第3話 父と子と
皇暦1188年。
ゼダ皇国を巡る運命の
東征は続き、国家騎士団の遠征軍はフェリオ国境を
そして、ベリア半島ではあの日から悲劇の幕が上がっていた。
女皇歴1188年1月17日午後1時
パルム中央区 レストラン「ポンパドゥール」
正月の祭り騒ぎが一段落した1月17日のことだ。
パトリック・リーナは東区にある高級レストラン「ポンパドゥール」の一角で正月以来、久しぶりに一人娘メルと二人だけの食事を楽しんでいた。
ベルシティ銀行総帥の座にあるパトリックの仕事は年始から多忙を
加えてメルもこのごろはルイスのアパルトメントに泊まり込むことが多く、すれ違いの生活が続いていた。
年に数回とはいえ、足かけ15年ばかり利用している「ポンパドゥール」の個室を予約してランチのフルコースを注文し、食材は最高級の物を選ばせている。
このため店は数日前から仕込みに追われた。
6人がけのテーブルに差し向かいに座った親娘はナイフとフォークを動かし、せっせと口に運んでいる。
だが、いつもなら抜けるような笑顔を見せるメルの表情が
「どうしたんだい、メル?ひどく
「それがね、お父さん。エリーシャからまったく連絡がないの。最後に手紙が届いたのが去年の暮れ。あのときは家族としばらくぶりに過ごして、少し太ってしまったと書いて
「なるほど、そのことだったか・・・」
パトリックは渋い表情を浮かべた。
エリーシャ・ハランはリーナ家に仕えるハウスメイドの中でも比較的に
早くに妻セシリアに先立たれたパトリックにとっては愛娘の家庭内養育を全面的に任せられるほど信頼に足る女性で、本宅に帰る機会が
ほとんど家族同然の間柄であったが、先年9月に良縁があって故郷で結婚することになり、諸々の手続きを済ませるや、10年仕えたリーナ家に
10月に入り、いよいよ荷物をまとめて旅立つその日には娘と二人、使用人たちを引き連れてわざわざパルム中央駅まで見送りに
家を離れた彼女と入れ替わるようにして、二人の新たな友人が出来たことでメルの気持ちは
ルイスのところに泊まり込むことが増えたのもおそらくは家に居ても寂しいからだ。
エリーシャは今年の6月には晴れて花嫁となる予定だ。
長年の
しかし、
正確な日程や故郷の様子を手紙で知らせてくることもしない。
なにか事情があるにしても、電話の一本でも
それだけならばまだいい。
トレドにもベルシティ銀行の支店が置かれている。
既に年始業務が再開されている筈だが、そちらからもなんの連絡もないという報告を受けている。
文字通りの音信不通状態だった。
(なにかあったのだ。それもとてつもない規模の何かが・・・)
とり急ぎ部下達に情報集めを命じたが、闇に飲まれるようにして実態は分かっていない。
ただ、西路線で地震により大規模な崖崩れがあり、復旧工事のため年明け頃から鉄道も運行していないという鉄道公社の話だった。
鉄道公社総裁のラクロア・サンサースもパトリック・“フェルベール”時代からの古くからの友人だったが、その彼ですらお手上げ状態だという。
線路に
しかし、スレイの義父フェルディナンド・シェリフィスやライゼル・ヴァンフォート伯爵らが名を連ねる元老院議会中央政府の公式発表はまったくない。
「お父さんも色々と手を回して調べているよ。お前は心配しなくていい。ウチの者たちにもそう伝えてやりなさい」
「そうだといいのだけれど」
メルは不安げな表情を隠さなかった。
娘が自分の感情を素直に表出することは
それだけに、メルや使用人たちの抱く心配の
パトリックは心の内にある
「大方、結婚式を控えてなにかと忙しいのだろう。久々に故郷で家族たちと楽しい正月を過ごして、パルムでの出来事はすっかり忘れているのかも知れないよ」
「えーっ、それならそれでいいんだけれど、なんかちょっと
メルはエリーシャから散々怒られて育ったことをすっかり忘れて、彼女の優しい笑顔や柔らかい手を思い出して
その痛々しいほどにいじらしい笑顔に僅かな痛みを覚えつつ、パトリックは乾いた笑みを浮かべた。
「えへへ、エリーシャもお嫁さんになるんだねぇ。スタイルもいいし、顔も
パトリックは内心そうだと認めつつ、不安も感じていた。
「ああ、そうだ。きっと良いお嫁さんになるさ」
去年30を
ただ、エリーシャ以上にパトリックが慎重に相手を選んでいたのだ。
あまり高貴な相手では身分を軽んじられて苦労する。
ましてやあまり
その意味で鉄道公社に勤め、ラクロアも将来は幹部候補間違いないと
幸いにして勤務先が西部のアルマスだった。
それこそ、エリーシャの実家があるトレドとは目と鼻の先にある。
「ねぇ?」
メルはパトリックの反応をニヤニヤと
「お父さんは私がお嫁に行っても大丈夫?」
「おや、そういう相手がいるのかい?」
パトリックはきょとんとした表情でメルのまだ子供じみた顔を
相手が居ないことはなかった。
ただし、彼は消えてしまった。
その事すら忘れてしまったのだろうか?
「うぅん、ただなんとなく聞いてみただけ」
今のメルをパトリックが本音でどう思っているか試したのか?
