第二節『笑って』①

 あれから順調に手続きを済ませ、涼風 創すずかぜ はじめは転学した。

 新しい学校での生活は、最初こそ物珍しさで人が集まったが、元々人付き合いが上手い性分でもなく、創への皆の関心は、そう時間を待たずに薄れていった。

 時期も三年の二学期と、人に寄っては受験の佳境。それを除いても、とっくに友人関係の輪が完成している頃だ。突然そんな中に入って来ても、新しい友人を求めている人間など、そういるものではない。

 それでも、決して人と関わらない訳ではなく、創もそれなりに日常を満喫し、噛み締めていた。

 今日は創に初めて日直の当番が周って来た。放課後、理科の提出物であるノートをクラスで集めて、教師の居る理科準備室へ運ぶことを頼まれたのだった。

「しっかし、どうしたもんかな」

 一クラス分、つまり四〇人分のノートはそれなりに量があり、一人で運ぶには明らかに余る量だった。更には、未だ創は校舎内の地図を覚えられていない。つまり、理科準備室がどこにあるのかが分からない。全く。さっぱり。検討すらつかない。

 他の生徒が帰宅して、鞄も自分の物しか残っていない教室でノートの山を前に、すっかり困り果てていた。校舎の玄関口にある地図を見れば位置は分かるだろうが、この量のノートを抱えて移動する訳にもいかないし、かと言ってノートを置いて教室を出て、窃盗でも起これば事だ。同時に管理を任された自分に、どんな責任が降りかかるか分かった物ではない。

 大人しく、ノートを抱えて校舎をたらい回しに動くしかないのかと考え、尻込みしていると

「涼風くん?」

 教室の入り口の方から声がかかった。見れば、指定の制服を崩さずきっちりと着用し、柔らかい栗色の髪は腰に届かんばかりに長く、それを後頭部で一つに結った女子生徒が、廊下からひょこっと顔をだしていた。日中にも何度となく見かけたクラスメイトの一人だ。

「帰らないの?」

 女子生徒は教室に入れば、こちらに近付きながら言葉を続けた。

「帰りたいんだけど…」

 と、こちらがそこまで言えば、ノートの束が目に入って察したのか、少しだけ眉を顰めた。

「あー…先生に押し付けられちゃったか。」

 彼女も何度か覚えがあるのか、同情するように言ってから「よいしょ」と、ノートの束の半分を持ち上げた。

「え、ちょっと」

 ――何してるの?と言い切る前に、女子生徒が

「これ、理科準備室まで運ぶんだよね。手伝うよ。場所、分かんないだろうし」

 完全に図星だった。正直、心底ありがたいが、一応自分も男なので女子に力仕事を手伝わせることに抵抗があった。が、相手の動きが余りにも自然で、尚且つ慣れた物だったので、変に断るよりも寧ろ、大人しく従った方が良さそうだと感じて、慌ててもう半分のノートの束を抱えて女子生徒の後を追った。


「そういえば、涼風くんってなんでこんな時期に転校してきたの?」

 廊下を歩きながら、不意にそんな問いを投げられた。

 なんてことはない、当然の疑問だ。本人と話していれば分かること、創は特段人との付き合い方が上手い訳ではないが、それでも2年間以上もあって親しい友人ができないほど陰気でも無口でもない。当然、前の学校にだって友人は居た。

 今のご時世、学校が変わったからと言って完全に人間関係が切れる訳ではない。実際、創も前の学校の友人とは、今でも連絡をとれている。それでも、関係が以前より薄くなるのは間違いない。加えて、必ずしも新しい環境で新しく友人を作れる訳ではない。だというのに、転学を決めるということは、それなりの理由があるのだろうことは容易に想像がつくし、特に話したい話題がない相手との気まずい沈黙を埋める話題としては、当たり障りがなく丁度良い話題だと言える。

