異世界の旅館

 異世界にて。俺達は最近、とある旅館で寝泊まりしている。『楽園の間』にある洋館にはない「温川おんせん」という施設がここにはあるのだ。温泉と似たような施設だが、少し違っている。



 温川について語る前に、この世界の風呂文化について説明しよう。


 そもそもこの世界は、水を贅沢に使える環境とは言い難い。日本の様に上下水道が整っていないので、川の傍でもない限り水を大量には使えないのだ。

 上下水道が整わなかった原因の一つとして魔道具の存在がある。水属性の魔石を加工してウォーターサーバーのような魔道具を作る事が出来るのだ。そのおかげで、飲み水程度の量なら清潔な水を手に入れる事が出来る。また、聖属性の魔石を加工すれば、下水を消毒・脱水してくれる魔道具も作成可能だ。このような背景があって、上下水道が発達しなかったのだ。


 そういう訳で、水で濡らしたタオルで体を拭く事はあっても、湯舟に水を溜めるという文化は発達しなかった。


 ただ、一部のお金持ちは川の傍に邸宅を構え、川で水浴びする事はあった。そんなお金持ち達の中には、高価な魔道具を使って川の水を浄化したり温水にしたりするシステムを開発する物も現れた。

 そして、これが「温川」の由来である。


 今では魔道具が安価になったりした結果、公衆浴場や温川付きの宿もちらほらあるようだ。とは言え、温川付きの宿はそこそこ値が張るし、ましてや各部屋にプライベートな温川がある宿ともなれば高級宿とみなされる。



 そんな宿に俺達が泊れているのには訳がある。ここの宿の主人がエスケープラビットの肉を大層気に入ったそうで、「宿泊費をタダにするからエスケープラビットの肉を定期的に卸してくれないか?」と話を持ち掛けてきたのだ。

 そんな訳で、俺達三人はエスケープラビットを納品する事で、高級宿の一室を使わせてもらっている。最初、ランクが高い部屋を提示されたのだがそれは遠慮して、ランクが低めな部屋を使わせてもらっているのだが、三人で暮らすには十分広い。



「という訳で、今度は化学のテスト勉強だよ。アユ君なら楽勝だと思うけど、一応ね」


「よろしくお願いします、加奈先生」


「ん。……先生。えへへ」


 テストが迫ってきているので、今日はこっち異世界でも勉強する。教材を持ち込むことは出来ないけれども、知識は持ち込めるので、加奈が先生となって教えてくれるのだ。

 万が一、加奈に分からないことがあれば、姉さんに聞けばいいだろう。


「まずは、元素周期表だね。念のために書いてみて」


「おけ。……。出来た」


「合ってる。じゃあ、第一イオン化エネルギーと電子親和力の意味と、その値が高い順、低い順について説明できる?」


「イオン化エネルギーは、ある原子から電子を奪い去るのに必要なエネルギーの事で、一般に右上の方が大きい」


 具体的にはヘリウムが最大である。

 逆に左側にあるアルカリ金属、ナトリウムやカリウムはイオン化エネルギーが小さく、容易に電子を奪い取れる。電子が奪われたナトリウムやカリウムはその結果、Na+やK+のようなイオンと化すのである。


「電子親和力は、ある原子が他の原子から電子を奪い取った際に放出されるエネルギー。フッ素が最大で、一般に右上に行く方が大きい。ただし希ガスは低い値を示す」


 フッ素は電子親和力が非常に高く、他の原子から電子を奪い取る能力に長けている。その能力の強さはフッ素の反応性の高さにうかがえ、フッ素の単体を分離する実験は長年失敗が続いたそうだ。



 丸暗記が必須な部分、理論を理解しないといけない部分、そして理論を知っていれば解けるが丸暗記した方が手っ取り早い部分。化学はそれらが混ざっているからなかなか勉強に苦労する。

 上記のイオン化エネルギーや電子親和力については、理論で考えて答えを導き出す事も可能ではある。が、丸暗記してしまっても良いのではないかと俺は思う。こういう判断が難しいのだ。


 とはいえ、まだ理系科目は得意な方。少し勉強すれば突破できると思う。


 逆に、今一番ヤバいのは地理だ。今回のテストは国名や主要な都市名、河川や山脈の名前が出題されるのだが、結構きつい。ゴロやこじつけを使って無理やり頭に詰め込まなくては!



「……イギリスにあるのがアペニンだっけ?」


「違うよ、アユ君。イギリスにあるのがペニン山脈。イタリアの方がアペニン山脈だよ。イタリってアが付いてるからペニンって覚えるといいよ」


「なるほど。こじつけだけど、納得はした。もう間違えないと思う」



「うーん!! 疲れてきたし、温川行かない?」


 姉さんがやってきてそう言った。外を見ると空が赤く色づいている。


「だな。風呂で口頭の確認テストを受けようかな?」


「ん。湯浴み着、取ってくるね」


 残念ながら……ではなくてありがたいことに、この旅館には湯浴み着が常備されている。湯浴み着のおかげで三人一緒に入れると考えるべきか、湯浴み着のせいで彼女らの裸体を拝めないと考えるべきか。非常に難しい問題である。




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