「そうだな、私はお前にはなるべく好きなようにさせたいから。結婚を無理強いするつもりはない。なにより今は学生生活が楽しいのだろう?」
彼やエリーシャから気持ちが切り替わっていてくれていたならば幸いだとパトリック・リーナは考えていた。
「うん、それは勿論だよ」
事もなげな回答をしたメルにパトリック・リーナは安心させられていた。
「スレイ・シェリフィスくんと言ったかな。彼はなかなか見所のある青年のようだね。頭も切れるし非常に
スレイの養父であるフェルディナンドのことは知っているどころではない。
かつて共に青春時代を謳歌した旧友だ。
その実、スレイが養子で本当の父親もパトリックは知っている。
「そうみたい。ヘラヘラしてみせてるけど、実はすっごく勉強してるよ」
その実、メルはスレイのことをかなり気に入っていた。
誰よりも
そして絶世の美男子として女の子たちから
それはメルやルイスについても例外ではない。
なにか他の重大な関心事があるらしく、それがスレイを
いったい何処のどういう女神がスレイを
それが分かったときには既に引き返せなくなっていたのだが。
「ゆくゆくはお父上と同様に政治の道に進むんだろうが、彼のような若者は周りも放ってはおかないから、すぐに
「えへへ、そうだね」
メルはニヤけて
ディーンの正体は割れた。
学生学者で女皇正騎士。
昼間はパルム市民なら誰でも知る女皇正騎士フィンツ・スターム少佐相当官として女皇宮殿に登城している。
そして夜は図書館のヌシで将来を
ディーンはあと一つくらい別の名をもっていそうだとメルは感じていた。
あの黒髪の貴公子に対するメルの率直な感想は油断も
おそらくは目の前に座るパトリックともメルの思いも寄らないところで深く
「まあ、なによりお前にはルイスくんがいる。あの娘ときたら、そこいらの
年末のパーティの席では
仕立てに際してメルの見立てた浅黄色がなにを意味するかはルイスもメルも知らない。
それこそ女皇陛下アリョーネの若かりし頃とオーバーラップした。
地震の後、
それこそいずこかの貴族のご
そして、案外見る目があるじゃないかと失笑しかけた。
厳密に言えばルイスは“貴族のご
よもやエイブ・ラファール少将と“彼女”の実の娘で「じゃじゃ馬ルイス」だとは思うまい。
“そのダンスの前に彼女がやらかした大立ち回りを割り引けば”という勝手な注文がついてしまうのは
一方のメルはルイスに対して驚き呆れていた。
あの姐御はいったいなにをこそこそやっているのだろうと。
なにかと理由をつけてはメルたちの誘いを断り何処かに通い詰めているらしい。
ディーン
ルイスが夜は不在でろくに自分のアパルトメントに帰っていないことをパトリックは知らない。
合鍵を持つメルはルイスの不在時も勝手に部屋に出入りしている。
ルイスと行動を共にしていると思わせておいた方が好都合なのはメルもだ。
「あは、大好きなお友達たちが
思考と会話を切り離す癖が板についているメルは
だが、心穏やかではない。
なにかルイスに出し抜かれている気がしてならないのだった。
「昔からお前の人を見る目は確かだからな。そういうところはお前のお母さんにそっくりだよ」
「お父さんはセシリアお母さんとどこで知り合ったの?」
「ははは、まだ駆け出しの銀行屋だった頃に知人の紹介で知り合った。良家のお嬢様というからどんな
それがパトリック・フェルベールとセシリア・リーナとの出会いだった。
お互いにとても身構えていた。
なにせ、見合いという以前にベルシティ銀行の株主達の
大体があのパトリシア・ベルゴール女侯爵の仲介だというのでパトリックもセシリアも、まるで真剣対局に臨むエキュイムの達人にでもなったかのように、肩に力が入りすぎていた。
そして
パトリックは意外や
逆に二人ともあのド派手で遊びという遊びを知り尽くすやり手の経営者たるパトリシアの交友関係にこうした選択肢があったのかと内心面食らった。
「お父さんの
「そうだな。そうだったかも知れないな」
嘘だ。
正確にはお互いの
むしろ、セシリアの方が常に積極的にリードしてきた。
父を亡くして
だいたい、パトリックは常日頃は質素で、それは今も変わらない。
休みの日にはひたすら読書に
派手な趣味や道楽は一切ないこざっぱりとした生活を好むし、休みの日に金勘定するのは嫌いで、
リーナ家に入り
セシリアは子供の頃からピアノを習っていて、それで食べていけるんじゃないかという程の腕前だったし、メルにも幼い頃から高名な指導者をつけて習わせていた。
パトリックは母子の奏でるピアノの
資産の動かし方の上手なコツは知っているだけで、成り上がりに特有の
金など少し足りない程度がいい。
無いのは困るが、ありすぎるとかえって困る。
ライバル銀行でもあるヴェローム銀行筆頭理事のエルビス・レオハート公王と
エルビスは銀行も公国を
公王はパトリック以上に株式と資産に関心がなかった。
そして、多忙だ。
ゆえに
資本資産を山深いヴェロームに眠らせておくのは惜しいが、運用して
「
逆にパトリックはいざというときのための銀行資産をヴェロームに預けている。
また経営危機に陥った際に役立てばいい。
幸い
パトリックの
大学の教科書が何処を探しても見当たらないと思ったら、なんのことはなく父の
パトリックは皿から顔を上げ、少しだけ遠い目をした。
パトリックの
あのときローレンツとトワント、ワルトマが居てくれなかったなら迷わず後を追っていたかも知れない。
パトリック・リーナはあのとき間違いなくいちど死んだ。
「もう6年になるね・・・」
メルの声は僅かにトーンを落とす。
「あぁ」
パトリックの妻、そしてメルの母、セシリアは6年前の冬の終わりに肺病で
元々一族として決して体が丈夫な方ではなかったが、それでも
ほとんど家に戻れない生活をしていたせいで、病床の妻を見舞うことさえ難しかったパトリックだったが、せめていまわの
当時、まだ14歳で泣きじゃくることしか出来なかったメルの震える小さな肩に手を置き、いつまでも愛する妻の死に顔を見続けたことは、
もっと恐ろしい光景も、もっと恐ろしい事実も知っている。
パトリックの胸に
セシリアたちとローレンツに続いてこれ以上、誰かを
そして、そのときは迫っている。
トワントが病に倒れ、ライゼルも危ない橋を渡り続けている。
鉄道公社総裁のラクロアやビリー判事とて、いつ誰に命狙われるかわかったものでない。
しかし同志たちが一番案じているのが総裁パトリック・リーナだった。
財界の大物だけに、いつなにが起きるか分からない。
あれから、メルはまるで成長を止めてしまったかのように、手足は伸びても心はまだまだ子供だったし、パトリックはいよいよ仕事の鬼となっていった。
非情で
あのあとなにがあり、パトリックとメルがそれぞれどう立ち直ったかは長年来の友人たち抜きには語れない。
一夏の出来事だった。
あるいは他の誰よりフィンツ・スターム少佐相当官とルイス・ラファールの存在に希望を感じていた。
あの二人ならやり
あのときほど
心の奥に焼き付いたヒリヒリとするなにか、どす黒く渦巻くなにかを振り払うようにしてパトリックはがむしゃらに駆け続けてきた。
ダリオ・レンセン、カルロス・アイゼン、ワグナス・ハイドマン、そして、ローレンツ・カロリファル公爵と摂政皇女アラウネ。
無念を抱えて表舞台を追われた同志達に
「お父さんは再婚しないの?おじさんたちからは
メルの言う
セシリアは一人娘で親戚も少ない。
長兄ほどでないにせよ弟たちも優秀でベルシティの支店を任されている。
だが、パトリックはゆっくりと首を振った。
メルとセシリアを裏切っているというより、メルとセシリアを裏切らないためにあの誘いに乗るしかなかった。
ベルシティの株主たちはそこまでして金の卵を生み出す鉄の
光栄でもあるし
名士と称されるパトリックが男やもめでいることを快く思わない者は多かった。
地位と身分からすれば女性には困らない。
愛人の一人や二人いたとて誰も驚かない。
だが、それ以外の事に関しては周囲の
愛人と
そして、セシリアの寄せてくれた信頼と誠実な愛を裏切りたくはない。
それ以上にもう大切な誰かを
セシリアを妻にしたのはその財産や地位が目当てだったわけではない。
仮に異なる選択をしていても、大都市支店の部長程度には出世していた。
そのことを証明するためにも、一人残されたパトリックに出来ることと言えば、セシリアの空席を
「残念ながら考えたこともないよ。私にはお前という娘がいれば、それで十分だ」
正しくは散々考えさせられた結果、なるに任せたのだ。
選択の余地なくそうなった。
「今でもお母さんを愛してるんだね?」
「まあ、少し照れくさくはあるがそういうことだ」
それだけは事実だ。
「ちょっとだけ安心したよ。今になって、他の誰かをお母さんなんて呼びたくないから」
それはメルの本音なのか?それとも皮肉なのか?
だが、どうだっていい。
どの道、もう誰も選ばないし選ぶつもりもない。
その苦しさを知りすぎてしまった。
「そうか、心に
パトリックは穏やかな笑みを浮かべつつ、メルが自分の手を離れるその日を想い、
いずれ、自分の手を離れるメルを送り出す日は遠からず訪れることだろう。
ただなるべくその日には晴れやかな笑顔と共に送り出してやりたい。
それが、一人娘のメルに対する
(私の手の届くところにいる間は幸せな娘でいさせたい。今となってはそれだけが、私のような
それがなんの障害もなく親子水入らずで過ごす最後の昼食になるとも知らず、メルとパトリックはゆったりとした時間の中にいた。
皇暦1187年12月24日
パルム南区旧家群 エクセイル邸
このセカイにクリスマスはない。
したがって12月24日もただの年末の一日に過ぎない。
この日、ディーン・エクセイルにしては珍しくトワントの
大学は既に冬期休暇期間に入っている。
東征の本格化によりシモンもマイオもアリオンもパルムに来ることはないせいで、手合いの申し込みもウィリー・ヒューズ支部長大尉ぐらいになってしまっていたし、そのヒューズ大尉とはテリーやビリーたちと先日飲み明かした。
年始パレードに自分の使うダーイン・アルシェイウスも人形番の耀紫苑にも手伝って
例年ならパレード見物のため
かわりにリィ・エッダが見届け報告することになるだろう。
なんだかせつない話だ。
女皇アリョーネも「アタシの可愛いフィンツ坊や」ことディーンに構っている時間はないようだ。
昨年末の
先月戻って以来、ハニバル・トラベイヨ司令もパルムに詰めている。
更に
昨日訪ねて来てつまらないとこぼしていた。
トワント・エクセイルはまだ
微熱は続いており、
ほんの少し無理をしただけでも、ひどく体に
ただ、暖かい書斎で大人しく読書や書き物をするには十分なほどには回復していた。
その状態が長く続くものではないことも、親子は重々承知していた。
トワントは
ひどく
一段落書き終えたところで、トワントは顔を上げた。
「なあ、ディーン」
「なんだい父さん?」
ディーンは年始に発行予定の新刊の学術書を手に
自分の執筆した論文が文法的に間違っていないか確認するために読み返していたのだ。
だが、今のところ間違いらしい間違いは発見できなかった。
「お前は後悔していないのか?ひどく難しく険しい道を進んでしまったことを?」
「全然、まったく、これっぽっちも思わないね」
その言葉が“二重生活”のことを言っているのだとしたら、もう慣れきってしまった。
「今更わたしや家に義理立てなどしなくてもいいのだぞ。お前にはこれから・・・」と言いさしてトワントは軽く
ひどく思い詰めた様子のトワントにディーンは複雑なまなざしを向ける。
やはり、ライゼル伯爵やパトリックたちの忠告を聞いておくべきなのだろうか?
今なら父のためにだと無理を言っても大丈夫だと思えた。
4日前の出来事を思い出す。
あのとき、確かな
「
嘘だ。
ディーンは後悔を二つしていて一つはトワントに
もう一つの後悔は表情にも口にも出せない。
それが誰のためだとしてもだ。
ディーンはこの若さで自分のために生きようと思うことは
騎士団のため、
「そうか・・・そういえばお前の
トワントの本当に
よく支えてくれたスレイにもトワントは礼を言って
そういう
教育者として本当に学生たちになにが必要かちゃんと分かっている。
「ありがとう。でも、
ディーンは
そこには長年にわたり
いずれはメルやルイスが教科書として使うかも知れない。
とてもよく出来ている。
その内容なら
実際、二度も使われた
この父に対してだけは一度も使われなかったことだけが安心出来ることだったが、よもやあんなことになるとはとディーンは数年前を振り返った。
ディーンがフィンツになった日。
そして、
「エクセイル家の
トワントは
ディーンが「フィンツ・スターム少佐」と呼ばれるようになり、事を
「父さんにそういって
ディーンは苦笑した。
元々、トワントは息子たち家族にはかなり甘い父親であったが、当代一流の学者としては、弟子や学生達には厳しいことで知られている。
「ところで、最近は睡眠時間はとれているのか?」
「まったく問題ないよ。なにしろなんにもない。それにスレイが助手になってくれてから、健康を
今は本当に
しかし、いつ
「そうか、スレイくんがいてくれて本当に良かったよ。フェルディナンドにも礼の手紙をしたためたが、逆に感謝されてしまった」
スレイの
シェリフィス家への養子入りやブリギットの一件など、友情に
財政再建のため、身を切る改革を切り出さざるを得ないライゼルにとっても頼りになる盟友だと聞いている。
それでもワグナス・ハイドマンが居たらもう少し二人とも楽が出来たかと思うと実にやりきれない。
「それより、ベックスの
まさかトワントがそのベックス
「あいつはあいつなりにお前の将来を考えているのさ」
「でも、そういう心配やら気遣いやらが
恩師にして恩人であるベックス・ロモンドに対し、ディーンがこれほどまでに痛烈な言葉を吐くことがトワントには信じられなかった。
しかし、それを真っ向から否定することも今のトワントには出来なかった。
「ディーン?」
「多分、みんなが考えているのとは逆だよ。正直、あっちはもうやめたいんだ。それが出来ること、許されることならね。でも今はそういう時期じゃないから、言わないし言えない」
あっちとは
ディーンの性格と傾向をよく知るトワントからしたら、
だが、トワントの父親で先代のギルバートはディーンを
素直で
「・・・・・・」
「わかってるだろう父さん、僕が幼い頃からどれだけ辛くて
口で言う以上のプレッシャーに幼い頃から
師匠達に恵まれ、
だが、本質的に学者肌だ。
トワントは幾度となく自分と比較し、あるいは歴代エクセイル家でもかなり非凡なのかも知れないと考えてしまう。
その意味においてだけはギルバートに似ていた。
エクセイル家中興の祖たるギルバート・エクセイル一世と同じ名を冠した父は超一流の学者であり、ディーンの才能はあるいはそれ以上だ。
だいたいロクに英才教育もされてもいないのに僅か数年の独学で祖父や父と肩を並べる域に到達した。
驚きと
本当に分析や説明が難しい子だ。
「お前そんなに・・・」
それでも強い。
騎士として学者としてというより人として。
「正直な所、父さんがこんなことになって心配したり苦しんだりしてる一方で、なによりほっとしてるんだ。やむにやまれぬ事情って奴が皮肉にもボクを望み通りに後押ししてくれている。無茶をしてるってみんなから思われているけれど、今なら多少無理してでもやれるからさ」
多少どころではない。
なにもかも
それこそ、トワントの絶望さえもだ。
「そうか、そうだったのか」
トワントは常日頃息子に感じてきた“心配”が的中したことに、僅かに胸を痛めた。
「そうではないか」と思ってきた。
しかし、「それではあまりに辛い」と痛切に感じずにはいられなかった。
親たちと大人たちの身勝手な期待がディーンに
無論、トワントになんの
「いつか話そうと思ってたんだ。でも多分、こんな風にゆっくり話せる時間もないと思うし、父さんがみんなと同じように誤解したままじゃ、とてもじゃないけれどやりきれないって思って」
「・・・わかった・・・」
トワントは決意を秘めたまなざしでディーンを
「ならばもうお前の書いた論文に私の名前を使うな。そして、本日より正式にお前を私の後継者と
「・・・・・・」
ディーンは絶句して黒縁眼鏡の奥に光る目を
「まだ誰にも話していなかったが、私は来春にも教授を退官する。引退した
「父さん?」
「春まではすべて今までどおりになるよう手配はしておく、お前は私の名前でも経歴でもなんでも利用して好きにやるといい。だがなにを書いても決してお前以外の名を記すんじゃない。それは私が許さない。それにな・・・」
「それに?」
「そろそろ道が分かれるときだ。私が長年あたためてきた仮説とお前がこれから作ろうとしている仮説。それが決定的に別れる時期にさしかかっている。それがお前の書いた論文の行間からつぶさに読み取れた。だから、私は私として
実際、少佐相当官の女皇正騎士より家名を継ぐことの方が意味が
「はい、父さん」
「立派な息子に育ってくれてありがとう。きっとお前の母さんもお前を誇りにしているよ」
おそらくディーンはまだなにも知らない。
しかし、知って苦しむようなやわな息子ではない。
むしろ・・・。
「ありがとう、父さん」
突き放すような厳格な言葉とは裏腹に静かに落涙する小さくなった父の背中に手を置き、ディーンもまた静かに涙を落としていた。
2年と少し後、彼らの間には本当の別れが訪れることになる。
だが、この日から親子ははっきりと永遠の別れを意識しながら生きていくことになる。
そのための欠けたるピースも程なく埋まるのだった。
皇暦1188年1月4日午前2時
パルム東区 シェリフィス邸
元老院議員フェルディナンド・シェリフィスは今夜も午前様だった。したたかに
「今帰ったぞぉ」
玄関先で大声を張り上げる。
出迎える者などほとんどいない深夜だ。
妻のアリシャ・シェリフィスはすでに休んでいる。
「お帰りなさい、父さん」
居間で読書をしていたスレイ・シェリフィスは寝間着姿で父を出迎えた。
「おお、スレイ。まだ起きていたのか?」
「そろそろ切り上げて休もうかと思っていたんだけれどね」
スレイは好きで実家に居るのではない。
誰にも相手にして
元日のパレードでメルたちとディーンの・・・いやフィンツ・スタームたち女皇正騎士の勇姿を見物し、一仕事終えたディーンと飲み明かした。
女皇正騎士の白い軍服姿のディーンは見慣れていたが、礼装を見る機会は初めてで、改めて
礼装姿のディーンからトリエル・シェンバッハ副司令大佐やアルゴ・スレイマン次期司令、ビルビット・ミラー少佐、マグワイア・デュラン少佐、パベル・ラザフォード提督、ティリンス・オーガスタ少佐、一番若い耀紫苑少佐といった女皇騎士団の主要メンバーたちも改めて紹介された。
彼等「スカートのしもべ」たちは表と裏の
そしてスレイ自身には表の
パレードを終えた礼装のディーンたちとメルやルイスたちと写真を撮って
パトリックは年始早々だというのに諸方面への
そして翌2日はベックス・ロモンド邸に年始の
同じ東区に住むせいもあり、しょっちゅう出入りしてはいる。
兄弟子のイアン・フューリー提督とも前日と同様に対面し、長時間話し込んだ。
内容は相当深刻だ。
当然ある筈のものがなく、終わる筈のものが片付かない。
理由はわからない。
三人寄れば
イアン
ついでに英気を
そして義父が帰宅したというわけだった。
「そうか、それはすまなかったな」
その半分は口止めのためだ。
「大分お
「
「お年を
「なにを言うか、まだまだ
最近、小さくなった背中を抱えながらスレイは複雑な表情を浮かべた。
幼い兄弟を無情に引き裂いた張本人。
子供心にあれほど憎んだ男の背中が
父を居間のソファーに横たえて、スレイは水差しを手にした。
グラスになみなみと水を注ぎ、フェルディナンドの手にそっと渡す。
「ゆっくり飲んでください」
「おお、すまんな」
フェルディナンドはゴクゴクと音を立てながらグラスの水をゆっくりと飲み干す。
昔はよく考えたものだ、この水差しに毒を盛っておけば簡単に亡き者にしてやれるのにと、そうすればこの家からも解放されて本当の意味で自由になれるのにと。
「あまり無理はしないでくださいね、母さんも心配しています」
今は心にもない
もっとも、多分に言葉の内に毒を
「なにを今更、大体アリシャがそんなに可愛げのある女ならば、
「やめてください、使用人たちが何処かで聞き耳を立てて聞いているかも知れませんよ」
「なんのなんの、あいつらが一番わかっている話じゃないか。あの連中ときたらアリシャの顔色はしきりと
フェルディナンドは後の言葉を飲み込んだ。
かわりに不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「ふん。結局、
「やめてください、僕は“スレイ”です」
「はは、すっかり『優等生のいい子ちゃん』ぶりが板についたな。手のつけられない不良少年だったお前が」
世の中のすべてを憎み、背を向けた過去。
その意味でベックスやイアンに感謝しなければならない。
ポーカーフェイス。
勝負師は表情から少しでもなにか読み取られたら確実に負ける。
別に不良少年でなくなったわけじゃない。
もっと
他人の命を背負い、心に刃を抱く者はそうするべきなのだ。
今の自分を
笑顔に下に抱えた
ただ、その怪物もなにか満足できる物を見つけたらしくこのところは大人しくしている。
ああ、多分それは去年の夏・・・。
「もういいでしょう、父さん。なにか嫌なことでもありましたか?」
「嫌なことか・・・全部、なにもかも、この世の、この人生の、なにもかもすべてが嫌なことさ」
「父さん、よしてください」
「今にお前もわかるさ、この家を継ぐというのはつまりはそういうことなのだ。富と名声を引き替えにして、他のありとあらゆる人生の喜びをドブに投げ込むような馬鹿げた行為だ。
エルシニエ大学の大先輩。
そして国家公務員上級試験合格者。
フェルディナンドはその意味で息子の尊敬に値したが、それだけだった。
「そうですね」
スレイは
「ティベルのことがなければお前もこの家を飛び出していたのだろう?」
「・・・・・・」
スレイにはなにも答えなかった。
いや、不意をつかれてなにも答えられなかった。