「あー…」

 と、少し言い淀んでから

「まぁ、人間関係で色々あってさ。向こうの学校に居辛くなった」

 なんて、それっぽい理由を述べた。実際間違っていないし、嘘にはならないだろう。

「人間関係って、いじめとか?」

 問いを投げてきた女子生徒が更に質問を重ねてきた。

「君デリカシー無いって言われない?」

 素直にそう思った。創にとっては問題無かったが、それが正しかった場合どれだけ気まずい空気になるのか想像がつかないものだろうか。

「あっ、確かに。ごめんね、まだ距離感分かんなくて」

 ――その発言も相当デリカシーが薄い気がするけど

「まぁこんな時期に転入して来たらしょうがいないよね。」

 更に湧いた素直な感想は胸の内に仕舞っておこう。

「別に、いじめとかじゃないよ。色々あったってだけで、良くしてくれる人もいたし。」

 そう、居たんだ。大切な後輩だと、掛け替えのない存在だと言ってくれた先輩が。

「そっか、良かった。これで本当にいじめだったら、私傷口抉り過ぎだもんね」

「いや、今も結構…」

「嘘!?ごめん!」

 相手は相手で素直な性分らしい。何事も素直に謝罪できるのは良いことだ。

「っはは、いいよいいよ。別に怒ってない」

 つい可笑しくて笑いが零れた。思いもよらぬところで少し交友が深まった気がする。

「そう言えば、どうして日直の仕事手伝ってくれたの?なんも分かんなかったから、確かに助かったけど」

「え、どうしてって。そりゃクラスメイトが困ってたら助けるよ。私、一応委員長だし。」

 ――あぁ、そうだ。この子はクラス委員だった。

 確か、転入初日に自己紹介を受けたことを、今になって思い出した。名前は確か――ダメだ、クラスでは委員長としか呼ばれていなかったから覚えられなかった。寧ろよくそれで今の今まで相手が委員長であることを失念していたものだ。

 クラスの輪に入れず、そんなことを覚える余裕すらなかった。

「それに、君とはちょっと話したかったんだ。」

 いきなりラブコメのようなことを言いだした。髪を後ろで纏めていて、明るく微笑む委員長の顔が明瞭によく見える。

「話したかった…って?」

 少し言葉に詰まってしまった。別にそんな展開を期待していた訳ではないが、それでも急にこんなことを言われれば、厭でも意識してしまうのが健全な男子高校生という物だ。

「あ、勘違いしないでね?別にラブコメみたいなことじゃないよ」

 そんな意識が隙となって見破られたか、話の先に釘を刺されてしまった。女性の観察眼とは、全く末恐ろしいものだ。

 ――男子高校生の純粋な心を弄びやがって

 そんな心の声もまた、胸の内に仕舞っておこう。

「話したかったことって言うのは、涼風くんがなんだけど」

 瞬間、明らかに空気が変わったのを、創は肌で感じ取った。

 ――あぁ、やっぱり。

 薄々、そんな気がしていた。転入してそれなりに日も経ってから、態々二人になったタイミングで転校の理由を聞いてくるなんて、少し不自然だ。クラス委員を務め、クラスメイトからも“委員長”と半ばあだ名にされて親しまれている存在が、そこまでデリカシーを欠いていることもおかしい。何より――

 今はとっくに放課後で、教室には自分以外の荷物など残ってはいなかったし、委員長は自分の鞄を持っている。忘れ物にしても、一言断わって忘れ物を回収してから手伝いに回る方がよっぽど自然だ。思い返せば、今日の彼女は、不自然なことばかりだった。

 否、今日に限ったことではない。何故今の今まで気付かずに居たのか、本当に分からない。新しい環境に慣れずにいたなんて言い訳は通用しない。明らかに、目を背けていたのだ。過去から逃げてここまで来たのだから、もう向き合いたくなど無かったのだ。

 ――全く、自分に腹が立つ。

 明らかに似すぎているんだ。に。

橘 琴音たちばな ことねさん?」

 それはもはや確信だった。これが間違っているなんて考えられなかった。下の名前は分からないが、苗字ならはっきり分かる。忘れられる訳がなかった。

 封じていた記憶を掘り返すように、幾度か聞いて、自己紹介でも名乗られたその名を思い出した。

「ん、なぁに?」

 前を歩いていた委員長――橘 琴音がこちらを振り返った。

 琴音の顔は、その整った顔立ちが崩れて、壊れてしまいそうな程、狂喜の笑顔に歪んでいた。きっと初めから、全て見透かされていたのだろう。過去から逃げて、気付かないふりをしていたことも、その過去から逃げた理由も。本当に、女性の観察眼は末恐ろしい。あぁ、結局――

 ――過去から逃れることなんて、できない運命だったんだ。

 誤魔化してはいけないことだ。今目の前に立っている相手に、この話でだけは嘘を吐いてはいけない。信じてもらえなくても、恨みを買うことになっても。琴音には、真実を知る権利があり、創にはそれを問われれば話す義務があるのだから。

「聞きたいことって、詩音の――君の、姉の事だろう?」

 琴音は、狂喜を収めて微笑を湛えたかと思えば、こくりと静かに頷いた。

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