2 無能

  「あのさぁ……」

そう言って、先輩は大きなため息を吐く。

「一体、何時間かけんの、これに」

冷たい視線を受けて俯き、「はぁ」と気の抜けた返事をする。

「ねぇ、ちゃんと聞いてる? 何時間かけんのって訊いてるんだけど」

「済みません」

「済みませんじゃないよ、本当に」

先輩はまた、これ見よがしに大きなため息を吐く。

 既に説教が始まって1時間が経過していた。そもそもの指示が曖昧で、それでも何度も確認した上で先輩に言われた通りにやった仕事だ。今更「そんなこと言ってない」という言葉でひっくり返されても、困るのは与も同じだった。指示を文章にして欲しいという願いは、「そんな時間はない」「自分でメモを取れ」と言われてしまい、だからと言って証拠として自分のメモを提出すれば、「あなたの認識違いだ」と揚げ足を取られる。入社してからもう何度も繰り返してきたことだった。

 与の対応は、俯いてやり過ごすという手段に落ち着いていたが、生来の気性から矛盾があると思わず指摘しまう癖があり、説教が余計に長引いてしまう傾向が強い。分かっているのに我慢できない自分の堪え性の無さに、思わず溜息が漏れた。

「はぁ? 溜息を吐きたいのはこっちなんですけど!」

与は俯いたまま顔を顰めた。やってしまった、という気持ちが思わず顔に出る。それが更に上司の中の「何か」に火をつける。その感覚が与には全く理解できず、苦労していた。

「あなた、私の事を自分より上だって思ってないよね」

「先輩は、先輩ですよね。上じゃないんですか?」

思っているかどうかじゃない、そう、なんだから、そうなのだ。与は当然のこととして、事実をそのまま相手に告げる。先輩は大きく歪ませた顔のまま、じっと与を睨みつけた。全く理解できない感情だ、と与は思う。そんな質問をしても何の確認にもならないどころか、自分が惨めになるだけだと分からないのだろうか。

「もういいよ。早くやり直して」

与はさっさと急けに戻り、言われた修正を素早く済ませ、再提出した。

「初めから言われた通りにやればいいのよ、そう言ってるでしょ」

言われてない、という反論を飲み込む。

「そうですね、済みません」

与は笑顔でそう返し、席に戻った。

 暫くして、斜向かいに座る先輩の同僚が口を開いた。

「佐藤さぁ、ここ辞めて取引先に転職するって言ったから1年経つけど、いつ辞めんの?」

気怠そうにそう声をかける。

「そう、行きたいとは思ってるんだけどねぇ……」

周囲の空気がピリピリとしていることに気づいていないのか、先輩は嬉々として話し始めた。

「ここよりも意義のある仕事ができるようになると思うんだよね。でも、まだ時期じゃないっていうか」

「ふぅん。今の環境に不満があるなら、私だったらさっさと辞めるけどね」

「そう?」

「うん」

「あんたはそうだろうね。けど私はさぁ、ここの顔だからそういうわけにもいかなくて」

「ふぅん」

同僚はそう言うと、また仕事に戻った。

 それから少しして部署移動の時期になると、その同僚が退職するという噂が流れた。

「あんた、ここ辞めんの?」

先輩が驚いて同僚に詰め寄った。

「だって次の部署、シフト制に変わるんだって。私、どこでも働けるから」

与は自分の身体の芯が冷えていくのを感じた。

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僕たちの信仰 白宇 利士 @Lihito

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