第28話 エピローグその1
その朝、俺は朝のお勤めをすませると出かける準備を整えた。
檀家の佐藤さん宅の年忌法要の予定だ。
左肩はまだ痛むが、だいぶ動かせるようになっていた。
「行ってくる」
俺は一言、そう声をかけて庫裏を出る。
「行ってらっしゃいませー」
明るく返事をしてくるのは、麻耶だった。
寺の人間っぽく、朝から作務衣を着ている。
朝食の後はそうじ。
本堂だけでなく、寺全体の大まかな掃除もしている。
墓参に訪れた檀家の方々の評判もとてもよい。
よいからこそ、少々困ったことになっていた。
中古型落ちのスバルで佐藤さんのお宅に伺う。
一礼して、お仏壇の前で読経。
そして、いつものことだが、人恋しさもあるのだろう、お茶と菓子を勧められる。
「和尚さんのところの娘さんは、坊守さんになるのかね?」
ぶっ。
「いやいやいやいや。佐藤さん、どこからそんな話を」
「檀家は皆噂してますよ。堅物の和尚さんが嫁をつれてきたって。あ、嫁って言っちゃいかんのだったよね」
坊守というのは、僧侶の妻の呼び名でもある。
妻帯が許可されても、教義的におおっぴらに妻帯するわけにもいかない僧侶の妻のことを、寺や坊舎の番人という意味の「坊守」と言い訳したのがはじまりらしい。
らしいが、そんなことは問題ではない。
「噂……になってるんですか?」
「働き者の、かわいい嫁さんらしいじゃないか。バイクで買い物に行く姿を、みんな見ているよ」
「あの……、彼女は知人の娘さんで、今は寺でお預かりしているだけなんですよ」
「ほう、そうかいそうかい、じゃあ、そういうことにしておこうか」
あかん、ダメだ。
信じてないな。
あの事件の後、西方十字会にとって、よきにつけ悪しきにつけ揉め事のネタになるだろう、麻耶のことを一旦隠す方向に決めた。
借りは作りたくはなかったが、「結社」の連中がいろいろ配慮をしてくれた。
船上の戦いで傷を負い、そのまま攫われてしまったと。
その上で、別の戸籍を用意して、現在は俺の寺に居候中である。
藤倉さんは、教会の再建に忙しい。
費用捻出のため、「機関」の仕事も倍増らしい。
聖母騎士修道会も古の栄光騎士修道会も、特にコメントは出していない。
特に、古の栄光騎士修道会は、内部粛清の嵐が吹き荒れたらしいが、そのあたり、俺の知ったことではない。藤倉さんはいろいろ工作中だ。バチカンあたりに仲裁に入ってもらっているとも聞いた。
まあ、いろいろ白々しい動きなのも事実だ。
名前は相変わらず「藤倉麻耶」だし、知人にもそう名乗って、友情継続中なので、きちんと調べればわかるのだろう。ただ、関係者がことごとく倒れ、重要人物が消えてしまった今、プライオリティが決して高くないことを、こそこそ嗅ぎまわるようなヤツはいない。
が。
麻耶がうちの寺に来るのを嫌がらなかったのは、少し想定外だった。
通えるライブハウスもない。
コンビニもない、こんな山寺で、女の子のやることは、ほとんどない。
ないはずだった。
とりあえず、ほとぼりが冷めるまで預かって、教会の再建が完了したころに父親のところに戻すつもりだったのだが、嬉々として寺の仕事を覚えていく。
嫁とは言わずとも、本当に坊守としての仕事は一通りこなしてしまいそうだ。
どうしたものか。
檀家の皆さまは、好意を持っての噂としても、女の子の身の回りに立っていい噂ではない。
「持っていきなさい」と言われていただいた大根やら人参を抱え、寺に戻ると昼食が出来上がっていた。
「涼真さん、今日は外で食べませんか?」
境内のベンチに二人で座る。
その間には、おにぎりと卵焼きや唐揚げなどのおかずが入った弁当箱。
「境内だったら、別に庫裏でもよかったんじゃないか」
「いえいえ、青空の下であることに意味があるのです」
山中ということもあり、風は涼しい。
そして、今日はとてもいい天気で、抜けるような蒼空があった。
「はい」
俺はおにぎりを受け取り、ほおばった。
少し、塩のきいた、美味いおにぎりだった。
「美味いな。このおにぎり」
「やだなあ、ただのおにぎりですよ」
そう言って、麻耶は紙コップに入れたお茶をひとすすり。
こんなにまったりしているのもひさしぶりだ。
普通の幸せというのは、こういうものかもしれない。
俺は何かを悟りかけた。
「pin!」
携帯がメッセージの着信を知らせた。
「機関」の仕事の連絡だ。
「お仕事ですか?」
「ああ。午後からちょっと出かける」
「気をつけてくださいね」
と、不安げな顔。
「大丈夫だよ」
俺は現実に引き戻された。
現実とは、戦いの連続だ。
正直、何人も手をかけた。人並みの幸せなど、望むべくもないのが俺だ。
だが、その戦いから逃げれば、不幸になる人間は増えていく。
逃げるわけにはいかない。
ただ。
それでも、今日みたいな時間を過ごせるならば、この人生も、さほど悪くはないのかもしれない。
そう考えて、俺は卵焼きをつまんだ。
空はとても蒼く、透き通っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます