卒業できればいい。
椒 朔月
第一節『ひとりで』
――後悔とは、いつも遅いものだ。
その言葉の意味を後になって、行き場のない悔悟を抱えてから気付くのだから、全くの皮肉だ。
後悔と懺悔だけが、体を満たしている。
挨拶のために学校に出向いた。
放課後、生徒たちが返ったのを見届けた後、世話になった先生たちに挨拶を終えた。大して好きでもない人たちだが、それでも世話になったのだから、別れの時くらいには挨拶をするのが筋と言うものだろう。
飽くほどに見た顔ぶれと視線を合わせて話すのも、無駄に古めかしい学ランの学生服に袖を通すのも、これで最後なのだから。
「さて。あとは先輩だけか。」
夏の暑さを多分に残し、仄かに秋の香りを漂わせる空気を、肺いっぱいに吸い込んで、強く吐き出す。
――これで最後なんだ。あの非日常の不思議と顔を合わせるのは。
校舎の隅の隅。普通に生活していれば、そこへ繋がる側にすら向かうことは少ない。教室に繋がるにしてはやけに長く、校舎を移動しているにしては短い廊下を通り、外からの紅い夕陽が妖しく、不思議と広く感じる壁に寂しく戸と窓が並んでいる。
かつ――、かつ――。と無機質な足音が、夕暮れの廊下に寂しく響く。入口から妙な異界感を放つ教室の戸に静かに手をかけ、ゆっくりと開けた。
外からの異界感とは裏腹に、中は至って普通の教室だ。等間隔で並ぶ机と椅子。黒板の前で机たちと向かい合う教卓。向かいの壁一面に張られた窓が開かれ、心地よい風が流れてカーテンが揺れている。そして――
「来たね」
「先輩。」
この世のものとは思えない、不自然なほどに整った顔立ちをした黒髪の少女。黒のセーラーと膝下までのスカートを着込んで、無作法に教卓の上に腰を落とす。黒のタイツと相まってすらっと長い両脚をプラプラと振って、目の前の机をローファーの先でコツコツと叩いていた。いつも通りに先輩がそこにいた。
こちらに気が付けば一瞬ぴたりと止まって、ぴょんっ と教卓から軽快に降りると、すっと立ってこちらに向き直った。
「挨拶に来ました」
「うん、知っているよ。」
先輩――
窓際の席まで来て、創は椅子に座り、悠は一つ前の机に腰を下ろしていた。
もうすぐ夕暮れも沈もうかという時間まで話し込んだ。これまでの思い出話は済み、転学の決意に関する思いの丈も粗方話し終わったろう。お互い、こうやって改まって話すことも大してなかったのか、用意していた話題が尽きて、少しの間沈黙がおりていた。
その沈黙を破ったのは、悠の方だった。
「寂しくなるねぇ」
両手を自らの背後に回した悠が、いつも通りの緩やかな微笑に、間延びした口調で言った。
どこか遠くを見つめるようで、感情の起伏を読みずらい。
「先輩、ほんとに思ってます?」
悠から無機質さを見て取って、怪訝に思って眉根を寄せた。
「えー?思ってるよ」
「――。」
変に誤魔化そうとする悠を、咎めるように創は、じっ と見つめる。
「っ――あははは。バレた?」
心底可笑しそうに悠はけらけらと笑った。
「だって、顔が全然寂しそうじゃないですから」
「ま、そうだよね。実際、寂しくなんかないもん」
問い詰めたのは自分なのだが、こうはっきり言われてしまうと物悲しくなってしまう。もう少し惜しんでくれても良いのではないのだろうか。
「あぁ、勘違いしないでくれたまえよ、別れが惜しくないわけではないんだ。創クンは大切な後輩だし、掛け替えのない存在だよ。」
逆にそんなことを面と向かって言われると気恥ずかしい。悠の容姿でその言動は、男子高校生の心臓を貫いて然るべきものだ。だが尚の事、それならどうして――
「なら、どうして寂しくないんですか?」
「簡単さ。キミはどうせすぐに、ここに戻ってくるからだよ」
返ったのは呆気ないほどにあっさりとした答えだった。後腐れなどないはずで――今更、創がここにまた帰ってくる必要なんて、一切無いはずなのに、どうしてそれほどまでに自信満々で居るのだろう。
結局、その意味を問い返しても悠は答えてくれなかった。ただ「その内分かるよ」とだけ言って。こちらが何か、続く言葉に悩んでいると悠が、ぱんぱん と掌を打ち鳴らし、その思考を払った。
「もう別れの挨拶は充分だろう。こういうのは、あまり長たらしくやる物でもない。あまり言葉を重ねるのも無粋という物さ」