一体全体、今夜のフェルディナンドはどうかしている。
普段なら決して口にしない母アリシャへの本音や、スレイが捨てさせられたアリアスの名、更には弟ティベルの名まで持ち出すなど到底考えられなかった。
心の奥底にわき上がる動揺を隠せないスレイをじっと見据えるフェルディナンドの瞳がいつの間にか正気の色を取り戻している。
「元気そうだったよ、またあの子になけなしの金を与えてきた。あの施設もしばらくは生活に困ることもあるまい」
スレイの目がはっと見開かれる。
これほど裕福な家であるにもかかわらず、当主のフェルディナンドの自由になる金はほとんどない。
それでも日々の生活に困ることはなく、使用人たちが用意したもので十分すぎるほど
それはいかにも余計な金を持てば浮気や
行動を
これが代々続く、女系一族シェリフィス家の伝統だ。
授業料や書籍代、弁当などはすべて与えられる。
勿論、食事代などは与えられるが小遣い銭程度であり、まとまった金など自由には出来ない。
スレイはそうしたなけなしの小遣い銭やディーンの世話係をして得られる報酬、
そして、スレイは知らされていなかった。
フェルディナンドもまた議員報酬のすべてをティベルの預けられた孤児院に寄付していることを。
それでも足りないので、
「あそこは確かに貧しいがとてもいいところさ。長いテーブルに子供たちが並んで座って食事するんだ。
議員らしく
「・・・・・・」
スレイは黙って唇を
「あのとき、お前たち兄弟を引き離さなければ良かったと何度も思った。だが、今はティベルをあそこに預けたことに
「父さん?」
「あれも小さい子供たちの世話係で大変だろうに、お前のことをとても案じていた。なあに、兄貴は兄貴でちゃんとやっているから心配するなと伝えてきた。それでいいのだろう?」
「はい」
「養子の苦労は辛いな、能力以前に全人格を試されているような気になる。針の
「この僕を養子に選んだあなたご本人とそんな話をする機会があるとは思っていませんでしたよ」
「そうだな
「そうなんですか?」
スレイは
「なあ、スレイ。これだけは聞いて欲しい」
フェルディナンドは一点を
「若いうちは絶対に小さく
「どういう意味ですか、それは?」
「馬鹿な男ほど始末に負えないものはないさ。最愛の恋人を裏切って地位と栄誉を選んだ馬鹿な男。名ばかりの家に
「そうでしたね、ええそうでした」
スレイ・シェリフィスがはっきりと憎悪を向け続ける男が三人いた。
「見習うなよ絶対になっ。でないと一生かけて後悔することになる、
スレイが心の底から憎悪する三人の男・・・実の父、ダリオ・レンセンはスレイとティベルとが幼い頃に亡くなり、
将来を
その死を
金権主義の俗物を画にしたような醜悪な養祖父ヴェルナールもまた先年故人となった。
今やこの世に生きているのは一流の政治家にして三流の父親である養父のフェルディナンド・シェリフィス唯一人である。
だが、なぜかこの晩はそんな憎悪の心が揺らいだ。
父の口から初めてティベルの名前が出たせいだろうか?
それともなにかフェルディナンドに共感を覚えたからだろうか?
「
忘れようとして忘れられるものではない。
「今夜はこのままここに寝かせてくれ、到底あれの所に行く気にはなれない」
「わかりました。毛布をご用意します」
「助かる」
毛布を手に戻ったとき、スレイはフェルディナンドの背中が小刻みに揺れているのに気づいた。
いったい、なにがあったのだろう?
いったい、なにをおもったのだろう?
いったい、なにがこの鋼の意志を持つと言われるこの男をこうも
「お風邪を召しませぬように、父さん」
スレイはフェルディナンドを
まとわりつくようななにかに頭が混乱してしまい、そう簡単には眠れそうにはないと感じながら・・・。
一昨日の晩に、フェルディナンドはかつて彼が心から愛した婚約者のブリギット・ハルゼイを
彼にその死を知らせてきたのはヴェルナールの猛反対で遂に養子に迎えることが出来なかったスレイの実弟、ティベル・ハルトだった。
スレイとは年子で20歳の青年になったティベルは
その際にブリギットの死も伝えることになった。
兄を養子に迎えるにあたりシェリフィス家が幼い兄弟に課したのは、二度と会ってはならないという過酷なものだった。
スレイは度々禁を破り弟に会いに行ったがティベルは決して取り合わなかった。
弟を心配する兄を体よく追い返す役目を担っていたのが厳格で生真面目な一人の
まだ幼なかったスレイは壁のように立ち
幼年期を脱したスレイはそんな彼女にすまないと思う気持ちが強くなっていった。
そして、家と養祖父、養父母を激しく憎み、ありとあらゆる悪態をその全身で
だが、スレイは文字通りにある日突然にして
それには滅多に動揺しないアリシャでさえ驚いたほどだ。
将来を誓い合ったフェルディナンドに捨てられたブリギットは
財務官僚から名門政治家一族に迎えられ、その一員となった者には容易に会ってはならないという覚悟と決意は、幼い兄弟たちだけに向けたものではない。
誰より自分自身に向けたものだった。
愛する男に裏切られたブリギットが貧困と
妥協や
だが、鋼の男をしても無理は通らない。
フェルディナンドの知る限り、元老院は一度として福祉施設への助成金を上乗せしたことはない。
国家騎士団に回す莫大な年次予算のほんの一部で事足りるというというのに、
その癖、「年次予算が足りない」と言っては自分たちが
結局、フェルディナンド・シェリフィスに出来たことと言えば、多くの身寄りのない子供たちを抱える孤児院に彼自身の懐から申し訳程度の資金援助をすることだけだった。
女当主アリシャ・シェリフィスも夫が自ら稼ぎ出した金の使い道をとやかく言わなかった。
スレイ・シェリフィスことアリアス・レンセンの弟、ティベル・ハルトが一家離散後に預けられたのはその孤児院であり、密かに手配したのがフェルディナンド自身であったことをスレイが知るのはずっと後のことである。
そして、そのときになってはじめて、スレイはフェルディナンドの言葉に
フェルディナンドこそは
皇暦1187年12月26日
パルム南区旧家群 エクセイル邸
「なんかメルのとことは違った意味ですんごいお屋敷だわ」
ルイス・ラファールが正直な感想を漏らしたのも無理はなかった。
エクセイル家の屋敷は広くもなければ豪華な作りでもない。
ただ、控え目でも
それは史家の家だからというわけでも、歴史あるパルムの旧家だからというわけでもなかろう。
歴代の当主たちが命を賭けて刻んできた歴史の一つ一つが古びた家を大きく見せている。
「なんだかこちらはこちらで手強そうだけれど」
そうひとりごちて、ルイスはおもむろに屋敷に入った。
「ごめんください」
玄関先で声をあげる。
