはもともとはそれが発覚し、「お前は本当はどっちなんだ?」と問い詰められたことだ。

 可愛がられていただけに、裏切られたと感じたケヴィンが激怒したのも無理はない。

 しかしそれはエルシニエ独特の事情だった。

 このときは経緯いきさつを説明したら納得してくれた。

 ただし、不信感も生んでしまった。

 もともとは退官時期の迫った法律史学の前任教授が法学部でもとびっきり優秀かつ家系も法律屋という「ファードランド家のテオ坊や」に自分の後任として大学に残って法律史学を研究をしないかとすすめたのがきっかけだ。

 司法実務に興味がなく、どれを選んでも家族の誰かの二番煎にばんせんじにしかならないと司法試験合格後の進路を決めかねていたテオ坊やはそれこそが正に「自分だけの生き方」だと思って迷わず快諾かいだくした。

 一介の学者に過ぎないセオドリックが知らないのは実際の法律を活用する司法の実態だった。

 司法実務経験がないので仕方ない。

 セオドリックはありとあらゆる法律とその成立史に精通していたが、どれが死文化していて、実際の運用における序列などは分からなかった。

 家族にだけは聞けるまいと考え、家族以外の司法家たちと懇意こんいにしていたのだが、そうした人々との交際費も馬鹿にならない。

 そこに天啓てんけいが如きティルトの指摘だ。

 それにそろそろアンナマリーとの間に子供も出来ようという時期故に自分の実家とでも早めに和解せねばならないと考えていた。

 そんなわけで、後日セオドリックは自分の論文について意見を聞かせてくれと言って家族全員おのおのに自分の執筆した一番新しい学術論文を送った。

 門外漢もんがいかんの自分たちになど分かるものかと家族全員が思ったが、そうではなく、彼等にとってセオドリックの論文は難解でもなんでもなかった。

 真っ先に読み終えた弟は忙しい合間をい大学にやってきて兄に抱きついた。

「ゴメン、兄さんに裏切られたとばかり思っていた」

 すれ違いの怖さを改めて実感したファードランドはドミノ式に、てっきり司法の道を捨てたと思いこんでいた一族と次々に和解し、家族たちは誤解を解いて改めて一族の席にセオドリックとその妻アンナマリーを迎え入れた。

 以後、セオドリックは赤の他人に交際費をバラくことなく家族サービスとして週末はアンナマリーと実家で過ごし、おのおのの立場から見た法律解釈と過去の法改正がいかなる目的を内包していたかを親兄弟たちと盛んに議論するようになり、その席に以前から交際のあった法律家たちを招いた。

 そして母にはゼダ国内でも遠方にいるアンナマリーの実母のかわりに、孫の出産時には立ち会ってくれと頼んだのだ。

「歴史ってなんにでも付きまといますからね。無縁だという方が不自然です」とティルトは屈託くったくなく笑う。

「ところでティルト、君が本格的に研究したかったのは大戦終結直後の混迷期だと聞いたけれども、なんでまたそんな時代を?」

「剣皇ファーン・スタームの伝説ですよ。親父は骨董と古美術を扱ううちにのめり込んだのです」

「剣皇ファーン・スタームねぇ・・・セスタスターム家の始祖というけど・・・」

 剣皇ファーン・スタームはその名前だけならば歴史の教科書に記されている。

 ところが、彼自身がどのような出自であり、具体的にどのような功績を残したかに関してはピンボケしていてよく分かっていない。

 おくりなの《辺境王》も中原の何処を指すかわからないのだ。

「ボクも雲をつかむような扱いづらい存在だと思うのですが、父は逆の立場からスタートして、『いない』ことが立証出来なかったというのですよ」

「ほぉ、つまり仮に『いなかった』と仮定したときに不在が立証出来ずに逆に存在した事実がはっきりしたと?」

「ええ、父の扱う品物にファーンの署名入りの指示書だとか、発注書があったそうです。中には仲介して博物館に売却した歴史的価値の高いものもあったというのですが、史学的にさほど重要人物でもなく、大戦後の混乱を収束させたとだけされています。けれど、最終的にどうなったかも不明です。マサカですが『王』とまで言われた男が、たかだかゼダの騎士家で収まりますかね?」

「確かに。そっちはたまたまか、縁者えんじゃの一人だろうね。確かスターム家はもともとはフェリオの騎士家だったよね?」

「ええ、大戦前は恒常的な戦争状態が長く続いたゼダとフェリオ。それが十字軍となるや大同盟の一角で、『双方にとって王族身分』というフェリオ王太子アルフレッド・フェリオンの登場によって十字軍から大戦に続いた歴史において極めて重要な役割を担うことになりました」