緩やかな微笑みと口調でそう言うと、腰かけていた机から跳び降り、一歩引いた悠がこちらに向き直った。
「さて――」
悠は、どこか遠い目で窓から外の夕焼けを覗いた。その様子がどこか異様で――否、ただ美しくて、無意識に創も腰を上げて、向かい立っていた。
「これでお別れだ。創クン、またどこかで」
「はい、黒井先輩。どこかで」
噛み締めるように、別れを意味する再開の約束をした。
「
「せっかく良い感じにしんみりしてたのに」
「ごめんごめん」
なんて、悠はまた可笑しそうに笑う。感情の起伏が少ないようで、案外豊かに表情をころころ変える。闇の中に凛と咲く花のようであり、また夜の闇そのもののようでもある。ミステリアスで謎だらけだけれど、だからこそ、創はその魅力にずっと、惹かれていたのだろう。
「君のことは――」
悠が何かを言いかけた時、開け放たれた窓から一陣の風が吹き込み、大きく靡いたカーテンが黒井の姿を隠した。まるで黒井の言葉を、今聞くべきでも、伝えるべきでもないと告げるように。
風が止み、カーテンが降りた頃――
「先、輩……?」
――悠の姿は消えていた。
******
月がてっぺんまで昇った深い夜。青白い月光が、暗い校舎を照らしている。
「全く。ほんと無粋と言うか不躾と言うか」
幽かな月の光だけが照らす廊下をふらふらと歩きながら、悠は虚空に向かって言葉を投げる。
「昔から散々コキ使われてきたっていうのに、こんな仕打ちを受けるなんてね。」
悠は確かな憤りを籠めた言葉で、また虚空に――否、学校そのものに語りかけていた。
――何故邪魔したのか。せめて別れくらい、綺麗に飾らせてくれてもいいだろうに。
「男女の逢瀬に水を差すなんて、本当に野暮な上司だよ。」
呟くような静けさで吐き捨てる悠の眼は、扱いきれぬ怒りを讃え、校舎の闇を睨みつける。
――ひたり、――ひたり。
冷たい足音が、廊下の奥から響いてくる。少しずつ、こちらへ近付いてくる。突き当りを曲がり、ソレが顔を出した。ソレは人影のようでいて、人型ではなかった。指定の学ランに身を包み、青ざめた裸足で廊下を踏む。そして、首の代わりに花瓶が嵌まり、頭の代わりには、てらてらと鈍色に輝く触手が無数に、ぬちゃりぬちゃりと音を立てて蠢いていた。
触手頭は不気味な足取りで緩慢に歩き、悠に向かってくる。
「無作法な奴だな。私は今気が立っているんだ。レディをそっとしておくのも、紳士の嗜みというものだよ。」
ソレと向かって動じず、悠はゆったりとした調子で歩き出した。徐々に、徐々に。両者の距離が近付いていく。
悠の足元、その影から黒く蠢く何かが迫り出してくる。それは悠の肩辺りまで伸びて止まる。
「悪いけど、今の私に手加減や慈悲は期待しないでくれ」
その言葉が口火を切り、辺りの空間に戦いの――非日常の空気が充満する。
触手頭が、蠢く物の幾本かを躍動させた。振り乱し、壁や床、天井にぶつけながら、縦横無尽に廊下の狭い空間を埋め尽くす。
悠が肘から手を緩やかに持ち上げて、すっ と振り下ろした。影から迫り出した黒い塊が鈍色の触手と同じように蠢き躍動した。
悠と触手頭の間で、鈍色の触手と影から伸びた黒い尾がぶつかりあい、拮抗する。数秒、膠着が続き、余裕綽々の表情で悠が口を開く。
「はぁ、芸がないね」
新たに影から迫り出した黒い塊が、悠の背後に浮かび上がり、無数の鋭い槍を形作った。そして――
「全く。癇癪を抑え込んでまで相手をしたっていうのに、この程度か」
――黒の槍は触手頭に向かって飛んだ。拮抗する空間を、力尽くで貫くように。
拮抗する触手を黒い尾が抑え込み、触手を断ち斬りながら槍が廊下の空間を飛ぶ。まず一つの槍が触手頭の心臓を貫き、残りの無数の槍が肉体へ殺到する。
触手頭の動きが止まる。廊下の向こう側まで貫通した無数の穴を抱えた肉体が、膝をつき倒れた。冷たい廊下に突っ伏した、半ば人間を模した肉体が崩れていく。ぼろり と音を立てて、風に煽られた砂山のように形が壊れ、塵のように霧散していく。
寂しいほどに静かな校舎に降りる夜の帳を背に、悠は無慈悲な冷たい眼差しで、消えていく触手頭を見下ろしていた。
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