其の参

 呆気あっけにとられたね。

 まあなんちゅうか破格はかくな話よ。

 天下泰平てんかたいへいのこのご時世、お武家様方ぶけさまがたがそうそう贅沢ぜいたくでないのは、おいらたちみたいなのにも耳にはいってくる。

 だけどそんななあ扶持無ふちなしや浪人の話で、良家のご子息が貧乏長屋に婿いりなんて、瓦版かわらばんにゃあ書いてあっても実際に見た者なんざいねえ。

 そもそも苗字も扶持もつぐものがねえこんな長屋の町人に、入り婿なんてものはねえがよ。

「本日はこれにて失礼します」

 この日は様子うかがいだけってんで、ご子息、いやどうもしっくりこねえな、竜之介はひとつ挨拶をして帰っていったのさ。

 戸口の前につめてた見物人にも会釈えしゃくをしていったってんだから、まるで作法の本が服着て歩いてるみてえだったよ。

「あたし、竜之介様をおくってきます」

「よしな。いい年の娘っ子が、男と歩いてる所ぉ見られたなんて吹聴ふいちょうされちゃあ、死んだお前の母親に申しわけがたたねえ」

 きびしい調子でなごりおしそうなお鈴ちゃんを止めたんだが、こっちはいい考えだと思ったね。

 親分のいう通りさ。

 こんな仰天話ぎょうてんばなし、明日には深川ふかがわ、明後日にゃ江戸中に広まってる。

 二人がいっしょにいる所を見た奴は、大喜びでよくない話をこさえちまうだろうぜ。

 で、お鈴ちゃんが背中を見つめる中、竜之介は一度もふりかえらず、しゃきしゃきと歩き去ったってわけだ。

 おい、つまみはまだか。まったくあの尻餅しりもち女房め、大方またぞろ女房連中の固まりにでっかい尻をくっつけてるにちがいねえや。


 お待たせ、どうだいこの唐墨からすみ

 見事な色だろう?

 そそるつやってのはこういう照りびかりのことなのさ。

 小うるさい女房どもに見つからねえよう伝手つてをたよって、はるばる長崎ながさきから取りよせた、おいらの取っておきだあね。

 かるうくあぶったこいつの薄切りを、諸白とこうきゅっとやると、かあ、極楽だねえ。

 さあさあ遠慮しないで旦那さん方もつまみなせえ。

 あいててて、いやあ何でもねえ、今しがたかまどで女房に蹴っとばされた尻が、床几にさわっておかしな具合になっちまっただけよ。

 で、どこまで話したっけな。

 おおそうそう、竜之介が最初にここんちに来た時までだったねえ。


 で、いったんは引きさがったやっこさんだが、次の日にまたあらわれた。

 なにしにって、そりゃあ決まってる。

 昨日とおんなじ、頭をこう深あくさげて、娘さんとの結婚をみとめてくださいってな。

 日をあらためたからって横のもんが縦にはならねえ、隅田川が御天道さんからこう真っ直ぐ流れ落ちちまったら、八百八町が水びたしにならあ。

 だから辰政親分も相変わらずかちかちにかてえまんま。

 前の日と大体おんなじやり取りして、おんなじように帰っていったさ。

 こう、しゃきしゃきとな。

 これで話が終わるはずがない。

 あたぼうだ。終わってたらおいらたちがこんなところで昼酒かっ食らってるわけがねえ。

 そう、次の日も来やがったのさ。

 次の次の日も、その更に次の日も。

「そんなの当たり前よ、これしきであきらめる竜之介さんじゃないわ。だってあたしが心からほれたお人だもの」

 お鈴ちゃんの言うにゃあ、竜之介って野郎も親分に負けず劣らずの頑固者で、まるで鍵をかけたこの南京錠なんきんじょうみてえに強情ときてる。

 そんなだから、平気な顔してまいんちまいんちたずねて来やがるのさ。

 そのころになると、女どもがお鈴ちゃんを取りかこんでいろいろ聞きだしたってんで、竜之介の人となりやら二人のめやらは、みんなが知るところになっていた。

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