 《十字軍戦争》と《大戦》を終焉しゅうえんさせた英雄にして初代剣皇アルフレッド・フェリオンはゼダ女皇家とフェリオン侯爵家(選王により父がフェリオ連邦王ベルディオ)の血筋引く希有な存在であり、騎士としても優秀だったとされる。

「剣皇アルフレッド・フェリオンか?西軍のマガール・ブラウシュタインを倒したとされるのだけど、マガールの母国ボルニアもよほどの小国だったのか位置が判然としない」

「それがですね、親父の話だと亡国のボルニアは『さる重要国家』に変貌へんぼうしたのだというのですよ」

「えっ?それはまったくの初耳だ」

「確かに地政学的には合っていそうなんですが幾ら何でも飛躍しすぎていてボクも眉唾まゆつばな話だなとは思うのです。史学教授の前で披露するのも気がひけて」

「おいおい、もったいぶるなよ。そんなのはいいからって何処どこなんだい?」

「ミロア法皇国ですよ」

 ティルトはこともなげに言い放つ。

 いよいよ第二幕から本格的に登場するミロア法皇ほうおう国と法皇ほうおうナファド・エルレイン。

 そして通称「テンプルズ」こと「ミロア神殿騎士団」と副団長のミシェル・ファンフリート枢機卿すうきけい大佐。

 そして、現代編においてはティルトにとっても年の離れた知己ちきとして最初の対面後は非常に長い付き合いとなる法皇ほうおうファイサル・オクシオン。

 二つの時代の二つの物語をつなぐキーマンたちはほどなく登場する。

「なんだってぇ!?」とファードランドは頓狂とんきょうな声を上げた。

 興奮すると色男が台無しになるほど取り乱す。

 EXCELLENTの件も似たようなものだ。

 固定概念というものがあるとしたらファードランドに限らず、エウロペアの中原地域に住む人々のほとんどがミロア法皇ほうおう国は有史以来存在したという「常識」だ。

 実際にファーバ教団は有史以来存在し、法皇も存在していた。

 ただ、実際のところミロア法皇ほうおう国は妙な位置にあった。

 なにしろパルムの真南にある上にかつての旧都ハルファに近く、皇都パルムを伺うような位置関係にあった。

 周辺はゼダの支配域だ。

 過去形になるのは法都ミロアのみが現在も宗教都市国家として残り、かつてのミロア法皇国の他の地域はゼダ共和国に吸収合併した。

 ゼダの《6月革命》の後に、ファーバ教団は組織縮小のため法都ミロアのみを教団の象徴としてのこし、他を自治域としたため、結果的に通商上や通貨の関係からかつてのヴェローム公国と共に、革命後のゼダ共和国に合流する流れとなったのだ。

 いわずもがなゼダ共和国民は敬虔けいけんなファーバの信徒ばかりだったので、ミロアを内包する形になることについて特段の不都合は生じなかった。

「しかし、また随分と大胆な仮説だねぇ。ウチの師匠・・・じゃなかったケヴィン教授が聞いたら頭ごなしに一喝いっかつしかねないよ」

「でしょうね・・・。ただ親父の言ってたことにも一理ありそうなのが、大戦収束後の9世紀頃より以前の教団文書が中原各地に散在していて、一括管理するミロアがあったとは思えないそうなのです」

「しかし、そもそも法皇という存在そのものは紀元前には居たのだろう?それでいて9世紀まで特定の居場所がなかっただなんて考えにくいな」

骨董屋こっとうや戯言たわごととエクセイル家の中原史を戦わせるつもりはないですけど、謎ではあるんですよね」

「うーん、逆説的に9世紀以前にも『ミロア法皇国があった』ことの証明か、確かに研究してみるだけの価値はありそうだね」

 そもそも其処まで大胆な発想はセオドリック・ファードランドの知る限り学界人の誰にもなかった。

 しかし、ティルトはこれまで幾つもの「常識」をくつがえしてきた。

「ミロアにはいずれ。なんでもリザがファイサル・オクシオン法皇猊下ほうおうげいかへの紹介状を用意出来る人物に心当たりがあって頼んでいるのだとか。来月の終わりには二人でミロアにおもむくことになりそうです」

「いやはや、話がかなり大きくなってきたなぁ」

 依頼人の一人であることも忘れてファードランドは驚きと興奮とを覚えずにはいられなかった。

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