ややあって、遠くから足音が近づいてくる。
「はい、どちらさまで?」
「ディーンくんの友人でルイスと言います。お取り次ぎを」
「まあ、それはそれは。少々お待ち下さいませ」
足早に立ち去った初老のハンナを見送り、ルイスはふうと息をついた。
(やっぱり早すぎたかな)
時間がではなく、時期が。
少しだけ後悔しながら、ルイスは庭先を
手入れの行き届いた庭はそれだけで人を安心させる。
季節が冬ということもあって
そういえば、一週間前のパーティ
「お待たせっ」
普段着姿のディーンが現れる。
相変わらず不健康な
「おじゃましてもいいかしら?」
「ええ、喜んで」
来訪の理由も目的も聞かずに通されて、拍子抜けしながら案内されるままに玄関を奥へと進む。
「来た早々で悪いのだけれど、もし良かったら父に会ってくれないか?」
「トワント・エクセイル教授に?是非ご挨拶したいわ」
「ありがとう。実は父がね、君が来るのをとても楽しみにしていたみたいなんだ」
「アタシなんかで良かったのかな?メルを連れてきた方が・・・」
「病人の我が
「わかったわ」
ルイスはディーンに案内されるままに階段を昇った。
吹き抜けの天井が冬の日差しを招き入れる。
しんと静まった屋敷は無言のうちにルイスの来訪を歓迎しているようだった。
ディーンは二階に上がってすぐにある一室の前で足を止め、小さくノックした。
「父さん、入るよ」
「おじゃまします」
「やあ、これはベックスの話に聞いていた通りの本当に美しいお嬢さんだ」
トワントはベッドに体を横たえていた。
病状は回復に向かっているとはいえ、医師からは無理を禁じられている。
そして、一番驚いたのはトワントの全体的な雰囲気がどことなく実父エイブに似ていた。
実際に「本当の事情」を後に夫から聞いたルイスはそういうことだったのかと身を
「
本当に
雰囲気が似てはいるがエイブとトワントは別人だった。
「息子から聞いているかと思うがこの通りでね。残念ながら大学の方で君たちを教えるにはまだ時間がかかりそうなんだ。ただ是非とも話に聞いている君に会いたいと思ってね」
ベッドに体を横たえながらも顔色は割と良い様子にルイスは
「思っていたよりもお加減が良さそうで安心いたしました」
「ディーン、すまないが下にお茶の支度を。それから少しばかりお嬢さんと二人きりで話をさせてくれないか?小一時間ほど彼女を借りたい」
「はい、父さん」
後ろに控えていたディーンは静かに戸を閉めた。
小さな足音が階下に消えるのを待つようにしてトワントは口を開いた。
「ところでエイブは元気ですか?」
ルイスの顔色がさっと変わる。
控えめな態度と表情はそのままに口元には緊張が
「私の父をご存じでしたか?」
メイスの父、エイブ・ラファール少将は国家騎士団の
ただし、ある事件により降格もし、出世コースからは外れていた。
中央勤務ではあるものの、国軍司令部勤務。
現状、出世に近い連中はパルム国家騎士団中央司令部かフェリオ国境付近に居た。
先年、
ルイスの兄シモン・ラファールは大佐で、東方外征の武功で
「ラファール准将」が二人いるというのは組織としてはなにかとやりにくいのであろう。
「はは、なるほど。ただの学者と国家騎士の
「そうでしたか、残念ながら父とはもう何年も会っていません」
「そうか、人の噂には聞いていたのだがね、寂しいことだ」
トワントは僅かに
エイブが実の娘であるルイスを
その呆れ果てた理由についてもだ。
「しかし、どうして先生は私を?」
「少し前に見た入学名簿に見知った名があった。ラファールといえば名門の騎士家だし、『じゃじゃ馬ルイス』の話はエイブたちからよく聞かされていたからね。一応、人を使って 調べてもみたよ」
「そうでしたか、お恥ずかしいことです」
ルイスは僅かに身を小さくした。
彼女がエクセイル家を了解なしに訪問した理由は自分の身の上やら「任務」とはまったく関係がない。
そんなときに意外な口から意外な話が出たことで
「実を言えば、あの子に近づくためではと案じたりもした。だが、それならそれで偽名を使うだろうし、本名で堂々と入学してきたから、騎士を廃業して別の道に進もうとしたのだろうかとも考えたよ。あれからもう随分時間が経つというのに、ディーンの口から一向に君の名前が出てこないので不思議に思ったほどだった。11月の半ばに『再会した』のだと聞いたよ」
「ご子息とお会いしたのはまったくの偶然でしたから、たとえ何か仕組まれていたとしても少なくとも私の預かり知らないことです」
「そうだろうね。見たところ君は私のような
ディーンの相棒なのだから、スレイは大学に出て来ないトワントとも接する機会があったのだ。
「不器用ですよ。騎士であろうとなかろうと、騎士家に生まれついた人間は皆といっても
ルイスの言葉には小さな
ルイスとエイブ親娘の
間で苦しむ者がいると分かっていても、お互いに一歩も
「そうだね。エイブも表裏のない男だった。
あの出来事についてもエイブ・ラファールは一切弁明しなかった。
要職にありながら、事件当日に不在だったのはエイブの落ち度でなどない。
むしろカミソリ不在の隙を突かれたのだ。
「なにもかもお見通しなんですね。父が男として正直であることを正しいと信じている限り、娘の私とは生涯かかろうと
「そうか。同じ子を持つ父親としては辛い言葉だな。それでも人間長く生きると自然に理解できることもある。ただ今はそのときでない。たったそれだけのことだよ」
そう言うと、トワントは穏やかに笑った。
「君はあの子を見てすぐに気づいたかい?」
「はい、勿論です」
「今日、こうしてわざわざ訪問した理由もそれかな?」
「はい、是非確かめておきたかったのです。これから彼と、彼の望んだ形で普通に接していくためにも・・・」
ルイスは自然に直立不動の姿勢をとっていた。
パルム市内のどこにでもいる女学生にしか見えない服装とは裏腹に、ルイスの姿は別のなにかに見えた。
「あの子は筋は必ず通す子だ。そしてその
「はい、もう十分にお答えは頂けたものと思います。そして、隔てていた壁と誤解がなくなった以上は謹んで申し出を受け入れたいと、それが私の本心です」
ルイスは直立不動で頭を下げる。
遠回りしてしまったのはルイスらしい理由に他ならない。
「なるほど、後で
「はい、わかりました」
「もう一人の彼女・・・パトリックも大変なものだ」
「メルのお父様もご存じなのですか?」
パトリック・リーナとトワント・エクセイルは
「お互いに立場がとてもよく似ている。あいつも今でこそ銀行屋の『総帥』だとかいう肩書きだが、学生時代には貧乏しているアイツらに食事やら寝床やら生活費やらを世話してやったもんだ。それこそしょっちゅうここに通い詰めていた。もっとも今となってはそんなアイツから、貸し与えた何十倍もの研究資金を大学を通じて出して
