第七章 綺麗な花には棘がある ③
おれは、本当になにをしているのだろうか……。
真夜中に布団の上で横にならず、正座をしたまま頭を抱える。
本当に……? 本当に、おれはやってしまったのか?
記憶がぶっ飛んでいるにしろ、風花はたしかにそう言った
その後の行動を思い返してみれば、風花を思いっきり突き飛ばしたりして、自分はかなり最悪なことをしでかしている。結構な……いや、これ以上にないくらいの最悪、最低男だ。
なぜ、なぜ、こんなことに……。
愕然と木造の天井を眺める。
おれは、最悪で、最低で……不潔だ……っていうか、もう童貞じゃないってこと……?
頭にはふわふわと、理解できない風花への気持ちが漂っている。
なんでおれ、こんなに……。
いよいよもって、自分がわからなくなる。浮かばせている思考すらもわけがわからない。
このままでは皆継家を追い出され、累にも嫌われて縁を切られ、よくわからないまま、おれは風花ちゃんと籍を入れることになる? いやいや、風花ちゃんにだって愛想をつかされるだろ……。
不穏な気持ちになるような妄想ばかり浮かぶ。
ネガティブな想像がどんどん悪い方向へと進んでしまい、余計に傷口を広げていく。
「……ぅあああ…うおぉお……うおおおおおおおおおおっ!」
髪をぼっさぼさに搔きむしる。今すぐにでも禿げ散らかりそうだ。
だって自分は思っていたんだ。
そういうのは、恋をして、付き合って、愛を育んで、想いと想いが重なって……それから、世界一大事な人とするもんだと……。
なのに、お酒を飲んでしまったとはいえ、こんな形で……。
ストレスの沸点が限界を超えた。
「……うっ……うぉおおおおおおっ! ぐっぬぅ……! う、う、うわぁぁあああああああああああああっ! くぅっ! ……ぐぅぉおおぉぉおおぉぉぉ! おれはぁ! おれは、おれは、おれはなんてこと……」
真夜中なのに、雄たけびを上げる。
自分の中で大事にしていたものが失われた、そんな気がした。
「はぁぁぁ、ああっ……うううぅぅぅぅ……」
ああっヤバい。
今度は泣きそうだ。もう、泣きかけている……。
「うるせぇえええええええええええええええええええええええええっ!」
突然、襖が勢いよく開けられ、眠気まなこの右攻の叫びが部屋中に響いた。
「う、右攻……」
ほとんど涙目で魁斗は襖の方に目を向ける。すすり泣きに移行しそうになっていたが、開かれた襖、その向こう側に立っている右攻の怒った顔を見て涙は止まった。
「お前、夜中になに叫んでんだよ!?」
襖を開けたままの姿勢で片眉をひそめた右攻に問われるも、魁斗は、ハッと気づいた。こんな夜中に叫ぶなんて明らかに奇行。迷惑極まりない行為だ。
右攻を見ると、自分の返答を待ってくれている。だが、さすがに中学一年生に相談できる内容ではない。
気持ちをどうにか落ち着かせようと、深い呼吸を繰り返す。その様子を黙って右攻は見守ってくれていた。
「……あの、ちょっと……怖い夢を見てしまってヒステリック状態に陥っていました」
変な誤魔化しの言葉を連ねるも、右攻は眠いのか、それ以上は追及してこず、
「じゃあもう叫ぶんじゃねぇ! 可愛いぬいぐるみでも抱いて寝てろ!」
そう言われて、ばんっ! と勢いよく襖が閉じられ、歩き去って行く足音が聞こえる。
……もう叫ぶのはよそう。家の人に大迷惑だ。
魁斗は布団に寝っ転がると目蓋を閉じた。
しかしながら、眠れるはずはなく、徐々に朝日が昇っていく。
どうか、昇らないでくれ……と祈りながら布団を思いっきり抱きしめて、眠りに落ちるのを待った。
※※※
日が昇ってしまった……。
目は、開かなかった。
眩しい日差しが起こそうと顔を柔らかく撫でても、どこかで時告げ鳥が鳴いていても、重たい目蓋は上がらない。
魁斗は仰向けの状態で天井を向いたまま、両手を目の上に重ねた。
今日は、なんだか具合が悪い……そうだ、そうしよう。具合が悪いんだ。風邪を引いたということにすれば、今日一日くらいは学校に行かなくてもいいのではないか。
そんな愚かな考えがよぎる。
だって、学校に行ってしまったら、昨日あんなことがあった風花ちゃんと出会ってしまう。なにを話せばいいというのか。それに昨日は累とも、ひどい別れ方をした。累とだって顔を合わせづらい。この部屋を出ることだって嫌なんだ。家の中で左喩さんと顔を合わせてしまう。みんなと、どんな顔で、どんなふうに相まみえればいいのか。……でも、昨日の今日で、具合が悪いなんて言ってたら、さすがに仮病だと疑われてしまうだろうか。そうだ、おれはこのまま布団の一部となって押し入れの中に仕舞われてしまえばいい……。
睡眠不足も加わり、頭がおかしくなってくる。朝日や他のことからも逃れようと布団に全身くるまる。
「おい起きろってよ、ヒステリック野郎」
そんな魁斗の思いを知る由もなく襖が開けられる。だが、魁斗は動かなかった。
おれは……布団の一部、なんだ。
「おい起きろ。ヒステリック野郎」
言いながら部屋の中に入ってくる足音がする。
この声は右攻だ。どうして、わざわざ起こしに来たのだろう?
魁斗の寝ている傍まで近づいて、もう一度はっきりと言う。
「起きろってば! このヒステリック野郎っ!」
右攻の声音に苛立ちがこもる。しかし、魁斗は動かなかった。動く気力がないのだ。それに、もはや自分は布団になったのだと己に言い聞かせている。
「……」
なぜか右攻が無言で魁斗の両足をガシッと掴む。そのまま、魁斗の体の向きを反転させ、うつ伏せの状態にさせられた。
な、なんだ……?
