其の肆

 まだ春ごろだったかな、お鈴ちゃん、深川ふかがわ奉公ほうこうにでてた。

 深川ったっていかがわしい所じゃない。

 そこの入り口くぐって東へまっすぐ行った大通りの、わかりなさるだろう、菊屋きくやってえ中店ちゅうだな生薬屋きぐすりやさ。

 なんでもそこのお上さんが身重でふせっきりになって、しばらく住みこみで世話になってたらしいんだ。

 お鈴ちゃんってのはあの通り親父の気っ風を受けついでるから、そこでもうまいこと客をあしらってた。

 ところが、だ。ちいと素性のよろしくねえ野郎がお鈴ちゃんに目をつけてたんだな。

 その名も仙波せんば馬太郎うまたろう

 手前で馬太郎なんて名乗ってるからには、どんだけ立派な逸物いたもつなんだかってえ話だが、まあとにかくよくねえ野郎だった。

 自分の女を夜鷹よだかに出して、それで飯食ってるってえたわけ者だ。

 こいつがお鈴ちゃんのまわりをうろうろしはじめた。

 うちの近所でそんな莫迦げた真似しようもんなら俺たちが力ずくで追っ払ってやるし、なにしろ辰政親分がだまってやしない。

 だけど奉公先でそんな騒ぎをおこすわけにはいかない。

 お鈴ちゃんはやんわりと、だけどきっぱりとその馬野郎をそでにしたのさ。

 だけどよ、そういう手合いはそれっきしであきらめたりはしねえやな。

 なんせこの馬太郎、蛇みてえにしつこい男だった。

 お鈴ちゃんの行く先々にあらわれちゃあ、ちょっかいをかけたのさ。

 そんなある日だ。

 お鈴ちゃん、日ぐれに使いを頼まれちまった。

 店主直々に頼まれたもんだから、無下にもできねえ。

 女一人じゃ不安だってんで小僧をつけてもらったんだが、帰りは案の定夜になっちまった。

 用事先でかりた提灯ちょうちんぶら下げて、二人で夜闇を歩いてた。

 そこに野郎が待ちぶせてたのさ。

「おっとっと、娘っ子がこんな夜更よふけにどこに行くんだい、なんなら俺が送ってってやろうか」

 タバコのヤニれしたきたねえ声で言いやがる。

 体全体がひょろっと長くて顔も細くて、唇の薄い口が横にぎゅうっと切り口みてえに伸びやがる。

 本当に蛇みてえな男さ。

「結構です。今からお店に帰るところですから」

 お鈴ちゃん、気丈にも通り過ぎようとしたんだが、手首をはっしとつかまれた。

「お鈴さんに手を出すな」

うるせえ」

「あ」

 狼藉ろうぜきをやめさせようととびつく小僧を、大の大人が本気で蹴っとばしやがった。

「やめて、なにするの」

「やめてもなにもあるものかよ、俺が送ってやるって言ったんだから、おとなしくついてくればいいんだ。おい坊主。おめえさんは一人で帰るんだな。この娘は俺に用があるとよ」

 お鈴ちゃんをこう後ろっから組みついて、暗闇に引きずりこもうとしやがる。

 もはやこれまでか、こんな下衆に汚されるぐらいなら、いっそ舌でも噛んでやろうかとあきらめの気持ちがわいてきたその時よ。

下郎げろう。その娘をはなせ」

 りんとした声がひびいた。

 闇の中から現れたのは、上下の襟をぴしっとそろえた若いお侍よ。

「消えな、お侍さん。俺は二本差しだからって容赦ようしゃするような男じゃないぜ。仙波の馬太郎っていやあ、ここいらじゃちいとは名が売れてる」

 こう、性根の悪さがにじみ出るような、嫌あな声で言いやがった。

「ふむ、ここいらはよく知っているが、そんな名前は聞いたこともない。大方田舎の土産物と同じたぐいの、看板だけ大仰な代物だろう。馬面に合わせて馬太郎というのはだけはなかなか洒落しゃれが利いている」

「なんだと手前、この馬太郎さまを莫迦にすると、おふざけじゃすまねえぜ」

 顔をからかったのが逆鱗に触れたらしい、野郎、つかまえてたお鈴ちゃんをほうりだして懐から白銀に光るやっぱを抜きやがった。

「今からくやんでもおそいぜ、お前さんが背中をむけたとたん、ぐさりとやってやるぜ」

「顔だけじゃなく能書きも長いか。やるならさっさとくるがいい」

小童こわっぱ

 馬太郎が刃を突き出して切りかかった。

 暗闇に切っ先が禍々しく光って、お鈴ちゃんも小僧も、まばたき忘れるぐれえにふるえあがった。

 その途端さ。

「ぎゃふん」

 馬太郎がくるりと宙を舞って地べたに叩きつけられて、それっきり動かなくなっちまった。

 若侍は何事もねえってえ顔で手についた埃を払っている。

「ありがとうございます。おかげさまで助かりました」

 気を取りなおしてお鈴ちゃん、そのお侍に頭を下げると、そいつはにっこりと笑って、

「夜道は危ない、店まで送ってやろう、さあ小僧もこちらにおいで。舶来の飴玉をあげよう」

 お侍は礼儀正しく、二人を壁側につけて歩いてやり、辻ごとに先に歩いて不埒ふらちな輩がいねえか確かめてやったそうだ。

「ここで結構です。ありがとうございます」

 お店がみえて、お鈴ちゃんと小僧はようやくほっとした。

「ふむ。それではな」

「おまちくださいませ」

「なにか」

 道をもどろうとするお侍をよびとめて、お鈴ちゃんはたずねた。

「よろしければ、お名前を」

 お侍はさっきのように、にっこりと大きく笑って、

「竜之介」

 それだけ言いおいて、一度もふりかえらずに消えていった。

「竜之介、さま」

 その名前とあの笑い顔は、ずっとお鈴ちゃんの胸の内でひびいていたそうさ。


 お代わりはいるかい。

 そうかいそうかい、じゃあもう一本つけてこよう。

 いや、二人いるから二本だな。

 つまみもなにか持ってこよう。

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