「そうでしたか」
「私にとっては君のお父上以上に古い友人たちで、もう随分と長く会っていない気がする。それでも離れて暮らす彼らの事を身近なものとして信じられるのはどういうわけだろうと思うことがあるよ。いざというときに自分の大事な子供を
「そんなまさか・・・」
ルイスの血相が変わる。
「そういうことだ。口に出さなくても分かっている。そして、君の目的と使命とがウチの子じゃないのなら、あの子なんだろう?」
「・・・・・・」
「沈黙は雄弁だね。沈黙とその
「わっ、わたしは・・・」
「再会したとき正直なところ驚いただろう?あの子は君に
「・・・・・・」
「いいんだ。君と話をしたかったのは君を責めるためでも、脅して口を割らせるためでもない。ただ、力になりたいと思ったからなんだ。後見人のアンドリオン女子爵から聞いているだろう?“君に命令を与えるもう一人の存在”について、そしてそれが世間から隠されている事情もね。つまりそれが私であり、私的には2日前に
「いったい、教授は私になにが出来ると?」
興奮し
大事な家族を
おそらく、ハニバルやベックスはそれで不安を感じずにいられなかったのだ。
焦る理由が手に取るほど分かるだけに。
「君が抱える本当の事情について、ベックスはなにも知らない。私も色々な偶然や
「わかりました。ご忠告は終生この
トワントは遠くを見るようにして、自身の読み解いたこれから起きるシナリオとその結果とに思いを
「これから大変なことになる。パトリックとライゼルはとっくに腹をくくっているし、なりを潜めていたベックスもいよいよ動くと聞いている。我々のような大人の事情に君たちのような若者が
「はい」
「そして、出来ればあの子を支えてやって欲しい。あの子の心は5年前から少しも変わっていない。子供の頃から大人の事情に
「はいっ」
「いつの日か、あの子は自分の精一杯の力で夢を叶えてくれると信じている。残念だが、そこまでの長い道のりを私は最期まで見届けることが出来そうにない。出来る限り
ルイスはそこまで悪いと信じられずにトワントを無言で
「だが、私は最期の瞬間まで父親としてあの子を信じることに決めたよ。結局、父親は子の行く末を信じて見守ることしか出来ない。もう手を差し伸べてやる必要もない。あの子はもう十分に立派な大人なんだ。そして、いつの日にか君がエイブと和解できたならば、今の私の言葉をそっくり伝えて欲しい。旧友からの遺言として・・・」
「うっうっうっ」
ルイスは低く
男勝りと言われるその身を
「うら若きその身に抱えた孤独と重責。それが苦しいと感じたらのなら、いつでもここに来て泣いていくといい。私が君にしてあげられるのはそれと、あの子の
「うっうっうっ」
床に
トワントはルイスの髪を穏やかな笑みを浮かべ、労るように
「美しい髪だ。君の母上も美しい女性だった。あるいはその
トワント・エクセイルはルイスの母親のことも、彼女が幼い頃からよく知っていた。
ルイスのことだって幼い時分からよく知っていた。
「はい、ありがとう、ございます」
「思い返せば伏せりがちだったウルザのため、一晩中髪を撫でてやったこともあった。このところずっと
「ありがとう、せんせい」
顔を上げたルイスは意を決したように心の底にある思いを言葉にしてみた。
「ありがとう、おとうさん」
トワント・エクセイルは万感の思いを感じて目を細めた。
「ああ、とてもいい響きだ。わたしとあの世で待つウルザへの最高の贈り物だ。わたしたちの選択が正しかったことは君たち以外に証明してくれる者はいない。ルイス、
今日、ここに来て良かったと天の配剤に感謝しながら、ルイスはいま力なく泣いた。
冬の
統一暦1512年9月24日
パルム西区 ファードランド邸
「
ティルト・リムストンはアンナマリー夫人が煎れてくれた紅茶を口に含む。
もう何度目になるだろうか。
「父と子の愛憎劇か。今も昔も変わらぬテーマだな」とセオドリック・ファードランド教授は苦笑した。
ファードランド自身が義理の父親との根深い
実際に勘当中なのはアンナマリー夫人の方だがある意味、ファードランドもセットで“絶縁中”といっていい。
「ティルト、君の父上はどんな方だったんだい?」
「ははは、それこそ一人息子に夢を託すしか無かったしがない
「でも、君は愛してたんだね?」
言外に伝わるティルトの亡父への愛情はファードランドにはよく理解出来たし、そうした肉親への素直な愛情こそティルトから嫌味ったらしさを消していた。
しかし、なぜだかティルトは父親について必要以上に語りたがらない。
ティルトは自分を誇ったり、才能や知性に鼻をかけたり、必要以上に背伸びしたりしない。
だからこそ、皆が協力的になれるのだろう。
「教授のお父様とはどのような方なのです?」
他意などない。
自分の父親について聞かれたのでセオドリックの父親についても聞くのが礼儀だというティルトらしい
「やれやれ、やはりそう切り返されたか。実を言えば、私は実の親にもなかば勘当中の身さ。なにせウチは法律屋の家系で、父は引退前は最高裁書記官。兄はリベルタの地裁判事。弟はこのパルムにて
この年齢で世間的には高名なエルシニエ大学の教授だというのに自身を「道楽息子」と称する。
セオドリックもティルトと同様にあまり自己評価が高くはない。
「意外ですし、そう意外でもないかも知れません。法史学者たる教授の論文ってそのほとんどが過去の法律に関する成立史と改正史でしたよね?そうした意味ではご実家の家業と全く無縁ではないのでは?」
ティルトの鋭い指摘にファードランドはハッとさせられた。
その口ぶりではおそらくセオドリックの論文をすべて読んでいる。
調査のために
そして、既に多くの「仮説」をファードランド教授に提示してきた。
だからこそ、ティルトの一言一句も容易に笑い飛ばせたりは出来ない。
「言われてみると確かに。そもそも私が研究している元の法律の成立や改正がなければ、今の法律だって機能しないのだものな。法律改定に際し、背景となる事情があったことを法史学者として研究している私も広い意味では法律家なのか?」
最初の出発点のせいで自分自身でも
それはセオドリック・ファードランドの肩書きが「史学部法律史学教授」だったからだ。
実際、セオドリックは大学在籍中に司法国家試験には合格している。
だが、判事、検事、弁護士のいずれにもならず、そのまま大学に残って院生を経て研究者となった。
エルシニエ進学時の父親との約束が「司法試験の合格」だったのでそれだけ達成を報告すると後は好きにさせてくれと家を出てしまった。
それが家族達全員を
兄弟でも一番出来が良いと思われていたからだ。
しかし、ティルトの指摘した通りだとすると話は全く別だった。
