第七章 綺麗な花には棘がある ⑩
「えっ……」
いま――なんて――皆継左喩――左喩さん?――左喩さんを――排除――して?
風花が続ける。
「どんな方法でもいいんだよ。毒を盛るでもいいし、寝込みを襲うでもいい。油断している時に一突き、心臓を貫くでもいい。確実な方法で排除してほしい。できたら、きみにはご褒美を上げる」
ご褒美が――貰えるのか――でも、排除……?――排除って――左喩さんを?――そんなの――できるわけ、ない――だって――左喩さん――左喩さんは――おれ、の――だって――だって――左喩さんは――おれは――左喩さん、を――
目が虚ろになりかける。目の前がぼやけてなにも見えなくなりそうだ。
しかし、心の中で。
見えたのは太陽のように眩しく光る左喩の笑顔だった。
途端に魁斗は、感情という温度を取り戻す。
熱い――
瞬間、思考は定まる。
それだけはダメだ――と。
「ダメだ……そんなこと、できない……。おれは、しない」
聞いて一瞬、風花が驚いたように目を見開いた。しかしすぐに、「あはっ」と声を漏らし、思わずといった感じで吹き出す。
「嘘でしょ、きみ……ほんと堕ちないんだねぇ」
風花の言葉の意味が捉えられない。それでいて、自分の今の状態もよくわからない。
「三回だよ。三回もトライしたのに……ダメかぁ……。おっかしいなぁ、薬は効いてるようなのに……。ちょっと気に入りかけてたんだけど……残念だなぁ、やっぱ、やらなきゃダメかぁ」
薬が効いてる? やるってなにを? おれはなにをされた?
うーん、と唸るように風花が腕組みをして首を捻る。事のいきさつを振り返り、ひとり反省会を始める。
「でも、なにがダメだったんだろ? きみの精神力が案外強かったのかなぁ……それとも、強く想ってる人がいる、とか?」
独り言のように、ぶつぶつと風花が呟く。
「わたしの魅力が足らなかったかなぁ……いやいや、それはないよねぇ。この美貌だもん。それにふんだんに媚薬だって使ったんだし……」
「媚、薬……?」
聞こえた言葉を反復する。風花は問われたと思ったのか、こちらに顔を向かせて、クイズの正解を教えるように人差し指をピンと立てて答えてくれた。
「そう。きみのことを堕とそうと思っていろいろと仕込んでたんだよ。媚薬効果のある香りを嗅がせたり、飲み物に混ぜたりして」
「えっ……」
嘘、だろ……?
いや、でも待て――そうじゃないと色々おかしい。
なんとなくだが話の筋が見えてきた。
おれがここ最近、変な思考に陥ったり、風花ちゃんに対して異常なまでに魅力を感じていたのは、もしかしたら……というよりも、確実に薬によるものだろう。
「い、いったい……いつから?」
「学校の自動販売機の前でお話をした日、からかなぁ」
「だ、だいぶ……最初っから……じゃん……」
力なく首を垂れる。
おかげで色々と大変なことになった。
あ、でも……これが事実なら、あの二人に弁解ができる。
こんな時にも、光明を見いだす。
浮かれたような熱は冷めず、頬もうなじも熱を持ち、じんじんと疼く。
昨日のことが脳裏に浮かび上がった。
ラブホテルでのことはどうなんだろう……。風花ちゃんは……本当におれと、ヤッたのか……?
このあたりも確認しなければならない。
「あ、あの……風花ちゃん。イブの日って……おれたち…」
「ふーんだっ。教えてあげないっ!」
「え……ちょっ、ちょっと……待ってよ。それは……教えて……よ」
「嫌っ! だって腹立つんだもん! 結局きみはあたしに堕ちなかったしぃ!」
堕ちなかったって……なんなんだよ。いいから教えろよ。
頭の中はすでにイブの日のことでいっぱいになっていた。風花がベンチから立ち上がると、つまらなそうな声音で背中越しに言ってくる。
「今更知ったって、もうどうにもならないよ。あーあ……きみみたいな丁度よさそうな駒が欲しかったのにぃ」
風花がくるりと振り返る。
「きみが寝返ってくれそうだったら、解毒剤を渡そうと思ってたんだけど……もう、あげない」
「解、毒…剤……媚薬……の?」
「いいや」
不意に、風花が薄い笑みを浮かべた。
「きみ、気づいてないの? なんか、もう……ヤバそうだよ」
「え……?」
ポタ、ポタ、ポタ、と、自分の腿の上に置いてある手の甲に、なにやら生温かい感覚がした。眼球を下に向け、その原因を見つけた。自分の口から顎にまで流涎が及んでおり、顎先から涎の雫が滴り落ちている。
「あ、れ……?」
急いで口に手を当てた。しかし、涎は止まらない。唇も震えて閉じなかった。
遅まきながら異変に気がつく。
手指や爪先、舌など、体の末端が痺れて、小刻みに震えている。寒さのせいでは決してない。ぶわっと冷汗が噴き出す。異常に寒くなってきた。
「な、な、な……なに、を……し、し……した……?」
顔の筋肉が上手く動かない。痺れているせいで舌の動きが変だ。言葉が繋がらない。さっきカフェオレを飲んだばかりなのに、涎がこんなに溢れ出てくるっていうのに、無性に喉が渇く。
――これは、媚薬の効果なんかじゃない。
風花が渇いた笑い声を立てる。
そして、自分に差し出してくれたカフェオレ缶をスッと持ち上げた。
「神経毒」
にっこりと笑って、現在、魁斗が陥っている状態の原因を教えてくれた。
「なっ……!」
思わず目を剥いた。
そんなバカな……風花ちゃんだって飲んでいたじゃないか……!? おれは目を離さなかった。なのに、どこで、どう仕込んだ?