「起きろって言ってんだろうがぁぁあ!」
「いぎゃぁあああああああああああっ! ギブギブギーブッ! ギブアップ! 起きるっ! 起きるからぁ!」
そのままプロレズ技。『逆エビ固め』を極められてしまった。魁斗は力強く畳をタップしながら起きることを宣言。
「な、なんで右攻……起こしに?」
関節技を完璧な形で極められてしまい、涙目になりながら右攻を見上げて、痛めた腰を擦る。
「おれだって知らねぇよ。いつもの時間にお前が起きてこないから、姉さんが起こしてきてくださいって」
「さ、左喩さん、が……」
声が震えた。
「なにお前、なんかやらかした? 朝から姉さんすごいピリピリしてんだけど……喧嘩でもしたのか?」
昨晩の出来事が脳内で再生される。身がすくんで声帯から声が出ていかない。
右攻はさもどうでもいいように頭の後ろで両手を組むと、
「まっ、おれにはどうでもいいことだけどさ……」
つまらなそうに目を細める。
魁斗は目線さえも返せずに震えることしかできなかった。
※※※
「おはようございます、魁斗さん」
「お……おはようございます……左喩さん」
当然のように朝の挨拶をしてくれた……のだが、声に抑揚はなかった。その後は顔を伏せるも、妙に威圧感を感じる。左喩は挨拶以降、黙り込んで、目さえ合わせてくれず、ズズッと味噌汁を啜っている。とても話をかけれるような雰囲気ではない。
「あれっ……魁斗くん酷い顔色ねぇ。どうしたの大丈夫?」
事情を知らない智子が普段通りに尋ねてくる。
「……あ、その……ちょっと眠れなくて」
「あらあらぁ、なにかお悩み? 思春期だもんね。わたし聞こうか?」
「だ、大丈夫です」
「そう? いつでも聞いたげるからね」
言うと智子は魁斗の朝ご飯を用意するために台所へ向かった。
今、この場で相談できるはずもなかった。
とりあえず食卓についたが、いまだに頭は、はっきりとしない。
一度頭を振って、ちらりと対面に座っている左喩の顔を覗き見るも、一切こちらには目もくれない。睫毛を伏せて、無言のまま焼き鮭を口の中に入れている。
朝っぱらから額から嫌な汗が流れ出る。妙な緊張が背中を震わせた。
智子が戻ってくると、よそってくれたご飯に味噌汁、焼き鮭をこちらに渡してくれた。お礼を伝え、目の前の朝食を眺める。
あまり食べる気が起きない……。
胃は萎縮し、食欲を掻き立ててはくれず、喉は締め付けられたような苦しい心地。それでも用意してくれたのだからと「いただきます」を言って、ズズ、と味噌汁を啜り、力なくワカメを噛みしめる。
「魁斗くん、昨日は参加してなかったけど、今日は参加するんでしょ? 我が家のクリスマスパーティーに」
智子が食卓に座りながら笑顔で尋ねてくる。
魁斗はゴキュリッ、と無理やりにワカメを飲み込んだ。
はたして、参加して、いいのだろうか……。
迷う。
でも、参加するって左喩さんと約束を交わした……。
魁斗はもう一度左喩の顔を見た。いぜんとして左喩は睫毛を伏せたまま、こちらには目をくれない。
唇が震えながらも智子に返事を返す。
「あの……そのつもりでは、あります」
「それならよかった! じゃあ、昨日わたしと左喩とで作ったクリスマスケーキ、魁斗くんも食べられるわね! ね、左喩?」
ついに智子は左喩に話を振ってしまった。
「……」
左喩はしばらく無言を貫いた。
「ん? 左喩?」
たまらず智子が再び名前を呼ぶと、
「魁斗さんにはケーキはありません」
持っていた味噌汁のお椀を下ろし、硬く尖らせた声で、はっきりと言い切った。
「あっ……」
智子は雰囲気を察したのか、口を開けて固まった。
絶望的な沈黙と壊滅的な気まずさが食卓に満ちる。暴力にも似た静けさの中、誰ひとりため息すらもつけない。
「「「「……」」」」
雰囲気に吞みこまれた智子も一切口を開かなくなり、魁斗と左喩を交互に覗いては黙ってご飯を口に運んでいく。やがて、緊迫した空気に堪えられなくなった右攻が口を耳元まで近づけてきて、潜めた声で伝えてくる。
「おい、魁斗……お前、やっぱり姉さんとなにかあったんだろ? この空気どうにかしろ」
「……」
言われてしまった。でも、返事を返せない。
自分のせいで、あきらかに家の空気を悪くしてしまっている。
魁斗は、ちらっと左喩の顔を覗き見る。なにか口を開こうとするも喉の奥が締め付けられてなにも言えない。一度目が合ったが、すぐに目を逸らされる。
その後も何回か目が合った。しかし、左喩はなにも言わない。互いに無言で牽制しあい、ごまかすようにご飯を口にする。なにも話さず、黙り込んだまま朝食を食べ進める。
どうすりゃいいんだ……。
一度深い呼吸をして、精神を落ち着かせようとする。それでも勇気が湧いてこなかった。左喩に声をかけ、返ってくる反応を想像すると恐ろしくて身がすくんでしまう。
「……」
魁斗は茶碗に盛られたご飯を無理やり口の中にかき込み箸を置いた。
「ごちそうさまでした。おれ、先に学校行きます」
これ以上、火種はここに居るべきではないと判断。
逃げるように食卓を出る。
家を出る最後まで、左喩とは会話をしなかった。
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