家族たちの前でセオドリックは自分の仕事や研究について全く話したことがない。
けれども論文の一つでも見せれば兄や弟たちは「そうだったのか」と納得するだろう。
そして司法試験合格が全く無駄だと思ったことは法律史学研究者として一度もなく、必須最低条件だとさえ思っていた。
だが、普通はそう上手く行かない。
そもそもエルシニエ大学内でも「法律史学を法学部に置くべきだとの意見」は根強かったが、史学部の方が圧倒的に長い歴史と格式、伝統とを誇る。
なにしろ大学創設時から存在した。
それでセオドリックは史学部史学科のケヴィン・レイノルズ教授に弟子入りし、ゼミ生を経て史学部内に研究基盤となる人脈を作りつつ、法学部でも並行して学んでいた。
ケヴィンの
可愛がられていただけに、裏切られたと感じたケヴィンが激怒したのも無理はない。
しかしそれはエルシニエ独特の事情だった。
このときは
ただし、不信感も生んでしまった。
もともとは退官時期の迫った法律史学の前任教授が法学部でもとびっきり優秀かつ家系も法律屋という「ファードランド家のテオ坊や」に自分の後任として大学に残って法律史学を研究をしないかと
司法実務に興味がなく、どれを選んでも家族の誰かの
一介の学者に過ぎないセオドリックが知らないのは実際の法律を活用する司法の実態だった。
司法実務経験がないので仕方ない。
セオドリックはありとあらゆる法律とその成立史に精通していたが、どれが死文化していて、実際の運用における序列などは分からなかった。
家族にだけは聞けるまいと考え、家族以外の司法家たちと
そこに
それにそろそろアンナマリーとの間に子供も出来ようという時期故に自分の実家とだけでも早めに和解せねばならないと考えていた。
そんなわけで、後日セオドリックは自分の論文について意見を聞かせてくれと言って家族全員おのおのに自分の執筆した一番新しい学術論文を送った。
真っ先に読み終えた弟は忙しい合間を
「ゴメン、兄さんに裏切られたとばかり思っていた」
すれ違いの怖さを改めて実感したファードランドはドミノ式に、てっきり司法の道を捨てたと思いこんでいた一族と次々に和解し、家族たちは誤解を解いて改めて一族の席にセオドリックとその妻アンナマリーを迎え入れた。
以後、セオドリックは赤の他人に交際費をバラ
そして母にはゼダ国内でも遠方にいるアンナマリーの実母のかわりに、孫の出産時には立ち会ってくれと頼んだのだ。
「歴史ってなんにでも付き
「ところでティルト、君が本格的に研究したかったのは大戦終結直後の混迷期だと聞いたけれども、なんでまたそんな時代を?」
「剣皇ファーン・スタームの伝説ですよ。親父は骨董と古美術を扱ううちにのめり込んだのです」
「剣皇ファーン・スタームねぇ・・・セスタスターム家の始祖というけど・・・」
剣皇ファーン・スタームはその名前だけならば歴史の教科書に記されている。
ところが、彼自身がどのような出自であり、具体的にどのような功績を残したかに関してはピンボケしていてよく分かっていない。
「ボクも雲を
「ほぉ、つまり仮に『いなかった』と仮定したときに不在が立証出来ずに逆に存在した事実がはっきりしたと?」
「ええ、父の扱う品物にファーンの署名入りの指示書だとか、発注書があったそうです。中には仲介して博物館に売却した歴史的価値の高いものもあったというのですが、史学的にさほど重要人物でもなく、大戦後の混乱を収束させたとだけされています。けれど、最終的にどうなったかも不明です。マサカですが『王』とまで言われた男が、たかだかゼダの騎士家で収まりますかね?」
「確かに。そっちはたまたまか、
「ええ、大戦前は恒常的な戦争状態が長く続いたゼダとフェリオ。それが十字軍となるや大同盟の一角で、『双方にとって王族身分』というフェリオ王太子アルフレッド・フェリオンの登場によって十字軍から大戦に続いた歴史において極めて重要な役割を担うことになりました」
《十字軍戦争》と《大戦》を
「剣皇アルフレッド・フェリオンか?西軍のマガール・ブラウシュタインを倒したとされるのだけど、マガールの母国ボルニアもよほどの小国だったのか位置が判然としない」
「それがですね、親父の話だと亡国のボルニアは『さる重要国家』に
「えっ?それはまったくの初耳だ」
「確かに地政学的には合っていそうなんですが幾ら何でも飛躍しすぎていてボクも
「おいおい、もったいぶるなよ。そんなのはいいからさる重要国家って
「ミロア法皇国ですよ」
ティルトはこともなげに言い放つ。
いよいよ第二幕から本格的に登場するミロア
そして通称「テンプルズ」こと「ミロア神殿騎士団」と副団長のミシェル・ファンフリート
そして、現代編においてはティルトにとっても年の離れた
二つの時代の二つの物語を
「なんだってぇ!?」とファードランドは
興奮すると色男が台無しになるほど取り乱す。
EXCELLENTの件も似たようなものだ。
固定概念というものがあるとしたらファードランドに限らず、エウロペアの中原地域に住む人々のほとんどがミロア
実際にファーバ教団は有史以来存在し、法皇も存在していた。
ただ、実際のところミロア
なにしろパルムの真南にある上にかつての旧都ハルファに近く、皇都パルムを伺うような位置関係にあった。
周辺はゼダの支配域だ。
過去形になるのは法都ミロアのみが現在も宗教都市国家として残り、かつてのミロア法皇国の他の地域はゼダ共和国に吸収合併した。
ゼダの《6月革命》の後に、ファーバ教団は組織縮小のため法都ミロアのみを教団の象徴として
いわずもがなゼダ共和国民は
「しかし、また随分と大胆な仮説だねぇ。ウチの師匠・・・じゃなかったケヴィン教授が聞いたら頭ごなしに
「でしょうね・・・。ただ親父の言ってたことにも一理ありそうなのが、大戦収束後の9世紀頃より以前の教団文書が中原各地に散在していて、一括管理するミロアがあったとは思えないそうなのです」
「しかし、そもそも法皇という存在そのものは紀元前には居たのだろう?それでいて9世紀まで特定の居場所がなかっただなんて考えにくいな」
「
「うーん、逆説的に9世紀以前にも『ミロア法皇国があった』ことの証明か、確かに研究してみるだけの価値はありそうだね」
そもそも其処まで大胆な発想はセオドリック・ファードランドの知る限り学界人の誰にもなかった。
しかし、ティルトはこれまで幾つもの「常識」を
「ミロアにはいずれ。なんでもリザがファイサル・オクシオン
「いやはや、話がかなり大きくなってきたなぁ」
依頼人の一人であることも忘れてファードランドは驚きと興奮とを覚えずにはいられなかった。
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