しゃべろうとする喉までも瞬時に冷える。喉の奥が固まり、言葉が出ない。なにも声に出せていないが魁斗の訴えている言葉がわかったみたいに風花が答える。
「こーこっ」
風花は己の
くち、びる……?
一瞬にして気づく。
そうか……缶の開け口。あそこに風花の紅いリップがついていた。あれに神経毒が付着していたのか。
風花が目を細め、唇の両端を吊り上げる。
「まったく、おバカだなぁ……魁斗くんは」
魁斗は無理やりにでも体を動かそうとする。が、一瞬、意識が遠のきかけて、ベンチの背もたれに倒れ込んだ。
「無理だよ。強い神経毒なんだから、意識があっても起き上がれないよ」
眩暈がきた。目の前がぐるぐると回っている。さらには頭が痛くなってきた。ひどく、ひどく痛い。とてもじゃないが正常な意識を保っていられない。息が上がっているわけではないのに息苦しい。首を絞められているようで気持ちが悪い。ひどい吐き気をもよおす。先程は喉が凍りついたように冷たくなっていたが、今度は喉が火を飲んだみたいに熱くなっている。
これは……ヤバい……意識を、失う。それどころか……。
もはや、物を言えるはずもなかった。知覚が麻痺し、呼吸もままならない。血圧が急激に低下。
「こんな寒い日にこんなところで寝たら死んじゃうね。ここ、人通りはほとんどないから」
悪びれもなく風花が言う。
魁斗は背もたれに左手をついて体を支えながら風花にすがろうとした。だが、視野狭窄が起こり、まともに風花を捉えることもできない。ついにはバランスを崩してベンチから転がり落ちる。苦しくて、地面でのたうつ。吸っても吸っても酸素が足りない。しかし、呼吸は荒くなっていく。止められない。気がつけば激しく喘いでいる。凄まじい酸欠の眩暈が次々と襲い掛かってくる。指先は氷のように冷たく、背中は激しく軋み、肺は膨らみきっていて、これ以上の空気を受け付けてくれない。うつ伏せの状態で、風花の足元だけが見えた。
風花が膝を折りたたんでしゃがみ込む。
霞む視界の中に風花の顔が映り込んだ。こちらを覗き込む風花の黒い双眸。頬は高揚したように紅く染めて、薔薇の花びらめいた唇を横いっぱいに広げながら、一言だけ告げる。
「バイバイ、紅月魁斗くん」
それだけ言い残すとたたんでいた膝を伸ばして、風花が立ち上がる。顔が見えなくなった。帰り支度をしているのか、頭上でがさごそと音が鳴っている。
風花はベンチに置いていたスクールバックを手に取ると、そのまま魁斗を置いて歩き去ろうとする。
去って行く風花の背中が見え、魁斗は助けを求めようと手を伸ばそうとする。しかし、手が上がらない。
頬を一筋の涙が走った。
苦しくて、悔しくて、悲しくて、目蓋が震える。
思った通りに罠だった。風花は始めから自分の命を奪うことも選択肢にあったみたいだ。
そして今、風花は下した。
おれを殺すということを。
終わりだ……。
目を閉じる。
いぜんとして、頭にはふわふわと理解できない風花への気持ちが漂っている。
でも、それは偽物。
もう、いいかもしれない。
そう思うと、恐怖は薄らいだ。
今ここで死んでしまった方が、きっと楽だ。苦しみは少ない。
――でも。
胸の奥が疼いた。
痛みにも似た感覚が、体中を駆け巡る。
手に力を込め、大地を掻きむしる。
もはや、暗闇でしかない視界の中に、ふたりの女の子の姿が映る。
一人は薄紅色の髪の毛。ちょっと強気に見える顔。でも、めちゃくちゃ寂しがり屋だ。
もう一人は絹糸のような黒髪。いつも柔らかくて優しい顔だけど、怒らせると物凄く怖い。
ふたりとも瞳がほんのりと潤んで揺れている。
おれが死んだら、あの二人はどう思うだろう……。
累には、『ケダモノ』って言われた。
左喩さんには、『不潔』って言われた。
唇が勝手に笑みを浮かべる。
媚薬も……キメられてんだよな……おれ。
――このままじゃ、嫌だ。
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